音楽の喜び フルートとともに

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バレエで知られている音楽家

2024-07-02 21:02:00 | ロマン派
アガパンサスが近所の路上に咲いていました。


南アフリカ原産。
「アガパンサス (Αγάπανθος)」はギリシャ語の ἀγάπη(アガペー「愛」)と ἄνθος(アントス「花」)の2語の組み合わせであることから、花言葉は「愛」や「恋」「恋の訪れ」なのです。

7月になりました。
が、今日はまだ梅雨。日本中あちらこちらで大雨が降っていました。
どうか被害が少なく収まりますように。

音楽では注目されないのに、バレエ音楽としてバレエの世界で知られている作曲家に
レオン ミンスク(1826-1917年)ボヘミア王国ブルノ近郊生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

がいます。
主にロシア帝国で活躍しました。
作曲家・劇場指揮者・ヴァイオリニスト。19世紀のバレエ作曲家では最も人気のある一人。本名はルートヴィヒ・アロイジウス・ミンクス(Ludwig Aloisius Minkus)といい、ポーランド人とチェコ人の血筋。

振付師マリウス・プティパ(1818-1910年)フランス王国マルセイユ生まれ、ソビエト連邦クリミア グズノフ没

1870年プティパ
の協力を得て、20年近くにわたってペテルブルクのロシア帝室バレエ(現マリインスキー・バレエ)のために舞踊音楽を作曲しました。

ミンクスの最も著名なバレエ音楽には、「ドン・キホーテ」(1869年)、
主人公キトリを演じるE・スポカイデ
「ラ・バヤデール」(1877年)

ニキヤ役を初演したE・ヴァゼム

ソロル役を初演したL・イワノフ
「パキータ」(1881年)
デルデヴェスによるピアノ楽譜の表紙。1847年。
の3曲があり、これらは今日でも世界中で、プロフェッショナルのバレエ団の基本の演目となっています。

また、1884年にアドルフ・アダン(1803-1865年)フランス共和国パリ生まれ、パリ没

の「ジゼル」

T・カルサヴィナとV・ニジンスキーによる『ジゼル』(1910年)
を、1885年にはフェルディナン・エロール(1891-1933年)
フランス王国パリ生まれ、フランス王国ヌイ シユル セーヌ没

の「ラ・フィユ・マル・ガルデ(リーズの結婚) 」
ゴールスキー版 『ラ・フィユ・マル・ガルデ』 の一場面。左からシモーヌ役のG・リャプツェフ、コラ役のM・モルドキン、リーズ役のS・フョードロワ。1915年頃、マリインスキー劇場にて。
を改作しました。この2曲のミンクス版は、現在でもロシアバレエの人気の演目です。

バレエ音楽「パキータ」
第1幕
サラゴサ郊外の谷間。

戦役で権力者となったデルヴィリ伯爵は、息子を総督ロペスの妹と縁組させようとしていますが、リュシアンは愛情を感じないセラフィナとの結婚には気乗りがしていません。
総督ロペスもまた自国に攻め込んできたフランス人どもを心密かに憎んでいました。

このときイニゴの率いるジプシーの一団が山から下ってきました。
この中にジプシーらしからぬ雰囲気のパキータがいます。
プティパの復活劇でパキータを演じるエカテリーナ・ヴァゼム(1881年)

リュシアンは彼女に惹きつけられます。
イニゴも以前からパキータに好意を抱いていたので、リュシアンに対して激しく嫉妬します。

プティパの復活公演(帝国バレエ団)におけるパキータ役のマリア・ゴルシェンコワ、イニーゴ役のフェリックス・クシェシンスキー、リュシアン・デルヴィイ役のパベル・ゲルト(1892 年)
2人は衝突しそうになりますが、総督のとりなしで何とかその場は収まります。

イニゴがリュシアンに敵意を抱いていることを見てとった総督ロペスは、イニゴを雇ってリュシアンを暗殺することを思いつきます。

第2幕
第1場
ジプシーの住居の中。
パキータは昼間出会った将校リュシアンのことが忘れられず思い悩んでいます。そこに仮面をつけたロペスと、イニゴが現れます。リュシアン暗殺が計画されていることを知ったパキータは慄然とし、何とかこれを阻止したいと考えます。

やがてリュシアンがやってきました。食事と共に毒酒が出されますが、パキータが何とか飲ませまいとします。

そのうちリュシアンも様子がおかしいことに気付きます。
パキータは一瞬の隙をついて杯を入れ替え、イニゴはそれを飲んで倒れこんでしまいます。


第2場
サラゴサのフランス軍司令官邸。
デルヴィリ将軍と、総督ロペスらを囲んで舞踏会が行われています。

リュシアンがパキータを連れて現れ、襲撃を危うく免れたことを話し、自分を救ったパキータを紹介します。

その場でリュシアンは求婚しますが、身分の違いからパキータはそれを拒みます。
パキータは総督ロペスを見て、仮面をつけてイニゴとともにやってきた男だと見破ります。
悪事が露見したロペスは連行され、ようやく危機は去ります。

舞踏会が始まり、パキータは肖像画を見るや、自分の胸に下げているメダイヨンの絵と同じであることに気付きます。 
彼女は行方不明となっていたデルヴィリ将軍の亡き弟の娘だった事が分かります。晴れて家族として受け入れられ、喜びの中で祝いの舞踏会が始まります。

17歳で日本人史上2人目マリンスキー劇場に入団し、プリマドンナとして活躍中の永久メイさんの「パキータ」ヴァリエーション。




ギターで有名な作曲家

2024-07-01 21:00:00 | 近代
夙川公民館ホールで西宮ギター練習会のコンサートでした。
曇り時々雨。
朝9:15集合。
枚方からだと7:50出発。
なかなかハードです。

出番は3:15以降ですが、早めに行ってお手伝い。それに岡山さんとの合わせできるかな?と思って。

何せ難曲ボルヌの「カルメン幻想曲」

オペラ「カルメン」の曲をうまく繋いて変奏を加えて金属のフルートがいかにいろんなことができるようになったか?をアピールするための音楽です。

超絶技巧。
でも、おもしろくてワクワクします。
もともとはピアノとフルートの為に作られました。

編曲譜面を見つけて岡山さんに送ったら、演奏しにくいところをさらに編曲して作っておいてくれました。
というのもギターを知らない人が作ったようで、曲の途中でG弦を1音下げるなどと書いてあります。

ギター2本置いておいて、替えるしか無い!
置いておくと調弦も狂うし、あまり良くないということで、初めから1音下げた調弦で初め、最後までそれで演奏するという…音が変わらないフルートという楽器をやっている私にすれば発狂ものの編曲です。
が、岡山さん涼しい顔で弾いてくれました。

ジュリアーニの「協奏的大二重奏曲op85」の方は、川原さんと、長い演奏会の最後に演奏させて頂きました。

第1.2.4楽章ですが、最後の最後になってコロナの咳の虫が…。
必死でこらえてなんとかごまかして吹きました。
最後の10小節やばかった!

がなんとか吹ききって川原さん「なんとか行ったね!」とすぐに声かけてくれました。

いろいろご心配おかけしましたが、まあ成功と言っていいかと思います。

この前買ったドレスも着ました!


今回はポンセの特集もありました。
マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(1882-1943年)メキシコ サカテカ生まれ、メキシコメキシコシティ没

サカテカス州フレスニージョで生まれましたが、生後間もなくアグアスカリエンテスへ移りました。
地方の聖堂で教育を受け、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学びました。

1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼにピアノを師事しました。

1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始めます。 
メキシコ革命の混乱を避けて1915年から1917年までキューバに滞在します。

この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。
その後メキシコに戻ってフランス出身の女性歌手と結婚します。

1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカに作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビアと親交を結びます。
短期間ナディア・ブーランジェにも師事しています。
1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍しました。

晩年は腎臓病、リウマチに苦しみました。
1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞しましたが、間もなくメキシコシティで尿毒症により死去しました。

翌1949年、メキシコ国立芸術院のホールが "Sala Manuel M. Ponce" と命名されました。メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されています。

ポンセはヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者として有名です(詞も彼自身による)。

新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残しました。

ポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されており、ギター演奏家に人気があります。

ポンセはヨーロッパ仕込みの洗練された作風で知られ、創作の素材としてはスペイン征服後の民謡を多く用いました(ピアノ用に2曲残した『メキシコ狂詩曲』(1911年/1913年)など)。しかし、後年には教育用の『20のやさしい小品集』(1939年)において先住民族の民謡を素材として用いています。また、フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じました。

ソナタ第三番は1927年セゴビアのために書かれました。