音楽の喜び フルートとともに

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さらばラノワのよき酒よ

2024-08-31 21:00:00 | ルネッサンス
韓国からのお土産。
立派な箱。
「なに、なに?」と私。
「どうせ酒やろ。」次男。

白酒。52度!
中国のお酒です。
露骨にがっかりする次男と私。
ほぼお酒飲めません。
夫はよほど酒好きと思われているみたいです。
このお酒、ググってみたらアマゾンでも楽天でも品切れでした。

お酒好きな人にはたまらないものなのでしょうね。

紀元前4000年以上前、メソポタミアで人類が農耕生活をはじめた頃、放置してあった麦の粥に酵母が入り込み、自然に発酵したピールが起源とされています。

最古の記録としては、紀元前3000年頃にメソポタミアのシュメール人が残した粘土板に当時のビールのつくり方が描かれています。

ワインの起源も同じくメソポタミア地方で、初めて文献に登場したのは紀元前2000年頃。メソポタミアの英雄詩"ギルガメッシュ叙事詩"の中に、葡萄酒を飲ませた記述があります。

ヨーロッパでは14世紀にポップを使う製法が発見されます。
1516年にはドイツで「ビール純粋令」が発布されました。
ビール純粋令は、食品の品質保証に関して、世界最古の法律のひとつです。

「ビールは大麦、ホップ、水のみを原料とすべし」。
ギヨーム・デュファイ(Guillaume du Fay)(1397 - 1474年)ブラバント公国ベーアセル?生まれ、フランス王国カンブレー没

はルネサンス期のブルゴーニュ楽派の音楽家です。
音楽の形式および精神の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠です。

1409年から1412年まで、少年合唱隊で教育を受け、才能を認められます。

1414年、カンブレ近郊のSt.Géry(サンジェリー)教会で働きはじめます。

カンブレ
1414年から18年までコンスタンツ公会議に同行し、1418年にカンブレに戻り副助祭となります。
イタリアのリミニ宮廷に移り本格的な作曲を始めます。

リミニ
1424年に、カンブレに戻り、ラン(ラノワ)大聖堂で副助祭であったと考えられています。
1426年、イタリアのボローニャに移動し、1428年には司祭となります。その後、1433年までローマで教皇庁の歌手となります。

1433年、サヴォワに移動し、ブルゴーニュ公やジル・バンショワと会います。

デュファイ (左)とバンショワ
1435年に再び教皇庁の歌手になりますが、1436年サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ大聖堂)

の献堂式のために「ばらの花が咲く頃」という曲を作っています。
1437年に再びサヴォワに移動し、ブルゴーニュ公
ブルゴーニュ公“善良公”フィリップ3世』(1456年頃)、(在位1419-1467年)
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン画)ぬ
に仕え、その後、サヴォアとカンブレの間を行き来します。

1459年、カンブレに戻り、オケゲム、ビュノワと親交を持つほか、ジョスカン・デ・プレらとも接触したと考えらます。
1474年11月27日没。

さらばラノワのよき酒 (Adieu ces bons vin de Lannoys)

ドナート・マンチーニによると
「タイトルにその言及があるこの優雅なロンドは、1423年から1426年の間にデュファイがラノワで幸せな年月を過ごした証拠と言われています。

歌詞は、その地の良質なワイン(「ボン・ヴァン」)と美しい女性たちを懐かしく思い出し、彼女らに悲しくも惜しげもない別れを告げています。」

「さらばラノワの良き酒」
さらば、この良きラノワのワインたち、
さらば淑女たち、さらばボルゴワ、
さらば愛する人、
さらばすべての遊び心のある喜び、
さらばすべてのガロワの仲間たち。
後略



ジン

2024-08-30 21:01:00 | ロマン派
この前行った里山の森の奥に、



センニンソウ(仙人草Clematis terniflora DC.)キンポウゲ科センニンソウ属。
属名(Clematis)は「若枝」、
種小名(terniflora)は「3枚葉の」を意味します。

和名は痩果に付く綿毛を仙人の髭に見たてたことに由来します。

別名が「ウマクワズ(馬食わず)」、有毒植物で馬や牛が絶対に口にしないことを意味します。
茎や葉の汁は皮膚炎の原因となります。

仙人はなかなか西洋音楽にはでてきません。魔法使いや、魔女、魔術師ならいますが…。

セザール フランク(1822-1890年)ネーデルラント連合王国リエージュ生まれ、フランス共和国パリ没

交響詩『ジン』(Les Djinns)はピアノと管弦楽のための交響詩です。
「ジン」には「鬼神」、「魔神」、「魔人」という意味があります。

この曲はピアニストのカロリーヌ・モンティニー=レモーリーがフランクに、ピアノと管弦楽のための短い楽曲を作曲してほしいと言われたことをきっかけに書かれました。

フランクは1884年の夏季を利用して曲を仕上げたが、彼女は作品を演奏しませんでした。

初演が行われたのは1885年3月15日の国民音楽協会の演奏会で、独奏者はルイ・ディエメ(1843-1919年)

でした。
曲はスール(Serre)婦人に献呈されています。

曲はヴィクトル・ユーゴー(1802-1885年)
Étienne Carjatによるウッドベリータイプ、1876年
の『東方詩集』

1853年から1854年のヘッツェル版『東方詩集』のジャン・アルフレッド・ジェラール・セガンによるイラスト
中の「ジンズ」
ジンの家(ヘドリー・チャーチワード)
の詩に着想を得て書かれています。
「東洋詩集」41の詩の28番目の詩です。
その詩はジンの家の周りをジンの群れが通過することによって引き起こされる騒音と物語が描かれています。

ユーゴーはフランクに度々霊感を与えていて、他にも彼の最初の交響詩となった『人、山上で聞きしこと』などがあります。

ピアノパートは非常に技巧的に書かれているにもかかわらず、初演者のディエメはこれを見事に弾きこなしました。
これに感銘を受け、ピアノという楽器への興味を取り戻したフランクは『交響的変奏曲』を書き上げ、ディエメに献呈することになります。

交響詩「ジン」






男?あるいは女?

2024-08-29 21:01:00 | 古典
旧宅のガレージ…夫が育てている植物やクワガタ、メダカで占拠されています。

水草採集も
何かいる?
蛙が勝手に住みついたみたい。
カエルと言えば、先月預かったクロムウェルツノガエルの小雪姫。
久しぶりに飼い主さんに出会ったら、鳴き出したそうです。

人が見ている時はあまり鳴かないで夜中一匹になった時に鳴いているそうです。

動画送ってくれました。見たい人だけ見てくださいね。
ゲロゲロって、泣くのかと思ったら「わん。」「わん。」
子犬のような鳴き声でした。

そして…

鳴いたと言うことは、

そう男の子でした~🤣💦
小雪王子👑

チャンチャン🎶

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770- 1827年)神聖ローマ帝国ケルン選定公領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

が完成した唯一のオペラ「フィデリオ」op72


「フィデリオ」構想期
『レオノーレ』第1稿

ブイイの原作は.トゥーレーヌで起こった事件を元に書かれました。

これを基に
1798年にピエール・ガヴォーによる『レオノール』、1804年にドレスデンで初演されたフェルディナンド・パエールによる『レオノーラ』が作曲されました。

その頃、ウィーンの主要歌劇場を手中に収めたブラウン男爵が腹心のゾンライトナーに原作をドイツ語に翻訳させ、ゾンライトナーを通じてベートーヴェンに作曲を依頼しました。

何度も書き直すなどの苦労もありましたが、だいたい1年ぐらいで完成され、初演は1805年10月15日に内定しました。

ところが、ナポレオン軍がウィーンに迫った(11月13日に占領)影響で、初演日は11月20日に繰り下げられました。

皇帝時代のナポレオン。近衛連隊長の制服を着用している(画:ダヴィッド

ベートーヴェンは『レオノーレ』というタイトルでの上演を主張しましたが、前2作との混同を避けるため、結局劇場側の推す『フィデリオ』のタイトルに決めました。

アン・デア・ウィーン劇場

でベートーヴェン自身の指揮により3日間上演されました。
しかし、何人かのベートーヴェンの友人と新聞記者を除けば、観客の大半がフランス軍兵士で、ドイツ語を理解できる兵士がいなかったこともあり大失敗に終わりました。

『レオノーレ』第2稿
この初演ののち、ベートーヴェンは友人の勧めに従ってこのオペラを改訂することに決めました。

シュテファン・フォン・ブロイニングの協力を得て、『レオノーレ』を2幕のオペラへと改作し、さらに序曲も新しいものへ差し替えました。

改訂は1805年暮れ頃から年明けにかけて行われ、1806年の3月29日にリッター・イグナーツ・ザイフリートの指揮により初演、4月10日に再演され、いずれも成功を収めました。

しかし、ベートーヴェンとブラウン男爵との間の金銭トラブルから、それ以上は公演されませんでした。このときの公演でも、ベートーヴェンのタイトル案『レオノーレ』は受け入れられなませんでした。

『フィデリオ』
第2稿による初演のあと、1810年に『フィデリオ』の楽譜が出版され、しばらく上演されることもありませんでした。
1810年頃からベートーヴェンの作品(例えば『ウェリントンの勝利』)が人気を博すようになり、ウィーンの劇場主や人気歌手がその人気に便乗しようと、ベートーヴェンに『フィデリオ』上演を盛んに打診するようになりました。

その中で、主要歌劇場ケルントナートーア劇場(ケルントネル門劇場)の運営を任されていたトライチュケの申し入れをベートーヴェンが台本の改訂を条件として受け入れ、同時に音楽の改訂も行われました。

改訂は1814年3月から5月の2か月間に行われ、その際、タイトルも『レオノーレ』に強くこだわることをやめて『フィデリオ』を受け入れることになりました。

初演は1814年5月23日に行われました。
当時ベートーヴェンは難聴が急速に進んでいました。
なのでミヒャエル・ウムラウフの手助けを借りながら自身で指揮をしました

序曲は、初演当時は作曲が間に合わず、『アテネの廃墟』序曲で代用されましたが、5月26日の上演から『フィデリオ』序曲を付して上演され、以後ウィーン会議のために来訪した諸侯のための上演を含め、1814年中に何度も上演されました。

オペラ「フィデリオ」op72
あらすじ
舞台は16世紀末、スペインのセビリャから数キロメートルほどのところの刑務所。

第1幕 
フィデリオはレオノーレの変装した姿で権力者ピツァロに抵抗して囚われた夫フロレスタンを救いに刑務所に潜入しています。

フィデリオ(レオノーレ)役のイーダ・ヒードラー

看守の娘マルツェリーネは「もし結婚してくれるなら」と頼むヤキーノに「絶対結婚しない、フィデリオ(レオノーレ)に夢中だから」と返事します。

フィデリオは、修理したばかりの鎖の重い荷物を運びながら入ってきます。看守のロッコはフィデリオの技術を褒めますが、彼の控えめな返答は、自分の娘の気を惹くためではないかと誤解します。

ロッコはフィデリオに、「知事がセビリャに出発したらすぐマルツェリーネと結婚して良い、」と言い、彼はさらに、「金が無ければ幸せになれない」とも言います。

フィデリオは金と同様に重要なものが欲しいとロッコに囚人の情報を聞き出します。

ピツァロが護衛と共に登場し、ロッコはピツァロにメッセージを渡します。
それには、「ピツァロが暴君であるという告発の調査のために、大臣が抜き打ちで明日来所する」と書かれていました。

ピツァロは、監禁されているドン・フロレスタンは死んだと思われているし、大臣が見つけられるはずはない。代わりに「すぐにもピツァロがフロレスタンを殺してやる」と言います。

彼はロッコに金を渡し、フロレスタンを殺すように言うが、ロッコは断ります。

かわりにピツァロは牢獄の中の古井戸の中に墓穴を掘るように命令します。墓穴ができたらロッコは音を出して知らせ、ピツァロは偶然を装って牢獄に入って自分でフロレスタンを殺す、と。

フィデリオはピツァロが筋書きを立てる様子は見ていましたが、声は聞こえず、彼女の心は波立ちますが、夫のことを考えて冷静さを取り戻します。

フィデリオは哀れな囚人たちが気持ちの良い天気を楽しめるよう、庭を散歩させてはどうか、とロッコに提案。

囚人たちはつかの間の自由を非常に喜び、嬉しそうに歌います。

ロッコが再び登場し、ピツァロが娘マルチェリーナとフィデリオの結婚を許し、ロッコの牢獄の巡視にレオノーレの同行も許されたと告げます。

そこへヤキーノとマルツェリーネが駆け込んできて、ロッコに、「ピツァロが、囚人たちの自由を見て怒り狂っている」と言います。

ロッコは、「王の命名日を祝っているのです。」と作り話をして、ピツァロに怒りを収めます。

ピツァロは「墓穴掘りを急ぐよう」に言い、囚人を再び牢屋に入れるように言います。

第2幕
フロレスタンは一人で、牢獄の奥深くの独房にいる。彼ははじめ、神への信頼を歌い、その次にフィデリオが自分を救いにやってくる幻想を見ます。
やがて彼は倒れて眠り込んでしまいます。
ロッコとフィデリオは彼の墓穴を掘りにやってきて、フロレスタンが眠っているのを見つけます。

フロレスタンが目覚め、フィデリオは彼に気づく。フロレスタンは、自分がピツァロに囚われていることを思い出し、自分の妻であるレオノーレ・フロレスタンにメッセージを送ってくれと頼みますが、ロッコはそれは不可能だと返事します。
フロレスタンはフィデリオ(レオノーレ)に気っきませんが、彼女は「天国で報われるだろう」と伝えます。

ピツァロは準備が整ったかを尋ねます。ロッコはそうだと言い、フィデリオに立ち去るように命じます。

ピツァロが短剣を振り回すと、フィデリオが物陰から飛び出してピツァロとフロレスタンの間に立ち、「フロレスタンを殺すならその前に、妻の自分を殺さなくてはならない」と言います。

ドン・ピツァロ(左)に立ち向かうレオノーレ(中央)、そしてフロレスタン。

ピツァロは「二人を一度に殺すチャンスだ」と喜びます。

ちょうどその時、大臣の来訪を知らせるトランペットが聞こえます。

大臣ドン・フェルナンドは暴政は終わったと宣言します。

ロッコが、フロレスタンとレオノーレ(フィデリオ)とともに登場し、彼らを助けて欲しいとドン・フェルナンドに頼みます。

ロッコは、レオノーレが自分の夫を助けるために、変装してフィデリオとして働いてきたことを説明します。
マルツェリーネはショックを受けます。
ロッコはピツァロの殺人計画を話し、ピツァロは牢獄へ入れられます。

レオノーレの手によってフロレスタンが鎖から解き放され、群衆はレオノーレの夫に対する忠節を讃えて歌います。

レオノーレ「神様!なんていう瞬間でしょう。」
民衆のコーラス「良い妻を娶った者は」




きらきら✨

2024-08-28 21:00:00 | 古典
火曜日は朝早く2時間ほど赤ちゃんの、サポート。

おむつを替えて、ミルクをあげて、抱っこして背中をトントン。ゲップ。
歌を歌ったり、お外を見せたり遊んでいるうちにお眠に…。
おしゃぶりをあげると指を捕まれました。しばらく掴んでいるとそのまま寝てしまいました。
至福〜!

家帰って練習。
ガンガンやっていると時間忘れます。

夕方2時間ほど5歳児のサポート。
幼稚園でキラキラのスノーボール(スノーボトル?)作って来ました。
「きれいね〜!」と言うと写真撮らせてくれました。

今日はすごろくを作りました。私もフルーツすごろくを作りました。
2人で夢中になっているうちに時間オーバーしそうになって慌ててお返ししました。5分オーバー。

明日も5歳児は預かります。
「続きは明日。」
「また明日!」

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

のフランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに教えてあげましょう』による12の変奏曲は1781年から82年頃モーツァルト26歳の時にウィーンで作曲されたものと推測されています。

楽譜は1785年に出版され、弟子のヨーゼファ・バルバラ・アウエルンハンマー(1758-1820年)に献呈されています。

モーツァルトのピアノのための変奏曲は『デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調』(K. 573)を除いて全て生前に出版されていて、変奏曲は非常に人気のあるジャンルでした。

主題に用いられた歌曲は後に童謡『きらきら星』として知られるようになったため、日本では『きらきら星変奏曲』の愛称で呼ばれるようになりました。

が、『きらきら星』の歌詞が書かれたのはモーツァルトの死後のことです。

このテーマの起源は1740年に書かれた無名の田園歌で、比較的最近になって子ども向けの歌詞が付け加えられたそうです。

このメロディーは1761年に初めて出版されました。

歌詞と音楽が印刷された最古の出版物は、1774年にブリュッセル(当時はオーストリア領ネーデルラント)で出版されたシャルル・ド・リュスの『 Recueil de Romances 』第2巻で、「 La Confidence naïve素朴な自信 」という題名でした。
以降いろいろな。歌詞が存在します。

一般的な歌詞
ああ!ママ、何が私を苦しめているのか教えてあげましょうか?

パパは私が 大人のように
理性的に考えることを望んでいます が、私はキャンディーの方が 理性よりも価値があると言います!


ガルべとタンブラン

2024-08-27 21:03:00 | 楽器
今日は、フルートアンサンブルエスカルの練習日でした。

11月10日(日)13:00開演
エスカル定期演奏会
ラ・サーラ・ディ・オルフェオ

での定期演奏会のための練習です。

今回はその一部
ビゼーの「アルルの女」の組曲をフルートアンサンブルに編曲して演奏するのですが、この曲の「ファランドール」にはどうしても太鼓が必要と言うことでメンバーの1人が太鼓を叩いてくれることになりました。

太鼓が入るとグッと南仏のイメージが出てきます。

榎田先生、「南仏では、なんとかいう吹きながら叩くやつでするんだ。」と言うことでなんとか言うやつの代わりがこの太鼓。

後「くるみ割り人形」の組曲もするので「アラブの歌」のタンバリンが乗っています。
これはベリーダンスの鈴の代わりです。



なんとかいう太鼓調べてみました。

「プロヴァンス太鼓」と言うそうです。
両側に皮を張った胴の長い太鼓のことです。
撥で叩く方の皮には1本のスネア(響き線と言う振動を増幅するための線。現在ではコイル状の金属線です。)がついていて、紐で肩から吊るし、左手にもった小さなハンマーのような撥で叩きます。
その際、右手には単純な構造の笛を持ち、これを吹きながら太鼓を叩きます。
ガルベとタンブラン (Galoubet-Tambourin)と南仏では言うそうです。

タンバリンとは別物です。

ガルベは3つ穴の空いたリコーダーのことです。


ガロベ・フェルディナンド・ベイン
歴史は古くルネサンスの時期からありました。
いろいろなタイプのガルベが併存していましたが、フランス革命以降 4つの基本音はすべて 1 音離れていて (E フラット - F - G - A)が普及しました。

オーケストラでは演奏者が同時に笛を吹くことはありませんが、ビゼーの『アルルの女』の「ファランドール」や、ミヨーの『フランス組曲』の「プロヴァンス」のように、プロヴァンス太鼓のリズムに合わせてピッコロやフルートが旋律を演奏することがあります。

バロック カルテットが演奏するカルべとタンブランを使った「カンヌのファランドール」

オーケストラのビゼーの「アルルの女」よりファランドール、プロヴァンス太鼓が使われていますが、笛はピッコロとフルートで奏者は別です。


雷雨

2024-08-26 21:01:00 | ロマン派
今日も枚方は暑かったです。
昼過ぎに車で出たら、車載温度計で39度。
ガレージには屋根があってほぼ日陰でこれです。

台風が来るので、雲が多いです。

木津川を渡って、
京都井手町の玉川で降りました。
このあたりまで来ると35度。




整備されている様子は見えますが、
茂りすぎて川が見えないところが…。

虎杖イタドリ

キツネノマゴ
山吹ヤマブキ?
春に咲く花が今頃?たくさんではないですがちらほら咲いていました。
なぜか?だってこの川は「新古今和歌集」で詠まれた川だから

駒とめて なほ水かはむ 
山吹の 花の露添う  井出の玉川
           藤原俊成

葛の花も。

水もきれい。
ここで
 
サワガニを捕まえました。
卵を抱いている雌もいました。視るだけでそっとかえしてきました。
ここで雷がなってきたので退散。
しばらく行くと

大雨。
さっき渡った木津川の山城大橋。
あっという間に車載温度計は25度へ。 

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
「雷雨」ホ短調op76は
24歳のチャイコフスキー初の本格的な管弦楽作品です。
劇作家のアレクサンドル・オストロフスキーによる戯曲『雷雨』に着想を得て書かれました。

ウクライナのハルキウに程近いトロスティアネッツにあるアレクセイ・ヴァシリエヴィチ・ゴリツィン公の領地で夏季を過ごしていました。

サンクトペテルブルク音楽院


で作曲を教えていたアントン・ルビンシテイン(1829-1894年)

は、休暇前に学生に対しオペラの序曲を作曲するという課題を与えました。

そうして書き上げられた作品でしたが、本人は出版する価値のある作品とは思っておらず、作曲者存命中には演奏されることもありませんでした。

このことはルビンシテインの評価と、「非音楽的な興味の展示館」であると評したゲルマン・ラローシ(1854-1904年)モスクワ音楽院教師、音楽評論家

が影響を与えた可能性があります。
初演はチャイコフスキーの死後の1896年3月7日、サンクトペテルブルクでアレクサンドル・グラズノフの指揮で行われました。

1865年、1866年の夏にチャイコフスキーは本作の開始部分を改作して演奏会用序曲 ハ短調に仕立て直しています。
しかし、これも作曲者の生前には演奏も出版もされませんでした。初演はようやく1931年になってヴォロネジでコンスタンチン・サラジェフの指揮により行われました。

あらすじ
ロシアの地方都市に住むカテリーナは母のいいなりになって男性と結婚します。
しかし他の男性に心惹かれた彼女は、夫が不在にした隙に不貞をはたらきます。
雷雨に慄いた彼女は夫に不貞の罪を打ち明けます。が、義母に責められてヴォルガ川へと身を投げます。








音大で習わなかった奏法

2024-08-25 21:40:00 | コンサート
今日は朝松井山手徒歩5分の実家で、レッスンした後、大阪響ポップスオーケストラのコンサートに出かけました。
チケットは金重さんが2人分持っていてくれて、私は持っていません。
レッスンは11時55分には終わるので、待ち合わせ13:30、14:00開演に充分間に合うとJRに乗りました。

すると改札で点検のため放出〜京橋不通です。
というアナウンス。
それならば、河内磐船まで行って京阪に回れば大丈夫かな?と思って乗りました。

すると車内で、「この列車は長尾〜京橋不通なのて、長尾から折り返し運転になりました。」
え〜っ!それは無理。
帰ろうと思っても後の祭り、ゆっくりゆっくり一駅を電車は行くのでした。
その間に金重さんにLINE。

長尾に着いてホームの駅員さんに聞いたら、「長尾から枚方までバスがでます。」

この電車は10分後にでます。 

どの道が早く着くのかわからなくて鉄オタの夫に電話。
「山手に帰って、車に乗って樟葉に、樟葉モールに車を置いて京阪で行くのが一番速い。」ということで同じ電車で戻りました。

松井山手の改札では、みんなが質問していました。
「長尾から帰ってきたけど払い戻しは?」
「改札でカードを読ませて出てください。お代をいただかない設定になっていますから。」へーっ!

駅から5分歩いて実家へ、車に乗って樟葉に向けて出発。

ところが休日で山手幹線はコストコ渋滞。

いらいらしましたが、冷静になって考えてみれば、いつもの通り道。
抜け道があります。

なんとか樟葉までたどり着いたら、特急は出たところ。

15分に1本。次は12時50分発。

それでグーグルマップで検索してみると、京橋でJR環状線に乗り換えて福島着13:59。

どんなに急いで歩いても駅からシンフォニーまで10分はかかります。
しかしここでようやく時間が読めたので金重さんに先に入っていてもらうことにしました。

チケットは受付預かりにすることがてきたそう。
迷惑をかけなくて済んで、ホッとしました。

そこからは定刻通り。
予想通り10分遅れ、2曲終わったところでホールに入れました。
指定席なので金重さんとも合流。
「来られて良かったね〜。」と小さな声で金重さん。
「うん、ありがとう!」

大阪響オーケストラポップスの前身は「大阪シンフォニカー」1980年創立の管弦楽団です。2020年新体制に移行。現在は若い人が多く、けれど実力は充分な管弦楽団です。

演奏、素晴らしいです。その上、乗りが学生のブラスバンド。
楽しい!おもしろい!

「ミッション インポッシブル」の打楽器群には惹きつけられました。
「シェルブールの雨傘」はコンマスがソリストで演奏。柔らかな素晴らしい音で魅了しました。

「ストリップ劇場メドレー」!?
ではゲストのテナーサックスつづらのあつしさんのソロが大活躍。
大阪音大卒のプライド?を捨ててバイトのキャバレーで培った奏法で見事な演奏を披露。(本人談)
指揮者の藤野浩一さんとのトークもおもしろかったです。
そして「ハーレム ノクターン」では技術の高さを見せつけてくれました。

「飲み過ぎメドレー」というわけで、お酒にまつわる曲のメドレーでした。
「スーダラ節」「ウィスキーはお好きでしょ」「悲しい酒」などよくしられた曲を確かな技術で演奏。途中、酔っぱらいのサラリーマンに扮装をしたメンバーが、お土産片手に千鳥足で出てきて「もう一軒行くか〜!」で次の曲へ…大ウケでした。

2部は大河俳優でもあり、ミュージカルスターの森崎ウィンさんの歌とトークと共に「フットルース」「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」「My place You place」「You Are My Sunshine」「LOVE」「Dear」「MOVE OUT」を演奏。

肩のこらないコンサートでした。

気分良くなって終演後、福島駅から環状線に乗ろうとすると「木津〜城陽倒れた竹のために不通」

『ご苦労さまです🙏』

JR福島から京橋、京阪京橋から樟葉モールは問題なく帰れました。
駐車料金1500円!
オケで使う黒ブラウスを買って割引き600円値引きありましたが…。
トドメでがっくり。

最近、電車トラブルに巻き込まれることが多いです。またお祓いしなくちゃだめかなぁ?

大阪響ポップスの動画は見つけられませんでした。

サックスのつづらのあつしさんの動画ありました。
「サザエさん」!


古楽器集合

2024-08-24 21:00:00 | ルネッサンス
金曜は第15回聴き合い会でした。
これは、先日ご紹介した復刻1700年代マンドリンです。
稲田さんも来てくれました。

弾けませんよ。
ポーズだけ。
でも触ってみたらわかることもあります。
まず軽いです。
220グラム。
持っていて苦になりません。 
フレットを押さえる左手も楽に押さえられます。
モダンマンドリンは二本の弦を、しっかり押さえないといけないので、指にくっきり二本のラインが入りますが、これはぎゅっと押さえなくても音が出ます。

また、ギターに比べてネックが細いので頑張って指を広げなくても楽々どのフレットも届きます。

右手はマンドリンよりも幅狭め長めの薄いピックで弦を捉えやすくより繊細な表現ができそうです。

稲田さんが言っていたストレスフリーの意味がわかってきました。

今回は、奥田さんと私のフルート、瀬さ渡瀬さんのモダンギター、河塚さんの19世紀ギター、古楽器ビウエラの斎藤さん、高島さんの二胡。
坂田さんと早井さんのピアノと後匿名希望の歌の方、見学も来られました。

みなさん、熱意ある演奏でルネサンス音楽から、現代日本の武満徹、唱歌までバラエティ豊かでした。

ルイス・デ・ナルバエス( 1526- 1549年活躍)イタリアグラナダ生まれ、



作曲家でビウエラ奏者。
生前から高く評価されていたナルバエスは、今日ではビウエラのための多声音楽集『デルフィンの書物』で知られ、この中には最古の変奏曲も含まれています。

また、同時代のイタリア風リュート音楽をビウエラに取り入れた最古の作曲家としても知られています。

ナルバエスの生誕日や生年月日さえも正確にはわかっていません。

彼はグラナダで生まれ、現存する最古の文献によると、1526年にはフランシスコ・デ・ロス・コボス・イ・モリーナの家庭にいたといいます。

コボスは芸術のパトロンとして有名で、カール5世統治下のカスティーリャ王国の国務長官兼評論家を務めていました。

ナルバエスはパトロンが1547年に亡くなるまでバジャドリッドで暮らしましたが、1539年から1540年にかけてはメディナ・シドニア公爵に仕えていました。

この時期に、作曲家は大規模な音楽コレクション『デルフィンの書物』 (バジャドリッド、1538年)

表紙

を出版しました。

1548年までにナルバエスは王室礼拝堂の音楽家として雇われ、聖歌隊員に音楽を教えていました。

彼の同僚には有名な鍵盤楽器作曲家のアントニオ・デ・カベソンがいました。

ナルバエスとカベソンはともにスペイン摂政フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)の音楽家として雇われ、摂政の多くの旅に同行しました。
ナルバエスに関する最後の言及は、そのような旅の1つに関するもので、1549年の冬、彼は低地諸国に滞在していました。

ナルバエスは生前、特にビウエラ演奏で非常に高く評価され、4つのパートを即座に別の4つのパートの上に即興で演奏できたと伝えられています。
彼の息子アンドレスも熟練したビウエラ奏者になりました。

ナルバエスのファンタジー14番







強打者マイティ ケーシー

2024-08-23 21:00:00 | 現代
野球にあまり興味はないけれど…阪神電車に乗って西宮ギター練習会に行ったら、向こうの線路に甲子園ラッピング電車が…。
うまく撮れなかったけれど、甲子園は特別な球場。
これを投稿する明日には優勝校が決まります。
優勝するのは たった一校。
去って行った高校生たちもきっと何か大きなものを得たはず。
勝っても負けても試合を楽しんで!

ウィリアム・ハワード・シューマン(1910– 1992年)アメリカ合衆国ニューヨーク市ブロンクス生まれ、

少年時代からヴァイオリンやバンジョーを弾き始めますが、当初は野球に情熱を注ぎました。

ハイスクール時代にダンス・バンドを結成し、自らはベース奏者として結婚式などで演奏しました。

1928年にニューヨーク大学商学部に入学すると同時に、広告業界で働き始めます。この頃は、親しい友人のE.B.マークス・ジュニアらの作詞家とともに、ポピュラー音楽の作曲を始めています。

1930年4月4日に実姉オードリーとともにカーネギー・ホールにおいて、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮によるニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会を聴いて深い感銘を受け、職業作曲家への転身を決意します。

大学を中退し、個人教師について作曲を学び始めます。

セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951年)

の知遇を得ます。彼は後にウィリアム・シューマンの庇護者となりました。

1935年から1945年まで、サラ・ローレンス大学で作曲を指導。

1943年に、ウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』に基づくカンタータ『自由の歌』(A Free Song )によって、ピューリッツァー音楽賞の最初の受賞者に選ばれます。
1946年にジュリアード音楽学校校長に就任してジュリアード弦楽四重奏団を創設します。
1961年にリンカーン・センターに音楽監督として転出します。

1953年シューマンは
オペラ「強打者マイティ ケーシー」を作曲しています。

「アメリカの心と精神を知りたい人は、野球を学んだほうがよいでしょう... 1951年秋に私たち全員が経験した情熱の素晴らしい浄化、土壇場でリーグ優勝を奪われたドジャースの運命に対するうめき声は、ギリシャ悲劇がどのようなものであったかを私たちにいくらか教えてくれます。野球は、国民的で、英雄的で、都市国家の対立の中で分裂している点でギリシャ的です...アメリカ人は野球を理解しています。それは明確なアメリカの思想の真実の領域です。」

オペラ「強打者マイティ ケーシー」あらすじ

野球のビッグマッチの日、センタービルは州選手権をかけてマッドビルと対戦します。9回裏、負けているマッドビルのために、名選手ケイシーが打席に立ちます。ケイシーは力強くスイングしますが、結局、ファンの希望をよそに三振してしまいます。





葦を削って作る

2024-08-22 23:28:00 | バロック
これな~んだ?
①シナモンスティック

②クレープロールチョコレート

③オーボエのリード


正解は?



③オーボエのリード…ベタ過ぎ!ごめんなさい💦

隣のオーボエ嬢のリードがシナモンスティックに見えて可愛かったので、つい。
クレープロールは後付け 。

オーボエのリードは、葦(ヨシ、アシとも言われます)


という植物を乾燥させた物でできています。

このリードを2枚向い合わせにすると、リードの中央に少しすき間ができます。ここに息を吹き込みリードを振動させることで音を鳴らします。

Yamahaホームぺージより

これをダブルリードと言います。
このダブルリードは水分量によって吹奏感や音色が変化します。
吹く時にリードを湿らせておく必要があり、曲中の休みなどではリードを水に浸け、コンディションを整えます。
(これが、タイトル写真の状態です。)

またリードは木でできているので、長持ちしません。
吹き続けていると消耗するので、オーボエ奏者は数本のリードをローテーションさせながら吹いています。

リードは、丸材を加工して1枚の板(かまぼこケーン)

にして、その後シェーパー


を使ってリードの形(舟形)

にし、金属管(金属管の一部にコルクが巻いてあり、チューブと呼ばれるもの)に糸で巻き付けます。
吹き口を削って完成です。


アレッサンドロ・イニャツィオ・マルチェッロ(1669- 1747)
イタリア ヴェネツィア生まれ、パドヴァ没

偽名「エテーリオ・スティンファーリコ 」を使って《12のカンタータ》作品1のほか、数冊のコンチェルト集を出版しました。

今日ではその作品はめったに演奏されなくなっていますが、生前のアレッサンドロは卓越した作曲家として、また楽器蒐集家としても著名でした。

代表作のひとつが《オーボエ協奏曲ニ短調》です。

このほかの作品として、2つのオーボエまたはフルートのための協奏曲集『ラ・チェトラ』(La Cetra、1738年、アントニオ・ヴィヴァルディの作品9『ラ・チェトラ』(1727年)がマルチェッロの真作とわかりました。
《リコーダー・アンサンブルと弦楽器、通奏低音のための協奏曲ト長調》などがあります。

《オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調》は、1700年代初頭の作品で、マルチェッロの最も有名な作品です。また最も有名なオーボエ協奏曲の一つです。

過去には、ベネデット・マルチェッロやアントニオ・ヴィヴァルディの作品と誤って伝えられてきました。

またヨハン・ゼバスティアン・バッハはこの作品をニ短調のチェンバロ独奏曲(BWV 974)に編曲しました。当時の人気がしのばれます。

マルチェッロの《オーボエと弦楽合奏のための協奏曲 ニ短調》