音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ヴェニスの商人

2024-10-31 21:00:00 | 近代
土曜日伊藤公一先生のレッスンを終えて帰ったら、夫が「ちょっとドライブしようか?」
次男と3人で、どこへ行くのか?と車に乗っていたら…。

やってきました京都錦市場。
コロナ前に来てからずいぶん経ちます。

炙り蟹かまって何?
蟹では無いですね。  
串で食べ歩く方式。

海老も串

海老天も

和牛うに串5000円😱

鯛焼きからいちごがはみ出てるし

盆栽は蕎麦猪口に入って、すっかりポップに…。

むちゃくちゃ人が多いです。

魚屋さんも丸椅子に座って食べる式になってました。

あまりのカオスに這々の体で錦天満宮さんと

蛸薬師さんをお参りして

昔ながらのお店の生麩と

半額になってた西京焼き弁当

昔馴染みの「そや」の厚揚げを買って帰りました。

全く変わってなかった生麩の店主に「変わりましたね。」と声を掛けると
「もう、どうしようもありませんわ。」

嫌なんだろうなぁ〜。

けれど、人に来てもらわないとやっていけない。
たくましく、生き残ってくださいね🙏


ガブリエル フォーレ(1845-1924年)
フランス共和国アリエージュ県パミエ生まれ、フランスパリ没

1889年
にはいくつか舞台のための劇音楽の作品があります。 
そんな中でシェイクスピアの「ヴェニスの商人を下敷きに詩人&劇作家のエドモンド アロクール(1856-1941年)によって書かれた作品の付随音楽、
組曲「シャイロック」があります。

シャイロック組曲、作品57は、ガブリエル・フォーレによる6楽章の作品で、1890年に初演されました。

4つの管弦楽に加え、管弦楽伴奏付きのテナー独奏のためのセレナードが2曲含まれています。

前年にパリのオデオン座で上演されたエドモン・アロクール(1856-1941年)

の劇『シャイロック』(シェイクスピアの『ヴェニスの商人』の翻案) のために書いた付随音楽からこの組曲を作曲しました。

この劇音楽は小編成のオーケストラ用に書かれていて、フォーレはコンサート用組曲のためにオーケストラを大幅に拡張しました。

フォーレが組曲の元となった付随音楽を作曲した『シャイロック』(1889年)第1幕のシーン
1889年、フォーレはエドモン・アロクールがシェイクスピアの『ヴェニスの商人』を翻案した新作『シャイロック』の劇伴音楽を作曲しました。

この作品は1889年12月17日にパリのオデオン座

で、ガブリエル・レジャン
女優レジェーンとその犬(1885 年頃)、ジョヴァンニ ボルディーニ作
がポーシャ役で主演する豪華な演出で初演されました。
ポーシャ役で主演する豪華な演出で初演されました。
56回の上演は、短期間の上演が当たり前だったオデオン座の基準からするとかなりの上演回数てした。

フォーレの伝記の中で、ロバート・オーレッジは、この楽譜の作曲については、「最高のノクターン」が1889年10月にグレフュル子爵夫人
フィリップ・デ・ラースロー作の肖像画、1905
の田舎の家に短期間滞在した後に作曲されたということ以外ほとんど知られていないと述べています。

フォーレはグレフュル子爵夫人に
「私はシャイロックのために、ヴェネツィアの月明かりのような最も探究的な音楽フレーズを探していましたが、見つけました。あなたの公園の空気がインスピレーションを与えてくれたのです。」と書いています。

それ以前に、フォーレはこの劇のために2つのセレナーデを作曲していて、10月初旬にアロクールを招待してそれを聴かせました。
棺のシーンの音楽はその時点では書かれていませんでした。

フォーレがこの曲を作曲した劇場オーケストラは規模が大きくなく、弦楽器15本、木管楽器5本、ホルン1本、トランペット1本で構成されていました。

オデオン座のために作曲されたスコアには9曲あり、フォーレはそこから6楽章の組曲を抜粋してフルオーケストラ用に編曲し、2楽章でテナー独奏、2つのハープ、ティンパニ、トライアングルを加えました。

この曲は1890年5月17日、パリの国立音楽協会のコンサートで、歌手のジュリアン・ルプレストルと協会のオーケストラによって、ジャン・ガブリエル=マリーの指揮で初演されました。

01.- Chanson シャンソン

シャイロックの音楽の冒頭部分の写字生の原稿
シェイクスピアの劇とは何の関係もないこの歌詞は、ヴェネツィアの酒宴の客が歌うセレナーデでアロクールの創作です。

02.- Entra'cte 間奏曲
タイトルにもかかわらず、幕間音楽はオデオン公演では楽章の合間には演奏されませんでした。
組曲初演の印刷されたプログラムでは、「棺桶の場面」と題されていました。
この曲は劇場でベルモントのポーシャの家での動きに合わせて演奏され、ほとんどがピアニッシモで、台詞の背景として意図されていました。

03.- Madrigal マドリガル
2番目の声楽曲は、アロクールの劇『ポーシャの窓の下でアラゴン王子が歌う』で歌われるセレナードです。

オデオン公演『シャイロック』ポーシャ役のレジェーン
04.- Epithalme エピタラミウム
エピタラミウムとは「新郎新婦を讃え、二人の繁栄を祈願する結婚の歌または詩」です。
シャイロックでは、この曲はバサーニオがポーシャの心を勝ち取った後に演奏されます。

05.- Nocturne ノクターン
オデオンの公演では、この夜想曲はポーシャの庭でのジェシカとロレンゾのラブシーンの音楽でした。
組曲のハイライトでオルレッジは、この楽章をフォーレの劇場音楽の中で最も美しい楽章であると評価しています。
シャルル・ケクラン(1867-1950年)

は次のように書いています。

「弦楽器のみの夜想曲については、この音楽があまりにも深く普遍的な人間味にあふれているため、位置づけることは不可能である。ここで表現される夜の強烈な優しさは、フォーレのインスピレーションの中でも最も美しいものの一つである。」

06.- Finale フィナーレ
終楽章は元々「オーバード」と題されていましたが、幕間と同様に、アロクールの台詞に合わせて演奏されるよう意図されていました。

この曲は、恋人たち全員が一堂に集まる劇の最後の場面のために書かれました。

1909年、シャイロックの音楽のリハーサル中のフォーレ
フォーレはこの組曲のために大幅に書き直しました。
フォーレは特に編曲で知られていたわけではなく、他の作品では時折助手に編曲を任せていましたが、この組曲の終楽章は彼の編曲で、もっとも印象的なものとなりました。












ベートーヴェンフリーク

2024-10-30 21:00:00 | 古典
先週の日曜日、10月20日のことを書きます。
特別な体験でした。
ベートーヴェンの第九交響曲初演200年記念コンサート。

献堂式
ミサ・ソレムニス
交響曲第九番

という200年前1824年、初演時と同じプログラムの再演。

フェニーチェ堺でプロージット室内管弦楽団に出演しました。
朝9:30集合舞台設営。
合唱団約50名、オーケストラ約50名。ソリストも含め、総勢100名余りの椅子を並べるだけで大騒ぎです。

ひな壇を組んでくださっていたのでその上に階段状に合唱団が並びます。

その前に管楽器群、その前に弦楽器を並べたら、緞帳の位置から最前列のヴァイオリンがはみ出ます。

もう少し後ろと言われましてもオルガンも入るので、ギリギリ。
結局、緞帳は降ろさないで、はみ出たままで行くことになりました。

フェニーチェ堺、響きが良いです。

私は「第九」も「献堂式」も初舞台。なのに何故か?1stばかり。

「ミサ・ソレムニス」は降り番だからいいけれど、めちゃくちゃプレッシャー。

「献堂式」はほぼ吹き詰め、「第九」もソロでオケと対峙する形が多くて気が抜けません。

リハーサルの後も楽屋で管楽器群のみんなに助けてもらって合わせ練習しました。

こんなに助けてもらったのは初めてです。

それから木許裕介先生の温かい言葉。
「不安になったら、僕を見てください。なんとかします。
失敗したら、僕の責任。成功したらみんなの手柄です。」

素晴らしい指揮者、素晴らしいメンバーと演奏できて本当に幸せでした。
いろいろ自分の演奏については課題がありますが…。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1826年『大フーガ』(Große Fuge)変ロ長調 作品133は晩年の弦楽四重奏曲です。

演奏者に対する極度の技術的な要求、内省的な性格で有名です。

ベートーヴェンが完全に聴覚を失った1825年から1826年にかけて作曲されました。
当時の補聴器これをピアノに当てて骨伝導により音を聴いていました。
元来この巨大なフーガは、弦楽四重奏曲第13番の終楽章として作曲されました。

第13番が初演された後、2つの楽章がアンコールに応じて演奏されましたが、終楽章のフーガは取り上げられなませんでした。

ベートーヴェンは納得できず
「どうしてフーガじゃないんだ?」と噛み付き、聞くに堪えない悪口を並べたと言われています。

しかし、このフーガが当時の演奏家にとってはあまりに要求が高く、聴衆にも理解できず不人気だったため、ベートーヴェンはアルタリア出版にせがまれて第13番には新たな終楽章を作曲し、このフーガを独立させ、1827年に出版されました。

ベートーヴェンは強情な人柄、また聴衆の意見や趣味に無関心なことで有名でしたが、このときは出版者の要望に折り合いました。

第13番のフーガと差し替えるために書き下ろされた終楽章は、フーガよりも軽いものとなっています。

19世紀から長い間、『大フーガ』への理解は進まず、失敗作と見なす向きもありました。

ルイ・シュポーアは、ベートーヴェンの他の後期作品と併せて「わけのわからない、取り返しのつかない恐怖」と怯え、ダニエル・グレゴリー・メイソンは「人好きのしない」曲であるとしました。

19世紀末になっても、作曲家フーゴー・ヴォルフは、この曲を含むベートーヴェンの晩年の弦楽四重奏曲を「中国語のように不可解である」と評しています。

しかし20世紀初頭ごろからようやく理解され始め、現在ではベートーヴェンの偉大な業績の一つとみなされています。

イーゴリ・ストラヴィンスキーは、

「絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲」と述べています。

今日では普通に演奏・録音されるようになり、録音では第13番の後に『大フーガ』が録音されていることが多いです。

2005年10月13日に報じられたところによると、7月にペンシルベニア州ウィンウッドのパーマー神学校
の図書館で、1826年に作成された『大フーガ』の4手ピアノ版(作品134として既存)の自筆譜が発見されました。

それまで115年間にわたって失われたとされた手稿です。

これは2005年12月1日にサザビーズで競売にかけられ、112万ポンド(米ドルにして195万ドル)の価格で落札されました。

1890年に競売目録に載せられ、ベルリンで競り出されて、オハイオ州シンシナティの資産家の手に渡りました。

落札者の娘は、1952年に本作品とモーツァルトの『幻想曲』などの自筆譜を、フィラデルフィアの教会に寄贈しました。

それから発見場所の図書館にどのように伝承されたのかは、わかっていません。



フランスヴァイオリンソナタの最高峰

2024-10-29 21:02:00 | ロマン派
月曜日お昼はセンメルトリオの練習でした。
ピアノの坂田恭子さんとヴィオラの金重美代さんとフルート久米で作ったグループですが、昨年は坂田さんが入院し、復帰2ヶ月。
喜んでコンサートの約束をして、集まろうというこの日の2日前。
金重さんが、ヴィオラを弾く指を骨折したと連絡が…。

かわいそうに写メ送ってくれましたが、親指が倍くらいに腫れ上がっています。

「どうしようか?」と迷っていたら坂田さんからLINEで「2人だけでも練習しておきましょう。」
ということで、金重さんがいつ帰ってきてもいいように練習することになりました。
曲はビゼーの「カルメン」組曲をフルート、ファゴット、ピアノに編曲したものです。

金重さんに譜面を見せてファゴットからヴィオラへの変更は可能と聴いていました。

お茶をしながら練習して、「他にも何かやる?」と坂田さん。

この前チェロの斉藤さんとやったヘンデルのフルートソナタCdur。
通奏低音はピアノ版もあります。

ピアノもちょっといい感じ。

それからフランクのソナタ。
これは原曲はヴァイオリンですが、フルート編曲版もあってフルートの一般的なレパートリーの1つになっています。
5楽章全部やってみたら、結構な時間になりました。

金重さん今日精密検査だそうです。
軽く済みますように祈っています。

セザール フランク(1822-1890年)ネーデルラント連合王国リエージュ生まれ、フランス共和国パリ没

ヴァイオリンソナタ イ長調(Sonata Pour Piano et Violon en La majeur)FWV 8は、ベルギー出身の作曲家・オルガニストであるセザール・フランクが、1886年に作曲したヴァイオリンとピアノのためのソナタです。

フランス系のヴァイオリンソナタの最高傑作といわれ、同郷の後輩であるヴァイオリニストのウジェーヌ・イザイ
(1858-1931年)ベルギー リエージュ生まれ、ベルギー ブリュッセル没

の結婚祝いとして作曲され、彼に献呈されました。

初演は1886年12月16日にイザイによってブリュッセルで行われました。
このソナタはピアノとヴァイオリンの音楽的内容が対等であり、ピアノはヴァイオリンの伴奏ではなく、ヴァイオリンも単なる独奏楽器ではなく、ピアノとヴァイオリンの二重奏曲と呼ぶべき大曲です。

この作品の成功は轟きわたることになります。

イザイはこれをブリュッセル、パリで演奏し、さらに演奏旅行に組み込んでしばしば弟のテオ・イザイのピアノ伴奏で演奏しました。

彼がこの作品を最後に演奏したのは1926年のパリで、イヴ・ナットが伴奏を受け持ちました。  

20世紀半ばにヴァラはこのソナタについて次のように記しています。

「少なくともフランスではフランクの最も人気の作品となり、室内楽曲のレパートリー全体から見ても最も一般的に受容される楽曲である。」



チェリストの聖典

2024-10-28 21:14:00 | バロック
金曜日は10月25日は第17回聴き合い会を開催しました。
今回はチェロの渡瀬清隆さん、がギター河口範夫さんとラフマニノフの「ヴォカリーズ」を演奏されました。
なかなかいい感じ。

フルートデュオ、ギター独奏、ギター二重奏などなど熱演が続きました。

私はチェロの斉藤千秋さんとヘンデルのフルートソナタCdurを演奏しました。
当日初めて合わせましたが、一楽章だけ合わせる時間がありませんでした。
440hzで合わせるということで、いきなり吹いたら全然音が違って大慌てで吹きながら調整しました。

やっぱり一回も合わせないで合わすなんて無茶かな〜。
それでも楽しい聴き合い会でした。

次は11月19日(火)12:15開室13:00開演牧野生涯学習センター 音楽室
1人15分 協力金500円
お互いの演奏を聴き合い、励まし合いましょう。
音楽を、楽しみたい方は誰でも出演できます。どうぞ勇気を出してお申込みください。連絡は久米まで

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没
無伴奏チェロ組曲( Suites á Violoncello Solo senza Basso)は、チェロ独奏用の組曲で、以下の6曲が存在しています。

第1番ト長調 BWV1007
第2番ニ短調 BWV1008
第3番ハ長調 BWV1009
第4番変ホ長調 BWV1010
第5番ハ短調 BWV1011
第6番ニ長調 BWV1012

作曲年代は明らかではありませんが、その大部分はケーテン時代(1717年-1723年)
バッハがアンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長になった時代。
当時のアンハルト=ケーテン侯国は音楽に理解のあるアンハルト=ケーテン侯レオポルト
 

の統治下にあり、バッハがもらった400ターラーという年俸も前任者シュトリッカーの倍額であったと思われます。

ケーテンの宮廷オーケストラは12人の楽師で構成されていて、宮廷ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者はチェリストも兼ねていました。

クリスティアン・フェルディナント・アーベルのために書かれたという説があります。
ヴァイオリンのように肩で支えた姿勢で弾く小型のチェロ(ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ=肩のチェロ)

のために書かれたとする説もあります。

バッハの妻アンナ・マクダレーナ


の写譜が残っており、これは長い間バッハ自身が書いた自筆譜と考えられてきました。

バッハの妻アンナ・マクダレーナによる無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007の写譜

その後、単純な練習曲として忘れられていましたが、パブロ・カザルス
1876-1973年パブロ・カザルス
によって再発見されて以降、チェリストの聖典的な作品と見なされるようになりました。

現代においてはバッハの作品の中でも特に高く評価されるものの一つです。チェロ以外の楽器のために編曲して演奏されることも多いです。

6曲の組曲はそれぞれひとつの調性で統一され、
前奏曲(プレリュード)で始まり、
アルマンド、
16世紀のフランスでは「地面に足をつけた中庸の遅さ」(トワノ・アルボ「オルケゾグラフィOrchésographie」1589年)の2拍子のダンスで、組になった男女が列を作って進みながら踊るダンスでした。


クーラント、
2分の3拍子と4分の6拍子の交代を伴う優雅な舞曲。 

サラバンド、
3拍子による荘重な舞曲。

メヌエット
フランス発祥の宮廷舞曲のひとつ。基本的に4分の3拍子で、通常は穏やかな性格を帯びた音楽です。

(第3番・第4番はブーレ
オーヴェルニュとビスカヤに共通する17世紀に発祥した舞曲。速いテンポの2拍子の舞曲。

第5番・第6番ではガヴォット
フランスの地方のフォークダンスと、それに由来する古典舞曲の名称。
「ガヴォット」の名は、踊りの発祥したドーフィネ旧地域圏のペイ・ド・ギャップ(Pays de Gap)地方ガヴォ(Gavot)に由来。 中庸のテンポの舞曲で、4分の4拍子ないしは2分の2拍子で記譜されます。小節の半ばかアウフタクトに始まります。)



ジーグ
8分の6拍子または8分の9拍子の舞曲。

の6曲構成となっています。

第5番はスコルダトゥーラ(変則調弦あるいは特殊調弦とも呼ばれ、ヴァイオリン属やリュート・ギターなどの弦楽器において、楽器本来の調弦法とは違う音に調弦(チューニング)すること。第5番はチェロのA弦(音域がいちばん高い弦)を低くGに調弦して弾くことを前提に楽譜が書かれています。)を前提とし、
第6番は5弦の楽器のために書かれています。

組曲第1番 2アルマンド




耐火性抜群!

2024-10-27 21:22:00 | ロマン派
この一週間であったオーケストラ出演体験とか、いろいろ書こうかと思いましたが、とりあえず今日あったことを、書きました。

それにしても一週間も書けなかったのに、みなさん結構ご訪問くださっていて本当に感謝です。
ご心配もかけて申し訳ない気持ちです。

土曜朝は梅田で伊藤公一先生のレッスンでした。

やっぱりこってり絞られました。が、ちょっとはマシになっているみたい。
「今日はまだマシになってきたよ。」と最後の最後に言ってくださいました。こんなことは滅多にありません。

レッスンの後、ドルチェ楽器の三階でフルートのメンテナンスの日程を決めました。
実はスタンドに立てておいたのをスカートに引っ掛けて倒してしまいました。
ふわっと倒れて下は絨毯でしたが、よく見たら頭部管にちいさなへこみ。

ただし、今はコンサートシーズンでリペアの予約がなかなか取れません。

11月末の月曜日になりました。
11月12日のエスカルのフルートオーケストラのコンサートは現状のまま出演です。

音はたぶんまともになっているので何とかなるでしょう。

ヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

彼は音楽家ヨハン・シュトラウス1世とその妻マリア・アンナのあいだに次男として誕生。

家族や友人のあいだでは「ペピ(Pepi)」という愛称で呼ばれていました。

ヨーゼフには生まれつき脳に故障があり、その影響が脊椎に現れたため、とくに精神的・身体的障害はなかったものの虚弱体質でした。

このハンディが影響したのか、陽気で明朗な性格の兄ヨハン2世とは違って、控えめで神経質な性格の持ち主に育ちました。

工学技師の道を歩んでいましたが、病に倒れた兄ヨハン2世の代役として指揮を務めたことがきっかけで音楽家としてデビューしました。

1853年に音楽家となってから1870年に没するまでの約17年間で280曲以上の作品を残し、また500曲以上の編曲も手がけました。 

『鍛冶屋のポルカ|Feuerfest!』op.269

1869年3月、金庫メーカーのヴェルトハイム商会が、耐火金庫2万個の製造を記念して舞踏会と花火大会を催しました。

この舞踏会に際してヨーゼフ・シュトラウスは商会から作曲を依頼されました。

ヨーゼフは金庫を製造した鍛冶職人を讃えて、打楽器として金床を用いるポルカを作曲しました。

金床(鍛造や板金で、加工しようとする加熱した金属を載せる鋳鉄製または鋳鋼製の作業台)材料を伸ばすのは平滑部で、細かい作業は右の「鳥口」で行います。

鳥口が2つある鉄床

リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』(1874年完成)の第2日「ジークフリート」において、侏儒のミーメが、折れた剣ノートゥングを勇者シグルズのために鍛え直す場面。絵は、イギリス人挿絵画家アーサー・ラッカムの手になる1911年の水彩画。

3月13日、ブリューメンザールの舞踏会(場所は園芸協会の庭園に「花爛漫」と名付けられた会場)において、作曲者自身の指揮のもとでシュトラウス管弦楽団によって初演されました。

後に本作は主催者のヴェルトハイム商会に献呈されています。

「Feuerfest」はこの会社の宣伝文句で、本来は「耐火性抜群」という意味です。

『鍛冶屋のポルカ』とは日本での命名です。日本においては、『かっこうワルツ』などに代わって、小学2年生用の「鑑賞共通教材」として1989年改訂の学習指導要領に採り入れられています。






ログインかなわず1週間

2024-10-26 21:01:00 | 近代
1週間前。
gooブログのIDで、突然ログインできなくなり、メールでdocomoのヘルプセンターとやりとりが始まりました。
gooIDを入力し、パスワードを入れると、二重認証の数字が登録メールに送られてきます。
…ということはID.パスワードは合っているはず。
ところが数字を入れると、再びログイン画面に戻ってしまいます。
cookieを有効にしなさいと、ヘルプセンターから連絡あり、有効にしてもだめ。

時間がかかるかもしれない、お調べ中です。と待たされているうちに、ブログの更新は止まり…早や1週間。
当然みなさんのブログにもご訪問できず…。

フォロワーのみなさんにも会えず。
悲しい気分で過ごしていました。

ここ数年はコロナでも、父が亡くなった時でもなんとか2日と開けず、投稿していたのに…。

結局、今夜になって思いついて、Googleでログインするとあっさりログインできました。
GoogleIDも、パスワードも覚えていませんが…入力もしていませんが不思議な気分です。


ログインできず、もんもんとしているうちに

母と通った病院近くの伊藤軒。

野菜二十品目ランチ

野菜カレー。
季節も変わり



ハロウィン間近。
今夜は23時〜書いています。
もう二度とこのブログでみなさんにお会いすることができないのかと思った暗い1週間。
今夜は大したことは書けませんが、
とりあえずいつもの朝9:00に投稿してみます。

「アヴェ・マリア タンティ アンニ   プリマ」
アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)(1921-1972年)作曲。

もともとは歌曲「アベマリア」として作曲されていました。

1984年のイタリア映画「エンリコ4世」のためにオーボエの曲として編曲されました。



映画用に編曲された時のタイトルが「Tanti Anni Prima(昔々)」です。




ライヒャルトのエテュード

2024-10-19 09:01:00 | ロマン派
金曜日、京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。

先日京阪が関電停電事故のせいで遅れたので早めに出ました。
するとサクサク進んで、しかも出町柳からのバスが延滞で遅れていたため1本前のバスに乗れてしまいました。
結果20分前に到着。なかなかうまくいかないものです。

京都は小雨でした。

出町柳の柳。

鷺さんがいました。
 
ホフマイスターのカルテットを見ていただきました。
スケールとアルペジオでできているような曲てす。

最近姿勢がくずれがち、スケールのタンギング下降形で息が少なく、タンギングが強すぎなどなど課題満載でした。
基本が大事。
まだまだ精進、精進!

マシュー・アンドレ・ライヒェルト( 1830–1880年)オランダ マーストリヒト生まれ、ブラジル リオデジャネイロ没

は、ベルギー(市民権を持っていました)の作曲家、フルートの名手でした。

彼はブラジル音楽に影響を受け、影響を与えました。ブラジルのポピュラー音楽および器楽音楽のジャンルであるショーロの先駆者と考えられています。

遊牧民のベルギー人音楽家の息子でした。彼はブリュッセル王立音楽院でジュール・ドゥムールとフランソワ・ジョゼフ・フェティス(1784-1871年)

を修士として学びました。

彼は皇帝D. ペドロ 2 世(治世1831-1889年)の


招待により、リオデジャネイロ市のリリコ・フルミネンセ劇場

1854-1875年まで
で演奏しました。

この発表以来、彼はサンパウロ、リオグランデ・ド・スル州、ペルナンブコ州、バイーア州、パラー州で活動し、マノエル・マルセリーノ・ヴァーレやドゥケ・エストラーダ・マイヤーなど多くの著名な弟子を抱えました。

リオデジャネイロでは、当時ブラジル人のフルート奏者、ホアキン・アントニオ・ダ・シルバ・カラドと友人になりました。

ライヒェルトは、リオデジャネイロを壊滅させた伝染病である髄膜脳炎による脳発作で亡くなりました。

彼はサン・ジョアン・バティスタ墓地に埋葬されています。

フルート作品でもっとも有名なものは「ファンタジー メランコリック」「7つの毎日の練習 Op.5」です。

ラ コケットop.04 1872年出版
ラ コケットはフランス語で気を惹く魅力的な女性というような意味ですが、女性に限らず、何か強く惹きつけられる吸引力あるものを意味しています。



真剣に遊んでみました。

2024-10-18 21:00:00 | 近代
木曜日は子育てサポートで、幼稚園に子どもを迎えに行って自宅で保育。その後、家まで送っていくというものでした。
8:00まで預かるのでお菓子を持たされています。
今日のはマーブルチョコレート志摩水族館仕様

かわいいです。

昨日から作り出した自動販売機。
カッターは使えないので私が穴を開けました。
昨日は前を開けて、コインとお札を入れる穴を開けました。
「どうやって缶が出てくるようにできるかな?」というところで終わっていました。
今日は帰ってくるなり「後ろに穴を開けて滑り台にしたらどうかなぁ?」

開けました。
紙を後ろから前に滑り台のように通して、缶代わりのダンボールを丸めたものを落としてみると

ウケました。
クレヨンも落としたりして、興奮しました。私も!

ジャック イベール(1890-1962年)フランス共和国パリ生まれ、フランスパリ没

1910年、パリ音楽院に入学。
アンドレ・ジェダルジュの対位法講義では「フランス6人組」のダリウス・ミヨーやアルチュール・オネゲルと同窓でした。

第一次世界大戦中は海軍士官として従軍。 
1914年に音楽院を卒業し、5年後の1919年、カンタータ『詩人と妖精Le poète et la fée』でローマ大賞を受賞しました。

1923年まで3年間ローマに留学、『寄港地』などを作曲しました。

1937年から1960年まで(第二次世界大戦中を除く)在ローマ・フランス・アカデミーの館長でした。
1940年、フランス政府よりの依頼を受けて、日本の皇紀2600年奉祝曲として『祝典序曲』を作曲。

1940年6月にパリが陥落すると、北アフリカで抗戦を継続しようとする政治家たちにイベールは同行し、このためにヴィシー政権によってイベールは反逆者と見なされ、曲の演奏が禁じられていました。

1944年に在ローマ・フランス・アカデミー館長に復職します。

1955年から1957年までパリの国立オペラ劇場連合(RTLN、オペラ座とオペラ=コミック座)の監督をつとめました。

1962年にパリにて死去。遺体はパリ16区のパッシー墓地にて埋葬されました。

フルートとピアノのためのソナティナop「遊戯」は、1923年に作曲されました。イベールは、1919年にローマ大賞を受賞して、1920年から23年の間ローマに留学しましたが、その間の成果のひとつとしてこのソナチネが完成し、ルイ・フルーリーにより初演されました。

第1楽章・アニメ (活発に)、第2楽章・ターンドル (優しく)、あわせて5分程の短いソナチネです。





北ヨーロッパからフランドル楽派

2024-10-17 21:07:00 | ルネッサンス
妹が北海道出張して帰ってきました。
いろいろと仕事のことで勉強した他に、北海道旅行も満喫したみたい。
姪たちは今年家を出てしまったので、母と私たちにお土産を買ってきてくれました。

いくらと、北海道と言えば

毛蟹。
手慣れた次男がバキバキッっと甲羅を開けて身をほぐしてくれました。



家で採れたすだちで食べたら爽やかな酸味と蟹身の甘みが混じって最高!

おしゃべりな母もしばし無言、もちろん私も無言になりました。 
美味しかった〜。
贅沢〜!
妹に感謝❣️

ローマ中心の繁栄がありましたが、経済の衰退、ペストの流行により、北回りの航路が取られるようになりました。
それはベルギーの港での交易をもたらし、そこを中心としたフランドル地方の繁栄を導きました。

フランドル地方は正確にはオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域を総称して呼びます。

毛織物業が盛んで、ヨーロッパの先進的地域として発展しました。

1338年~1453年の百年戦争は、この地方の争奪をめぐって勃発しました。
音楽もフランドル楽派という人たちがヨーロッパ各地に出かけ先進的な働きをしました。

ヨハネス・オケゲム(1410年頃 - 1497年)エノー伯爵領サン=ギラン生まれ、フランス トゥール?没

ジョスカン・デ・プレに強い影響を与えたように、オケゲムは表情豊かな音楽と作曲技法の熟練によって、ヨーロッパ全土で有名でした。

比例カノン()を用いた《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ曲)Missa Prolationum》。また、《ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni》はありとあらゆる旋法で演奏することができます。


オケゲム自身が著名なバス歌手だったことから、オケゲムのバスの旋律線は込み入っています。これこそが、オケゲムが他のフランドル楽派の作曲家と一線を画す点です。


オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのエノー州サン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされました。

幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCrétin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきました。

当時の多くの作曲家のようにオケゲムも教会楽長を振り出しに音楽活動に入っています。
オケゲムの名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されています(1443年~1444年採用)。

1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世


にムーランで仕えました。
1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任しました。

フランス宮廷での――シャルル7世


とルイ11世


への――仕官に加えて、ノートルダム寺院


や聖ブノワ寺院にも職務を得ました。

1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)


からカスティーリャ王女イサベル

への求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れました。

ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になります。

その後ブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残しています。
おそらくその地で没したのだろうと言われています。

生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させました。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげています。

アントワーヌ・ビュノワ


が1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれません。
オケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なされています。

現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけです。

オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本Chigi codex」によって伝承されています。

《死者のためのミサ曲 Missa pro Defunctis》は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムです。ごくわずかの現存する作品に加えて、いくつか偽作もまじっています。また作曲様式の観点からオケゲム作といわれてきたものが数曲あります。

「Mort tu as navre de ton dart」
死んだあなたは自分の芸術を残念に思います
喜びの父
標準を導入することで
バンバンワの優しさの守護者について
彼の体は不平を言い、嘆いている
刃の下に誰がいるのか
ああ、憐れんでください
魂のために祈ってください。
(後略)










アレンジがいっぱい!

2024-10-16 21:10:00 | ロマン派
火曜日午後は長居公園近くのヴァイオリンの木村直子先生、チェロの木村政雄先生のお宅でヴィオラ金重さんとアンサンブルレッスン。



曲はホフマイスターのフルートカルテットop19を練習。
しかし、古い楽譜しか入手できなく、先月しようとすると、なんと!第1楽章フルートが10小節ほど落丁していました。

小節番号を書くことから初めましたが、これが難題。
段替わりで小節を2つに切っていたり、全音符のような記号が全音符かと思ったら小節を飛ばして先にいけ!という記号だったり、それぞれのパート譜に番号を振って最後に何小節あったか?確認すると、全員違ったり…大変です。

印刷譜が欲しい。
ホフマイスター自身が楽譜出版を手掛けていて彼自身が出版した譜面ですが、ダメダメやん!

小節番号は諦めてリハーサルマークABC
とリピート記号で振ってみたら、今度はヴィオラと数が違います。
どうもリピート記号がパートによって違うみたい。

困ったものです。
それでも合わせてみたら結構いい曲です。
「スケールやアルペジオが多くて勉強になります。」と金重さん。

フルートは…結構難しい。フルート協奏曲のように華やかに活躍しますが超絶技巧。
必死で練習しなくては!

その後、ドボルザークのピアノ五重奏op81第1楽章を練習。

やっぱり素晴らしい!けど、難しい。
第1ヴァイオリンをフルートで吹くので低音Aまで出てくるので、オクターブ上げたりしながら演奏します。

来月は病気療養中だったピアノの坂田さんが回復してレッスン復活の予定!

金重さん、ドボルザークとホフマイスター、モーツァルトピアノソナタを再開することにしました。

精進、精進。 
それと、
オペラ「カルメン」のフルート、バスーン、ピアノトリオ版をメルカリで手に入れました。

金重さんと帰りにコンビニでコピー。
バスーンの楽譜をヴィオラに編曲して演奏しようと言うのです。
「行けるかな?」と心配な私に「大丈夫、大丈夫!」と金重さん。
ヴィオラの音域とこのバスーンの音域がバッチリ被っているみたい、2、3ヶ所変更したら行けると言うことでした。
こちらも練習開始です。

オペラ「カルメン」はジョルジュ ビゼー(1838-1875年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国プージヴァル没

が1075年3月3日パリオペラ座で初演されました。
初演は不評でしたが、客の入りは悪くなくビゼーのもとには『カルメン』のウィーン公演と、そのために台詞をレチタティーヴォに改めたグランド・オペラ版への改作が依頼されました。

この契約を受けたビゼーでしたが、持病の慢性扁桃炎による体調不良から静養中の6月4日、心臓発作を起こして急死してしまいます。

そこで友人である作曲家エルネスト・ギローが改作を担当してウィーン上演にこぎつけ、それ以降フランス・オペラの代表作として世界的な人気作品となりました。

以来、様々なアレンジのものが存在しています。
これはサックス四重奏。

こちらは弦楽四重奏

ギター二重奏。

こちらは弦楽にピアノが入ったアレンジ。