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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

初演指揮で有名な作曲家

2025-05-30 21:00:00 | 近代
木曜日午前中、子育てサポートしました。
1歳児さん、眠たいのにママと離されて泣いていましたが、抱っこしていると眠ってしまいました。

しばらくするとムックリ起きて、ご機嫌で遊び出しました。
ボタンを押すと音楽が流れる絵本がお気に入り。
試しに持っていった竹笛を吹くと急に止まってジーッと見たかと思うとにっこり。
笛に手を伸ばすので、渡すと頭からくわえていつまでも、遊んでいました。

デジレ=エミール・インゲルブレヒト(Désiré-Émile Inghelbrecht、1880 - 1965年)は、フランス パリ生没。

インゲルブレヒトはパリでヴィオラ奏者の息子として生まれました。

インゲルブレヒトはわずか7歳で音楽院に入学し、ソルフェージュ、和声学、ヴァイオリンを学びました。

16歳の時、地元のカフェでヴァイオリンを演奏しているのが見つかり、退学処分を受けました。

しかし、その後まもなく、コンセルト・ド・オペラ管弦楽団の第2ヴァイオリンに任命されました。
また、当時コンセルト・ベルリオーズの指揮者だった友人のピエール・モントゥーも、彼を代役として起用しました。

こうした経験を通して、彼は貴重な経験を積むことができました。

1908年、彼はフロラン・シュミットの『サロメの悲劇』の初演を指揮して成功を収め、クロード・ドビュッシーの『聖セバスチャンの殉教者』の初演の合唱指揮者を含む、一流音楽家との契約につながりました。

1913年、彼は4月2日に落成した新しいシャンゼリゼ劇場


の監督に任命されます。

1919年、インゲルブレヒトはアンドレ・カプレ編曲によるドビュッシー


の『歓喜の箱』の初演を指揮しました。

16世紀から18世紀の音楽を専門とするコンセール・プレイエルを設立しました。

1921年、彼は「フランス6人組」のメンバーのうちの5人によるバレエ『エッフェル塔の花嫁』の初演を指揮しました。

インゲルブレヒトは1924年から1925年までオペラ=コミック座


の音楽監督を務め、マスネの『マノン』 、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の新演出、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』 、フォーレの『仮面劇とベルガマスク』と『ペネロペ』を指揮しました。

また、自作の『色遊び』の初演を含むいくつかのバレエ作品も指揮しました。

1928年から1932年までパドルー音楽院の指揮者を務め、1929年には短期間アルジェ・オペラ座の指揮者を務めました。

1934年、インゲルブレヒトは国立放送オーケストラ(後のフランス国立放送管弦楽団(ONF))の結成を依頼されました。

翌年、彼は長年の夢であったムソルグスキー作曲


『ボリス・ゴドゥノフ』 1874年版のパリ初演を指揮しました。

第二次世界大戦中、ONFはレンヌ、次いでマルセイユに疎開し、1943年にパリに戻りました。

しかし、オーケストラの1000回目の公演(ドビュッシーの死後25周年を記念するものでもあった)を計画していたとき、インゲルブレヒトは占領軍の音楽に捧げられたプログラムを指揮することを拒否し、1943年7月18日にラヴァル大統領の命令で任命を停止するという通知を受け取りました。

インゲルブレヒトは1945年から1950年までパリ・オペラ座の指揮者を務め、1947年にONFに復帰しました。

1958年から1965年に亡くなるまで、「ピアノによるエンターテイメント」というラジオ番組を毎週制作しました。

彼は指揮と作曲の両方において、ドビュッシー、ラヴェル、ルーセル、シャブリエ、フロラン・シュミットを擁護しました。

彼は親友であったドビュッシーと1911年からドビュッシーが亡くなる1918年まで文通を続けました。
彼はラヴェル、シュミットらとともに レ・サパッチのメンバーでもありました。

彼は3回結婚しており、コレット・スタンラン(1910年、1920年に離婚)、カリーナ・アリ(1928年)、そしてジェルメーヌ・ペランとの結婚です。

1953年にはジェルメーヌ・ペランと共著でドビュッシーの伝記を執筆しました。

指揮者として知られていますが、作曲もしています。子守唄を載せたかったのですが、いい動画ありませんでした。残念。

インゲルブレヒト作曲のフルートとハープの小品
「2つの古風なスケッチ」

Deux Esquisses Antiques
by Désiré-Émile Inghelbrecht

1.ドライアド(ギリシャ神話の木の精霊)Dryades

2スカフェ(地中から伸びる茎) Scaphé



音楽に集中するな!サティ

2025-05-29 20:55:00 | 近代
ケルンのインターツムに行ってた夫が帰ってきました。

国際見本市会場ケルン

1959年から2年に一度行われている世界最大の家具産業、木材加工見本市に事務椅子に使う空気圧昇降器とキャスターを出品してきました。
5月20日〜23日。
もう何年も続けて出品しています。
ケルン行きたいなぁ〜!
写真はLINEで送って来たケルンの大聖堂。



赤い服はお坊さん…司教さんかな?

お土産を買って来ました。
ドイツの小さなケーキ皿を3枚と言ったら、無地…。かわいいからいいけど…。
もう3枚は大皿…食器棚に入らないからやめてと言ってたのに、しかも2回目!
どれも安かったらしく、赤札が付いていました。
「長男にあげるから。」と
言い訳。

今回の目玉はこれ。

アルミチューブのマヨネーズ。
甘いマヨネーズでした。
それからこっちはインターツムの他企業のノベルティ。

栓抜き…要る?

エコバッグとポーチ?
ドイツのもの、妙に丈夫です。
黄色もポーチです。
大きなカバンもカタログなんかを入れてドサッてくれるそうです。

エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(仏: Éric Alfred Leslie Satie、1866年5月17日 - 1925年7月1日)フランス帝国オンフルール生まれ、フランス共和国パリ没

『家具の音楽』( musique d'ameublement)は、1920年に作曲した室内楽曲です。

家具のように、そこにあっても日常生活を妨げない音楽、意識的に聴かれることのない音楽、といったものを目指して書かれた曲です。

またこの曲に限らず、サティが提唱した「生活の中に溶け込む音楽」という思想そのものを「家具の音楽」と呼ぶこともあります。

またそのコンセプトからアンビエント音楽や背景音楽の祖とされる曲です。

晩年になるとサティは「家具の音楽」ということをさかんに言い出すようになります。

「家具の音楽」という考えが最初に作品となってあらわれたのは、1918年作曲の交響的ドラマ『ソクラテス』においてのことです。

最終的には『ソクラテス』は「家具の音楽」という名称が削除された作品として結実しましたが、サティのスケッチブックにははっきりと各楽章に「家具の音楽」と書かれており、この作品が最初の「家具の音楽」だと言えます。

それから2年後の1920年に別の形をとって『家具の音楽』が実現することになりました。

ある時、サティとミヨー、
1925年
オーリック、プーランクらの友人がレストランで昼食をとっていました。
その時にサティは「家具の音楽」というアイディアを話して聞かせました。
それは、食事の最中にあまりに騒々しい音楽を聴かされる羽目になり、我慢が出来ずにレストランを飛び出した時のことです。

その時サティが語ったことは、
「あらかじめ周囲の騒音を考慮に入れて作曲された音楽、音楽を聞く人の感情を妨げない音楽、決して意識されることはなく人に快適さを与える音楽」
という考えでした。

オーリックとプーランクは「家具の音楽」という考えに共感できず失望しましたが、ミヨーだけは違って「家具の音楽」のアイディアに興味を持ちました。

そこで、サティはこの「家具の音楽」を、ミヨーらの協力を得てフォブール・サントノレ街にあるバルバザンジュ画廊でのコンサートで実験的に演奏することにしました。

初めて「家具の音楽」が実践されたのは、俳優のピエール・ベルタン主催による演劇上演 (1920年3月8日) でのことです。

この上演では、マックス・ジャコブの戯曲『ナント劇場の一人の端役』が演じられたほかに、フランス6人組のピアノ作品やストラヴィンスキーの『猫の子守唄』が演奏されました。その休憩時間に演奏されるように、サティとミヨーは共同して音楽を作っておきました。

「家具の音楽」は
使われた楽器は演奏で使われたものをそのまま流用し、クラリネット3本とバス・トロンボーン1本、ピアノ (連弾) 1台で再編成しました。

曲の1部にはアンブロワーズ・トマの『ミニオン』やサン・サーンスの『死の舞踏』の音楽も引用されていました。

当日のプログラムには、幕間に『家具の音楽』が演奏されること、『家具の音楽』を聴こうとせず、音楽に注意を払うな、との解説が載せられていましたたが、これはかえって実験を失敗させる原因になりました。

休憩に入って、劇場のさまざまな場所にスタンバイしていた演奏者により演奏が始まると、聴衆は自分の席に戻って静かに聴き入ろうとしました。

繰り返しが13回目に入ったところでサティは我慢の限界に達し、聴衆に向かって、音楽を聞かずにおしゃべりを続けるよう怒鳴り散らし猛烈な勢いでロビーを駆け回ったが全く効果はなく、結局、この時の実験は大失敗に終わってしまいました。

「意識的に聴かれない音楽」というサティのねらいは失敗したことになったが、のちにこの思想がBGMなどを生むことになりました。

「家具の音楽」
1.県知事の私室の壁紙
(Tenture de cabinet prefectoral)
2.錬鉄の綴れ織り
(Tapisserie en fer forgé)
3.音のタイル張り舗道
(Carrelage phonique)

『家具の音楽』の題名で紹介されている3曲のうち1曲目の「県知事室の私室の壁紙」は、ワシントンのユージン・メイアー夫人

1912年メイヤー夫人
からの作曲依頼のために1923年になって新たに書かれたものです。また、残りの2曲も実際に実験に供された音楽とは別物です。

家具の音楽「錬鉄の綴れ織」
この動画も演奏中、うろうろしたり、いろんなものを運んだりして音楽に集中させないようにしています。





デンマーク国歌になったオペラ

2025-05-28 21:00:00 | ロマン派
火曜日午後から、フルート角谷雅一さんとピアノのKさんとクーラウのトリオop119をKさん宅で合わせ練習しました。

時間をとるのは2回目。
6月15日に全楽章演奏の会で演奏します。

全部すると20分ほど、長いですが楽しい曲で、体感ではあっという間に終わります。
今回はロマン派なのでキラキラな音で吹きたいのでパウエルゴールドシルバーキーで吹きます。
二人とも巧者なので合わせるのも楽しいです。

フリードリヒ・ダニエル・ルドルフ・クーラウ( Friedrich Daniel Rudolf Kuhlau、1786 - 1832年)
ドイツ ニーダーザクセン州ユルツェン郡、リューネブルク生まれ、デンマーク王国コペンハーゲン没


7歳の時、氷の上で滑って転倒し、右目を失いました。

父、祖父、叔父は軍のオーボエ奏者でした。クーラウは貧しい家庭に生まれましたが、両親はなんとかピアノのレッスン代を払っていました。

1802年にハンブルクに移り、そこで学者CFGシュヴェンケに師事しピアノを学び始めました。

後期古典派から前期ロマン派にかけてのデンマークのピアニスト兼作曲家です。

デンマーク黄金時代の中心人物で、デンマーク国民ロマン主義の真に最初の作品で、絶対王政への秘められた賛辞でもあった『エルフの丘』の音楽によって、デンマーク文化史に不滅の名を残しています。

1804年、クーラウはデビューを果たし、コンサートピアニストとして活動を開始しました。

この頃から、生計を立てるために歌曲や室内楽の作曲を始めました。

クーラウ自身はフルートを演奏しませんでしたが、生涯を通して多くの作品を作曲しました。

1810年、北ドイツの多くの小公国や公爵領を圧倒していたナポレオン軍への徴兵を逃れるため、コペンハーゲンへ亡命しました。

ナポレオン軍の戦い左から右、上から下:アウステルリッツ、ベルリン、フリートラント、アスペルン=エスリンク、モスクワ、ライプツィヒ、パリの戦い

同年、クーラウはピアノとフルートのための最初の作品を出版しました。クーラウは1811年、コペンハーゲンでピアノ教師兼作曲家として生計を立てました。
1812年にはデンマーク宮廷の無給音楽家に任命されました。

1813年にはデンマーク国籍を取得しました。

ジングシュピール『盗賊の城』の成功を受け、1816年には王立劇場で高給取りの声楽教師となりました。

1817年から1820年にかけてのクーラウの作品はあまり注目を集めませんでした。
オペラ『魔竪琴』は台本の賛否両論により失敗に終わりました。

1821年と1825年にクーラウはウィーンを訪れ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと親交を深めました。

1820年ベートーヴェン
ベートーヴェンの影響は、クーラウの後期の作品、例えばジングシュピール(ドイツ語圏の音楽劇現代のオペラ)『エルフの丘』に顕著に表れています。 

この作品はデンマーク王室への賛辞として広​​く知られており、デンマーク黄金時代(19世紀前半)を代表する作品です。
1828年、クーラウは名誉教授の称号を授与されました。

『エルフの丘』( Elverhøj)は、ヨハン・ルートヴィヒ・ハイベルグ(1791 - 1860年)デンマークの詩人

による喜劇で、序曲と付随音楽はフリードリヒ・クーラウ(作品100)が担当し、デンマーク初の国民劇とされています。 

『エルフの丘』は、
フレゼリク6世(1768 - 1839年)

が娘のヴィルヘルミーネ・マリー(1808-1891年)

とフレゼリク・カール・クリスチャン(後のフレゼリク7世)(1808- 1863年)

の結婚式のために委嘱し、結婚式の5日後の1828年11月6日に初演されました。


初演以来、この劇はデンマーク王立劇場


で1,000回以上上演されています。

この作品は、エルフの王に関する民間伝承を題材とした2つの伝統的なバラード曲の歌詞と旋律を組み合わせたものです。

ハイベルクは、エルフの王の伝説をステヴンス(デンマーク南部シェラン島南東岸のシェラン地方)に当てはめました。

これに、入れ替わった子供たちというモチーフが加えられました。クリスチャン4世(1577年4月12日 - 1648年2月28日)



は、謎を解き明かす探偵のような役割を担っています。

使用された 2 つのバラードは、「Jeg lagde mit hoved til Elverhøj (私はエルフの丘に頭を横たえた)」で始まるElvehøj ( DgF 46B) と、
「Herr Oluf han riding saa vide」(Oluf 卿は遠くまで乗りました) で始まる Elveskud (DgF 47B) でした。

これらのバラードはUdvalgteに登場していました。 Danske Viser fra Middelalderen ( 1812)。

この作品には、デンマーク国歌となった「 Kong Christian stod ved højen mast(邦題:クリスチャンの背骨は高く聳え立つ)」が含まれています。
この曲は、ヨハネス・エーヴァルトが全く別の劇のために書いた歌詞に、既に歌われていた旋律をクーラウが編曲したものです。

しかし、「エルフの丘」は、この国歌のロマンチックな人気に大きく貢献したと考えられています。
「エルフの丘」序曲


ドボルザークのセレナーデ

2025-05-27 21:04:00 | 国民楽派
月曜日夜は、渡辺橋近くのサロン ド プリンシパルフルートアンサンブル「エスカル」の練習日でした。
曲はドボルザークの「セレナード」第1楽章と「煙が目に染みる」

今日はなんと1stのTさんがバスフルートを買って来ました。
なんでもバスフェスタがあってそれに参加したいのでお試し。「フィンガルの洞窟」をバスフルートのMさんと交替しようと計画してきました。

他にもJさんがアルトフルート。1年待ちで頼んでいたのが来たそう。

YAMAHAのブラス。
美しい!吹かせてもらいましたが、鳴りやすく、レスポンスも良い。U字管が欲しかったそうです。
やはりキーが近い分、吹きやすい!

こうなるとやっぱりバスフルート欲しかったなぁ〜!なんて。

榎田先生
「それに1年もかかるわけないよ!ランパルが来た時に演奏会1日前にフルートが壊れて、徹夜で作ったら1日でできたんだよ。」
「…ランパルと一緒にされても…。」とJさん。
「ランパルと一緒でなくても1週間もあればできるはずなんだ!焦らして、高く売ろうってことなんだよ!」
あくまで榎田先生の経験と見解です。

「1stとか少なくするのはね。なんでだと思います?」
「フルートは高音は良く出て聞こえやすい。そして音程が合わせにくい。でも低音はあまり聞こえにくい。なのでうちのアンサンブルでは、高音パートは少なく低音が厚くするんだ。」

「弦楽器は違うんですよ。高音より低音が聞こえやすい。だからヴァイオリンパートは人数多いとこが多いんだよ。」
「朝比奈先生がそう言ってたんだ。他のフルートアンサンブルには言わないでよ。」ここに書いたらバレるか…。
「と言っても先生!こんなにバスフルート持ってる楽団無いですよ。」とNさん。
そのとおり、しようと思ってもできないかな…。
というわけで、バスフルート大活躍の「煙が目に染みる」
まだ、元気良すぎる大人のジャズはけだるく吹くのがいいそう。
1つは付点の音符を鋭く吹きすぎないで三連符の後の音のようにゆっくりとること。

バスフルートのメロディー、ビブラートを大き目に一拍三回くらいで吹くこと。
クラシカルに細かくならないように。

セレナーデは音程!
このシンコペーションは起伏は大きくなく正確に!

来月発表会で演奏するので、力入っていますが、榎田先生は直前練習で、パリへ。
後はメンバーだけの自主練習!
頑張ります。



アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク(チェコ語: Antonín Leopold Dvořák 1841- 1904年)
オーストリア帝国ボヘミア王国 ネラホゼヴェス生まれ、 オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア王国プラハ没



弦楽セレナーデ ホ長調 作品22 B.52 は、アントニン・ドヴォルザークが作曲した弦楽合奏のためのセレナーデ

1865年から仕事の合間に金属細工商チェルマーク家の2人の娘の音楽教師となった。女優でもあった姉ヨゼフィーナに恋心を抱くも失恋します。

1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにしました。

こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』でした。

民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得ます。
この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァー

と再会し、この年の秋に結婚しました。

作曲に着手する2か月前には、ブラームスや音楽評論家ハンスリックらが審査員を務めるオーストリア政府奨学金の審査に合格、当時の自身の年収の倍を超える額の奨学金(金額(400グルデン)は当時の彼の年収(126グルデン)の2倍以上にあたる高額なものでした。)を5年間にわたって受給することが決まりました。

当面の生活の安定が約束された状況下で作曲に打ち込むことが出来るという幸福感からこの作品を書き上げています。

この作品を書き上げた翌月(1875年6月)には、スラヴ的な親しみやすい旋律が満載の『交響曲第5番ヘ長調』の作曲に着手して、1か月余りの期間を費やして完成しました。

2年後の1877年には『スターバトマーテル』を完成、さらにその翌年の1878年には『スラヴ舞曲集』作品46を作曲して大ヒットとなるなど、奨学金受給を契機に本作が書き上げられてからの数年間に作曲した楽曲によって国際的名声を得るに至っています。

初演は作曲の翌年、1876年にプラハ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏により行われました。

チャイコフスキーやエルガーがそれぞれ作曲した弦楽セレナードと合わせて「三大弦楽セレナード」の一つとして数えられることもあります。
ドヴォルザークが33歳だった1875年5月に11日間という短い期間で一気に書き上げられました。

1.Moderato
2.Tempo di valse
3.Scherzo: Vivace
4.Larghetto
5.Finale: Allegro vivace



他人の楽しみを楽しみましょう。チャイコフスキー

2025-05-26 21:01:00 | ロマン派
土曜日の夜。
懸案の子育てサロンの交流会のための製作試作。
革細工をしようかな?と思っています。

簡単で安く1人300円くらいで収めたい。
型紙を切って今回は一部ボンドを使って使えるか試してみます。


穴を開ける道具はサイズ違い2本セットで100円で売ってました。

ダイソーのねじ式カシメを使ってみます。

手でつけられるスナップボタンをつけて出来上がり。
ボンドは使えるけれど、くっつくのに時間がかかる。速いのですが、講習会の時間内にできるかな?

それからハトメ。

工具はいるけれど1つなら共用してもらえば使えるかも。

キーホルダー化完了。
日曜日も雨。
梅雨入りは沖縄だけだそうですが、梅雨を思わせるお天気です。
雨をぶっ飛ばすスカッとする曲と言えば、チャイコフスキーの交響曲第4番第4楽章。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky、1840-1893年)
ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没
1877年チャイコフスキー、アントニーナ・ミリューコヴァと結婚
交響曲第4番ヘ短調 作品36は、チャイコフスキーが1877年から翌1878年にかけて作曲した交響曲です。

1877年にヴェネツィアを訪れたチャイコフスキーは、当地の風光明媚なスキャヴォーニ河岸にあるホテル・ロンドラ・パレス(当時はホテル・ボー・リヴァージュ)にてこの曲を書き上げました。

ホテルの壁面には「ロシアの偉大な作曲家、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが、1877年12月2日から16日まで滞在し、ここで4番目の交響曲を作曲した」と彫られた碑文が掲げられています。

1877年5月ごろ、チャイコフスキーはアントニーナ・イヴァーノヴナ・ミリューコヴァ(Antonina Milyukova, 1849-1917)から告白の手紙を受け取った。何度か手紙が送られ、会ってくれなければ自殺すると脅されたチャイコフスキーは、彼女に愛することはできないと告げます。

しかし、熱烈な求婚を受けたチャイコフスキーは、肉体関係を持たないことを条件にアントニーナと結婚しました。

が、この結婚はうまくいかずにすぐに破綻しました。
結婚生活はわずか80日で終わり、いっしょに暮らしたのは33日だけでした。

交響曲第4番は、作曲された時期のチャイコフスキーの私生活からの影響を明白に示していると考えられています。

アントニーナとの結婚騒動と同時期に、メック夫人がパトロンになったことにより、経済的な余裕が生まれました。

これによってチャイコフスキーは作曲に専念できるようになり、大作を創作する環境が整いました。

この曲は感謝の意を表して、メック夫人に捧げられました。

ナジェジダ・フィラレートヴナ・フォン・メック(1831- 1894年夫の鉄道王カール・フォン・メックが亡くなり莫大な遺産を手にしました。14年、年間6000ルーブル(1,320万円~1,620万円)チャイコフスキーに寄付していました。

なお、メック夫人からの匿名希望を受けて、献辞は「最良の男友達に」とされました。

なお、1878年3月1日づけの手紙の中で、チャイコフスキーはメック夫人にあてて、この交響曲に関する説明を試みています。

「…第4楽章
自分自身の中に喜びの理由が見つからないなら、他の人を見てください。
人々のところへ行ってください。
彼がいかに楽しみ方を知っているか、
喜びの感情に完全に身を委ねているかを見てください。祭りの民衆の陽気さを描いた絵。

あなたはやっと自分自身を忘れて、他人の喜びの光景に夢中になっていたとき、落ち着きのない運命が再び現れ、あなたにそれを思い出させます。

しかし、他の人はあなたのことを気にかけていません。彼らは振り向いてあなたを見ることも、あなたが孤独で悲しいことに気づくこともしませんでした。

ああ、彼らは本当に楽しんでいる!

彼らの感情がすべて自発的でシンプルであることが、どれほど幸せなことか。

自分を責めて、世の中のすべてが悲しいなどと言わないでください。シンプルですが強力な喜びがあります。
他の人の楽​​しみを楽しみましょう。まだ生きることは可能です。…」

初演は1878年2月10日サンクトペテルブルクで、ニコライ・ルビンシテインの指揮により行われました。

初演時にチャイコフスキーはフィレンツェに滞在していて、電報で初演の報告を受けました。

1881年にユルゲンソン社から楽譜が出版されています。

第4楽章
Finale: Allegro con fuoco
ヘ長調、自由なロンド形式。 

全体の構造はA-B-A-C-B-A-C-B-主想旋律(ファンファーレ)-Coda

この楽章の第2副主題(C)はロシア民謡『白樺は野に立てりVo pole bereza stoqla』によります。

チャイコフスキー交響曲第4番第4楽章 指揮ムラヴィンスキー





ハイドンの曲ではなかった!?

2025-05-25 21:00:00 | 古典
土曜日朝は伊藤公一先生のマスタークラスでした。
ひたすらスケールを見て頂いています。ちゃんと吹けているつもりでも、吹けていない。0.1ミリの誤差でも大きな建物を建てて行くと崩れるように、曲にならない。
果てしない気がしますが、お手本を吹いてくださるので希望があります。

ドルチェ楽器の3階でルイロットとボンビルを2本吹かせてもらいました。
ルイロットは溶銀。10000番代
とにかく軽い。レスポンスもよく音が飛んで行くようですが、少しパワーに欠けるように思いました。
ボンビルは溶銀と溶銀に銀メッキでした。



ボンビルはルイロットよりもパワーがあります。音色が軽い。
銀メッキは溶銀のみに比べて音色に厚みがあります。そして3本の中では1番重い、と言っても総銀よりは軽いですが…。

どの楽器も溶銀ということで軽くて、今回は60.〜70万円台でした。
初代ルイロットだと300万円台。
なかなか掘り出し物ってありませんね。



アントニオ・ロセッティ(ロゼッティ、Antonio Rosetti, 1750年 - 1792年6月30日)
ボヘミア王国リトムニェジツェ生まれ、ルードヴィヒスルスト没

は、18世紀ボヘミアの作曲家、コントラバス奏者。長らく、チェコ語名をフランチシェク・アントニーン・レスレル(Frantisek Antonin Rössler)
1773年にイタリア風の「アントニオ・ロセッティ」に名乗りを改めました。(確証は無い)
ドイツ語名のフランツ・アントン・レスラー(Franz Anton Rösler)でも知られています。

イエズス会の神学校で早期の音楽教育を受けたとみなされています。
その後のロセッティの足取りは、はっきりとはわかっていません。
1770年代初めにロシアのオルロフ伯爵連隊(1768年以来ロシア海軍の提督であったアレクセイ・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵)


の音楽家として仕えていました。

1773年、南ドイツ、シュヴァーベン地方の領主であるエッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯爵の宮廷楽団にコントラバス奏者として加わり、後に作曲活動も行いました。

ヴァラーシュタイン城

1777年にロジーナ・ネーアと結婚し、3児をもうけます。
1781年に休暇を与えられて、5ヵ月をパリで過ごします。

コンセール・スピリチュエル(18世紀フランスの演奏会・音楽集団の名称。「宗教音楽演奏会」の意味で、系統的に発達しえた最初の定期演奏会)をはじめ、優れた楽団の多くがロセッティの作品を演奏しました。

1782年に6つの交響曲が出版されました。

ヴァラーシュタインに戻った後、ドイツ語圏はもとより、フランスなどでも卓越した作曲家として認められるようになりました。

1785年、同郷でヴァラーシュタイン宮廷楽団の楽長のアントニーン・レイハがケルン選帝侯の宮廷楽長に招かれヴァラーシュタインからボンへ去ると、その後任となり宮廷楽団の活動に大きく貢献しました。

1789年にメクレンブルク=シュヴェリーン公の宮廷楽長に就任、シュヴェリーン近郊のルードヴィヒスルストに移住します。


メクレンブルク=シュヴェリーン公フリードリヒ・フランツ1世の肖像画、ルドルフ・ズールラント作

ロセッティは多作家であり、40数曲の交響曲や協奏曲、声楽曲を残しました。
モーツァルト研究者のH.C.ロビンス・ランドンは、これらの作品がモーツァルトのホルン協奏曲のモデルになったのではないかと示唆しています。 

独奏ホルンのための協奏曲のほか、2本のホルンのための協奏曲を数曲残しており、この分野での重要なレパートリーとなっています。

長らくヨーゼフ・ハイドン


の作品とされてきた、2本のホルンのための協奏曲変ホ長調は、スターリング・E・マリーによりロセッティの作品である可能性が高いことが証明されました。
この曲には、RWV(ロセッティ作品目録)C56Q が与えられています。

ロセッティのレクイエムは、モーツァルトが亡くなった9日後の1791年12月14日にプラハの聖ミクラーシュ教会でのモーツァルトの追悼式で演奏されました。なお、その際には作曲者自身は訪れていません。

このレクイエムは1776年、18歳で亡くなったヴァラーシュタイン侯爵夫人マリー・テレーゼのために作曲されたものです。

近年ロセッティの価値が再発見が進み、ヴァレンシュタイン城ではロセッティ音楽祭が開かれたりしています。

ヴァレンシュタイン家のホームページ、ロセッティコンサート、ツアーの予約ができます、
https://fuerstwallerstein.de/
本物はいつか姿を現す?!であって欲しい…。
 




よく知られたテレマンの二重奏

2025-05-24 21:00:00 | バロック
金曜日は第24回聴き合い会でした。
お互いの演奏を聴き合い励まし合いましょう。ということで月1回やっています。

今回はビウエラ、ヴァイオリン、ギター、フルートの参加でした。

神戸、木津、堺と遠くからも来てくださってありがたいです。

テレマンのフルート二重奏を、演奏しました。テレマンののフルート二重奏は最近この会に不可欠です。

他にはギターソロ、ビウエラソロ、フルート二重奏、ヴァイオリンとフルート、ヴァイオリンとギターなどなどいろいろな組み合わせで楽しみました。

テレマン、ゲオルク・フィリップTelemann, Georg Philipp(1681- 1767年)
神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領マグデブルク生まれ、神聖ローマ帝国自由ハンザ都市ハンブルク没

ヴァレンティン・ダニエル・プライスラーによるテレマンの手彩色アクアチント(1750年)。ルイ・ミヒャエル・シュナイダーの失われた絵画に基づいています。

1727 年にハンブルク で初めて出版された、ゲオルグ・フィリップ・テレマンの『2 つのトラヴェルソ、ヴァイオリン、またはリコーダーのための低音なしソナタ』 ( TWV 40:101–106)の原版のタイトルは、「2本のフルートトラベルソ、2本ヴァイオロン、2本のリコーダーのための低音なしソナタ」と書かれています。


テレマンの1727年の出版物の表紙(TWV 40:101-106)
このコレクションはアムステルダム (ル・セーヌ、1729 年)、パリ (ル・クレール、1736 ~ 1737 年)、ロンドン (ウォルシュ、1746 年) で再版されました。

6つのソナタはそれぞれ4つの楽章から構成され、それぞれ調性に分類されています。

1.ト長調
2.ニ長調
3.イ長調
4.ホ短調
5.ロ短調
6.ホ長調

この曲集では2本のフルートは平等を保つために、頻繁に声部と伴奏が交換されます。

また、様々な楽器で非常に効果的に演奏されるこれらの作品は、間違いなく18世紀の テレマン器楽二重奏曲の中で最も広く演奏されており、作曲家の生前最もよく知られた音楽の一つとなっています。

テレマンフルート二重奏TWV40;101 NO1.Gdur
Soave, Allegro, Andante, Allegro.


ビゼーとコマ遊び

2025-05-23 20:42:00 | ロマン派
21日に弘法市で買った鳴り独楽。
インドネシアのジョグジャカルタから買ってきて売っているそうです。
子どもを預かった時に一緒に遊ぼうと思っています。

回すとぼーっと音がします。
「これは回すの難しいから、動画撮っていき。」と回しているところの動画も撮らせてくれました。
子どもは難しいの好きなんですよ。いつまでもトライしてたりして、竹笛も一緒。
いつまでも吹いています。

日本にも同じような独楽があります。

平安中期の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、そこには、当時の名前と形について、こう記されています。

―独楽(こま)の和名は≪古末都玖利(こまつくり)≫いい、孔が開いたものである。ー

残念ながら『和名類聚抄』にいう≪古末都久利≫は、その実物も絵図も遺されていませんが、上下を板でふさいだ竹筒に穴を開け、長い心棒を刺しただけの素朴な造形ではなかったかと考えられています。

江戸時代後期、京阪地方の祭礼で売られた竹独楽、また江戸の庶民には「唐独楽」とか「ごんごん独楽」とか呼ばれてで親しまれました。

「唐」と冠されるところには、江戸庶民がこの竹鳴り独楽は大陸から伝わったと認識していたことを表しています。

こま遊び
明治初年の錦絵。こまを回して互いにぶつけ合い、先に回転が止まったほうを負けとする当独楽に興じる子供たちを描いている。こまは平安時代の貴族の手からしだいに民間の子供の遊び道具に移行し、江戸時代に庶民の間に広まった。『子供遊勇当独楽』国立国会図書館所蔵Image 1 of 5


松井源水の曲独楽
刀の刃先の上でこまを回す源水。『職人尽絵詞』 第2軸(部分) 原図は、鍬形蕙斎(北尾政美)画、杏花園(蜀山人)詞書国立国会図書館所蔵
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松井源水と家族 曲独楽師


貝独楽
貝独楽は、巻き貝の殻の中に溶かした鉛や砂を入れてつくったもの。茣蓙の上で貝独楽を打ち合わせて勝負する「ばいまわし」も大流行しました。『絵本御伽品鏡』 長谷川光信画 1739年(元文4)刊国立国会図書館所蔵
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独楽①〈慕帰絵〉
[初出の実例]「長講堂の大庭に、独楽(コマ)廻して遊びける童の内に」(出典:太平記(14C後)三九)

ヨーロッパ大陸では
独楽、唐独楽は古い歴史を持ちます。ひねりゴマが最も簡単なこまで、これが初めであると考えられています。

エジプトでは紀元前1500年ごろの独楽が発見されていますが、これは木製で円柱の下を逆円錐に削ったもので、ぶちゴマと考えられています。

古代ギリシャにもぶちゴマやひねりゴマに関する記述が見られます。

ぶちゴマは、胴を横から鞭で叩いて回す独楽です。
回し始めの時には先ず紐を巻いてそれを引くことで回すものがあり。これが紐で回す投げゴマの起源と思われます。

ヨーロッパでは17世紀頃から投げゴマに関する記述や絵が見られるようになります。そこで見られる独楽は投げゴマとぶちゴマが半々程度です。

『L’enfant au toton』Jean-Baptiste-Siméon Chardin (1735年)

ジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国ブージヴァル没
『子供の遊び』(こどものあそび、Jeux d'enfants)は、ジョルジュ・ビゼーが作曲したピアノ連弾のための曲集、および管弦楽組曲です。
管弦楽版の題名は小組曲『子供の遊び』です

1871年にピアノ連弾のための曲集として作曲されました。
翌1872年、ビゼーは全12曲のうちから5曲を選んで管弦楽のために編曲し、「小組曲」としました。
「小組曲」は1873年の3月2日にパリのオデオン座でエドゥアール・コロンヌの指揮によって初演された。

当初は全10曲の予定でしたが、後に第7曲「シャボン玉(ロンディーノ)」、第8曲「隅取り鬼ごっこ(スケッチ)」が追加された形で、現在の全12曲からなる曲集として出版されました。

ビゼーは、「隅取り鬼ごっこ」を一時は終曲にと考えたことがあり、また、この曲を管弦楽版の終曲にと管弦楽編曲も行ったことがありますが、最終的には同曲を現在の第8番にし、管弦楽版「小組曲」に入れることも見送りました。

編曲に際して曲順も入れ替わって、順に元の第6曲、第3曲、第2曲、第11曲、第12曲となっています。

1.ラッパと太鼓(行進曲) Trompette et Tambour (Marche)
2.お人形(子守歌) La Poupee (Berceuse)
3.こま(即興曲) La Toupie (Impromptu)
4.小さな旦那様、小さな奥様(二重奏) Petit mari, petite femme! (Duo)
5.舞踏会(ギャロップ) Le Bal (Galop)

管弦楽版こま(即興曲) La Toupie (Impromptu)




ドビュッシーの寺院の庭で

2025-05-22 21:00:00 | 近代
水曜日は近所のお友達Mさん、Gさんと東寺の弘法市に行きました。
久しぶり!
8:50牧野発
少し曇っているのがいい感じ。
「2時頃から雨が降るんだって」
「それまでに帰ってこようね。」
天気予報はそうでした。

しかし、行ってみると雨より暑さが大問題!
5月の京都の温度ではありませんでした。

懐かしい昭和のビニールカバンと分銅と天秤図り。

ゴジラ

龍吐水!
兜!この後外国の方が買われて、かぶってお買い物されていました。

手作り革靴屋さん。ちょっと欲しかった…高いけど。

おいしそうですが食べられません。

蝋細工の食品サンプル。
外国からのお客様が多いせいか、前によくあった洋食器は減っていました。

朝から回って疲れたので13:00頃には終わって、お昼ごはん。

唐揚げ定食に

アジフライ定食。
量にびっくり!これで1280円。
久しぶりにGさんMさんと話せて嬉しかったです。


今日の収穫。
帽子2つ、木の笛B♭、音の鳴るナイジェリアのコマ、大きな梅干し、曲げわっぱ、晴雨兼用傘330円✕2、絵本。ピーズ、革紐。

暑かったので帽子2つも買ってしまいました。安かったし。
傘は3本1000円。Gさんと分けて、1本母にお土産。
超軽量、UVカットお買得でした。

アシル・クロード・ドビュッシー(1862- 1918年)
フランス王国パリ生まれ、フランスパリ没


「沈んだ寺院」(La cathédrale engloutie )は、1910年に出版したピアノ独奏曲です。

ドビュッシーの最初の前奏曲集の10番目の曲です。

この前奏曲は、イメージやアイデアを音楽的に描写、暗示する、ドビュッシーの音楽的印象主義の一曲です。 

2巻構成の前奏曲集の場合、曲のタイトルは曲の最後に置かれています。

この作品は、古代ブルターニュの神話(ブルターニュ沿岸にあった伝説の都市イースを統治するグラドロン王の娘ダフが愛人にそそのかされ、海の門を閉じる鍵を父から盗み悪用したため、イースは海に飲み込まれ、王以外の街の人々は亡くなり、一緒に逃げようとしたダフは王から海に落とされ人魚になったとされています。)

グラドロン王の飛行、EV Luminais作、1884 年(カンペール美術館)

に基づいたイース島沖の海底に沈んでいた大聖堂が、晴れた朝、水が透き通ると海から姿を現すというものです。

海の向こうからは、司祭の詠唱、鐘の音、オルガンの演奏の音が聞こえてきます。

ドビュッシーは、音楽象徴主義の様式を用いて、特定の和声を用いてこの伝説の筋書きを暗示しています。

ドビュッシーは、曲の冒頭で平行五度を使っています。
曲の最初の和音は、響き渡るGとD(開放五度)から成っています。

この和音は海の向こうの遠くから聞こえる教会の鐘のアイデアを暗示しています。

この音楽のの特徴は
1) ドビュッシーが1889年のパリ万国博覧会でジャワのガムラン音楽の演奏中に聞いた東洋ペンタトニックスケール。スレンドロ音階

ガムラン

2) 9世紀の音楽論文であるMusica enchiriadis( ポリフォニー、 2つ以上の同時進行する独立したメロディーラインで構成される音楽テクスチャの最古の記述)中世の聖歌音楽の影響。

上昇するフレーズの形状は、おそらく大聖堂が水面からゆっくりと出現する様子を表していると考えられています。

冒頭部分の後、ドビュッシーはロ長調に転調して大聖堂をそっと水面上に浮かび上がらせ、メロディーを波のように形作り、
: Peu à peu sortant de la brume (霧から少しずつ現れて)。これはドビュッシーの音楽印象主義が最も顕著に表れています。

その後、 Augmentez progressment (徐々に増大して)と記された部分の後、大聖堂が現れ、壮大なオルガンがフォルティッシモの強弱レベルで聞こえます。

楽譜ではSonore sans dureté (響き渡るが、耳障りではない) と書かれています。

オルガンの壮大な登場と退場に続いて、大聖堂は再び海へと沈み 、オルガンの音が再び聞こえますが、今度は水中からです。

最終的に寺院は視界から消え、遠くのピアニッシモで鐘の音だけが聞こえます。

前奏曲集第10曲「沈める寺院」











シュトラウスの薔薇

2025-05-21 21:00:00 | ロマン派
月曜から8月の講習会の製作で頭いっぱい…ですが、火曜日午後は塚口t-raumでハーブのレッスンです。

t-raumは薔薇が花盛りでした。


1ヶ月に一度なので韓国のお土産もお渡ししてませんでした。
ソウルの植物園で買ったしおり。
以前私が買ったしおりを「かわいい」と気に入って下さったのですが、同じものがもう売ってなくてずっと頭に残っていました。

かわいいって感じではないですが、気に入ってしまって、これを見た途端、先生の顔が目に浮かび、買ってしまいました。


レッスンはバッハのメヌエットとヘンデルの「私を泣かせてください」
7月の発表会で弾きますが、目が悪くて105%拡大コピーをしましたが、t-raumの個室の明かりが暗くて指番号が読めない。 

1はわかるけど、2と3の見分けがつかない。
覚えて弾けばいいのですが…。

あちこち事故りまくり。
「ここは2の方がいいですね。」と先生にっこりと笑いながら、レスポンスのいい指使いを考えてくださって大きく書いて下さったのですが、今度は脳の方が追いつかない。
まあ、7月なのでゆっくり練習します。


ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没


『南国のバラ』(なんごくのばらRosen aus dem Süden)作品388は、ヨハン・シュトラウス2世が1880年に作曲したメドレー形式のウィンナ・ワルツ。作曲者の「十大ワルツ」のひとつに数えられています。
イタリア国王ウンベルト1世(1844-1900年)


はこのオペレッタを大変気に入り、やがてそのことがヨハン2世の耳にも伝わりました。

ヨハン2世は即座にこのオペレッタに登場するモチーフを編曲し、地中海沿岸に位置する南国イタリアを思わせる『南国のバラ』という題名のワルツにし、これをウンベルト1世に献呈しました。

1880年11月7日に弟エドゥアルト・シュトラウス1世(Eduard Strauß(ss) I., 1835- 1916年)

の指揮するシュトラウス管弦楽団によって、ウィーン楽友協会(1812年に設立された、オーストリア・ウィーンにあるクラシック音楽関係者による団体)において初演されました。



ワルツの主題は、オペレッタ『女王のレースのハンカチーフ』の第1幕「Trüffel-Couplet」("Stets kommt mir wieder in den Sinn")、ハインリヒ・ボーアマンが1879年に作曲した「セルバンテス」という題名の喜劇の草稿によります。

彼はフランツ・フォン・スッペ
のためにその素材を台本にまとめましたが、スッペはその設定を拒絶し、素材はシュトラウスに渡りました。

このワルツのタイトルは、セルバンテスの第二幕のアリア「野バラの咲くところ」に由来しています。
第2幕の三重唱「野ばらが花開くところ」(Wo die wilde Rose erblüht)

やロマンス("Lichter Glanz erfüllt sein Gemüt")(この2曲は同じメロディが使われています)、

第2幕フィナーレの"Hell wie ein Strahl"、
https://youtube.com/watch?v=GSFmp1hV8u8&si=JzawLb_ZljmWNYWV第3幕フィナーレの"Eine Königin liebt dich"
などから取られており、ワルツの題名は第2幕の三重唱に触発されています。

ワルツ「南国の薔薇」