音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

85歳現役の作曲家

2024-10-15 20:54:00 | 現代
月曜祝日は西宮ギター練習会。
今津公民館。
阪神電車に乗ろうとしたらアニメ「タッチ」のラッピング。
甲子園100周年記念列車でした。
今日は試合が無いので甲子園辺りは静かでした。

ギター川原久美子さんとフルート久米素子でヴィヴァルディの「冬」の第2楽章、モーツァルトのフルートソナタop14第2楽章、イベールの「間奏曲」、ピアソラの「リベルタンゴ」を変奏しました。

「冬」にしては暑かった。
最高気温27度。半袖のカーディガンを着て、ちょっと動いて脱ぎました。

西神中央で来週コンサートをされる高橋政一さん、バリオスのワルツ熱演でした。ブローウェル好きの鈴木さんは魅惑の瞳を演奏。
シューベルト歌曲特集の渡邊さん。
アルカスの「椿姫の主題による幻想曲」の河口さんの演奏も素晴らしかったです。
川原さんはソロでジュリアーニの「ヘンデルの主題による変奏曲」を見事に演奏されました。他のみなさんも熱演が続きました。

11月9日(土)13:30〜神戸市垂水区のカフェ ティンカーベルでお義姉さまと姉妹コンサートをされます。
そちらもぜひおいで下さい。

レオ・ブローウェル(Leo Brouwer、1939年3月1日 - )は、キューバ ハバナ生まれ、

作曲家、ギタリストで指揮者。本名はフアン・レオビヒルド・ブローウェル・メスキーダ(Juan Leovigildo Brouwer Mezquida)。

彼の祖母は作曲家のエルネスティーナ・レクオーナ・イ・カサド(1882-1951年)。

アメリカ合衆国に留学し、ハートフォード大学、さらにジュリアード音楽学校で学びます。
ジュリアード音楽学校ではステファン・ウォルペ(1962-1972年)
に師事。初期の作品はキューバの民俗音楽の影響を示しています。

しかし1960年代から1970年代にかけてルイージ・ノーノやヤニス・クセナキスのような現代音楽の作曲家に興味を持ち、「ソノグラマ1」のような作品では不確定要素を取り入れています。

この時期の他の作品には「雅歌」(1968年)、「永遠の螺旋」(1971年)、「パラボラ」(1973年)、「狂おしい思い」(1974年)などがあります。

近年では調性と形式美に傾き、
ギター独奏曲の「黒いデカメロン」(1981年)、「鐘のなるキューバの風景」(1987年)、「ソナタ」(1990年、ジュリアン・ブリームに献呈)などでその傾向を示しています。

ギタリストとしては1980年代まで活動していましたが、右手中指の腱を痛めたのがもとで以降は指揮活動を中心に活動しています。
  
ブローウェルはキューバで映画音楽協会の理事など多くの公職についています。彼の作品の大部分はギター独奏曲です。

ギター協奏曲を初め40本以上の映画音楽も手がけています。
ハバナ国際ギターコンクールにも関わっています。




パリ万博で作曲

2024-09-27 20:56:00 | 現代
三連休の最後に出会ったトーマス列車。
いつもは交野線を走っていますが、夜遅くなると京阪本線を走っているみたい。しかも快速急行。

私は初めてでしたが、3月から走っていたようです。
新キャラアジア系のアシマ

もちゃんといました。

おなじみのパーシー。

1日重たいバスフルートを背負ってコロコロにコンサートフルートや譜面台を入れて兵庫、大阪をウロウロしてお疲れ〜でしたが、急に元気になって写真を撮りまくりました。

ボフスラフ・マルティヌー(1890-1959年)オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア ポリチカ生まれ、スイス ジュネーブ没


靴屋を営む両親のもとに生まれました。
両親は、この村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任されており、教会の鐘楼塔に住んでいました。

マルティヌーが生まれ、幼少期を過ごした教会の塔(1910年代の絵葉書)
親は音楽家ではありませんでしたが、父親はアマチュア劇団の熱心な団員で、母親は読書や歌が好きで、民謡歌手の靴職人を同居させてもいて、文化的な環境に恵まれてはいました。

幼少期の彼は内向的な性格で塔の外へ出ることはほとんどなく、一日中本を読んで過ごしていました。

7歳の時から近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けると、めきめきと腕を上げ、やがて地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになりました。

12歳の時には弦楽四重奏曲を作曲しています。 
プラハ音楽院に入学しましたが、ここでの授業に満足できず、学校の許可を得ずに素人の楽団に加わったりしたため「慢性的な怠慢」によって1910年に退学となっています。

その後1912年からは故郷の小学校で教師を務めていましたが、1917年に音楽院時代の友人スタニスラフ・ノヴァークの世話でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。

1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてのデビューを飾りました。

同じ年に国民劇場オーケストラの国外公演で行ったパリで印象派の音楽を知り、ルーセルのスコアに魅せられた彼は、その後、演奏活動の合間に図書館へ通い印象派の作品を研究しました。1922年スークのマスタークラスに入り作曲を学ぶことになった時には「ドビュッシーのように」作曲したいと語っていました。
翌1923年には奨学金を得て、念願のパリで学ぶこととなりました。

パリではルーセルに対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲しました。

1929年、故郷ブルノの音楽院ヤン・クンツから作曲科の教授にと招聘を受けますが、これを断り、作曲に専念します。

この頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになります。

1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚します。

1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなかった。1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載ったことを知ったピエール・フルニエやルドルフ・フィルクスニーの勧めでパリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡りました。

Le train hante, H. 258
憑いている列車
1937年Le Train hanté (幽霊列車) H.258 は、1937 年のパリ万国博覧会




のために作曲されました。実際の鉄道輸送に特化したパビリオンもありましたが、この作品はアトラクション パークのさまざまなジェットコースターのような乗り物をテーマにしています。






海の詩

2024-09-17 21:00:00 | 現代
三連休の最終日、ようやく家族と過ごす日が来ました。
と言っても次男は友だちと飲み会。
午後近くなってから、夫と「海が見たいなあ。」と和歌山方面にドライブ。

途中岸和田パーキングエリアでお昼ごはん。

唐揚げ定食と

ライスバーガー、だし巻きたまごとフィッシュフライが入っています。

「道の駅に行こうか。」とググりながら行くと岬パーキングエリアが道の駅らしい。

淡輪、みさきの丘の灯台がコンセプトの建物。
海が見えます。
新鮮な野菜と、やっぱりお魚が安い!

生タコと
雑魚…小さな鯛が入った袋200円! 
買った後は、その近所のダイソーでアルミの保冷袋を買って氷もセットしました。 
「もう一つ道の駅あるみたい。」
行ってみました。

トットパーク小島。車を停めて
「あれ?ここは?」

海に突き出した巨大な鉄橋を行くと

左側の景色

右側
大きな釣りをする施設。
この先は有料の釣り突堤。
絶景でした。
それからまた海辺を目指してドライブ。

深日港の市場。

立ち寄って見ていると、漁師さんがとってきたばかりの魚をビクからドサドサっと箱に開けて行きます。

まだ生きてます。
「これとこれ。」と言うと締めて袋に入れてくれます。
海老2匹と、カサゴを一匹もらいました。
海老は生きたまま。

後は浜辺に降りて海にタッチ。
貝殻をひろって帰りました。
夜は魚祭。
タコとカサゴは唐揚げで、鯛と海老は焼きで、次男も帰ってきて魚を捌いてくれました。 
美味しゅうございました。
しまった!写真を忘れました。
締めのシラス丼だけ


残った鯛は干物に。

エルネスト ブロッホ(1880-1959年)
スイス ジュネーブ生まれ、アメリカ合衆国ポートランド没

ブリュッセル音楽院でウジェーヌ・イザイほかに師事します。

その後フランクフルト・ホーホ音楽学校にも学びます。
1916年に渡米するまでヨーロッパ各地を転々としました。
1924年に合衆国市民権を取得。
教育者としてアメリカ各地の音楽学校から引く手あまたで、ジョージ・アンタイルやロジャー・セッションズ、クインシー・ポーターらが門人にいます。


1920年12月に、新設されたばかりのクリーブランド音楽学校の首席音楽監督に就任、1925年までその任を務めます。

その後、1930年代はほとんどスイスに帰省していましたが、後にアメリカに戻ります。
オレゴン州ポートランドにて癌により永眠しました。

1922年ブロッホはピアノ曲「海の詩」を書いています。

Waves 波
Chanty 船頭などが歌う労働歌
at sea 海で












細川ガラシャの戯曲1689年

2024-09-06 21:04:00 | 現代
京丹波に出張した夫が、栗を買ってきました。
バーキングエリアから入れる道の駅「味夢の里」
最近できたみたい。
「野菜は?」と聞くと
「帰りの時間が遅かったから、茄子とゴーヤしかなかった。」残念。
仕事だから仕方ないね。
栗だけは行きにトイレに寄った時に買ったそうです。

栗の袋も…丹波栗。
昨日の栗だから安かったそうです。帰りに見たら当日のは倍の値段!
びっくり。
栗の最高級だものね。 

福知山城も外から見たらしい。
明智光秀の城
光秀自販機


明智光秀

の娘 玉

全像本朝古今列女伝
はキリスト教に改宗しました。
ガラシャの改宗の様子は、当時日本に滞在中のイエズス会宣教師たちが本国に報告していました。

そのような文献を通じて伝わった情報をもとに、ガラシャの実話に近い内容のラテン語の戯曲「強き女...またの名を、丹後王国の女王グラツィア」が制作されました。

この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)
1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演されました。

脚本は当時ハプスブルク家が信仰していたイエズス会の校長ヨハン・バプティスト・アドルフが書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウト(1654-1712年)が作曲しました。

アドルフは、この戯曲の要約文書[において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」であると述べています。
さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、コルネリウス・ハザルト著「教会の歴史-全世界に広まったカトリック信仰」

の独訳本の第1部第13章、「日本の教会史-丹後の女王の改宗とキリスト信仰」だったことをも明記しています。

戯曲では、グラツィア(=ガラシャ)の死が殉教として描かれています。 夫の君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きだそうです。

この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君たちに特に好まれました。

マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1680-1741年)

マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ ((1683-1754年)

マリア・マグダレーナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1689-1743年)

さすがにこの音楽は見つけることができませんでした。
台本はバイエルン州立図書館にデジタル化されて残されています。

2014年上智大学で(抜粋上演)
2023年東京音楽学校奏楽堂で再演されたことはあるようですが…。

細川ガラシャの辞世の句

散りぬべき 時しりてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ

鈴木静一(1907-1980年)

東京府出身。幼時よりオルガンや謡曲に親しみ、中学教師より作曲法と和声法を学びました。

父親の希望により慶應義塾に入学しました。
しかし、在日イタリア人の声楽家アドルフォ・サルコリにマンドリンと作曲を師事し、大学を中退。

作曲家・マンドリニストとして活動を開始します。

1927年には「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催の第1回マンドリンオーケストラ作曲コンクールで『空』が1位なしの2位を獲得し、翌年の第2回コンクールでも『北夷』が1位なしの2位を獲得しました。

このころ新交響楽団常任指揮者ヨゼフ・ケーニヒより指揮法を、声楽家ヘルマン・ヴーハープフェニッヒより和声を学びます。

戦中・戦後には黒澤明監督の『姿三四郎』を始めとする数多くの映画音楽や流行歌を手掛け、マンドリン音楽界から遠ざかります。

しかし1966年頃からマンドリン界に復帰し、その死に至るまでの十数年間に数多くのマンドリンオーケストラ曲を作曲しました。

1968年に作曲した劇的序楽「細川ガラシャ」はマンドリンオーケストラにフルート、打楽器が入った壮大な曲になっていて、日本のマンドリンオーケストラの古典になっています。









強打者マイティ ケーシー

2024-08-23 21:00:00 | 現代
野球にあまり興味はないけれど…阪神電車に乗って西宮ギター練習会に行ったら、向こうの線路に甲子園ラッピング電車が…。
うまく撮れなかったけれど、甲子園は特別な球場。
これを投稿する明日には優勝校が決まります。
優勝するのは たった一校。
去って行った高校生たちもきっと何か大きなものを得たはず。
勝っても負けても試合を楽しんで!

ウィリアム・ハワード・シューマン(1910– 1992年)アメリカ合衆国ニューヨーク市ブロンクス生まれ、

少年時代からヴァイオリンやバンジョーを弾き始めますが、当初は野球に情熱を注ぎました。

ハイスクール時代にダンス・バンドを結成し、自らはベース奏者として結婚式などで演奏しました。

1928年にニューヨーク大学商学部に入学すると同時に、広告業界で働き始めます。この頃は、親しい友人のE.B.マークス・ジュニアらの作詞家とともに、ポピュラー音楽の作曲を始めています。

1930年4月4日に実姉オードリーとともにカーネギー・ホールにおいて、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮によるニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会を聴いて深い感銘を受け、職業作曲家への転身を決意します。

大学を中退し、個人教師について作曲を学び始めます。

セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951年)

の知遇を得ます。彼は後にウィリアム・シューマンの庇護者となりました。

1935年から1945年まで、サラ・ローレンス大学で作曲を指導。

1943年に、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』に基づくカンタータ『自由の歌』(A Free Song )によって、ピューリッツァー音楽賞の最初の受賞者に選ばれます。
1946年にジュリアード音楽学校校長に就任してジュリアード弦楽四重奏団を創設します。
1961年にリンカーン・センターに音楽監督として転出します。

1953年シューマンは
オペラ「強打者マイティ ケーシー」を作曲しています。

「アメリカの心と精神を知りたい人は、野球を学んだほうがよいでしょう... 1951年秋に私たち全員が経験した情熱の素晴らしい浄化、土壇場でリーグ優勝を奪われたドジャースの運命に対するうめき声は、ギリシャ悲劇がどのようなものであったかを私たちにいくらか教えてくれます。野球は、国民的で、英雄的で、都市国家の対立の中で分裂している点でギリシャ的です...アメリカ人は野球を理解しています。それは明確なアメリカの思想の真実の領域です。」

オペラ「強打者マイティ ケーシー」あらすじ

野球のビッグマッチの日、センタービルは州選手権をかけてマッドビルと対戦します。9回裏、負けているマッドビルのために、名選手ケイシーが打席に立ちます。ケイシーは力強くスイングしますが、結局、ファンの希望をよそに三振してしまいます。





グーグル先生もダジャレ好き?

2024-08-17 21:00:00 | 現代
12日にお墓参りをした後、
母が「生駒スカイラインに行きたい。」というのでそのままドライブ。
どうも次男と姪と母でお正月に一度来たらしいです。
行くことにしました。
生駒の尾根を通るラインで、信貴山まで通じています。

緑深い。 

生駒山上遊園地があります。
リスのロープウェイが見えましたが、近寄るのを断念。

生駒山上遊園地ホームページより

渋滞になるほどではありませんが、結構駐車場いっぱいでした。

そして淡路島まで見えます。
展望台

「前来た時は寒すぎてよく見れんかった。」と次男。
確かにここは寒いでしょう。
今回は暑すぎ

幸せの鐘と恋人たちの南京錠をかける場所があるそうです。母と私は麓で待機。

夫と次男、二人で鐘をついてきてくれました。

そして信貴山出口。外で遊んで帰ってきても良いそうで、大きなダム湖を見て…なんとそこでバンジージャンプをしていました。生を見たのは初めて!
しかし遠くて写真も撮れない。

見に行きたいなと駐車場を探したら全部1日料金。
温泉や神社もあるので、長居する気がない私たちには無理かもとUターン。
すると、小さなダム湖。

少し駐車して、寄ってみました。

ダム湖の反対側。



少し上流に吊り橋があるのを発見。
歩いて行ってみました。

人が1人通れるだけの吊り橋。

しかも、他の人が歩くと結構揺れます。
これは高所恐怖症の人には無理かも。





亀や魚が泳いでいるのが見えました。
あまり人もいなくて、得した気分。

Look at the World
ジョン ラター(1945年〜)

ロンドン生まれ。ハイゲート校に入学し、聖歌隊員としてブリテン『戦争レクイエム』の最初の録音(1963年)などに参加しました。

その後、ケンブリッジ大学のクレア・カレッジで音楽を学びます。

在学中から既成のクリスマス・キャロルを編曲するとともに、自ら作詞・作曲した新作キャロルを発表します。

卒業後、1975年からケンブリッジ カレッジの音楽科主任を務め、合唱団の指導にあたりました。

1979年、作曲活動に専念するためカレッジを辞し、1981年には教え子を中心としたプロの合唱団ケンブリッジ・シンガーズを結成。 

1984年には専用レーベルのコレギウム・レコードを設立、自作を含めた合唱曲を多数録音しています。

1980年、プリンストンのウェストミンスター合唱大学の名誉フェローに就任。

1985年から1992年にかけて、慢性疲労症候群に罹患。この影響によって契約を守ることが保証できなくなったため、1985年から委嘱による作曲をストップしました。

1988年、教会音楽家連盟のフェローに就任。1996年、教会音楽への貢献を認められ、カンタベリー大主教からランベス音楽博士号を授与されました。

「橋 クラッシック作曲家」で検索したら、ラターの「Look at the world」がヒットしました。
?と思って読んでみたら、ケンブリッジシンガーズの為にクリスマス・キャロルとして作曲された曲。

ケンブリッジ→ブリッジ→橋
ばんざーい!
グーグル先生もダジャレ好き?
とにかくこの曲、合唱団で世界中に流行っているそうです。

「Look at the world」
世界を見て、私たちの周りのすべてのものを見てごらん。
世界を見て、毎日驚きを感じるだろう

世界を見てごらん。
私たちの道にはたくさんの喜びと驚き、たくさんの奇跡があります。

主よ、あなたに賛美を。
私たちが分かち合うすべての贈り物とあらゆる祝福が見えるように、
感謝の心を、
すべてはあなたから来ます。

実りや花を生み出す大地を見て、
太陽の光や雨を空に見て
丘を見て、木々や山々を、
谷と流れる川、野原と平原を見てごらん。
春を思い、夏の暖かさを思い、
冬の寒さの前に収穫をもたらします。
すべてのものは成長し、すべてのものには季節があり、
すべては父の愛に包まれています。

すべての良い贈り物、私たちが必要とし大切にしているものはすべて、
与えられます。
私たちは神の手、神のすべての恵みの源です。
神は地で、神は天です。

ジョン ラター自身の指揮で「Look at the world」


飛行機を飛ばしてみました。

2024-08-03 21:01:00 | 現代
水曜日は、5歳児を幼稚園までお迎えに行って1時間ほど預かりました。

幼稚園で作った蝶々。
ストローが2本ついていて、吹いたら飛びます。
これが気に入っていて、「作ろう!」と言ってきました。
「いいよ!」
ところが、「ストローが無いよ。」あちこち探してみましたがありません。

「ストローが無くても作れる飛ぶおもちゃってある?」
と聴くと、「ある!飛行機。」
「3角飛行機と4角飛行機。折ってあげる。」
3角に折ってから作るのが3角飛行機、4角に折ってから作るのが4角飛行機。
昔々からある飛行機です。

折り紙で作って飛ばしてみました。
4角飛行機は飛びません。
3角飛行機は飛びます。が、まだまだ飛ぶ飛行機が有りそう。
スマホでみたらたくさん出てきました。

作っでみました。
先折れ飛行機。
3角飛行機より飛びます。
「せーの!」で一緒に飛ばして、どちらが飛ぶか?やってみました。
「次のも!」

ジェット飛行機、これもよく飛びます。先折れ飛行機より飛びます。

輪っか飛行機。
これは全く飛びません。飛ばし方にコツがいるみたい。
結局飛ばせませんでした。

おヘソ飛行機は、A4で折る飛行機ということで、楽譜の反故紙で作りました。これが一番飛びました。

ここで時間。
「今度、続きやろうね!」と言いながら帰っていきました。


レオナルド・ダ・ヴィンチによるフライングマシン(オーニソプター)の設計図(1488年頃)

ライト兄弟が1903年に飛行機を世界で初めて飛ばしました。

ライトフライヤー号は木製の骨組に羽布張りで、方向転換ができ、ガソリンエンジンを使用していたそうです。

ヨーロッパでは、
サントス・デュモン(1873-1932年)ブラジル帝国ミナスジェライス州パルミラ生まれ、ブラジル サン・パウロ州グゥアルジャ没

1901年には半硬式の飛行船6号機で、制限時間内にエッフェル塔の周りをまわる飛行にかけられたドゥーチ賞を獲得。6号機はパリの市民らからは"プティ・サントス"と呼ばれ親しまれました。

1906年10月22日、ヨーロッパで初となる動力機の飛行に成功しました。

デュモンの飛行機「14ーbis」
アメリカのライト兄弟に遅れること3年、1906年10月23日にエンテ型の動力機「14-bis」号の公開実験で高さ3m、距離約60mを飛行しました。

11月12日再び公開で高さ6m、距離220mを飛行し、100m以上の飛行にかけられていたアルシュデック賞(アルクデアコン賞)を獲得しました。

このため暫くの間、デュモンが世界初と思われていた時代がありました。

1910年頃から多発性硬化症を発病し、引退してパリ郊外に家を買って隠遁生活をしていました。

しかし、第一次世界大戦が勃発し、飛行機や飛行船が兵器として使用された事実に失望し、ヨーロッパを去りブラジルに帰りました。

ところが、平和の国と信じて帰ったブラジルでもその飛行機が内戦鎮圧に使用されました。

デュモンは著名人の署名を集め、飛行機を戦争に使用しない提言を行いました。
が、ヴァルガス大統領(1862-1954年)

や国会はこれを黙殺しました。

デュモンはこれに絶望し、この後サンパウロ州グアルジャのホテルでネクタイで首を吊って自殺しました。

当局はデュモンの死因を「心臓発作」と発表しました。

ウィリアム ターナー ウォルトン(1902-1983年)イングランド ランカシャー オールダム生まれ、イタリア イスキア島没

1942年「スピットファイア」前奏曲とフーガ は英名をThe First of the Few(数少ない最初の人)というイギリス映画の音楽として作曲されました。

戦闘機スピットファイアの製作をしたRJ ミッチェルの伝記映画。


それはデュモンが心底嫌った
戦争利用を前提とした飛行機製作を英雄視する内容になっています。




ファシズムに追われた作曲家

2024-07-30 21:00:00 | 現代
日曜日はお琴の合わせの後、阪急宝塚線で池田へ、池田公民館ホールで、池田ギター練習会でした。


公園の中にあります。
反対側は公園のグラウンド。
2時前に着いたら、小学生の男子が公民館のエレベーターホールに駆け込んできました。
一緒にエレベーターを待っているとエレベーターの上に設置してある電光掲示板を指さして
「37.7℃やって!」 
「もう、外で遊んだらあかんな。」
本当にそうです。
ロビーに子どもが遊べるコーナーが作ってありました。
ホールは4階。

先週西宮で主催の鈴木淳一さん
に誘われました。

お相手は先週と同じ渡邉信行さん。
テデスコの「ソナチネ」op205の第一楽章。
実は当日初合わせ。
良い子は真似をしないように。

マリオ カステルヌオーヴォ=テデスコ(1895-1968年)
イタリア フィレンツェ生まれ、

フィレンツェでイタリア系ユダヤ人(セファルディ系)の銀行家の家庭に生まれます。 

母親にピアノの手ほどきを受け、9歳にして最初のピアノ曲を作曲します。

1914年にフィレンツェ音楽院のピアノ科を修了すると、作曲科に転じてイルデブランド・ピツェッティに師事し、1918年に卒業資格を得ます。

フランス帰りの作曲家でピアニストのアルフレード・カゼッラにより注目され、作品を演奏会でとり上げられるようになります。
カゼッラは、テデスコの作品が国民音楽協会(イタリア現代音楽協会(英語版、イタリア語版)の前身)の演奏会でも取り上げられるべきだと考え、前途有望な新進作曲家のひとりとしてヨーロッパ中に売り出すことを図りました。

テデスコの作品は、1922年度国際現代音楽協会ザルツブルク大会に取り上げられました。

1926年、ニッコロ・マキャヴェッリ原作の自作のオペラ《マンドラゴラ Op. 20》を初演。
これは偉大な文芸作品に着想を得た最初の作品であり、このほかに、アイスキュロスやウェルギリウス、ウィリアム・シェイクスピア、ウィリアム・ワーズワース、ウォルト・ホイットマン、ジョン・キーツの作品を原作として作曲を行ないました。

民族的な素材による作品として、旧約聖書やユダヤ教の典礼に基づく《ヴァイオリン協奏曲 第2番「預言者たち」》がある。これはヤッシャ・ハイフェッツの依嘱作品で、反ユダヤ主義がヨーロッパ中にはびこる中で、ユダヤ系の血統への自負や、作曲者自身の言を借りると「昔日の輝き」を表現したものです。

1932年度国際現代音楽協会(ISCM)ヴェネツィア大会で、スペインのギタリスト、アンドレス・セゴビアと初めて出逢います。

この出会いに触発されて《ギター協奏曲 第1番》を作曲、100曲余りあるギター曲の第1作となりました。

これによってテデスコは、20世紀におけるギター音楽作曲の大家との名声を得ます。

《世紀を越える変奏曲》、ギター・ソナタ《ボッケリーニを称えて》、ギターと朗読者のためのメロドラマ《プラテーロとわたし》などを作曲しています。

その翌年にイタリアのファシスト政権が文化綱領を明らかにしますが、それは芸術をプロパガンダの道具と見て、人種主義を広めようとするものでした。

ムッソリーニが1938年に公的に人種政策を採用する前から、テデスコは放送局や演奏会場から締め出しを食らっていました。

そして、彼にイタリア脱出を決意させたのは人種法でした。

スカラ座の前音楽監督のアルトゥーロ・トスカニーニに手紙を書いて窮地を訴えると、トスカニーニは渡米するなら支援するとの約束を返してきました。

1939年、第二次世界大戦開始の直前にテデスコはイタリアを離れました。  

ハリウッドについたテデスコはハイフェッツの援助のもとに、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約して映画音楽の作曲家となりました。

それから15年の間に、MGM以外のものも含めて、約200点の映画に楽曲を提供しました。

映画は本質的にアメリカ的な芸術の形だと割り切っていました。

アメリカ合衆国でも新しいオペラの作曲を続け再起を賭けたものの、生前および没後も上演されることはなく、娯楽作品として構想された《真面目が肝心 Op. 198》が死後上演された最後のオペラになりました。

テデスコのスコアとしてよく知られているのはルネ・クレールの『そして誰もいなくなった』 (1945)、チャールズ・ヴィダーの『カルメン』 (1948) などであるが、クレジットされている作品以外にも多数の映画音楽を作曲している(たとえば『名犬ラッシー 家路』 (1943) )など多くあります。

フルートとギターのためのソナチネ op.205は、
1965年に、ウィーン・フィルの首席フルート奏者、ヴェルナー・トリップと高名なギター/リュート奏者、コンラート・ラゴスニックのために書かれました。
ファシズムによってアメリカ商業音楽を作らなくてはいけない状況に置かれ、それらを量産したテデスコは生涯、現代クラッシック音楽を作りたかったと言われています。
作られたオペラや他の曲は上演機会が少ないままですが、ギターを主とする曲のみが演奏され続けています。

第1楽章



ハープの日

2024-07-22 21:02:00 | 現代
7月21日(日)は塚口駅近くのt-raumで、ハープの発表会でした。
なんと!プログラム1番。
ゲストのプロ演奏のお一人が演奏されたすぐ後です。
内心「ひえ〜!」という感じ。

リハーサルのために12:00入り。
12:30から10分「ロンドンデリーの歌」を弾いてみました。

1回目は上がってて、手元を見たら楽譜が見れず、楽譜を見たら手元が見れず…そして目は悪くなってて楽譜がよく見えない。
という感じで、ミスばかり。
「時間あるから、もう一回弾いてもいいですよ。」と先生。

2回目は落ち着いてきました。

本番もこんな感じならいいのに!

さて、後から来た金重さんと持ってきたお昼を食べて、着替えて、さあ、本番。

すぐに自分の番。
う〜ん。途中でペダル操作をA♭→Aにして、その後A→A♭に戻すはずが、隣のG→Gシャープに
気づかず続行したら変な音がでてしまいました。

先生が、「その隣、隣です。」とこっそり教えて下さって、戻ってペダルを治して、3和音引きなおして、最後まで…。
ハープって本当に難しい。
練習では一度も踏み間違ったことは無かったのに…。

野田千晶先生が出演されるコンサートのお知らせがありました。
2023年1月に亡くなられた作曲家の藤井修先生の追悼コンサートです。


今回出演した若手演奏家の2人と後もう一人の3人が高校生の時に3人のために作曲された曲もあるそうでその曲も先生が入って演奏されます。

藤井修
1946年10月1日ー2023年1月27日没
岡山県笠山市生まれ、

3歳で母 貞枝死去(享年39歳)
1951年4歳の時に父再婚 継母に育てられます。
1963年1月 16歳 父 善一死去(享年56歳)
1965年4月~1967年10月 18~21歳
奈良ドリームランド音楽隊に就職し、
クラリネットで入隊します。(打楽器)

打楽器を永野成計氏、山口十郎氏に師事
この頃、ドリームランド内でアイヌの人々と知り合い、アイヌ文化に興味を持ち始めます。
1968年4月~1972年5月 21~25歳
大阪PL吹奏楽団首席打楽器奏者として就職。

PLマーチングバンド連盟創設に携わり、初代講師とし0人編成の女子鼓笛隊を創立し指導、NHK紅白歌合戦にも出場します。

1972年6月~1980年11月 25~34歳
芸能プロダクションに所属し、芸能人のバックバンドでヴィブラフォン、ドラム、ラテンパーカッションを担当し、テレビ・ラジオ・コンサート・スタジオレコーディングなどで演奏。

NHK大阪放送管弦楽団、宝塚管弦楽団等のオーケストラで、ティンパニー、各打楽器を担当

ヤマハ、カワイ、テクニトーン、梅田ナカイ楽器等で、ドラムやラテンパーカッション等のレッスン担当をします。

1976年6月 29歳
継母 ヲキミ死去(享年70歳)

1977年~2014年 30~68歳
多くの中学高校吹奏楽部、アマチュア吹奏楽団にて、オリジナルのシステムによる吹奏楽、打楽器、打楽器アンサンブル指導を行い、地区大会、全国大会出場等の好成績に導きます。

1978年~2018年 31~72歳
プロ・アマの各音楽団にて、編曲・打楽器演奏を行います。

1980年4月~2006年3月 33~59歳
カワイ(旧 中央)音楽学園講師を務めます。

吹奏楽作品、打楽器作品など多数。 
ハープの曲もたくさん残しておられます。

その中の一曲「星の歌」を野田先生が披露してくださいました。それが本当に美しい曲!
ぜひいらしてください。


85歳現役の作曲家

2024-07-21 21:15:00 | 現代
西宮ギター練習会…の前に梅田ドルチェ楽器さんで伊藤公一先生のレッスン。
あい変わらずスケールとアルペジオから

簡単な物を吹けなくて、難しい曲が吹けるわけはない。
ということはおっしゃいませんが、そうなのだろうなとひしひしと感じます。

スラーの意味イチからやり直しました。
指の不具合が音の移動の歪みや、滑らかさを害う動きを生みます。
何年やってもやっぱり基本が大事。

午後から西宮ギター練習会
今津公民館でした。
阪急電車は天神祭りモード。
間に合いました。

私は渡邉信行さんとオブリビオンとイベールの間奏曲を演奏します。

フルートの竹内聡さんと3人で「ロンドントリオ」の1番をしました。

写真は竹内さんと渡邉さんのテデスコの「ソナチネ」2.3楽章です。

オブリビオンは7月7日に亡くなった国田さんの追悼演奏でした。
みんなで黙祷をしてから演奏しました。
前にも書きましたが、国田さんの不機嫌な顔を一度もみませんでした。
いつもニコニコ、優しい笑顔しか思い出せません。

さて追悼演奏が終わった後、イベール。
この曲はよくやっていますが渡邉さんとは久しぶりでした。

渡邉さんは推進力が強いです。
その力に押されてつい吹いてしまう感じ、演奏はそれぞれ個性があって、それぞれにみんなおもしろいです。
これだからやめられない。

ハイドンの「ロンドントリオ」は旧知の渡邉さん、竹内さんにせっかくなので入れてもらいました。
竹内さんはフルートアンサンブルエスカルのメンバーでもあるので私とも縁があります。
楽しかった!

今日はクラリネットの人もきていました。
実はギターを探しているということで岡山さんをご紹介しました。
「タンゴの歴史」1.2を珍しい編成で聴きました。クラリネットのタンゴも素敵でした。

なんだか音楽の輪がどんどん広がっている気がします。
そしてまあ、とにかく皆さん熱演。
こうして1ヵ月に一度発表するとなるとみんな目に見えてうまくなってきます。   

私も牧野生涯学習センター音楽室で「聴き合い会」をやっています。
第14回7月29日(月)
第15回8月23日(金)
13:00開演

こちら、どんな楽器でもOK。
1枠15分 協力金500円
お互いの演奏を聴き合い励まし合いましょう。
ということで勇気を奮ってご参加ください。


さて、西宮に戻るとコンクール荒らしのようなツワモノも。

ブローウェルという作曲家がいますが、鈴木さんはブローウェルマニアというくらい大好きな人です。

エテュードを何曲も弾かれました。
存命のブローウェルの新作もご存知で、ソナタの楽譜も忍ばせていました。どれだけ好きなの?!

レオ ブローウェル(1939年生まれ〜)85歳キューバ ハバナ生まれ、

作曲家でギタリスト。
アメリカ合衆国に留学し、ハートフォード大学、さらにジュリアード音楽学校で学びました。

ジュリアード音楽学校ではステファン・ウォルペに師事。初期の作品はキューバの民俗音楽の影響を示しています。

しかし1960年代から1970年代にかけてルイージ・ノーノやヤニス・クセナキスのような現代音楽の作曲家に興味を持ち、「ソノグラマ1」のような作品では不確定要素を取り入れています。

この時期の他の作品には「雅歌」(1968年)、「永遠の螺旋」(1971年)、「パラボラ」(1973年)、「狂おしい思い」(1974年)などがあります。

近年では調性と形式美に傾き、ギター独奏曲の「黒いデカメロン」(1981年)、「鐘のなるキューバの風景」(1987年)、「ソナタ」(1990年、ジュリアン・ブリームに献呈)などでその傾向を示しています。

ギタリストとしては1980年代まで活動していましたが、右手中指の腱を痛めたのがもとで以降は指揮活動を中心に活動しています。

ブローウェルはキューバで映画音楽協会の理事など多くの公職についています。彼の作品の大部分はギター独奏曲ですが、ギター協奏曲や40本以上の映画音楽も手がけています。

ギター協奏曲第11番は「レクイエム―武満徹の思い出に」です。

彼の代表作の一つ《シンプルなエチュード》。
この作品は、1973年に1-10番が、そして2001年には《新シンプルなエチュード》として11-20番までが作曲されました。

『エチュード』は『練習曲』の意味で、それぞれの楽章は特定の演奏テクニックの習得に役立つように書かれています。