音楽の喜び フルートとともに

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7弦ギターを愛好

2024-04-17 22:37:00 | ロマン派
うちの庭のアザレアが満開です。
火曜日の朝、次男の検診に行きました。
レントゲンを見ながら、
「だいぶできていましたね。」
「これなら来月ワイヤー取れそうですね。」

「えっ!来月?!」

1年後にチタンを取るというのが、はじめの話しでしたが、まだ2ヶ月。

「3ヶ月経ったので、大丈夫でしょう。様子を見ながら…。」
帰りの車で
「3ヶ月なら保険降りない。半年はつけてないと。」
と次男。
「えっ!そうなの?」
「労災だから負担は無いけど。」
何なんだろ?本来は喜ばなくちゃいけないんだろうけど、心配になってきました。
レントゲン写真ではまだ骨に隙間があるように見えましたが…。

疑ってばかりではいけないと思いますが、どうしても「大丈夫?」という気持ちが湧き上がってきました。

ナポレオン コステ(1805-1883年)
フランスのブザンソン近郊のアモンダン (ドゥー)で生まれ、

彼は熟練した演奏家の母親からギターを教えられました。

10代の頃、教師になり、フランシュ・コンテ劇場で3回のコンサートに出演しました。

1829年、24歳のとき、彼はパリに移り、そこでフェルナンド・ソル(1778-1839年バルセロナ生まれ、パリ没)に師事し、すぐにフランス初の名手ギタリストとしての地位を確立しました。

到着後数年間、パリでのギタリストの需要は減少したにもかかわらず、コステはプロの音楽家および作曲家として経済的安定を達成していました。

出版社が見つからなかったので、彼は自分の作品を自費出版する必要がありました。

ナポレオン・コストは、エクトル・ベルリオーズを含む当時の初期古典ロマン派の作曲家に影響を受けました。

コステの作品番号 47「La Source du Lyson」は、ベルリオーズの標題音楽とよく似た自然からインスピレーションを得たものです。

コステは1863年に左肩を負傷しました。が、死の2年前の1881年まで公の場での演奏を続けることができました。

師匠のフェルディナンド ソル

の死後、コステはソーのオリジナルのギター・メソッドを多数の例とレッスンを加えて増補しました。
タイトルは「フェルディナンド・ソルによるギターのための完全なメソッド、運指法」となりましたが、コステによる多数の例と教訓を多く入稿しました。

コステはフリーメーソンの団体「レ・フレール・ユニ・インセパラブルズ」の会員だった。

コステは7 弦ギターを演奏するのが特に好きでした。彼は、通常 D または C にチューニングされた「フローティング」(浮遊弦)7 弦を備えた、ラコート(ルネ フランソワ ラコート ギター製作者)ヘプタコードと呼ばれるユニークな 7 弦ギターで有名でした。

ナポレオン コステと7弦ギター





7弦ギター

この発明により、他の弦を弾いているときでも浮遊弦が共鳴して振動するため、演奏時に音色にさらなる深みが生まれました。

彼は、17 世紀のギター音楽を現代の楽譜に転写した最初の作曲家の 1 人として知られています。

ナポレオン コステ 「大狂詩曲」作品11
7弦ギターによる演奏です。




コックス アンド ボックス

2024-04-16 21:00:00 | ロマン派
日曜日
お花見は船がいいかも。


と思いましたが、カヌーはもっといいかも。

お隣のカヌーの人と世間話しをしながら目の前を通り過ぎて行きました。

カヌー乗れたらなあ〜!

調べてみたら、免許も資格も要らないらしいです。
ただし、カヌーやカヤックに関連する法律には「港則法」「船舶安全法」「海上衝突予防法」「海上交通安全法」などがあり、安全に運航するには、法律をおさえておくことは大切かもしれません。

初めはインストラクターさんに学んだほうが良さそう。

枚方市にもカヌー協会があって淀川や木津川で活動されているみたい。
枚方市長杯カヌーマラソン大会も開催されていて御幸橋から枚方大橋までの11キロ、淀川をカヌーで走るそうです。

知らなかった。

最も古いカヌーは6千年ほど前のユーフラテス川近くにあるシュメール人の王墓から発見されています。


スポーツとしての近代カヌーは、19世紀にイギリスで芽生え、1866年イギリスのテームズ川で初めてレースが行われました。

1924年に国際カヌー連盟(I.C.F)が設立され、第1回の世界選手権大会は1930年、オリンピックの正式種目として採用されたのは1936年の第11回ベルリン大会でした。

アーサー サリヴァン(1842-1900年)イングランド ロンドン生没

1866年24歳の時にコミックオペラ「コックス アンド ボックス」を書きます。
このオペラは大流行して、サリヴァンは作曲家としての地位を固めます。

ジョン・マディソン・モートンによる1847 年の茶番劇『ボックス・アンド・コックス』を基にした、 FC バーナンドの台本によります。

コックスはベッド、タンス、テーブルと椅子、暖炉、そして 3 つのドアのある部屋に住んでいます。

家主の用心棒軍曹が仕事に行くコックスの準備を手伝っています。

コックスは用心棒に、「なぜ部屋がいつもタバコの煙の匂いがするのか?」と尋ねます。

用心棒は「屋根裏部屋の住人からのものに違いない。」と答えますが、コックスは「煙が下ではなく常に上に移動している。」言います。
また、石炭、マッチ、ろうそく、お茶、砂糖などの備蓄がなぜなくなっているのか不思議に思っています。

用心棒はそれは「猫の仕業だった。」と言います。コックスがこの説明を受け入れないままに仕事に遅刻し、謎は解けないまま仕事に行ってしまいます。

実はその部屋には2人の宿泊者がいて、どちらも相手のことを知りません。

帽子屋のコックスは昼間ずっと働いています。印刷屋であるボックスは一晩中働きます。
時々階段を通過することを除いて、彼らは接触することはありません。

用心棒は急いで部屋の整理をし、コックスの持ち物を隠し、ボックスの持ち物を外に出します。

ボックスが帰ってきて用心棒を退けた後、彼はロールパンを取り出し、火をつけ、ベーコンを焼き網の上に置きます。疲れ果てた彼はベッドに横になって昼寝をします。

コックスは思いがけず雇用主から休暇をもらいます。 
彼は帰宅して、テーブルの上にロールパンがあるのを見つけて喜びましたが、すでに火が点いているのを見つけて驚きます。

用心棒が不在中にその部屋を使用していたものと思い込み、焼き網からベーコンを外し、マトンチョップと交換し、朝食用の道具を取り行きます。

コックスの楽屋のドアがバタンと閉まる音でボックスは目を覚ましますが、ボックスは突然ベーコンのことを思い出します。
焼き網の上にマトンチョップが置かれているのを見た彼は、それが用心棒のものだと思い込み、それを窓から投げ捨て、ベーコンは外の歩行者にぶつかります。

彼は再びベーコンに火をつけ、朝食の道具を取りに行きます。
そこにコックスが戻り、ベーコンが置かれているのをもう一度見て、彼はベーコンを窓の外に投げ捨て、歩行者に二度目の衝撃を与えました。

ボックスが再び入ってきて、二人は初めて対面します。
それぞれが相手に退去を迫ります。


家賃の領収書を出し合い、騙されたことに気づきます。

用心棒が到着し、追い詰められ、その部屋が二人のものであることを認めます。

1874 年のゲイエティ作品、フレッド・サリバンがコックス役で出演

彼は、どちらが現在の部屋を空けるかを決定するよう彼らに任せます。
それぞれが相手に去るべきだと提案しますが、どちらも動じません。最後に、彼らはすべて用心棒のせいであることに気づき、友達になるのもいいかもしれないギターでお互いにセレナーデを歌います。

会話の中で、コックスは婚約者がいることを認めます。彼女は少し離れたところにある店の経営者なので、姿を現す可能性は低い。と言います。

一方ボックスの恋人は「ここ3年間は行方不明」だといいます、。コックスは、望まない結婚から逃れられるのであれば、自分が失踪しても構わないと認めています。
ボックスは、数年前にもまったく同じ苦境にあったと説明します。結婚前夜、彼は遺書とともに私物を崖の端に残して。誰もが彼が飛び降りたと思ったので、彼は予定していた花嫁であるペネロープ・アンから解放されました。

その名前を聞いたコックスは、ボックスが逃れてきた婚約者と同じであることに気づきます。
コックスはボックスをペネロープ・アンに戻すと宣言するが、ボックスはコックスから彼女を奪うことなど夢にも思わないと言います。

問題を解決できない彼らは、最初は決闘を提案しますが、より穏やかな解決策を選択します。

最初にサイコロを投げますが、各人は 6 の目しか出ないトリック サイコロを持っています。次に、コインを投げてみますが、それぞれが「表」だけを投げ続けます。

ついに用心棒がマーゲートからの手紙を持って到着します。
手紙には、ペネローブ・アンが航海事故で行方不明になり、全財産を「私の予定していた夫」に遺したことが書かれていました。


二人はどちらが受益者なのかを決めようとしますが、用心棒が二通目の手紙を持って到着し、ペネローブ・アンは結局生き残ったのでその日遅くに到着する予定であることを告げます。

二人は立ち去ろうとしますが、用心棒は3通目の手紙を持って到着します。
それには「ノックス氏との即時結婚について急いでお知らせします。」とありました

突然、ボックスはコックスが生き別れた弟に違いないことに気づき、コックスは自分も同じ思いを抱いていたと言います。
ボックスはコックスの左腕にイチゴの跡があるかどうか尋ねます。
彼らは生き別れの兄弟だということが判明し、彼らは永久に部屋に残ることに同意します。
用心棒は「ラタプラン!」と、叫び、大歓喜の中、幕が下ります。

「用心棒、そこにいろ!」




夏の城

2024-04-13 21:02:00 | ロマン派
桜に誘われて、伊賀上野、上野城まで行って来ました。
母と姪、私、次男の運転です。
初めは蟹満寺の駐車場近く、井手町の桜。
葉桜もちらほらありましたが、
まだお花もたくさん。

イタドリも。

もちろん何本か取って帰りました。

山城道の駅で、野菜を買って、茶そば定食を食べて

車で30分

上野城

桜とお城がいい感じです。


天守閣に昇りました。
1585年に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。
慶長13年(1608)6月、筒井定次は改易となりました。
慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。

大阪冬の陣で豊臣に対峙し勝利をおさめた後、1833年天守閣が暴風で倒壊しますが、戦乱は終わり必要なかったため城代屋敷を置き、そのまま江戸時代を送ります

1935年に建て直されました。

調度などが

展示されています。

天守閣から上野市を望めます。



藤堂高虎が築いた高石垣

大阪城の石垣に次ぐ日本で2番目の高さの石垣です。


上野城が倒壊した1833年にヨハネス ブラームス(1833-1897年)自由都市ハンブルク生まれています。オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

が生まれています。

彼は1880年デュッセルドルフの近くのクレーフェルトの郊外、リン城を訪れています。
ブラームスは1878年から1893年までの間にイタリアや他の地域を訪問し、気持ちの良い地方を探して夏の間に作曲しています。
1880年頃というと、交響曲第3番を作曲中でした。
当時の城主は音楽が好きだったようで楽器があちらこちらにおいてあります。

マリアンヌ ロディウスとクリストフエドゥアール ロディウス


1806 年にデ グライフ家が城の所有権を引き継いだとき、フィリップ デ グライフとその家族は狩猟小屋に定住しました。
マリアンヌ・ロディウスは、フィリップ・デ・グライフとマリアンヌ・テル・メールの娘として 1814 年に生まれ、ここで育ちました。 1850年頃、彼女はケルンの商人でワイン商のクリストフ・エドゥアール・ロディウスとの結婚後、生まれた家に戻りました。

ブラームスはその頃何度かこの城を訪れています。

交響曲第3番











中国の笛と李白

2024-04-12 21:03:00 | ロマン派
夫が出張したときの、韓国のお土産。
もちもちした生地に甘さ控えめの餡が美味しかったです。

こちらは中国
まさかのラップ巻き

江南のもち米とみどりゴマ団子とGoogle lensとGoogle翻訳で出てきますが、ホントのところはわかりません。
少し甘めのこし餡をお餅で包んである感じで、素朴な美味しさでした。

グスタフ マーラー(1860-1911年)オーストリア帝国ボヘミア王国カリシュト生まれ、オーストリアハンガリー帝国ウィーン没
1908年作曲の「大地の歌」は副題として「テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲」(Eine Symphonie für eine Tenor und Alt (oder Bariton) Stimme und Orchester )とあり、マーラーが9番目に作曲した交響曲です。第9のジンクスを恐れたマーラーが第9という番号を振らなかったことでよく知られています。

この曲が歌詞に採用したのは、ハンス・ベートゲ (1876-1946年)
1913年ほかにもリヒャルト・シュトラウス、エルンスト・トッホ、アルノルト・シェーンベルク、アントン・ウェーベルンら多数の作曲家が曲をつけています
編訳による詩集『中国の笛-中国の叙情詩による模倣作』です。

ベートゲは中国語を解さず、『中国の笛』は、既出版の『中国の叙情詩』(ハンス・ハイルマン)、『唐詩』(エルヴェ・ド・サン=ドニ侯爵)、『玉書』(ジュディット・ゴーティエ)からの翻訳(サン=ドニとゴーティエの詩集はフランス語)あるいは自由な模倣によっています。

このため、原詩にほぼ忠実なものや自由な模作となっているものが混在し、元となった唐詩については特定できていないものもあります。

これはドイツ・オーストリアにとどまらず、ヨーロッパの風潮で
文学、絵画を含めた芸術分野で「死」をテーマとした作品が数多く生み出され、同時に、エキゾチズム、とりわけ日本を含めた東洋への関心も高まっていました。

ベートゲの『中国の笛』は、このような時代の空気の所産です。

1918年第9版中国の笛ハンス ベートゲ

『大地の歌』に無常観、厭世観、別離の気分が漂っていますが、このことで、マーラー自身が東洋的諦観に達していたとは必ずしもいえません。

しかし、彼は人間は死んで地上からいなくなるが、大地は永遠に繰り返して花を咲かせ、緑に覆われるというイメージを持っていて、10代のころから手紙でこのことに触れています。

マーラーがベートゲの『中国の笛』に出会ったのは作曲の前年1907年秋(同書の出版は同年10月)と考えられるます。

その年の夏、マーラーは長女マリア・アンナの死に遭い、自身も心臓疾患の診断を受けました。

同年暮れには、10年間務めてきたウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を辞任し、渡米するという転機を迎えています。

マーラーにとって、死が身近なものとなり、音楽活動だけでなく、実生活面でもヨーロッパとの訣別という心情があったと考えられます。

それぞれの楽章に、李白の詩を下敷きにしたベートゲの翻案詩が使われていますが、原作と違っていておもしろいです。
第5楽章が今の季節を表しているので、これだけを最後に上げてみました。
全部上げると長いので…。

1. Das Trinklied vom Jammer der Erde
第1楽章 大地の哀愁に寄せる酒の歌
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「悲歌行」による

.2 Der Einsame im Herbst 第2楽章 秋に寂しき者
Tchang-Tsi ? (765? - 830?) 銭起の詩「效古秋夜長」による(未だ特定されてはいません。)

3. Von der Jugend
第3楽章 青春について
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「宴陶家亭子」による

4. Von der Schönheit
第4楽章 美について
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「採蓮曲」による

5. Der Trunkene im Frühling
第5楽章 春に酔える者
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「春日酔起言志」による

6. Der Abschied
第6楽章 告別
Mong-Kao-Yen and Wang-Wei (701-761) 孟浩然の詩「宿業師山房期丁大不至」と王維の詩「送別」による


5. Der Trunkene im Frühling
第5楽章 春に酔える者
Li-Tai-Po (701-762) 李白の詩「春日酔起言志」による 

(ベートゲ、マーラー版)
人生がただ一場の夢ならば
努力や苦労は私にとって何の価値があろうか?
それゆえ私は酒を飲む 酔いつぶれて飲めなくなるまで
終日酒に溺れようぞ。

喉も魂までも溺れ酔いしれて
ついに酔いつぶれて飲めなくなったら
よろめきながら家の戸口にたどり着き
そのままそこに眠り込んでしまうのだ

目覚めて何を聞くのか さあ聞くがよい
前庭の樹の花 その花の中で鳴くは鶯一羽
私は鶯に尋ね聞く。<もう春になったのか>と
私はいまだに夢心地まどろむ

鶯囀さえずり、《そうです。春はすでにやって来た。
闇夜を渡り、春はここにやって来た》と
そうして私は聞き惚れ感じ入り、見つめれば
鶯はここぞとばかりに歌い、笑うのだ

私は新たに手ずから酒杯を満たし
盃傾け、飲み尽くす底までも、そして歌うのだ
明月が黒き帳の下りた夜空に昇り、輝き渡るまで

もし私がもはや歌えなくなったなら
その時、私はもう一度眠り込む
いったい春は私に何の役に立つのか
だから、このまま酔わせてくれ!


第5楽章「春に酔えるもの」
李白春日醉起言志 春日醉より起きて志を言う (詩:李白)

處世若大夢 胡爲勞其生
所以終日醉 頽然臥前楹
覺來盼庭前 一鳥花閒鳴
借問此何時 春風語流鶯
感之欲歎息 對酒還自傾
浩歌待明月 曲盡已忘情

處世大夢の若く 胡爲ぞ其の生を勞する
所以に終日醉ひ 頽然(たいぜん)として前楹(ぜんえい)に臥す
覺め來たつて庭前を盼(かえり)みれば 一鳥花閒(かかん)に鳴く
借問(しゃもん)すれば
此れ何れの時ぞ
春風流鶯(りゅうおう)に語る
之に感じて歎息せんと欲し
酒に對して還た自ら傾く
浩歌して明月を待ち
曲盡きて已に情を忘る

リッカルド・シャイー「大地の歌」全曲





4月の曲

2024-04-02 21:07:00 | ロマン派
日曜、阪南の帰りに見た木蓮の花。

月光に連れゆれにけり紫木蓮
         鈴木貞雄



もう木蓮の季節も過ぎつつあるようです。

ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル(1805~47)ローマ=ドイツ帝国自由都市ハンブルク生まれ、プロイセン王国ベルリン没

ウィルヘルム・ヘンゼル(夫)が描いたファニーの肖像
の室内楽の最高傑作が「ピアノ三重奏曲 作品11」ならば、
ピアノ独奏曲の最高傑作は、組曲「12ヶ月(Das Jahr)」。

ファニー メンデルスゾーンは
ハンブルクでユダヤ人上流階級に生まれます。

母方の一族は、大バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハのパトロンで、またその鍵盤楽器の弟子でした。

このためメンデルスゾーン家には音楽が根付き、子供たちは作法や語学教育などと並んで音楽教育を受けました。

特にファニーと弟フェリックスは、ピアノと音楽理論、指揮という共通の音楽教育を受けました。

弟と同じく彼女もまた、幼少の頃より並外れた音楽的才能を披露し、作曲も始めました。

フェリックスは姉の才能を理解し、高く評価してさえいましたが、女性が職業に就くことをはしたないとする当時の風潮からぬけ切れず、姉が職業芸術家として活動することに積極的に同意することはありませんでした。

父親の姿勢は息子フェリックスほど複雑でなく、娘ファニーに、「お前は弟の天才が理解できるのだから、それで満足しなさい」と明快に言い切っていました。

実際ファニーとフェリックスは、一生を通じて、今日研究の対象とされるほど膨大な往復書簡を残していて、その中でファニーは、しばしば弟の作品に助言と批評を与えています。

ファニーは弟フェリックスにとって良き理解者だったと言えますが、父親は彼女に、弟の相談相手になることを本心から促していたわけではなく、作曲と自作の演奏を諦めさせようとしていました。

1829年、何年かの交際の後、宮廷画家のウィルヘルム・ヘンゼル(1794-1861年)

自画像

と結婚し、翌年には一人っ子のセバスチャン・ヘンゼルを出産しました。
彼女は 1832 年と 1837 年に少なくとも 2 回流産または死産を経験しました。

1838年にはピアニストとしてデビューします。デビュー曲は、弟フェリックスの『ピアノ協奏曲第1番』でした。この頃にはファニーの作曲活動も再び活発になっています。

夫ヘンゼルは、ファニーの音楽的才能の最大の理解者であり、自作を公表・出版するよう根気よく説得しました。

その後数年間、ファニーが意欲的に作品の創作・出版に取り組んだのは、夫の励ましによるところが大きかったと言われています。

1839年9月、ファニーはウィルヘルム、9歳の息子セバスチャンと念願のイタリア旅行に出発しました。

ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ナポリ、ローマなどを巡り、ルネッサンス芸術とイタリア音楽を堪能しました。
とくにローマには1839年11月から1840年6月まで半年以上滞在し、多くの音楽家・芸術家と親しくなりました。

ローマのヴィラ・メディチ

にはフランスの若い芸術家たちが留学していました(「ローマ賞」の受賞者たち)。
ファニーは彼らと毎晩のように音楽を楽しみました。

芸術家たちはファニーの音楽的能力に驚嘆し、彼女を囲むサロンのようなものが形成されました。

なかでも21歳のシャルル・グノー(1818~93)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国サン・クルー没

は13歳年上の彼女にすっかり魅了され、熱烈な崇拝者となりました。

グノーはファニーのことを
「マダム・ヘンゼルは人並み外れた音楽家であり、すばらしいピアニストであり、才気あふれる女性だった。
 体つきは小柄だが、活力に溢れ、それは彼女の深い目と燃えるようなまなざしから感じ取られた。
 彼女は作曲家として稀な才能に恵まれていた。」シャルル・グノー「回想録」より
と言っています。

ファニーは彼らにバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンなどのドイツ音楽を弾いて聴かせました。
当時バッハの音楽はドイツ以外ではまだあまり知られておらず、新鮮な驚きをもって迎えられ、

グノーはのちにバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第1曲の前奏曲にメロディを乗せ、有名な「アヴェ・マリア」を作りました。

1840年6月にローマを立ち、11月にベルリンの自宅に帰ります。

ライプツィヒ通りのヘンゼルハウスにあるファニー・ヘンゼルの音楽室

1841年に作曲したのが、ピアノの組曲「12ヶ月」です。

ファニー・ヘンゼルの『Das Jahr』の原稿より4月(ヴィルヘルム・ヘンゼルによるイラスト)

この組曲は性格的小品集ではあるものの、コラール前奏曲やソナタ形式、ロンド形式、無言歌など、新旧の形式やジャンルが駆使されています。

組曲「12ヶ月」から、4月。
4. April. Capriccioso
母親と子どもたちが、遊んでいると雨が降って来て、早足で家に帰ります。







パリの生活

2024-03-25 21:03:00 | ロマン派
三木の出張帰りに夫がもう一品。
いちごが美味しい季節です。
素敵な名前がついていましたが、忘れました。
特に白いいちご…思い出せない!
知っている人教えてください。
白いいちごは赤いいちごに比べて甘さ控えめでしたが、食感が繊細でサクサクって感じでした。
赤いいちごは、本当に甘くて美味しかったです。

ヨーロッパでいちごが食べられたのは石器時代。
7世紀にはローマで栽培が始まったていたそうです。
しかし、野イチゴの品種で、今のいちごのようになったのはオランダ18世紀、北米のバージニアいちごと南米のチリイチゴの交配によるものだそうです。
この頃、世界の人々がヨーロッパの都市に押し寄せ、富を謳歌していました。いちごもアメリカ大陸から来た富の1つ。
パリも、そういう街の1つでした。

ジャック オッフェンバック(1819-1880年)プロイセン王国ケルン生まれ、フランス共和国パリ没



1866年オペレッタ「パリの生活」は、黄金期の一作です。
1867年パリ万国博覧会のために書かれました。

パリ万国博覧会のポスター
アンリ・メイヤック


とリュドヴィク・アレヴィ


はオッフェンバック作品のリブレットを数多く担当したコンビで、彼らにより台本が製作されました。

アレヴィはこの作品について
「皇帝の政策は取り返しのつかない戦争への道を歩んでいたのである」、「不安、、、有罪宣告された文明は常に快楽におぼれ、不安を忘れようとする。」と言っています。

パリの生活当時のプログラム

「パリの生活」あらすじ
第一幕
サン=ラザール駅クロード・モネ「サン=ラザール駅」(1877年)

物語は架空の駅から幕を開けます。
プラットホームでは二人の洒落者ボビネとギャルドフーが高級娼婦メテラの到着を待っています。

メテラはかつてギャルドフーと関係を持ちましたが、今やボビネも彼女を狙っています。
親友同士の二人は恋敵でもあったのです。

ところがノルマンディのリゾート地トゥルヴィルからの電車を降りたメテラは別の男を連れていて、二人を見て素知らぬ顔をします。

失恋した二人はメテラを諦め、誰か他の女性を口説こうと、当時パリ有数の社交場として知られたブルヴァール・サン=ジェルマンに赴きます。

ブルヴァールでギャルドフーはかつての従者であったジョゼフと偶然鉢合わせます。
ジェゼフは今や一流ホテル「ル・グランド=オテル」の従業員になっていて、スウェーデンからの観光客ゴンドルマルク男爵とその夫人を案内していました。夫人の美貌に惹かれたギャルドフーはジョゼフを言いくるめて案内人の役割を交代させ、彼女をものにしようと画策します。

一方その頃パリは外国人観光客が大挙して押し寄せていました。中には贅の限りを尽くそうとパリを訪れた金持ちのブラジル人

が「パリでお金を使い果たそう!」と歌います。

第二幕
1900年頃のル・グランド=オテル

案内人に扮したギャルドフーはゴンドルマルク男爵夫妻
ドラネールによるゴルドマルク男爵の衣装
を欺き、「ル・グランド=オテルは満員につき別館へご案内いたします」などと称し、まんまと二人を自宅に案内します。
そうとは気付かない田舎者の男爵は憧れの大都会を楽しもうと、一人繁華街へ散策に出かけます。
好色な男爵は夫人(クリスティーヌ)
初演でクリスティーヌ役を演じたセリーヌ・モンタラン
と二人きりの夕食では飽き足らず、あの娼婦メテラとのアヴァンチュールを求めたのです。

男爵が出かけると早速ギャルドフーは夫人をそそのかし、男爵と別の寝室に案内した上、友人たちの協力によりでっち上げた自らの晩餐会へと招待します。
靴屋のフリックは陸軍少佐を、手袋屋のガブリエルは大佐の未亡人を装い、皆で陽気なヨーデルを歌いながら宴を盛り上げます。

第三幕
シャルル・モット「社交界の舞踏会」(1819年)

ギャルドフーの依頼を受けたボビネは、男爵を欺くために叔母の別荘を使い、偽物の仮面舞踏会の手はずを整えます。
スイス人将校に扮したボビネは女中ポリーヌに男爵を誘惑させます。
鮮やかなドレスに身を包んだガブリエルが場を盛り上げ、ワインが滝のように注がれます。終いにボビネの衣服は破れ、招待客は皆踊りだします。
テンポの速いフレンチ・カンカンにより宴は最高潮に達します。


第四幕

1918年時のプログラムの表紙

ギャルドフーは自宅(偽物のル・グランド=オテル別館)に戻ると、男爵夫人を二人で夕食に誘います。
夫人はパリの景色を楽しみ、ギャルドフーの計画は成功するかに見えました。ところがその時、思いがけない来客がギャルドフーの自宅を訪れます。

ボビネの叔母ケンペル=カデラック夫人とその娘フォル・ヴェルデュール夫人です。二人がパリを訪れてみると自宅が騒ぎになっているというので、何事かと様子を見に来たのです。

さらにケンペル=カデラック夫人は偶然にもゴンドルマルク男爵夫人の知り合いでした。
ケンペル=カデラック夫人に部屋を用意するよう言われたギャルドフーは、その場しのぎに男爵の部屋を充てがいます。そこへ仮面舞踏会での夜遊びを終えた男爵が酔いつぶれて帰ってきます。

第五幕
一方その頃、パリにある別の一流ホテル「オテル・アングレ」では、金持ちのブラジル人が贅の限りを尽くして仮面舞踏会を楽しんでいました。

給仕長のアルフレッドは他の給仕たちを集め、これから起こることには目をつぶるよう命じます。

舞踏会には娼婦メテラの姿もありました。舞踏会を訪れたゴンドルマルク男爵は彼女に言い寄りますが、敢えなく断られてしまいます。

結局メテラはギャルドフーとよりを戻すことに決めます。
ゴンドルマルク男爵も夫人(クリスティーヌ)
アメリー・ディエトルル、ヴァリエテ座で1982年と1911年にクリスティーヌ役を演じた
に詫び、今までの行いを許してもらいます。

それを見ていたブラジル人はガブリエルと一緒に、これまでの出来事すべてを指して「これがラ・ヴィ・パリジェンヌさ」と言ってパリの生活を祝福します。




リストの愛したキャベツ料理

2024-03-22 20:57:00 | ロマン派
春キャベツ。
夫とテレビを見ていたら「うまそう。」「うん。」
と言ってたら火曜日、三木の仕事の帰りに道の駅でキャベツを買ってきました。
『家にも1個あるのに〜!』
で、私がスープを作っている間に夫と次男が作ってくれました。

うっすら焼いたトーストにマスタードを塗ってスライスしたサラダチキンをのせます。
ラップかけてレンチン一分のキャベツを絞って、


ペッパーマヨネーズを混ぜます。それをチキンの上に山盛りのせます。
もう1枚のパンにはスライスしたチェダーチーズをのせて、トースト。

それをキャベツの上にのせて、

半分に切ったら

キャベツたっぷりサンドイッチできました。

思ったより食べやすくて美味しかったです。
反省点はレンチン1分ということでしたが、家のレンジの加減では2分したほうが良かったかも。少しキャベツが固かった。
表面の方だったからかもしれませんが…。
そして、水曜日生協さんがまたキャベツ丸々1個届けてくれたのでした。
今夜はお好み焼きか〜!

フランツ リスト(1811-1886年)オーストリア帝国ハンガリー王国ドボルヤーン生まれ、ドイツ帝国バイエルン王国バイロイト没

オーストリア帝国領内ハンガリー王国ショプロン県ドボルヤーン(現在のオーストリア共和国ブルゲンラント州ライディング)で、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人(ドイツ系)の父アーダム・リストと、オーストリア人(南ドイツ人)の母アンナの間に生まれたリスト。

ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためです。

ワイマールのリストの家1869-1886年住んでいました。


リストのヘビシュタインのピアノが置いてあります。

家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語でした。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていました。このほか数ヶ国語に通じています。

彼はハンガリー人を自認していました。

家名の本来の綴りはドイツ系固有の List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りです。
ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていました。
1859年から1867年までの公式の氏名はフランツ・リッター・フォン・リスト (Franz Ritter von Liszt) でした。

これは1859年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりリッター(騎士)の位を授けられたためで、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もありませんでした。

この称号はカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要でしたが、カロリーネとの結婚が婚姻無効になった後、1867年にリストはこの称号を自身よりも年少の叔父のエードゥアルトに譲りました。

1838年のドナウ川の氾濫のときにウィーンでチャリティー・コンサートを10回も行い、演奏料をハンガリーのブダペストに災害救助金として寄付しています。

また、1867年オーストリア=ハンガリー帝国が成立し、フランツ ヨーゼフ

が皇帝になります。
その時「ハンガリー戴冠式ミサ」が ブダペストマチャーシュ教会

で、初演されます。

1881年〜リストが住んだアパートメント 音楽院として建築されていて、1875年〜音楽院として利用され、1879年〜リストは学長を務めました。
リストが作らせたピアノなども置いてあります。

上段はピアノ
下段はハーモニウムの音が出るそうです。

しかしリストは、生涯ハンガリー語は話せなかったそうです。

そんなリストの好物はロールキャベツ ハンガリー風だったそうです。

パプリカパウダーとマジョラムを入れて、サワークリームをのせるのがハンガリー風。
(「音楽家の食卓」野間浩資著 誠文堂新光社参照)

ハンガリー戴冠式ミサ R.487
1.Kyrie
2 Gloria
3 Graduale
4 Credo
5 Offertorium
6 Sanctus
7 Benedictus
8 Agnus Dei


シューマンの「春」

2024-03-20 21:53:00 | ロマン派
実家の山茱萸(サンシュユ)。
春黄金花は牧野富太郎がつけた名前です。

秋になると赤い実をつけるのでアキサンゴ花と呼ばれることもあります。
山茱萸は中国語で山のグミという意味だそうです。
中国、韓国原産。
江戸時代に日本に入ってきたそう。
実は漢方薬で滋養強壮などの効能があるそうで、薬酒にもできます。


山茱萸や まばたくたびに 花ふえて
         森澄雄

ロベルト シューマン(1810-1856年)プロイセン王国ツヴィッカウ生まれ、プロイセン王国エンデニヒ没
交響曲第1番変ロ長調作品38「春」(Sinfonie Nr. 1 B-Dur op. 38 "Frühling" )は、1841年1月から2月にかけて作曲され、同年3月31日、メンデルスゾーン


指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演されました。
ザクセン国王フリードリヒ・アウグスト2世


に献呈されました。演奏時間約33分。

シューマンの交響的作品は、第一番を書くまでに、何曲かあります。

1832年にト短調を主調とするものが試みられめしたが、未完に終わっています。
この曲は、故郷の地名を採って『ツヴィッカウ交響曲』と呼ばれています。

1838年から翌年にかけて、シューマンはウィーンでフランツ・シューベルトの兄フェルディナントを訪問し、ハ長調交響曲(D.944)の自筆譜

1845年ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社出版
を発見します。3月の初演に際して、音楽誌に「天国的長さ」という表現で紹介しました。シューマンがこの曲を実際に耳にしたのは1839年12月の再演時でしたが、この曲の影響を受けました。

1840年にはクララ・ヴィーク

と結婚し、歌曲を量産するとともに、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集やウィーン古典派の弦楽四重奏曲を研究しました。

シューマンはハ短調交響曲を構想しますが、これも完成されずに破棄されました

その後、第1交響曲は1841年1月から2月のごく短期間で完成されました。スケッチはわずか4日間だったといわれています。
初演は好評で、シューマンは
「ベートーヴェン以降の近代の交響曲として、かつてない共感を得られた」と書いています。

1841年3月31日、メンデルスゾーン指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、初稿はこのときに用いられた稿です。

曲の構成は改訂稿と変わりませんが、曲全体にわたってオーケストレーションが改訂稿と異なる箇所があり、冒頭のファンファーレなどのように旋律自体が異なる(3度低い)箇所もあります。

なおこのファンファーレについては、バルブなしのホルンとトランペットではストップ奏法(ベルの中に右手を入れて音程を調整する)

をしなければ出ない音で書かれており、
初演に向けたリハーサルで自身の意図した音が出ないことを知ったシューマンが、メンデルスゾーンのアドバイスにより、現在の音に変更して初演しています。

また各楽章にも次のような標題がありました。

第1楽章 - 春の始まり
第2楽章 - 夕べ
第3楽章 - 楽しい遊び
第4楽章 - たけなわの春

自筆総譜はアメリカ議会図書館が所蔵しており、スウィトナーによる録音が存在します。

シューマンは初演後さらに推敲を重ね、1841年の末にパート譜を出版、1853年には総譜を出版しました。
出版社は共にブライトコップ社です。一般に演奏されるのはこちらの稿で、初稿で与えられていた各楽章の表題は削除されています。

改訂版の初演は1842年11月3日にフェルディナンド・ダヴィッド指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって行われました。

「春」という副題については、
アドルフ・ベトガーの詩に霊感を得て書かれたといわれ、シューマンは当初のこの交響曲を
「春の交響曲(Frühlingssinfonie)」と呼び、初演時は各楽章にそれぞれ先述の標題を付けていましたが、後に取りのぞきました。

シューマンがメンデルスゾーンに宛てた手紙には、
「第1楽章について、冒頭のトランペットは高いところから呼び起こすように響き、すべてが緑色を帯びてきて蝶々が飛ぶ様子も暗示されています。
主部のアレグロではすべてが春めいてくることを示すともいえますが、これらは作品完成後に浮かんだイメージです。」と言っています。

交響曲第一番「春」




交響詩「春の詩」

2024-03-11 21:03:00 | ロマン派
ドルチェ楽器のアカデミー発表会でした。
1年ぶりの発表会は、お久しぶりの仲間とも会える機会です。

何人か「こんにちは」と声を掛け合いました。しかし、私だけ日程が取れず当日合わせ1時間だったので、他の人の演奏をまったく聞けませんでした。
残念。

私はよいピアニストに恵まれて気持ちよくブリジアルディの「ローエングリン幻想曲」を演奏させて頂きました。

終わったら神戸エスカルのメンバーが、差し入れを持ってきてくれました。
「どうして?!」訳け合って誰にも言ってないのに。

「Fさんに聞いたから。」
Fさんもメンバーでした。ニコニコ笑ってFさんもいました。
ありがとうございます。
感謝です。

ジャン シベリウス(1865-1957年)
フィンランド大公国ハメ州ハメーンリンナ生まれ、フィンランドウーシマー州ヤルヴェンパー没

1895年頃のシベリウス

1865年12月8日にヘルシンキの北方約100kmのハメーンリンナに生まれます。父クリスチャンは医師でしたが、シベリウス2歳の時に他界。姉リンダ、弟クリスチャンはそれぞれピアノ、チェロの演奏をしました。

1875年、最初の作曲。ヴァイオリンとチェロのための『水滴』。
1885年、ヘルシンキ音楽院

ヘルシンキ音楽院(現シベリウス音楽院)
で作曲などを学び始めます。
1889年、ベルリンに留学。留学中にリヒャルト・シュトラウスの『ドン・ファン』の初演、ハンス・フォン・ビューローの演奏などに直接触れます。

さらに、ウィーン音楽院においてカール・ゴルトマルクに師事しました。

1891年に『クレルヴォ交響曲』作品7を手がけます。翌年春に初演。これは管弦楽に独唱・男声合唱の加わる大規模な曲です。初演は好評をもって受け入れられましたが、その後は抜粋で3度演奏されるにとどまり、作曲者の生前に全曲が演奏されることはありませんでした。

1892年にアイノ・ヤルネフェルトと結婚。

1888年アイノ
「オーケストラのための即興曲ニ長調」として作曲された曲は
1894 年 7 月 21 日、大衆教育協会 (Kansanvalistusseura )
1874年創設されたフィンランド最古の大人に対する教育団体
が主催したヴァーサの野外フェスティバルで初演されました。

短く、抒情的で、繊細に楽譜が書かれたシベリウスの作品は野外コンサートには不向きで、聴衆はプログラムに含まれていた別の作品、アルマス・ヤルネフェルト(シベリウスの義理の弟で友人)(1869-1958年)

による『コースホルム』ほど熱狂的には受け入れられませんでした。

そのためすぐに、シベリウスは改訂のために「即興曲」を取り下げました。

1895年、彼はそれをヘ長調に改作し、その(未発表の)バージョンに「春の悲しみ」という副題を付けて、作品を「春の歌 Spring Song (Vårsång )」と改題しました。

この版は未出版のままとなりました。その後、1902年の出版前の改訂で最終版としています。

楽曲はシベリウス作品には珍しい楽観性を有しています。
曲の終わりにベル(グロッケン)が目立った使われ方をすることが知られています。

テンポ記号は、Tempo moderato e sostenuto 。

アイノとの結婚生活がシベリウスに心の安定をもたらしていたのだろうと思います。




偽バロック作品として出版

2024-03-10 23:13:00 | ロマン派
今津公民館で西宮ギター練習会でした。
川原久美子さんと久米でジュリアーニの協奏的大二重奏曲op85の第3楽章と第4楽章を演奏しました。

明日ギターコンクールアンサンブル部門を受けられるという高橋通康さん

の演奏や、ポンセ組曲全曲を演奏されるツワモノも!


3ラウンドで川原さんと「オヴリヴィオン」を急遽吹きました。

打上げは失礼して、帰りました。
次男がいるからね。

6月30日夙川公民館でコンサートになりました。
カルメンとジュリアーニを演奏することになりました。

重い!超絶技巧!
頑張らなくちゃ!
3月10日(日)ドルチェ楽器梅田店で発表会に出ます。無料ですが、整理券あります。
入られる方は窓口で久米と言われると入れます。先着5名まで
出演は15:10くらいになると思います。

こちらはブリジアルディの
「ローエングリン幻想曲」を吹きます。

マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(1882-1948年)メキシコ サカテカス州フレスニージョ生まれ、メキシコ メキシコシティ没

は、メキシコの作曲家・音楽教師、ピアニスト。後期ロマン派音楽の作曲様式から新古典主義に転じた。

生後間もなくアグアスカリエンテスへ移りました。地方の聖堂で教育を受けつつ、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学びました。
1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼにピアノを師事しました。

1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始めます。
ピアニストとしては、ドビュッシーなどの作品の紹介に努めました。

メキシコ革命の混乱
1910-1917年ディアス独裁政権に対し民主化を求める革命でした。
を避けて1915年から1917年までキューバに滞在し、この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。
その後メキシコに戻ってフランス出身の女性歌手と結婚します。

クレモンティーヌ モレールと結構
1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカス

1865-1935年パリ生没ユダヤ人作曲家
に作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビア
1893−1987年スペイン「現代クラッシックギター奏法の父」と呼ばれています。
と親交を結びます。
短期間でしたがナディア・ブーランジェにも師事しています。1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍しました。

晩年は腎臓病、リウマチに苦しみます。1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞しましたが、間もなくメキシコシティで尿毒症により亡くなりました。

メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されています。

ポンセは今日、ヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者としてよく知られています。

他にも新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残しました。

初期のピアノ協奏曲は、シューマンを思わせる叙情性と情熱的な表現によって、ロマン派音楽の伝統で作曲されています。この他にも、ロマン派から印象派までの影響を受けたマズルカなどの舞曲、演奏会用練習曲、変奏曲やフーガなどのピアノ曲を多数残しています。

ポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、
『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されています。
フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じました。

組曲イ短調 ギター
大ギタリストのアンドレス・セゴビアの依頼で作曲した一連のバロック音楽の様式を模した作品群の一つです。

これらの作品の発表時にポンセとセゴビアは共謀して「バロック・リュートの大家シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス

シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(1687- 1750年)ドイツ後期バロック時代の作曲家、リュート奏者
の作品」であると偽リました。
この「いたずら」にまんまと騙されて、しばらくの間「ヴァイス作曲」として紹介されていました。

実際には、バロックの作品にしては、転調や、半音階が用いられていて、何よりセゴビアがロマン派の演奏スタイルで有名な奏者だったため、どこまで本気で偽ろうとしていたかは疑問です。

組曲イ短調
「プレリュード」 
「アルマンド」 
「サラバンド」 
「ジグ」

セゴビアの演奏で組曲イ短調から「ジグ」