音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

目の音楽

2024-01-31 20:58:00 | 音楽様式
月曜日、あまりにも目が悪くなり、見えにくくなってきたので病院に行ったところ、関西医大に回されました。

9:30から診察のところ20分前には行って下さいと紹介状の他に受診にあたっての丁寧な案内書が後日届き、それに従って早めにつきました。

受付をして。

しかし、受診番号はすでに903番。
お年寄りも席がなくて立っておられます。
立って待っていると、「久米さん?」と眼科検診の白衣の方が呼ばれるのでみたら、大学のマンドリンオケの後輩でした。
「こんなところで!」というと「そうなんですよ。」
偶然ですが、スタッフも大勢いるのにその人に見てもらいました。

そこから、また別の検査。
写りやすくする薬を飲んで、検査。撮影。
待機。

ベルで呼んでもらって、別部屋で検査。
先生に会うまでに3時間。
そこから、また、今度は注射で造影剤を入れて、撮影。ということでそこから会計までに2時間半を病院で過ごし、次は2月16日。
全部で5時間半すでに2時半…お腹すいた〜!
この前素通りしたt-siteに寄りました。
しかし、おしゃれな店もTSUTAYAも素通りでレストラン街へ直行。

中華ランチをいただきました。
黒酢をかけて食べるのがおすすめ。
美味しかったです。

エビ雲呑のラーメン。
この細麺気に入りました!
コスパもよかったです。
何食べても腹ペコの身には美味しいかもしれませんが…。

この日は夕方から膝小僧骨折の整形外科の受診もありました。
こちらは予後良いらしく。ようやく無罪放免になりました。

ご心配、優しい言葉、手助けの数々ありがとうございました。

本当にみんな優しかった🙏

でもって今度は目。しばらく通うことになりました。大事にしましょう。

eye musicアイ ミュージック(ドイツ語でAugenmusik) は、演奏時に聴く人には気付かれないけれど、楽譜に目で鑑賞するという特徴を持っています。

パズルカノンにはまた暗号が含まれています。
 

ボード コルディエ(15世紀頃)の愛についてのロンドー「ベル、ボンヌ、セージ」はハートの形をしていて、赤い音符がリズミカルな変化を示しています。

一例はカノンで(真の暗号作品に近いのは、ソルフェージュ名を使用して文字が作品に埋め込まれているsoggetto cavato(音名を意味のある単語に並べて主題にすること=刻まれた主題)を使用した作品です。

「コネクション」という曲の楽譜、1794年。数十の詩篇賛歌と賛美歌を含むウィリアム・ビリングスの本「コンチネンタル・ハーモニー」の口絵

パズルのカノンは種類も豊富です。

4 声の円形カノンは、パズル カノンの1つで1 行の音符がグラフィカルな形状に刻まれていて、目の音楽の一種になります。

コルディエのベル、ボンヌ、セージは、大きなハートの中に音符の赤い表記ハートがあります

さらに、円形カノンが音楽的に終わりを持たず、「無限カノン」になることもあります。

無限の(円形の)カノンが円の中に刻まれていて、その円自体が「私を円形にしてください」を意味する暗号が含まれているこれも目の音楽の一種です。

ドッソ ドッシ(1489-1542年)音楽の寓話

の音楽の寓話からの拡大。匿名の正典は円で記され、ジョスカンによる正典は三角形で記されています。(光を集めると、原画に三角形のカノンのメモが見えます。)
En la maison Dedalusデダラスの家で
1375年作者不詳




法事で

2024-01-30 21:03:00 | 近代
日曜は父の3回忌と義父の4回忌と、夫の誕生日てした。
父と義父は生まれた日はバラバラだったのに、亡くなったのは二人共夫の誕生日でした。
おかげて、夫は子どもの頃はあまり祝わなかったそうですが、親戚一同集まってお祝いするようになりました。

しかも父と同じ酒好き。
お墓に美味しいお酒をお供えして、その後お下がりをお誕生プレゼントに。

「お父さん、この酒が目当てでこの日にしたのかな?」とか…。
たしかに命日だけだとワンカップ位で済ましたかも…ひどい😅

義父は、千葉に住んでいたので生前はあまり会わなかったのですが、みんなが集まる日でお義父さんを囲んでにぎやかにできるようになりました。

母の弟、叔父さんも来てくれました。
中学生の頃に吹奏楽でトランペットを吹いていた所、喘息が出てお医者様に「トランペットばやめなさい」と言われたそう。
クラブの先生に相談したら、「じゃあサックスにしなさい。」
「楽器がありません。」というと、「ある。」当時自衛隊に海軍の下げおろしの楽器があったそう。

ネットオークションで落とした方の画像お借りしました。
アルミに分厚い革張りのケースに、サックスが、入っていてそれを借りて来て、演奏会が終わると歯磨き粉でピカピカにみがいて返したそう。
日本海軍のマークがついた楽器だったそうです。

刻印ってこれのことかも?

79歳。中学校教師で吹奏楽部を指導し、信愛大学、池田市民吹奏楽などを指揮していましたが、耳が遠くなってついに昨年全て引退。
しかし、今でもスケール、ロングトーンなどクラリネットの練習は欠かしませんし、毎日一万歩歩き、それだけでは上半身が鍛えられないと毎日100回は腕立てをするそうです。

耳の他に目は昔からあまり良くなくて早くからメガネでしたが、今のところ身体に悪いところはないそうです。
後、隠れキリシタンの歴史に興味があっていろんな話しをしてくれておもしろかったです。
今日は吹奏楽に半生をかけた叔父に敬意をこめて

吹奏楽コンクール常連優勝校淀川工科高等学校、丸谷明夫指揮でオットリーノ・レスピーギ(1879-1936年)イタリア王国ボローニャ生まれ、イタリア王国ローマ没

の1923.1924年作曲交響詩「ローマの松」
レスピーギ自身が1926年演奏の時のプログラムに
「『ローマの松』では、私は、記憶と幻想を呼び起こすために出発点として自然を用いた。極めて特徴をおびてローマの風景を支配している何世紀にもわたる樹木は、ローマの生活での主要な事件の証人となっている。」と書いています。

第1楽章ボルゲーゼ荘の松

ボルゲーゼ公園の松並木
レスピーギの説明によると
「ボルゲーゼ荘の松の木立の間で子供たちが遊んでいる。
彼らは輪になって踊り、兵隊遊びをして行進したり戦争している。
夕暮れの燕のように自分たちの叫び声に昂闘し、群をなして行ったり来たりしている。突然、情景は変わり、第二部に曲は入る。」

第2楽章
カタコンバ付近の松

「カタコンバの入り口に立っている松の木かげで、その深い奥底から悲嘆の聖歌がひびいてくる。そして、それは、荘厳な賛歌のように大気にただよい、しだいに神秘的に消えてゆく。」

ローマのサン・セバスティアーノ・フォーリ・レ・ムーラ教会のファサードこの地下にローマ時代の墓(カタコンバ)がある

カタコンバとは古代ローマでの初期キリスト時代の墓のことです。
信者たちの悲嘆と祈りに満ちた歌声が全オーケストラを駆使して描かれます。

第3楽章ジャニコロの松

ローマの市街を見下ろせる有名なジャニコロの丘

「そよ風が大気をゆする。ジャニコロの松が満月のあかるい光に遠くくっきりと立っている。夜鶯が啼いている。」
曲の最後にナイチンゲールの鳴き声が流されます。さて、淀工ではどうしたのか?

第4楽章アッピア街道の松 



ローマ時代の街道の石畳の遺跡が残るアッピア街道
「アッピア街道の霧深い夜あけ。不思議な風景を見まもっている離れた松。果てしない足音の静かな休みのないリズム。詩人は、過去の栄光の幻想的な姿を浮かべる。トランペットが響き、新しく昇る太陽の響きの中で、執政官の軍隊がサクラ街道を前進し、カピトレ丘へ勝ち誇って登ってゆく。」
オーケストラで作曲されましたが、吹奏楽編曲版です。


伊藤公一先生

2024-01-29 21:00:00 | 近代
土曜日の朝は梅田ドルチェ楽器で、伊藤公一先生のマスタークラスでした。

12月の末頃に肩の手術をされるということで、レッスンはお休み。
1月はもうないかと思っていたら、急遽入りました。

お元気なご様子で、フルートも吹いていらして一安心しました。

ただしまだ痛いそうで、リハビリもされていると言うことなので、予後お大事にされてほしいです。

しかし、レッスンは一切妥協無し、こってり絞られました。
正確な音程、メロディと伴奏を明確に分ける、メロディは大きく、伴奏は弱く。 
メロディだけを取り出して確かめて。

レミレミは右小指を上げたまま、左人差し指は速いパッセージは離すゆっくりだと押さえたままでも良い。

シレをスラーで練習、滑らかに正確に取れたら、タンギング。

「あたりまえのことをあたりまえに正確に吹けるように」練習されてきたと言われる伊藤先生の丁寧な音楽の作り方が垣間見えるレッスンです。

あたりまえのことが、あたりまえにできない自分を白日にさらされるレッスンでもあり…油汗が出ます。

ありがたいことにCDを暮れに出されました。
コンサートのチケットやセミナーはすぐに完売するので、手に入らなくなってはいけないと、
早速、手持ちのCDを買わせていただきました。
「マルセル モイーズへのオマージュ」ーフルーティストの黄金時代ー
ピアノは奥様の水野久美先生。


伊藤公一先生

1943年生まれ81歳になられます。
1962年19歳の時に京都市交響楽団に入団。


2年後に首席奏者になります。
1973年ボスヴィル(スイス)でのマルセル モイーズ

マスタークラスにおける演奏はモイーズに賞賛されます。
フレンチスクールを継承する演奏スタイルは今日まで高い評価を受けています。

京都市立芸術大学、相愛大学などで後進の指導、多くの門下生が国内外で活躍しています。

彼らの呼びかけで「デビュー40周年を祝うコンサート」2003年

「フルーティスト伊藤公一50周年を祝うリサイタル」2013年
「80歳を祝う会」2023年が行われました。

2005年から2015年名古屋芸術大学及び大学院教授を務めます。

2013年、2014年にウィリアム ベネットとイタリアのサレマラシノで共演。
2015年にはイタリアで2019年にはシンガポールのフルートフェスティバルでリサイタルを開き、好評を博しました。

(伊藤公一フルートセミナー講師紹介より)

2015年、ウィリアム ベネットフルートサマースクール、イタリア、サレマラシノの教会での伊藤公一先生と水野久美先生の演奏が残っていました。

フランツ フォン ヴェチェイ(1893-1935年)ハンガリー ブダペスト生まれ、イタリア ローマ没

1903年のベルリンデビュー時のフランツ・フォン・ヴェチェイ
によって、1913年20歳の時に作曲された「悲しきワルツ」
彼は才能あるヴァイオリニストで、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の再献呈者になっています。
ヴァイオリンのために書かれました。フルートとピアノのための編曲です。






2本のチェロのための協奏曲

2024-01-28 21:02:00 | バロック
聴き合い会で、
チェロが2台とピアノ。 

高音楽器を吹いていると、低音楽器へのあこがれがあります。
フルートをやっている人でコントラバスを始めた人、チェロを始めた人を何人か知っています。

アントニオ ヴィヴァルディ(1671-1723年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、神聖ローマ帝国ウィーン没

1727年ヴィヴァルディ
の「2つのチェロのための協奏曲」ト短調RV 531 は、 2 つのチェロと弦楽オーケストラ、通奏低音のための3楽章からなる協奏曲で、1720 年代に作曲されたと考えられています。

この曲はヴィヴァルディの唯一の2本のチェロのための協奏曲であり、珍しく独奏楽器のみの登場で始まります。

どういう経緯で作曲されたのかはっきりしませんが、40歳代のヴィヴァルディは、マントヴァの宮廷楽長に2年間奉職したりしましたが、人気が高まり、音楽教師をしながら、フリーで活躍しています。

1723年-1724年 - (45歳-46歳)ローマで3本のオペラを初演、ローマ教皇御前演奏。作品8『和声と創意への試み』(四季を含む)出版します。

1727年 - (49歳) 作品9『ラ・チェトラ』をアムステルダムの出版社から出版、神聖ローマ皇帝カール6世に献呈します。

1728年 - (50歳) トリエステでカール6世と謁見。手書きの協奏曲集を『ラ・チェトラ』として献呈し、多額の金品と金鎖付きのメダルを賜っています。

ヴィヴァルディはいくつかの作品でチェロをソロ楽器として使用しましたが、これは当時の新しい傾向でした。

彼はチェロ、弦楽オーケストラ、通奏低音のための 27 の協奏曲を作曲しました。
これらのチェロ協奏曲の中で、2 つのチェロのための協奏曲は RV 531 だけです。

ヴィヴァルディはおそらく 1720 年代にヴェネツィアでこの曲を作曲しました。
ヴィヴァルディの個人コレクションの多くを所蔵するトリノ国立図書館




のレンツォ・ジョルダーノ・コレクションで原稿が発見されました。


幻の銘器

2024-01-27 21:00:00 | 楽器
1月26日 金曜12:15〜
牧野生涯学習センター音楽室で
「第9回聴き合い会」でした。

今回はヴィオラ、チェロ2、ピアノ2、ギター2、フルート4、ビウエラ1の12人の出演でした。



河上さんは初めて来ていただきましたが、ノンビブラート奏法で、トラヴィルソのような音で演奏されていたので「どこのフルートですか?」と伺ったら「マテキです。」
「えっ!マテキ?!」

吹かせていただきました。
軽くて、レスポンスが良く指が吸い付くようにキーにフィットします。
音は重量級でよく飛ぶ感じです。

さすが伝説のフルートメーカー「マテキ」
残念なことに2019年廃業されていて、もう新たに作られることはありません。

1878年創立当時創設者の渡辺氏は
「国内ではまず売れないと思ったし、また売る予定もありませんでした。だから外国の人が発音しやすく短い<マテキ>にしました。<magic flute>といえば、コンベンションでも興味を引きます。」と言っています。

当時、海外では、日本産のフルートはどのメーカーも同じようなもので個性がないと考えられていました。
そこで渡辺氏は決意をします。

「そのころ社内で作れない部品を外部の会社に作ってもらう『外注』が盛んに行われていました。
しかし外注先の数が少なかったので、どのメーカーも同じ会社の部品を使います。すると見た目が似てくるのです。マテキ独自の楽器を作るには、できるだけ外注加工しないで社内でやるしかないと思いました。」

会社設立当時は、渡辺氏ひとりでハンドメイドを行なっていましたが、次第に注文が増加し、社員も一年に一人の割合で増えていきました。

しかしここで昭和60年から始まった急激な円高のため、日本の輸出企業は軒並み大ショックを受けました。

マテキフルートも例外ではなく、海外への輸出が困難となり、国内の販売に踏切らざるを得ませんでした。

しかし社員は技術者ばかりで営業経験はなく、手探りの状態で独自の流通にアプローチを始めました。

そして、国内での販売は、小売店に楽器を持ち込み販売を依頼する方法と、直接ユーザーから工場が受注する2つの方法に絞りました。

こうしてマテキフルートは国内でも販売されることになりました。

また、海外へ輸出を続けていたことで、留学をしていた日本の若手奏者にも認知・評価され、次第に国内でもその評判が広がっていきました。

「よく楽器一本にそこまで手をかけなくても‥と言われます。私自身、この仕事の仕方は今の時代からしたら遅れた世界だと思うこともあります。でも、細かい部分、見えないところと大事にしないといい楽器にはならない。これからも自分たちが納得するいいものを作り続けていきたいんです。」

(参考文献 アルソ出版「国産フルート物語」)


マテキフルート年表
1978年(昭和53年)6月 埼玉県坂戸市にマテキフルートを設立

1978年(昭和53年)11月 マテキフルート第1号完成。輸出専門メーカーとして、1986年までは総銀・金製フルートのみを生産。

1985年(昭和60年)8月 新素材、G10(金10%)製のフルートの開発を始め、第一号完成。マテキオリジナルとして製品化・発表する。

1997年(平成9年)8月4日 代表 渡辺茂氏逝去  8月 第8回フルートコンベンション(横浜)にて、AG990モデル発表・製品化。12月 渡辺栄子氏が代表となる。

その後、頭部管ノーマークBタイプ、Gタイプを開発。
02モデルの受注を停止。

2011年(平成23年)渡辺竜一氏が新会社「フルート工房マテキ」を設立。

その後、02、03、バラードモデルの生産を中止。AG900モデルを製作。

2019年(令和元年)12月31日 廃業

2014年に立花雅和さんが、マテキフルートを訪れて吹き比べをした動画をあげておられました。
このラインナップ、すべてないと思うと…。





荘厳ミサ曲

2024-01-26 21:00:00 | 古典
火曜日に新幹線の車窓から見えたたぶん伊吹山。
山頂に少し雪が積もっていました。
昨日から寒波で今日は一段と寒くなりました。
伊吹山も今頃真っ白になっているかも。
雪の伊吹山、荘厳な感じがします。
新幹線の中にLineが来てオケに誘われました。ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)演奏しない?」
引き受けました。

ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没


の肖像画の中のこの肖像画は
ヨーゼフ・カール・シュティーラー(Joseph Karl Stieler 1781~1858)。

ドイツのマインツで生まれ、ウィーンやパリで絵を学び、1820年からバイエルン王国の宮廷画家を務めた肖像画家です。

このベートーヴェンの肖像画は1819年から20年に描かれたもので、ちょうどベートーヴェンが50歳を迎えようかという時期の顔です。手にはその頃作曲中だった〈ミサ・ソレムニス〉の楽譜が描かれています。

ミサ ソレニムスはミサの名称の一つで主司式司祭と助祭・副助祭による読唱ミサに、合唱による歌ミサを伴うものをこう呼びます。音楽用語としては『荘厳ミサ曲(そうごんみさきょく)』と訳されます。

ベートーヴェンは壮年期のミサ曲ハ長調と、晩年のミサ・ソレムニス ニ長調を残しています。

前者は伝統的な教会音楽の上に作られた作品であるのに対し、後者は単なる教会音楽を超えたより深く普遍的なものを含まれていると言われています。

その理由としては、テキスト自体はカトリックの典礼文に則っているものの、『クレド』以降の歌詞の取り扱い方が伝統的なそれとかなり異なっています。

ミサの式典ではほとんど演奏されず、演奏会で、演奏されます。

ベートーヴェンのミサ・ソレムニス ニ長調 作品123は、1823年に完成された晩年の大曲です。

心から心へ
自筆譜のキリエ冒頭には、
Mit Andachtという指示の他にベートーベンが
"Von Herzen ― möge es wieder ― zu Herzen gehen"(心から出で、願わくば再び、心へと至らんことを)と書いています。

これは人類に向けた普遍的なメッセージと捉えられ、第九と並んで人類愛をうたうベートーベンというイメージに寄与して来ました。

献呈の相手はベートーヴェンのパトロンの1人ルドルフ大公。

1788-1831年1803年頃に出会い、ベートーヴェンがなくなるまで年金を贈り続けました。

当初、大公の大司教就任祝いとして書き始められました。しかし、書き進むうちに次第に構想が広がって、就任式に間に合わなくなり、完成までに結局5年間を要しました。
実際に大公が演奏したかは不明ですが、現在でもベートーヴェンが書いた最後の大宗教曲として広く演奏されています。

ベートーヴェンは権威的・教条主義的なキリスト教会に対して、批判的な思想と宗教観を持っていたという事も注目されてきました。

ワーグナー


はこのミサ曲を「真正なベートーヴェン的精神を持つ、純粋な交響曲的作品」と評しました。
20世紀を代表するベートーヴェン研究家のパウル・ベッカー

1882- 1937年パウル ベッカー
「素直な信仰から生じる歌詞に(音楽を)合わせる様な処理はベートーヴェンの考えには現れえず」、
「音楽家として自身の深く自由な思想を、単なる歌詞の意味を超越した音楽によって表現している」と語っています。

ただ歌詞に見合った曲をつけたような旧来型のミサ曲ではなく、ミサの言葉の外面的な意味よりも豊かな内容を含む交響曲的なミサ曲だと言われています。
キリエ   神よ憐れみ給え
グローリア 神の栄光のうちに
クレド   私は信じるひとつの神を
サンクトゥス 聖なるかな
アニュス・デイ 神の小羊




メソードの創始者

2024-01-25 21:00:00 | 音楽
23日は名古屋の富久田先生のお宅でピアノ合わせでした。
2月14日(日)ドルチェ楽器名古屋での富久田先生門下発表会の合わせでした。

ピアノは鬼頭久美子さん。
ブリジアルディの「ローエングリンの主題による幻想曲」です。
鬼頭さんは、初対面でしたが、どう転んでもうまくて合わせてくださって素敵な、ピアニストでした。
今度、富久田先生と京都で演奏会をされるそうです。
お近くの方、ぜひおいでください。

こってり絞られて

名古屋駅で

名古屋名物セット。
名古屋コーチン手羽先、味噌カツ、名古屋コーチンつけ麺。
食べて帰りました。

手羽先が美味しかったので名古屋駅のお土産店で買いました。

「「世界の山ちゃん」じゃないの?」と夫。
「1人で100本頼むっていうやつ、お店で買ってきたんじゃないの?」

「うーん、違うみたい。」
栄まで行ってないし。
「これだって、創業100年だって、ほら!」
あの番組のファンで良く覚えてます。

名古屋出身の音楽家といえば、
鈴木鎮一(1898-1998年)愛知県名古屋市生まれ、長野県松本市没

ヴァイオリン教育のスズキ・メソードの創始者です。

1898年に愛知県名古屋市に父・政吉と母・良の三男として生れます。

父・鈴木政吉は鈴木バイオリン製造の創業者で、1888年(明治21年)よりバイオリン作りを始め、日本で最初のヴァイオリン工場を設立しました。

大府に再建された工房、政吉の建てた工場は第二次世界大戦中に接収、水上飛行船の製造工場に改変され、そのため爆撃され焼失、兄弟の1人が亡くなりました。

そのため幼児期よりヴァイオリンに囲まれる環境に育ちます。
実家は兄弟妹13人(うち2人は夭逝)からなる大家族で、少年時代は父親の工場へ遊び場の様に出入りしていたそうです。

商業学校に入ってからは夏休みになると工場で働く様に父に命じられ、バイオリン製作について一通りのことを覚えたそうです。

卒業の前年頃、たまたま蓄音機を手に入れて、名バイオリニスト ミッシャ・エルマン
1891-1967年ウクライナ出身ニューヨーク没
が演奏するシューベルトの「アヴェ・マリア」のレコードを買ってきて初めて聴き、それまでバイオリンを玩具のようなものだと思っていた鎮一でしたが、バイオリンが美しい音を出すことに非常に驚き、音楽・芸術に関心を持つ様になります。
その後、エルマンのレコードを買い、ハイドンのメヌエットなど弾けそうな曲から譜面も無しに練習し、兄梅雄の手ほどきもあり、我流ながらもバイオリンを弾く様になります。



ベルリン高等音楽学校の教授であったカール・クリングラーに師事します。また後見人役にアルベルト・アインシュタイン博士
1879-1955年ドイツ生まれ、アメリカ合衆国プリンストン没
を紹介され、交流しています。
1928年母の危篤の報せを聴き帰国。
国立音楽学校、後に帝国音楽学校の教授になり教え始めます。

スズキ・メソードを国内で教え続けていましたが
1964年アメリカに10名の子どもたちを連れて演奏すると、アメリカの音楽教育界に衝撃を与え、以降当地で広がり、コンサートも継続。

1978年(昭和53年)、日米親善コンサートのため100名の児童を率いて渡米、アメリカ側の100名の児童も加わってケネディ・センターで行われたコンサートは、カーター大統領夫妻が招待され、同月カーネギーホールでも同様の演奏が行われました。

スズキ・メソードの思想

・才能は生まれつきではない。

・母語の教育法が、落伍者のない最高の教育法である。

・人は環境によって育てられる。
どの子も、育て方次第でよく育つ可能性をもっている。

・音楽教育は言葉の教育と同じ、まず耳から育てる。(言葉もまず話せるようになってから読み書きを学ぶ。)

・より早い時期、より良い環境が大切である。

・経験の繰り返しによって、能力が育つ。

・親と教師をはじめとする社会的環境は、高い水準に保たれるべきであり、子供の成長にとってより良い環境を提供できるように向上し続けなければならない。

・指導法および学習方法は、まず良いモデルが与えられた上で、子供が常に興味と意欲をもてるような手段で、幼児の場合は親に、その後は子供に、充分理解されなければならない。



神経質な金魚

2024-01-24 21:00:00 | 現代
月曜の夜はフルートアンサンブルレッスンでした。

大阪エスカルもメンバーが増えて来ました。

先月1stフルートから6thフルート、バス、アルト1人1パートずついることになり、もう一人入ったので4thに2人。本当はコントラバスフルートがいるのですが、コントラは会として持っているので神戸のオルフェオに一本しかありません。

本番ではバスを吹いている高橋さんがコントラに回るそう。

この日は神戸エスカルの竹内聡さんが1stを吹いてくれました。

ドビュッシーの「小組曲」は竹内さんが編曲してくれています。
演奏しながら、ちょこちょこ変更、調整していました。

自主練の成果か、珍しく榎田先生ニコニコ。
「ずいぶんマシになったなぁ!」
珍しく褒められました。
「秘密の特訓の成果か!」とニコニコ。
レッスン後、H嬢に「鯛ラーメン食べに行きますが、行きませんか?」と、誘われて女性4人で一緒に行きました。男性陣は呑み会に消えました。

お店に入ったらいろいろメニューがあって、みんな鯛茶漬けにしました。

カウンターに座るとはじめにマニュアルが出てきました。

「写真は初めの20秒?」みんな同じところに突っ込んでしまいました。
「初めにさっさと撮らないと味が落ちるっていうことか、。」
期待が高まります。

来て20秒で撮りました。
初めに鯛のお刺身を味見。
それから鯛をごはんにのせてダシをかけます。

色変わりました。

七味や、山椒オイルで味変しながら食べます。
鯛の出汁のラーメンも泡…この泡が特徴だそうです。
濃厚でした。
久しぶりに女性だけて、ガールズトーク。
楽しい夜でした。

アレック・ワイルダー(1907–1980年)ニューヨーク州ロチェスター生まれ、アメリカ合衆国の作曲家。

クラシック音楽、ポピュラー音楽の分野も多くの歌曲を残しました。

富裕な名士の家に生まれましたが、ティーンエイジャーの頃に家族と絶縁しました。作曲はほぼ独学で、1920年代の一時期、地元のイーストマン音楽学校に通いましたが中退しました。
(後の1973年にイーストマン音楽学校から名誉学士号を得ています。)

生涯独身で、孤独を好み、長くニューヨークでのホテル住まいを送りました。

11のオペラをはじめとしてクラシック音楽の作曲をし、自ら八重奏団を結成しました。作風はジャズの影響を強く受けています。

1930年代後期からポピュラー音楽の分野で頭角を現し、フランク・シナトラ、ペギー・リー、トニー・ベネットら当代のポピュラー歌手たちと親交を結び、ポピュラー音楽の作曲家・編曲家として活躍しました。

特にシナトラとの親交は深く、1940年代、ワイルダーが自身のクラシック作品をレコード録音させてもらえず悩んでいた際、シナトラは人気スターとしての知名度で「自分が(名目上)ワイルダー作品の指揮をする」という企画を立ち上げて録音を実現させ、ワイルダーを助けたこともあるそうです。

ポピュラー歌曲の作詞では、ワイルダー以外と手を組んだことのない作詞家ウィリアム・エングヴィックが多いですが、自ら作詞も手がけました。

1940年代に手がけた曲は「I'll Be Around」「While We're Young」などジャズの分野でスタンダードとなった作品が少なくありません。

晩年にはサド・ジョーンズのインストゥルメンタル曲「ア・チャイルド・イズ・ボーン」の作詞も行っている。

また批評家としての著述も手がけており、1972年に発表した「American Popular Song: The Great Innovators, 1900–1950」は、20世紀前半におけるアメリカのポピュラー音楽作家の作品とその曲・詞について詳細に分析・批評しました。

本書の著述に際しては、アメリカのポピュラー作曲界における巨匠アーヴィング・バーリン(1888-1989年)
ロシア帝国 チュメニ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没
ユダヤ人難民として生まれ5歳でニューヨークに移住ラグタイムを初め、ポピュラー音楽、映画音楽の分野に一時代を画しました。ゴッド・ブレス・アメリカ、ホワイトクリスマスなど
の作品に対しても容赦ない批評を下し、バーリン本人を激怒させた逸話も残しています(このためバーリン作品の楽譜は収録できなかった)。

アヴァンギャルド(avant-garde 前衛)の逆で「デリエール・ギャルド」(derriere-garde 「後衛」の意か)と自ら評する保守的ポリシーの持ち主でした。

「神経質な金魚」
1951年にコロムビアからワイルダーのアルバムを出しています。
その中の一曲です。

自身の率いているバンドでオクテットで、オーボエ、フルート、クラリネット、バスーン、ハープシコードなどのアンサンブルで演奏しています。
ジャズを基調にクラシックの要素も踏まえた曲想になっています。












チキン南蛮の夜

2024-01-23 21:01:00 | 古典
京都コンサートホールの帰り、やっぱりくずはモールで母の買物に付き合い、夕食を一緒に食べました。
「お寿司がいい。」と言ってましたが、混んでいるのでフードコートのタニタ食堂で食べました。

野菜デリ
ごはん大中が選べますが、「小はないの?」と母は聞いています。
「無いんです。小より少ない目にしておきますね。」お姉さんナイスです。

母のは、チキン南蛮定食。

「チキン南蛮って!違うわ。これはタルタルソースがけやわ。」
「南蛮は甘酢あんかけみたいな…。」と私。
「これは違う。」
「そうかなぁ?」

ウィキペディアで調べてみました。
宮崎県発祥、小麦粉をまぶした鶏肉(主に胸肉)を溶き卵につけて揚げ、甘酢タレ、南蛮タレにつけて食べるもの

南蛮タレ 酢 砂糖 醤油を混ぜたもの。

だったそうです。 
そうそうこれこれ!

しかし、何時の頃からか家庭に広まって、タルタルソースをかけて提供されるようになったとのこと!

タルタルソースは玉ねぎをみじん切りにして、ゆで卵を潰して酢とマヨネーズと混ぜ、塩コショウで味を整えたもの。

鶏の唐揚げにタルタルソースをかけたもの、揚げ鶏に南蛮タレにつけてから、タルタルソースをかけたもの。などなどいろいろなヴァリエーションが生まれているようです。

みなさんのチキン南蛮はどれですか?

バカバカしい話題ですみません。
母のお供で疲れたので、ついでに今日は、一時期席巻したチキンミュージック。
いろいろな人が出していますが、結構ピアノやヴァイオリンの実力者が多いこと。この人もピアノ上手いです。

モーツァルトの歌劇「魔笛」より夜の女王のアリアを…チキンで。





ブルックナーの5番

2024-01-22 21:00:00 | ロマン派
21日は京都コンサートホールでのオーケストラ リベルタの第6回演奏会に行きました。
指揮は坂入健司郎さん。

今日は東京ユヴェントス フィルハーモニーを招いて合同コンサート。
実は姪の山口夏海がユヴェントスに入っていて第2ヴァイオリンで出演したので母と一緒に見に行ったのです。

東京で今度リサイタルをします。
3月24日(日)加賀町ホール
14:30開場15:00開演
お近くの方、お時間がありましたらぜひおでかけくださいね。

今日のプログラムの一曲目
ヒンデミットのウェーバーの主題による交響的変容
ナチスに退廃音楽のレッテルを貼られ、1940年アメリカへ亡命。
1953年までアメリカにいました。
その中で最も成功した曲がこの曲です。
ウェーバーの劇音楽「トゥーランドット」と、「4手のためのピアノ曲集」から主題がとられています。
こちらは地元のオケ リベルタだけの演奏でした。 

若いオーケストラですが、難しいアンサンブルを小気味よく演奏してくれました。

2曲目はアントン ブルックナー(1824 - 1896年) オーストリア アンスフェルデン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

の「交響曲第5番」変ロ長調WAB105。

『第4番「ロマンティック」』の第1稿を完成させた翌年、1875年の2月に作曲に取りかかります。

この当時、彼はウィーンでその都会的な空気に馴染めぬ中で職探しを行ったり、反ワーグナーを掲げる音楽評論家のエドゥアルト・ハンスリックに冷遇されたりするなど、経済的に困窮し且つ精神的にも落ち込んでいました。
それが却って創作意欲を高め、同年6月までに3つの楽章を書き上げ、続けて終楽章の作曲に着手しています。

交響曲第5番』自筆譜(総譜)・1ページ目

作曲開始から1年余り経った1876年5月に全曲の一応の形を仕上げますが、そこから丸1年経過した1877年5月に再度推敲を開始。
この再推敲では数多くの改訂が試されましたが、その際にチューバも必要楽器編成の一つとして追加しています。

1878年1月4日に完成となりました。

作品自体は完成しましたが、なかなか初演の機会に恵まれず、完成から16年余り経った1894年4月9日になってようやく、グラーツで 弟子のフランツ・シャルク(1866-1931年)
オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア エドラック没
の指揮により初演されました。が、当のブルックナー自身は老年期に入っていて病弱だったため立ち会うことが出来ませんでした。

またこの時のシャルク指揮による初演では、「時流に合わせてわかりやすくする」という理由で、曲の響きをオリジナルスコアから全く改変させてしまうほどの改訂を行っています。(2年後の1896年にドブリンガー社から出版されたものも同じ版)

この曲は、10ヶ月後1878年11月4日、オーストリア=ハンガリー帝国の文部大臣カール・リッター・フォン・シュトレマイヤーに献呈されています。 
この背景として、1868年にウィーン音楽院教授に着任してから、
ブルックナー自身の生活水準は悪くなかったにもかかわらず、創作の時間が無いという不安から執拗なまでに助成金援助や要職への任命懇願を同国文部省に行っていました。

なおこのブルックナー着任当時、ウィーンでは作曲家として無名の存在で、音楽院内では必ずしも優遇されていませんでした。

「交響曲第5番」変ロ長調WAB108番
東京ユヴェントス フィルハーモニー
坂入さんの指揮のものがありました。
このシャルク版で演奏されています。