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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ダウランドの靴屋の女房Toy!

2025-05-20 21:00:00 | ルネッサンス
8月に子育てサロンの主催でする地域の講習会。
革細工ができないかなあ?と試作してみました。
材料はすべて100均。
革はフェイクレザーです。
というのも大人もいるけれど、小学生低学年もいます。
ハサミで切れて、針を使わない。
木槌、カシメはぎり使えるかも、と思ったけれど、以前は100均にたくさんあったブライヤーが1つも売ってません。
流行ってないのかな?

穴を開けポンチは2個セットで100円。これは使えるかも。

木工ボンドを薄めて全体に塗り


ポンチで穴を開けて


ひっくり返して穴に紐を通したら出来上がり!


キーホルダーにしたければ上の穴に金具をつけます。


フェイクレザーでなければ、水をつけて成形して紐なしの動物ができるはずなのですが…。

子どもや男の子向きかな?これは。
大人向けには、縫わずにできるコインケースか、ペンケースがいいかな。

大人は縫うのは危険ではないけれど、縫い目を穴開ける工具がみんなに買えない。40人分…。
でもハトメは最低確保しないといけませんね。
こちらはテーブルで共有で大丈夫かも。
簡単だからデコレーションしてもらおうかな?

ジョン・ダウランド John Dowland (1563-1626年) イングランド生没

エリザベス朝後期およびそれに続く時代に活動した作曲家・リュート奏者。

デンマーク王クリスチャン4世(1577-1648年)


の宮廷リュート奏者や、イングランド王ジェームズ1世(1566-1625年)


およびチャールズ1世(1600-1649年)

の宮廷リュート奏者を務めました。

エリザベス朝前後に流行したメランコリア(憂鬱)の芸術の巨匠とされ、特に代表作であるリュート歌曲『流れよ、わが涙』(1600年)とその器楽曲版『涙のパヴァーヌ』は当時の欧州で群を抜いて最も高名な楽曲として、東欧を除く全ヨーロッパで広く演奏されました。

20世紀の音楽学研究者・リュート奏者ダイアナ・ポールトンらによる古楽復興運動以来再び注目を浴び、クラシック・ギターへの編曲も多く作られた他、2006年にはイギリスを代表するロック歌手スティングによってカバーアルバムが作られました。

ダウランドは
1588年にオックスフォード大学で音楽学士となりました。

ベリオール・カレッジ

イングランド女王エリザベス1世のもとで宮廷リュート奏者を望むも得られず、国外に職を求めた。宮廷楽士になれなかった理由として、青年期にフランスに滞在していた一時期カトリック教徒だったことがあったため、そのことが尾を引いて聖公会(イングランド国教会)
聖公会の総本山のカンタベリー大聖堂
のイングランドでは排斥されたのだと、ダウランド自身は信じていました。

しかし実際には宗教問題は関係がなく、宮廷が予算縮小の方向にあったことや、女王に献呈曲を書くのを怠ったことなどが問題だったのではないかとも言われています。

その後、ヴェネツィア、フィレンツェ、ニュルンベルクなどヨーロッパ各地を遍歴しました。

フィレンツェでは同地在住のイングランド人からエリザベス暗殺計画への加担を持ちかけられ、1595年にイングランド政界の重鎮ロバート・セシル


にその計画を密告しています。

1598年から1606年にはデンマークでクリスチャン4世付きのリュート奏者を務めました。

1606年にイングランドへ戻り、1612年に国王ジェームズ1世付きのリュート奏者となりました。

息子のロバート・ダウランドも作曲家・リュート奏者として活躍し、父の死後は宮廷リュート奏者の地位を継承しました。

歌詞は無くて、リュート音楽として普及しています。革製品と言えば、靴ということでダウランド載せてみました。
A.Toyの意味は、何?

辞書によると

玩具、おもちゃ、遊び、本物をまねた安物の〕装飾品、ちっぽけな[つまらない]もの、〔犬などの〕小型種〈話〉〔暇つぶしの〕遊び、楽しみ、〈話〉〔もてあそばれる〕人



…あまりいい意味ではないみたい。もてあそんだのか?もてあそばれたのか?

shooter marble
靴屋の女房 P. 58
The Shoemaker's Wife, a Toy, P. 58



薔薇が咲く頃デュファイ

2025-05-14 20:57:00 | ルネッサンス
裏庭のピエール ド ロンサールが咲いています。
もうすぐ満開。
レッスンに来たOさんにも観てもらいました。

「お世話たいへんですよね。」
とおっしゃるので
「いえいえ、ほとんど何もしません。10年くらい植えっぱなしで咲いてくれます。」
「私も育てようかな。」
「大丈夫ですよ。」
名前をメモして帰られました。
穏やかな1日でした。



Guillaume Dufay (c.1400-1474)
ギョーム・デュファイ
(1397-1474年)プラバント公国ベーアセル?生まれ、フランス王国カンブレー没



無名の司祭とマリー・デュ・フェイという女性との間の私生児として生まれました。

彼女は息子と共にカンブレーに移り、そこの大聖堂の参事会員であった親戚のもとに滞在しました。

1409年の夏にロジェ・ド・エダンに師事し、1409年から1412年まで大聖堂の聖歌隊員として記録されています。

この間ニコラ・マランに師事
1411年にはヴィルデューの『プエロルムの教義』を彼に贈りました。これはその年齢では非常に異例のことでした。

1414年6月、16歳頃の彼は、カンブレーに隣接するサン・ジェリー教会で司祭の地位を与えられ、そこでニコラ・マランとリシャール・ロックヴィルに師事しました。

1418年11月から1420年まで、カンブレー大聖堂の助祭を務めました。
1420年にカンブレーを離れ、最初はリミニ、次にペーザロに行き、マラテスタ家に仕えました。彼の作品のいくつかはこの時期に作られました。

1424年、デュ・フェイは、母親が滞在していた親戚の病気とその後の死のため、カンブレーに戻りました。

1426年にはイタリアに戻り、
ボローニャでは、教皇特使のルイ・アレマン枢機卿( 1390 - 1450年)に仕えました。ボローニャ滞在中に助祭となり、1428年に司祭に叙階されました。

同年12月にはカンブレーに到着。カンブレーでの彼の記録に残る最初の文書の一つは、1440年12月27日付で、福音記者聖ヨハネの祝祭のために36ロットのワインを受け取ったというものです。

デュ・フェイは1440年代を通じてカンブレーに滞在し、その間ブルゴーニュ公に仕えていました。カンブレー滞在中、ニコラ・グルノンと共同で大聖堂の典礼音楽集の全面改訂に取り組み、礼拝用の多声音楽の膨大なコレクションを作曲しました。

音楽活動に加え、彼は大聖堂の運営全般にも携わりました。

1444年、母マリーが亡くなります。
1445年、デュ・フェイは前任の聖職者(カンノン)の家に移り住み、そこを終生住まいとしました。

サヴォイとイタリアへの旅
1449年、最後の対立教皇(フェリックス5世)


が退位した後、かつての雇用主であったサヴォワ公アメデ8世

が教会内での諸派間の争いは収まり始め、デュ・フェイは再びカンブレーを離れ、南方へと向かいました。

1450年、アメデ8世の死の直前にトリノへ向かぃましたが、同年後半にカンブレーに戻り、1452年には再びサヴォワに戻りました。
この時期の作品、 1453年のコンスタンティノープル陥落
コンスタンティノープルの包囲(1453年)、1455年以降にジャン・ル・タヴェルニエが描いたフランスのミニチュア
オスマン帝国に侵略され陥落しました。
に際して作曲した4つの哀歌のうちの1曲や、 「顔は青ざめて」に基づいた有名なミサ曲、ロレンツォ・デ・メディチへの手紙などがあります。

デュ・ファイからメディチ家への手紙、1454年2月22日

引退後に満足のいく職を見つけることができなかったため、1458年に北部に戻りました。

晩年を過ごすためにカンブレーに戻ったとき、彼は大聖堂の参事会員に任命されました。

今や彼はヨーロッパで最も有名な作曲家でした。
彼は再びブルゴーニュ宮廷と密接な関係を築き、彼らのために音楽を作曲し続けました。

さらに彼は、ビュノワ、オケゲム、ロワゼ・コンペールなど、次世代のポリフォニー様式の発展に決定的な役割を果たした多くの人々と交流しました。
この時期に彼はおそらく人気のあった「武装した男」の曲に基づいてミサ曲を作曲し、シャンソン「あなたがたは夜を明かす ― 武装した男」の作者である可能性があります。

後者の作品は、コンスタンティノープルを占領したばかりのトルコに対する新たな十字軍を呼びかけていたフィリップ善良公に触発されたものとされています。
彼はまた、 1460年頃にレクイエムミサ曲を書きましたが、これは失われています。

デュ・フェイは数週間の闘病の末、1474年11月27日に亡くなりました。

彼は臨終の際にモテット「アヴェ・レジーナ・セロルム」を歌ってほしいと頼んでいましたが、時間が足らず。その代わりに、現在は失われているレクイエムミサが葬儀で演奏されました。
デュ・フェイはカンブレー大聖堂のサン・テティエンヌ礼拝堂に埋葬され、墓石には肖像画が刻まれています。

フランス革命で大聖堂が破壊された後、墓石は失われましたが、1859年に井戸を覆うために使われていたところが見つかり、現在はリールのパレ・デ・ボザール美術館に所蔵されています。

Nuper Rosarum Flores
薔薇の花が咲く頃
1436年3月25日に行なわれたフィレンツェのサンタ・マリア・デル・ フィオーレ大聖堂の献堂式のために作曲された祝典モテトゥス。

式を執り行った教皇エウジェニウス4世の聖歌隊に所属していたデュファイが 作曲しました。

厳格な イソ・リズム法 に よって書かれた モテトゥス で、 二つのテノールには献堂式のためのグレゴリオ聖歌が歌われ、上声部はこの献堂式を祝う歌詞が歌われます。

Nuper Rosarum Flores
薔薇の花が咲き頃



トロヴァドール騎士道の時代

2025-05-01 20:52:00 | ルネッサンス
4月29日。
韓国のお土産を持っていこうと、母にLINEしたら、「今京都の芸文にいるから、ちょうとよかった。もう聴くものは聴いたから迎えに来て。、」
「京都芸術文化センターだよね。」ナビ探してみたけれど出てきません。
しばらく探して無いのでGoogleで検索して電話番号検索で出てきました。
そこには「京都文化芸術会館」と言う名前が。
「40分から50分で着くみたい。」
「待てるわ。中で待ってる。6時まであるから。」
「中に入ったらLINE通じないよ。」
「あ、そうか。」
「2:30過ぎるくらい。」
「その頃になったら、外に出とくわ。」
ということで、方向転換。
京都市内へ.。
河原町沿いとあって少し混みました。予定より15分遅れて落ち合いました。

せっかくなので上賀茂神社に行きました。

盛り砂。立砂(たてずな)とも言い、本殿の後ろにある神山に神が降りられた時の依り代だそうです。
全国の鬼門に置く「清めのお砂」の始まりだそうです。
上賀茂神社ホームページより


この日は5月5日に開催される神事「競べ馬」(くらべうま)のお清めだったようで、騎馬する若者たちがこの中で説明を受けた後

この川で木の枝の鞭を川で清め



古くは、五穀成就、天下泰平を願うために宮中武徳殿で執り行われた節会の競馬会式のことで。

1093年(寛治7年)に上賀茂神社に移したことが始まりだそうです。

徒然草の第四十一段に
「五月五日、賀茂の競べ馬を見侍りしに、車の前に雑人立ち隔てて見えざり〈中略〉」 

と当時の競馬の様子が記されています。

今日は人間だけですが5月1日には足汰式(あしぞろえしき)といって、出場する馬20頭ずつ走らせ、組み合わせを定めるそうです。
4日は下鴨神社に詣で、5日競べ馬本番。勝者を決めます。

6日、騎者20人が貴船社に詣り、勝敗の仲直りをします。社僧がウメを伐って三方台にのせ、座を立って舞うそうです。

古式に法る(のっとる)ことで競い合い技術を上げることと、争ったり禍根を残すこととは違うと分けています。

ヨーロッパでは騎士道精神がスポーツの起源だと言われています。

騎士道のルーツはアジアの遊牧民サルマタイにあり、その武具(甲冑)・戦闘方法(騎兵)・規範意識(正義)がサルマタイ諸部族のうちのアラン人(フン族と合同して西ヨーロッパに侵入した後、広くゲルマン諸部族に同化した複数のサルマタイ人部族の総称)によってヨーロッパにもたらされました。

ゲルマン民族の教えは戦場での武勲こそが第一とする、戦士としての規範でした。 

10世紀末になると、当時の封建領主たちの暴虐性に嫌悪を募らせていた教会の主導により、南フランスに「神の平和」運動が起こります。

これは封建領主たちに農民や婦女子を害さないことを誓わせたものであり、違反者は破門に処されました。

「神の平和」運動は一定の成功を収め、11世紀に入るとここに「神の休戦」運動が付加されることとなります。

これは週のうち一定の日は領主同士武力で争う事を禁じたものでした。

こうした教えがラテラン公会議においてカトリックの公式教義として公布されるに至り、騎士道誕生の基盤が整えられました。

11世紀末、第一回十字軍が騎士の活躍により成功を収めると、騎士の社会的地位は飛躍的に向上しました。
これを契機に騎士とは「神の戦士」であるとの認識が広まり、ここに「神への献身」「異教徒との戦い」「弱者の保護」こそ騎士の責務だとする中世盛期騎士道が成立しました。

岐路に立つ騎士(ヴィクトル・ヴァスネツォフ画、1878)
但し中世においては、必ずしも現実の騎士の行動が騎士道に適っていたわけではありませんでした。
むしろ(ブルフィンチなどが指摘するように)兵器、鎧を独占する荘園領主などの支配層は、しばしば逆の行動、つまり裏切り、貪欲、略奪、強姦、残虐行為などを行うことを常としていました。

だからこそ、彼らの暴力を抑止するため、倫理規範、無私の勇気、優しさ、慈悲の心といったキリスト教的教えが教会により長年に亘って説かれ、中世盛期に「騎士道」として結実したと言えます。

騎士道の教えの多くは通常の騎士であれば遵守することが難しく、故に騎士道に従って行動する騎士は周囲から賞賛され、騎士自身もそれを栄誉と考えました。

中世後期以降、騎士の活躍を詠った武勲詩、叙事詩や中世騎士物語が普及するとともに、それらで讃えられる想像上の騎士の在り方が現実の騎士道にも影響を与えるようになります。

さらに欧州において現在の国家の概念が確立し、国家主義が芽生えると、騎士道は宮廷人の価値観へと変容を遂げます。

戦士として戦場で武勲を立てることより、民の上に立つ模範として、主君への忠誠や、貴婦人への献身などが徳目とされました。
特に貴婦人への献身は多くの騎士道物語に取上げられました。

こうして、「主君への忠誠」「名誉と礼節」「貴婦人への愛」を中核とする近世騎士道が成立し、現代に至っているそうです。  

トルバドゥールは宮廷歌人とも呼ばれ、その多くは騎士階級や貴族階級でした。

そして彼らが扱うテーマは宮廷風恋愛や騎士道的愛の歌が多くみられました。

宮廷風恋愛や騎士道的愛とは、騎士が仕える王侯貴族の高貴な既婚女性に対するに報われぬ愛がテーマ。

騎士の叙任(エドモンド・レイトン画、1901)

それまでのヨーロッパでは、キリスト教の旧約聖書でイブが蛇にそそのかされて禁断の実を食べエデンの楽園を追い出される「人間の原罪」について書かれた通り、キリスト教では女性が生まれながらに罪を持ち、男性に比べて相対的な地位が低いという封建的な男尊女卑が認められていました。

しかし、トルバドゥールが歌うのは女性を敬う
「高貴な既婚女性に対するに報われぬ愛がテーマ」でした。

高貴な既婚女性を敬うことが不貞行為ではなく、報われぬ愛を胸に自制的に行動し、女性側は、そんな愛に対して宝石などをお返しにプレゼントすることで応えるというのが宮廷風恋愛の形でした。

この宮廷風恋愛や騎士道が現在欧米では一般的とされる「レディーファースト」の原型だともいわれています。

トルバドゥール時代の歌と踊り
1.器楽音楽
2.美しいドゥーテ
3.器楽音楽



田園の中で過ごす

2025-04-28 21:01:00 | ルネッサンス
暦通りのゴールデンウィーク。
近所の里山へ
井出川に行ったら、山吹が全盛期でした。

4月初めには桜が満開で人がいっぱいでしたが、今は人影も無く静かでした。
  
ハハコグサ

シロツメクサ

で、することはやっぱり、

ガサガサ。
川の中には

カワチシャ
オオカワヂシャ


カワムツを3匹ほどすくって、川に返してきました。


「田園の奏楽」
Concerto campestre
パリのルーヴル美術館所蔵。

『田園の奏楽』は長くジョルジョーネの作品とされてきましたが、現代の研究者たちの間では、ティツィアーノの比較的初期の作品である可能性が高いとする説が主流となっているそうです。

しかし、描かれている音楽や田園風景に関するモチーフ、非現実的であるはずの存在が同一の画面に描写されているといった特徴がジョルジョーネの作風であることから、ジョルジョーネが『田園の奏楽』の制作を開始し、ジョルジョーネが死去した1510年以降に弟子のティツィアーノが完成させた作品ではないかとする説もあります

『田園の奏楽』はイタリアの名家ゴンザーガ家が所有していた絵画で、おそらくはマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガに嫁したイザベラ・デステの遺産だったと考えられています。

後にイングランド王チャールズ1世が購入したが、清教徒革命で1649年にチャールズ1世が処刑されたことによりイングランドの王室コレクションが散逸し、オークションに出品され、ドイツ人銀行家で美術品収集家のエバーハルト・ヤーバッハに売却されました。

その後、1671年にフランス王ルイ14世がヤーバッハから『田園の奏楽』を購入し、フランス王室コレクションに加えられることとなりました。

女性は足までずれ落ちた薄布以外は何も身に着けていないのに対して、2人の男性はそれぞれ貴族的な衣装と、質素な衣装を着用しています。広大な背景の木立には、羊の群れを見張る羊飼いが描かれています。

『田園の奏楽』の主題は、詩歌の寓意だと考えられています。

2人の女性は、男性たちの幻想と霊感から具現化した理想美の化身です。

ガラスの水差しを手にした女性は悲劇的な詩歌の女神で、フルートを手にした女性はのどかな田園を詠った詩歌の女神です。

リュートを奏でる貴族的な衣装の男性は高貴な抒情詩を象徴し、もう一人の質素な衣装の男性は、アリストテレスの『詩学』で論じられている特質に従う、世俗の抒情詩の象徴と考えられています。

また、別の解釈として『田園の奏楽』の4人の人物は、世界の四大元素である、水、火、土、風の象徴であり、世界の調和とそれぞれの関係性を描写しているという説もあります。

この音楽を探してみました、
ぴったりというわけではありませんが、

ピエール・セルトン(Pierre Certon, ? - 1572年)

ジョスカン・デ・プレやジャン・ムートンより後の世代の代表的作曲家のひとり。フランス語シャンソンの発展に影響力を及ぼしました。

おそらくはムラン生まれですが、一生のほとんどをパリで過ごしました。

生涯に関する最初の記録は、フランス宮廷に仕えていた1527年にさかのぼり、1530年にはノートルダム大聖堂


で球技を行なったかどで不敬罪に問われ、あやうく投獄されかけました。
が、分別ざかりでないとの理由で許されています。

1536年にはサント=シャペルの聖歌隊長に就任し、生涯にわたってその任に就きました。

その後パリでの活動が認められ、ミュロン大聖堂参次会員の資格を得ます。

数々の大興行の組織に手助けしていたようで、間違いなくそのために沢山の音楽を提供しています。

有名な作曲家クローダン・ド・セルミジ(1490年頃 - 1562年)
の親友だったことは間違いなく、これは楽譜の献辞や端書き、セルミジが亡くなった時に作曲された1562年に痛ましい哀歌(ジョスカン作曲のオケゲム追悼の哀歌をモデルにした作品)などからも裏付けられています。

ルカによる福音書のシメオンの賛歌ですが、リコーダーとリュートによる演奏です。
















鶏むね肉を料理してみました。

2025-04-16 21:00:00 | ルネッサンス
月曜日の夜は鶏むね肉でチキンカツ作ってみました。
むね肉はフォークでブスブス刺して、砂糖、塩少々の水を浸透させて焼いたり、シチュ〰️に入れたりしてきましたが、カツは初めて。

実は先日長居で寄ったカタクラで食べたチキンカツ デミグラスソースかけが安くて柔らかくて美味しかったので、業スーでグラム58円のむね肉を見かけた時に「安い!」と飛びついてしまいました。 

レシピはネットでいろいろ調べてみました。

お酢や清酒に10分から15分漬けてから料理するもの

そぎ切りはマストみたいです。

肉を叩いてから料理するもの、叩かないもの両方ありました。

マヨネーズを衣に少し混ぜるのもマストのようです。

うちでは鶏むね肉は一口大にして叩きました。

その後、清酒とお酢を半々にして漬け、10分で行きました。

マヨネーズを小さじ一杯と水適量を小麦粉に混ぜて、パン粉をつけて揚げました。

お酢や清酒はなのんために漬けるのかな?と思っていましたが、これに漬けることによって鶏肉特有の匂いが消えていました。
後柔らかにする効果もあったのかな?

出来上がりは、柔らかい!!
全くぱさつかないし、あっさり。
胃腸の感じが油物にも関わらず、軽い!
翌日の次男のお弁当にも入れ、私もお昼に食べましたが、時間が経ってもしっとりしていて美味しかったです。

味付けは衣のマヨネーズだけなので、濃い味がお好みの方はソースをつけたほうがいいかも。

後、カタクラではチーズを挟んで揚げていました。

クレマン・ジャヌカン(Clément Janequin, 1480年頃 – 1558年)シャテル・ロー生まれ、パリ没
幼少期の大半をボルドーで過ごしました。

1505年にボルドーで書記官となり、リュソン司教、次いでボルドー司教に仕えました。

この時期にジャヌカンはラブレー、エラスムスのパトロンであるジャン・ド・ギーズ、詩人ピエール・ド・ロンサールの弟といった人物の間で名声を博しました。

1515年にマリニャンの戦いにロンサールと共に参加しました。

この戦いが彼の最も有名な歌の一つのインスピレーションの源となっています。

1530年、アンジェに移る前、オーシュで少年聖歌隊の歌唱教師として働き始めました。
司祭に叙階され、サン=ミシェル・ド・リュフルの教区司祭に任命され、その後サン=ジャン・ド・メゾーの教区司祭、さらにガロスの首席司祭にも任命されました。

彼は以前の職場で低賃金だったため、収入を増やそうと大学で勉強しました。彼の生涯で最も多作な時期は、アンジェ大聖堂の牧師としての職に就いたことから始まりました。

彼は 400 曲以上の声楽作品を作曲しており、そのリズミカルな技巧、活力、生来の朗読センスにより、音楽史上に残る作曲家となっています。

彼は描写的、猥褻、叙情的、精神的、そして愛的な歌のパリ流派のリーダーです。

ジャヌカンの芸術は、16 世紀のポリフォニーとルネサンス期のフランスの歌曲に多大な影響を与えました。

聖職者でしたが、晩年まで不遇でした。
むしろフランス宮廷の、もっぱら世俗歌謡の作曲家として有名です。

音楽家として確たる地位を得たことはなく、生涯の終わりになってパリの宮廷に召し抱えられましたが、与えられた地位に就任するいとまはほとんど(あるいはまったく)なかったようです。
1558年に亡くなった彼は、わずかな財産を慈善団体に残しました。

ジャヌカンはシャンソンの専門家であり、このジャンルを創り出した作曲家のひとりと見なされています。
 
ジャヌカン作品は、言葉というより擬音語や擬態語を取り入れています。

例えば、無意味な言葉の羅列が鳥のさえずりを形作っていたりします。

『鳥の歌』は、ロンドー詩形による言葉と鳥の声の混成体で成っていて、個別の鳥の声はフランス宮廷の(通常は不愉快な)個々人の特徴と同一視されています。

その作品はフランス国外でも注目され、ゴンベール編曲とされる『鳥の歌』は1547年にアントウェルペンで出版されました。

「鳥の歌」眠い心よ目覚めよ
Réveillez vous, cueurs endormis, "Le chant des oiseaux"
擬態語、擬音語を用いて、鳥のさえずりを表現しています。
「鳥の歌、女たちのおしゃべりを模しては非の打ち所なく、まさに神がかり」と、詩人バイフはジャヌカンを讃えたそうです。











ルネサンス期の謎の偉大な作曲家

2025-04-04 21:01:00 | ルネッサンス
木曜日は今出川大宮近くの富久田治彦先生のレッスン。
クーラウのトリオop119
フルート2本とピアノなので、1st久米に着けて2ndを吹いて下さいました。
幸せ〜!

レッスン終わってバス停でバスに乗ろうと待っていたら

考古資料館のこのポスターが目に入り、(考古資料館はバス停の前にあるのです。)
京都市考古資料館に入ったら学芸員の人が
「説明してもいいですか?」
私一人だったので、「はい。」と思わず言ってしまいました。

そこから1時間半、話しが止まらない。
おもしろかったけど…予定狂いました。

京都では、どういう器で何を食べてきたか?という展示でした。

ポスターに載っていたのは平安時代の庶民の食事。

縄文式土器に始まり、平安、室町、鎌倉、江戸時代まで
いろいろおもしろいこと聞きました。

桃山時代の焼けたおむすび(京都市伏見区出土)

平安神宮の裏山を歩いていると器のかけらを見つけたと、持って来られたかけらを博物館で預りました。
10年ほどたったある日、成分解析にかけてみたら、5世紀から7世紀のペルシャのガラスの器の一部だったことがわかって大騒ぎ。

こんな感じ?6世紀のサザンガラス

平安時代にペルシャとの交易があったとは!
と驚いたそうです。

これ拾って、持って帰るかなぁ?!
今度平安神宮に行ったら足元見ながら歩かなきゃ…。

ここ無料で入れます。
大正3年に建った西洋建築。

東京駅と同じ年だそうですが、レンガを漆喰で塗りつぶしたそうで、同じ年なのに全く違う印象なのがおもしろいそうです。
建物をみるだけでも価値があります。

前の西陣会館だそうで、
今日は見れませんが、3階にある貴賓室には壁一面の西陣織りの部屋があるそうです。

展示自体は一階一部屋と、2階1間と多くはないですが充実の内容でした。

また、織部焼きのコレクションは、近くに織部焼きの街があったそうで(秀吉に織部が切腹させられた後、全て穴を掘ってゴミとして埋められた)、そこから出てきた900点。



以前織部の展示をした時には全国から人が押し寄せたそうです。

それ見たかった〜!

他にも埴輪

や、呪術に使った人形…不気味〜!…

とか見どころ満載でした。
ぜひ、案内付きで観覧されるといいですよ。
見てるだけでもおもしろいけれど、聞いたらもっとおもしろい。

ルネサンス期の音楽はわからないことが多いです。
イザークについてもわからないことが多いです。

ハインリヒ・イザーク(Heinrich Isaac 1450 - 1517年)出生地不明、フィレンツェ没

は、盛期ルネサンス音楽のフランドル楽派の作曲家。

イザークの生い立ちについて詳細は不明ですが、おそらくフランドルの出身。

1470年代までには作曲していたことが分かっており、イザークに関する最初の文書は1484年にさかのぼります。
この頃、インスブルックの宮廷作曲家でした。


デューラーの水彩画
翌年、フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチ(1449−1492年)

の宮廷音楽家となり、オルガン奏者、宮廷楽長ならびにロレンツォの子どもたちの家庭教師をつとめました。

1497年までにイザークは、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世(1459−1519年)

に仕官し、主君に同行してドイツ各地を歴訪、当時のドイツの作曲界に多大な影響を及ぼしたと見なされています。

1514年にフィレンツェに戻り、同地で他界しました。

イザークは幅広い変化にとんだ楽曲をのこし、ミサ曲、モテット、ドイツ語歌曲、イタリア語歌曲、器楽曲などがあります。

当時の最も多作な作曲家のひとりです。

彼の最も有名な作品は、おそらくドイツ・リート《インスブルックよさらば Innsbruck, ich muß dich lassen 》です。

メロディーと歌詞:ゲオルク・フォルスター1539筆写
この旋律は後にルター派のコラール《おお世よ、われ汝より離れざるを得ず O Welt, ich muß dich lassen 》にも流用され、バッハ作品やブラームスのオルガン曲の基礎となりました。

イザークは《コラリス・コンスタンティヌス(コンスタンツ大聖堂の合唱曲)Choralis Constantinus 》を未完成のままで遺しました。

コンスタンツ大聖堂

これはミサ固有式文の通年分を完全に作曲(多声化)する最初の試みとして知られ、およそ100曲が含まれています。

イザークの門弟ルートヴィヒ・ゼンフルがこの曲集を完成させましたが、その死後1555年になるまで出版されませんでした。

イザークはミサ通常文によっても40曲あまりを遺しました。

「さようならインスブルック
私はあなたを残さなければなりません」
歌詞は、歌手が「恋人」にインスブルックを離れて外国へ行かなければならないという別れと哀悼の歌となっています。

彼は彼女に忠誠を誓い、神の保護に彼女を託します。

ハインリヒ・イザークは人生の最も重要な時期をインスブルックで過ごしたにもかかわらず、彼の伝記の中でこの歌がどこで歌われているかはわかっていません。



木に巻きつけてつくるケーキ

2025-03-26 22:29:00 | ルネッサンス
近所の木蓮が咲いています。
本当に暖かくなりました。
私がコンサートにでている間に、先月の雪の日にぶつけた車を売り払って、
新しい車が来ました。

しかも、私がいない間に夫と次男、母も乗せて滋賀方面にドライブ。

どここれ?

ラ・コリーナ

ここで作りたての

バウムクーヘンを食べてきたらしい。
私、行ったことない。
仕方ないけど…ちょっとうらやましい。

お土産買ってきてくれました。
やっぱりバウムクーヘン。

バウムクーヘン(Baumkuchen)、
バウム 木
クーヘン ケーキ

は、中心に穴があり断面に樹木の年輪のような同心円状の模様が浮き出たドイツのケーキです。

ドイツのバウムクーヘン

原型は紀元前のギリシアまでさかのぼり、木の棒にパン生地を巻きつけて焼いたオベリアスというものであると考えられています。

中世ポーランド=リトアニア連合伝統のシャコティス
14世紀、ポーランド王国とリトアニア大公国の間で交わされた条約(クレヴォの合同)

1385年8月14日にクレヴァ(Kreva)で調印された文書
によりズーキヤ地方出身(ヴィリニュス出身)のヨガイラ(ポーランド王としてはヴワディスワフ2世ヤギェウォ)(1348-1434年)

がポーランド王国の共同君主となるためポーランド女王ヤドヴィガ(1374-1399年)

のもとに婿入りした時、その披露宴で出身地の郷土菓子として振舞われ、それがきっかけでポーランド・リトアニア同君連合
の全ての地方に広く知られるようになったと言われています。

この時、この菓子を作った職人はその褒美としてもらった指輪で恋人に求婚してその心を射止めた為、特に結婚式では欠かせない菓子となっています。

これを基にした説、あるいは「ガトー・ア・ラ・ブロッシュGateau a la broche」(フランス語で「串に付いたお菓子」という意味)

を基にした説が存在しており、ドイツのザクセン=アンハルト州で元祖をめぐる争いがありました。
1920年に両店は同一人物に買い取られています。

ドイツ東部地域、とくにドレスデン、コトブス、ザルツヴェーデルはいずれもドイツのバウムクーヘンの本場で、ザルツウェーデル式バウムクーヘンは2010年にEUの原産地名称保護認証を受けました。

日本では第一次世界大戦の捕虜として来日したドイツ人の菓子職人カール・ユーハイム(1865-1945年)

によって持ち込まれ、1919年(大正8年)3月4日に広島物産陳列館
(後の原爆ドーム)

で開催されたドイツ作品展示即売会において販売されたのが最初だそうです。

このことを記念して、毎年3月4日は「バウムクーヘンの日」と決められているます。

カールは第一次大戦後日本で菓子店を開き、当時はピラミッドケーキという名前で販売されていました。
それが1960年代からバウムクーヘンの名で知られるようになりました。

彼の事業を継承する株式会社ユーハイムは、現在も売上300億円の2割程度を占める主力商品としてバウムクーヘンの製造を続けています。

兵庫県神戸市ユーハイム

ユーハイムのバウムクーヘン
そのほか、小規模ながら人気を集める専門メーカー、袋菓子として廉価に全国販売を行うメーカーも多く、日本におけるバウムクーヘンはドイツをしのぐ一般的な普及をみています。

ドイツでは、二度の世界大戦の影響などで職人による技術継承ができず廃れてしまった地域も多いそうです。

実際にコトブスでは伝統的な製法の再現ができず、再現のためにユーハイムの指導を仰いそうです。

左からオーストリア - プリューゲルクラプフェン、(Prügelkrapfen)

ルクセンブルク - バームクーフ(Baamkuch)

スウェーデン - スペッテカカ(Spettekaka)

チェコ、スロバキア - トゥルデルニーク(Trdelník)

ハンガリー - クルトシュ(Kürtős kalács)

ポーランド - 地域特有のシャコティス(Šakotis)であるセンカチュ(Sękacz)

リトアニア - 同じくシャコティス。

セバスティアン・フェルシュティナ( 1480年頃 - 1490年頃 ? - 1543年以降)ポーランド王国フェルシュティン(現在のウクライナ、スケリウカ)生まれ

は、ポーランドの作曲家、音楽理論家であり、 16世紀初頭の最も偉大なポーランドの作曲家。

1507年にクラクフ大学 
1364 年の大学設立を描いたヤン・マテイコ(1838–1893)の絵画
に入学しました。
これは同郷の作曲家ミコワイ・ツェ・フザノヴァと同じでした。
在学中、1509年まで音楽と神学を学びました。

クラクフ滞在中にドイツの作曲家ハインリヒ・フィンクに師事した可能性もあります。

卒業後、フェルシュティンに戻り、牧師 となりました。

その後、ポーランド南東部のサノクに行き、そこで司祭を務めました。

セバスチャンの楽曲のうち、3曲のモテットが現存しています。

いずれも1522年に作曲されました。4声部構成で、長音符の平唱テノールが用いられているが、これは出版当時としては古風な手法です。

他の声部は模倣や自由対位法、よりホモフォニックなテクスチャーで演奏することもあります。

3曲とも写本として保存されており、現在はヴァヴェル大聖堂に所蔵されています。

様式は古風ですが、フランドル楽派の影響が見られ、ポーランドにおける4声ポリフォニーの珍しい初期の例です。

セバスティアヌスは1522年にクラクフで賛美歌集『Aliquot hymni ecclesiastici』を出版しましたが、写本は現存していません。

彼の理論的な論文は記譜法と聖歌に関するものです。

彼の最も人気があったのは『Opusculum musices』( 1519年頃)で、これはポーランドで初めて理論的な論文が出版されてから5年後にクラクフで出版されました。歌手のための指導書と思われます。
彼は『Directiones musicae ad cathedralis ecclesiae Premisliensis usum』 (1544年)と聖アウグスティヌスの『De Musica』の版を著しました。何度も再版されました。

モテット(声楽曲)が3曲残されています。
その中の一曲

アヴェ・マリア
アレルヤ 聖母マリア、あなたは幸せです、そしてあらゆる賞賛に値します。
なぜならあなたから正義の太陽、私たちの神キリストが生まれたからです。












ここに春が来た!

2025-03-09 21:00:00 | ルネッサンス
土曜日の午後、近所の山田池公園に行ってきました。
ここは1500年前に作られた山田池を中心に1979年に整備された300本の梅林があります。
「そろそろ、見頃じゃない?」
小雨混じりですが…。

咲いてる!!

かわいい! 
梅一輪 一輪ほどのあたたかさ
        服部嵐雪

いろいろな種類の梅が。

咲いてて

素敵でした。

フランチェスコ・ランディーニ(Francesco Landini)1322-1397年イタリア フィレンツェ生没

ミニチュアのオルガンを演奏する
フランチェスコ・ランディーニ
(15世紀のスクアルチャルーピ写本より)

ランディーニの生涯の詳しいことは判明していません

父親はジョット派の著名な画家ヤコポ・デル・カセンティーノ(1297-1358年)


でした。

子どもの頃、天然痘にかかって失明したことで、ランディーニは早くから音楽に打ち込むようになり、リュートなど多数の楽器演奏、歌、詩作、作曲を習得しました。

ランディーニがリュートとプサルタリーPsaltery


を結合させた「syrena syrenarum」という楽器(バンドゥーラ (Bandura)


の先駆と考えられている)などを発明したという記述が残っています。

1360年代の数年間ヴェネツィアに滞在していたキプロス王から月桂冠を授けられたという記述があります。

ランディーニは1370年以前に何度か北イタリアで過ごしていたとされています。

音楽のいくつかがその証拠で、たとえば、モテットは1368年から1382年までヴェネツィアのドージェ(国家元首)を勤めたアンドレア・コンタリーニ(1300-1382年)


に献呈されています。

さらに、ランディーニの作品のことが北イタリアの文献によく出てきます。

1361年、ランディーニはフィレンツェのサンタ・トリニタ修道院のオルガニストに雇われました。

1365年以降はサン・ロレンツォ聖堂(Basilica of San Lorenzo)で働きました。

ランディーニは当時の政治的・宗教的論争に深く関わりましたが、フィレンツェ当局の恩恵は受け続けていたようです。

ランディーニはトレチェント音楽(1300年代のイタリア音楽)の作曲家の多くと面識があり、その中でもロレンツォ・ダ・フィレンツェ(?-一1373年)はサンタ・トリニタ修道院で一緒でした。

また、アンドレア・ダ・フィレンツェ(Andrea da Firenze)とは1370年代に知り合いました。

1375年頃かあるいはそのすぐ後、アンドレアはフィレンツェの僕会(下僕会。Servite Order)のオルガン製作の相談役にランディーニを雇いました。

楽器を調律する3日間に二人が飲んだワインの領収書が残っています。

ランディーニは1379年にサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂(Santissima Annunziata, Florence)


で新しいオルガン製作を助け、1387年にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

のオルガン建造計画に励みました。


当時の作家たちの多くが、作曲家のみならず歌手、詩人、オルガニスト、さらに情熱的に献身的なフィレンツェ市民としてのランディーニの名声を証言しています。

音楽で聴衆を感動させるというランディーニの評判はかなり高く、作家たちは「その旋律の甘美さはまるで胸から心臓を飛び出させるほど」と記しています。

ランディーニは死後、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に埋葬されました。
そこにはポルタティフ・オルガン(en:Portative organ)
セシリアがポルタティーヴォを演奏している様子を描いたもの(アルテ・ピナコテークのバルトロメウ祭壇の詳細)。パイプの右側にふいごが見えます。
らしきものを持ったランディーニの姿が描かれています。

ランディーニ作曲
Ecco la primavera
ここに春が来ました。

それは心を喜ばせます。

恋に落ちる時が来た

みんな幸せそうに見えます。

私たちは空気と時間を大切にしています 。

それは変わらない喜びを呼びます。

この曖昧な時の中で

すべてにはかなさがあります。

鮮度抜群のハーブたち

そして花が草原を覆う

そして飾られた木々

私も同じです。















寛容な時代

2025-02-11 21:00:00 | ルネッサンス
1ヶ月ぶりに京都今出川大宮の冨久田治彦先生のレッスンでした。
1ヶ月練習していたライヒャのスケールエテュードの3番、1ヶ月開くからと毎日4番も練習していたのに、楽譜…忘れました!
こんなこと初めて。

バ〜ンと2回分やってドヤ顔するはずだったのに〜。
残念。来月3回分…はさすがに時間がなくて上がらないでしょう。

しかし、ギターの渡邉信行さんとするレニャーニのグランドデュオは見てもらいました。
今朝、なんと渡邉さんが、imslpの楽譜から印刷譜を起こして送ってくれました。
1800年代のスコアの無い楽譜、つまり手書きパート譜だけだったのを楽譜ソフトで結合譜を作り、パート譜を…。
すごい!
見やすい!
ただし今日は前の楽譜が慣れているので手書き譜で見ていただきました。

2カ月ぶりですが「今日は。音がいいね!」と褒めてもらってうれしかった。

高音を吹くときに口を緩め、低音を吹くときに逆に口を固めに絞る。
フォルテで緩め、ピアノで固める。

これを徹底するように言われました。
なるほど納得です。

冨久田先生のレッスンは具体的でわかりやすいです。

今日はこの前の雪が、嘘のように暖かかったです。

帰りに市バスに乗ったら、前から足の悪い人がやってきました。
市バスは後ろから入って前からでる方式です。ゆっくり回ろうとしていると、
運転手さん、前のドアを開けて、「前から入ってください。」
ルールはいろいろあるのだろうけど、こういうの好きです。


宗教寛容令(しゅうきょうかんようれい、 英:Edict of toleration)とは、特定の宗教の信者が迫害されないこと、すなわち特定の宗教に関する信教の自由を政府や君主が保証したものです。
古来何度か出されています。

古代
紀元前539年 – キュロス・シリンダー:アケメネス朝のキュロス2世

が、バビロンのマルドゥク信仰など様々な信仰(ユダヤ教も含むとされる)の復興を認めたものです。

311年 – ガレリウスの宗教寛容令:ローマ帝国の皇帝ガレリウス、コンスタンティヌス1世
ふさはリキニウスが発した勅令。ディオクレティアヌス時代からのキリスト教迫害を公式に終わらせました。

中世
1264年9月8日 - カリシュの法令:ヴィエルコポルスカ公ボレスワフ・ポボジュヌィ

が発した、ユダヤ人の高い法的地位を認めた法令。

1436年 – バーゼルの誓約:バーゼル公会議において、神聖ローマ皇帝ジギスムント

らがボヘミア王国のウトラキスト(フス派穏健派)の信仰を一部許容しました。

近世
1562年1月 – サン=ジェルマン勅令:一月勅令とも。フランスの摂政カトリーヌ・ド・メディシス 

が、ユグノーの信仰を条件付きで認めた勅令。2カ月で破棄

1568年1月28日 – トルダの勅令:「宗教寛容と良心の自由の法令」とも。東ハンガリー王国のヤーノシュ2世 

が発した勅令。国内で従来認められていたカトリック、ルター派、カルヴァン派に加えてユニテリアンの信仰も保証しました。その他の信仰も、公式な保護は与えないながらも認めました。

1573年1月28日 – ワルシャワ連盟協約
ワルシャワ連盟協約の原本
ポーランド・リトアニア共和国の貴族が締結しました、あらゆる信教の自由を認めた法令。後にヘンリク条項に加えられ、以降のポーランド王は即位する際に必ず宣誓することを義務付けられました。

1579年1月23日 – ユトレヒト同盟:八十年戦争において、プロテスタントの多いネーデルラント北部の独立派7州が結成した対スペイン同盟。個人の信教の自由を認めるとともに、今後カトリック州が信仰を捨てずに同盟に加わることを認めました。

1598年4月13日 – ナントの勅令

:フランスのアンリ4世が、ユグノーに限定的な信教の自由を認めた勅令。公の場での信仰、集会の許可、公職や大学への就職、要塞都市の維持を認めました。1685年、ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令でナントの勅令を破棄。

1609年 – ルドルフ2世の勅書:神聖ローマ皇帝ルドルフ2世

が、ボヘミア王としてボヘミア・シロンスクの非貴族階級を含めた全住民に信教の自由を認めました。

1649年4月21日 – メリーランド寛容法:アメリカ東海岸のメリーランド植民地で、キリスト教内での信教の自由を認めた法律。イギリスのアメリカ植民地において宗教的寛容を唱えた2番目の法令で、ヘイトスピーチを制限したものとしては世界初。  法令は1649年に破棄され、また復活し、アメリカ合衆国憲法修正第1条(1791年制定)制定に大きな影響を与えました。

1664年9月16日 – ブランデンブルク寛容令:ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム

が発布した宗教寛容令。
プロテスタント各派間の寛容を定めるとともに、カトリックやプロテスタントが他宗派の信条を批判することを禁じました。

1689年5月24日 – 寛容法:
イングランド議会で可決され、ピューリタンなどの非国教徒プロテスタントに対する差別を撤廃した法律。ただしカトリックやユニテリアンなど急進派プロテスタントは意図的に除外されました。

1692年3月22日 – 天主教公認の上諭:清の康熙帝

が、イエズス会によるカトリック布教を公認し、宣教師や教会への攻撃を禁じました。
1724年にキリスト教を再び全面禁止。

1712年3月29日 – ビューティンゲン寛容法:イーゼンブルク=ビューディンゲン伯エルンスト・カジミール1世が、完全な思想・良心の自由を認めた法令。

1773年6月17日 – エカチェリーナ2世

の寛容勅令:ロシアのエカチェリーナ2世が、国内のタタール人などのムスリムの抗争への対応として発した勅令。ロシア領内に存在するあらゆる信仰に対する寛容を約束しました。

1781年10月13日/1782年1月2日 – ヨーゼフ2世の寛容令・寛容勅令:神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世 

がハプスブルク帝国内の非カトリック教徒(ルター派、カルヴァン派、セルビア正教)に信教の自由を与えた法令(ヨーゼフ主義)。1782年の勅令ではユダヤ人も適用範囲に含めました。ヨーゼフ2世は1790年の死で撤回。

1784年 – トリーア寛容勅令:トリーア選帝侯クレメンス・ヴェンツェル・フォン・ザクセンが、トリーア領内のプロテスタントへの寛容を述べた勅令。

1787年11月29日 – ヴェルサイユ勅令:フランスのルイ16世

が、ユグノーやユダヤ人など非カトリック教徒に公民としての権利を認めた勅令。

近代
1839年7月17日 – ハワイ寛容勅令:ハワイ王国のカメハメハ3世が、従来優勢だったプロテスタントに加えてカトリックの宣教も認めた勅令。

1844年3月21日 – 1844年の寛容勅令:オスマン帝国において、イスラーム圏での「背教の罪」が必ずしも死刑とはならないとする解釈が出され、パレスチナへのユダヤ人植民が容認されました。

1847年3月30日 – フリードリヒ・ヴィルヘルム4世

の寛容勅令:プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が、棄教の自由を認めました。

20世紀
1905年4月30日/1906年10月30日 – ニコライ2世の寛容勅令:ロシアのニコライ2世

が、ロシア正教会以外の宗教に法的地位を与えた勅令。1906年の勅令では、ロシア正教会から分離したセクトにも法的地位を認めました。

1598年ナントの勅令を出したアンリ4王妃マリー・ド・メデシスとアンリ4世の結婚。

新作オペラ「エウリディーチェ」(史上第2番目のオペラとなる!)は、ヤコポ・ペーリ(Jacopo Peri 1561年8月20日 - 1633年8月12日) 

はイタリア・ルネサンス末期からバロック初期にかけて活躍した音楽家で、初めてオペラを作曲した人物。

16世紀末のフィレンツェ(トスカーナ大公国)で、ジョバンニ・デ・バルディ伯爵を中心に古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まりました。

想像で捉えるほかありませんが、ギリシャ悲劇を模範に、歌うようなセリフを用いる劇が考えられました。 

この運動の中で、1597年ごろにペーリがギリシャ神話を題材にした『ダフネ』(Dafne)を作曲しました。 

これが今日、オペラとみなされる知られる限り最古の作品です(台本はすべて現存していますが音楽は断片のみが伝わっています)。
後のペーリの作品である『エウリディーチェ』
フィレンツェで16世紀末から活動していた芸術家集団「カメラータ」による、古代ギリシア悲劇を再興させようとする試みの中で生み出された作品です。

ペーリは、この作品でモノディ様式を駆使し、また、『エウリディーチェ』の序文で、語りの部分における音高の変化と、歌の音程のある動きとが古代ギリシア演劇の理論において区別されていたことに触れ、語りと歌の中間をいく、古代ギリシアの人々が英雄詩の吟唱に用いていたと考えられるものを見いだそうとしたと述べています。

通奏低音が据え置かれる中、歌唱声部は協和音と不協和音の間を行き来し、特に強調すべき音節(単語)に達した際には、協和音となるように留意しました。

なお、ペーリは、オッターヴィオ・リヌッチーニと組む形で1598年に音楽劇《ダフネ》を制作・発表していたが、この作品の音楽は失われている

台本は、ギリシア神話に基づき、リヌッチーニによって書かれました。

1600年10月、フランス王アンリ4世とマリーア・デ・メディチ

の婚礼の催し物として、フィレンツェのピッティ宮殿において初演されました。

エウリディーチェ
プロローグ
「悲劇」と名付けられた登場人物により、有節歌曲の形式で、王室の婚礼に対する祝福の言葉が歌われます。

トラーキアの野
オルフェオとエウリディーチェの婚礼の場面から始まります。
エウリディーチェが自らの幸福な気持ちを歌い、仲間のニンフたちともに去る。オルフェオが友人たちと現れ、「過去の苦しみも今は幸せに変わった」と歌い、ティルシが婚礼の神を称えて「こよなく美しい星が清らかに燃える中で」と歌う。しかし、ダフネーが現れて、エウリディーチェが毒蛇に脚を噛まれて死んだ、と告げます。

オルフェオはエウリディーチェを取り戻しに行く決意を固め、「私は泣かない、嘆かない」と歌います。 

地獄
オルフェオは、女神ヴェーネレの導きで地獄の入口にたどり着きます。

ヴェーネレは、「あとは自分の音楽の力で進むように」と告げて立ち去ります。
オルヴェオが「私の涙に泣け、地獄の霊たちよ」と歌うと、地獄の王プルトーネは憤りますが、オルフェオの歌声に感動したプロセルピナやカロンテに促され、地獄の掟を破り、オルフェオにエウリディーチェを返す決断をします。

トラキアの野
友人たちがオルフェオの安否を気遣っていると、エウリディーチェを連れてオルフェオが現れます。

オルフェオは「私の歌に喜べ、緑の森よ」と歌い、エウリディーチェが続いて「この喜ばしい大気の中で」を歌います。一同がオルフェオの音楽の素晴らしさを讃えて幕となります。

「エウリディーチェ」プロローグ トラキアの野 「森の中なら」



リュートの大家

2025-01-22 22:58:00 | ルネッサンス
びっくり!再掲したら本文消えてしまいました。どこか変なところを触ったのか?
聴き合い会のレポートしたんだけど…。
タイトル写真は素晴らしかったマンドリンの宮澤拓之さん。

ノイジドラーのピアノとビウエラの聞き比べおもしろかったので音楽だけ復元。

ハンス ノイジドラー(ノイジトラーはプレスブルク(現在のスロバキア、ブラティスラヴァ)で生まれ、1530年にドイツのニュルンベルクに定住した際に初めて歴史の記録に登場します。
2月に市議会から居住許可証を発行され、9月にその地で結婚しました。

1531年4月に市民権を取得し、その後すぐにツォテンベルクに家を購入しました。1530年代にはそこでリュートを教え、1536年から1549年の間に8冊のリュート音楽の本を出版し、1550年までには弦楽器製作者としても事業を開始しました。

最初の妻との間に13人の子供をもうけましたが、その結果、莫大な経済的困難に陥り、最終的に借金を返済するために家を売却しました。

1556年1月に妻が亡くなり、5か月後に再婚しました。

2番目の妻は1562年8月に亡くなる前にさらに4人の子供を産みました。

ノイジトラーはニュルンベルクで亡くなりました。

ハンスの息子であるメルヒオール・ノイジトラー(1531年 - 1590年)とコンラート・ノイジトラー(1541年 - 1604年以降)もまた、著名なリュート奏者および作曲家でした。)