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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

花咲く日々に生きる

2025-08-29 09:02:00 | ルネッサンス
はてなブログでも公開しています。全面引越しはまだ😉💦
→音楽の喜び フルートとともに

次男が昨夜夜勤。明けて今朝帰ってくるかと思って朝食を用意して待っていたら、帰ってこない。

LINEしてみたら、夕方一瞬帰ってまた勤務。
明日の朝帰ってくるらしい。
聞いてない…いや、言ってたかもしれないけど。
それから「有給とる」って三連休にした。っていうことか。
先月から病気の人が出て急な夜勤が何度かあります。
大丈夫かなぁ?
それにしても、行く前に念押ししたらよかった。

「髪の毛なんとかしたら…」と2週間位前から次男に言われてました。言われるまでもなくうっとうしい!

午後から

解決しました。

美容師さんのようにできるかなあ?太めヘアアイロンおすすめされました。
コンサートは無くても日々の生活は続きます。

Claude de Sermisy (c.1490-1562)
クロード・ド・セルミジー(1490年頃 - 1562年10月13日ピカルディ、ブルゴーニュ、またはイル・ル・ド・フランス?)



ジョスカン・デ・プレ(1450/1455? - 1521年)


の音楽的アイデアの一部を吸収し、その音楽に親しみました。
1508年より前のセルミジーの所在は不明ですが、王室礼拝堂にいました。

1508年、18歳セルミジーはルイ12世(1462-1515年)

1514年
の王室礼拝堂の歌手に任命され、同時に聖職者でした。

1515年に彼はフランソワ1世(1494 - 1547年)

1527-1547年
と共にイタリアに行き、1520年にはフランソワ1世とイングランド王ヘンリー8世(1491-1547年)

ハンス・ホルバイン(小)によるヘンリー8世の肖像画、  1540年頃~1547年
が企画した金布の野(Camp du Drap d'Or、音楽祭 首脳会談で富の誇示の会談になりました。)に参加しました。

この音楽祭はジャン・ムートン指揮で行われ、セルミジーは歌手としての参加でした。
彼はそこでいくつかの音楽の作曲もしていた可能性があります。

1532年にはブローニュ での両国王の同様の会合にも参加し、この会合のために儀式用のモテットを作曲しました。

1520年代初めのしばらくの間、セルミジーはルーアンのノートルダム・ド・ラ・ロトンド

ルーアンの大聖堂
の聖堂参事会員でしたが、1524年にそこを去り、アミアンで同様の職に就きました。

アミアン大聖堂

1532年までに、1547年まで統治したフランソワ1世の支配下で、王室礼拝堂の音楽監督となりました。

1533年、王室礼拝堂での職に加え、サント・シャペル

サント・シャペル上層階内部
の聖堂参事会員となりパリに住みました。
彼はパリに大きな家を購入し、その家は1559年にスペイン軍がサン・カンタンを略奪した際には、同市の教会から避難してきた人々を保護できるほど広かったと言われています。

1554年にはトロワのサント・カトリーヌでも聖職に就きました。

トロワ大聖堂

晩年に関する伝記的な詳細は不明ですが、作品の出版年などから判断すると、生涯を通じて作曲家として活動していました。彼はサント=シャペルに埋葬されています。

セルミジーは宗教音楽と世俗音楽の両方を作曲し、そのすべてが声楽です。

宗教音楽としては、レクイエムを含むミサ曲全12曲が現存しており、さらに約100曲のモテット、いくつかのマニフィカト、そして哀歌集も存在します。
彼は生涯を通じて 敬虔なカトリック教徒であり続けたようです。

セルミジの音楽文学への貢献として最もよく知られているのは、圧倒的に175曲ほどあるシャンソンの制作です。

セルミジーの音楽はネーデルラントの作曲家たちの派手なポリフォニーを避け、代わりに軽やかさと優雅さを追求しています。

セルミジーは素早い反復音を好み、それがテクスチャ全体に軽やかさと舞踏的な性質を与えています。

セルミジーが選んだ歌詞は、クレマン・マロ


(彼は他のどの作曲家よりも多くのマロの詩を作曲しました)といった同時代の詩人によるものです。

典型的なテーマは、片思い、自然、そして飲酒でした。

セルミジは西ヨーロッパ全域でよく知られており、その作品の複製はイタリア、スペイン、ポルトガル、イギリスなど各地で発見されていて当時人気はヨーロッパ中に広まっていたとみられます。

「花咲く日々に生きる限り」

Tant que vivray

クロード・ドゥ・セルミジ

Tant que vivray en aage florissant,
花さく日々に生きる限り

Je serviray damours le puissant,
権勢ある王、愛の神に仕えよう、

En faictz, en ditz, en chansons et accordz;
行ないと言葉、歌と音楽で。

Par plusieurs jours ma tenu languissant,
いく日もの間、愛の神は私を悲しませたが、

Et puis apres ma fait resjoyssant,
その後に大きな喜びを与えてくれださった

Car jay lamour de la belle au gent corps;
今こそ私はあの美しい人の愛を得たのだから。

Son alliance, c'est ma fiance,
彼女との絆は、私の大きな希望、

Son coeur est mien, le mien est sien,
彼女の心は私のもの、私の心は彼女のもの、

Fy de trestesse, vive liesse,
さらば悲しみよ、喜びに栄えあれ、

Puisquen amours a tant de biens.
なぜなら愛の中には多くの幸せがあるのだから。

Quand je la veulx servir et honorer,
私が彼女に尽くしそして敬い、

Quand par escreptz veulx son nom decorer,
文章にして誉め讃え、

Quand je la veoy et visite souvent,
しばしば彼女のもとを訪れると、

Ses envieux n'en font que murmurer;
やきもち焼き達は色々言い立てる。

Mais nostre amour n'en scauroit moins durer;
しかし私達の愛はそんなことで挫けはしない。

Autant ou plus en emporte le vent,
無駄なおせっかいというものだ。

Maulgre envie, toute ma vie,
ねたみに負けず、一生かけて

Je l'aymeray et chanteray;
彼女を愛し、歌を作るだろう。

C'est la premiere, c'est la derniere
彼女は私が尽くす

Que j'ay servie et serviray.
最初で最後の人。

なぜか?今日は動画埋められません。「gooブログが停止を繰り返しています。」と出るし、下書き保存したら途中から文章が消去されてしまいました😭💦
仕方ないからまた思い出しながら書込み…いつもの倍時間かかりました。どうなってるのかなぁ?
また消えたら嫌だなあ。
https://youtu.be/-ZL5515g61I?si=zlymI5EPFD1Mhggg

朝顔とバラ

2025-08-27 21:00:00 | ルネッサンス
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→音楽の喜び フルートとともに
火曜日の朝は家でレッスン。
庭の朝顔が咲いています。
暑すぎるのか、10:00過ぎるともうしおれて来ます。

慣用句
朝顔の花一時(あさがおのはないっとき)
朝顔の花は早朝に咲いたと思うと昼にはしぼんでしまうことから、物事の衰えやすいことのたとえとしていいますが…これはいくらなんでも早いだろうと思います。

アサガオ(朝顔、牽牛花、学名: Ipomoea nil)は、ヒルガオ科サツマイモ属の一年性植物。

「三十六花撰」「東都入谷朝顔」 「廿八」1866年。歌川広重画

原産地はヒマラヤ地方、熱帯アジア、あるいは熱帯アメリカなど諸説あります。

日本で最も発達した園芸植物で、古典園芸植物のひとつです。

別名でコアサガオともよばれます。中国語で牽牛(別名:牽牛花)と書きます。

「朝顔」と呼ばれるようになったのは平安時代からで、日本への伝来は、奈良時代末期(平安時代とする説もあります。万葉集で「朝顔」と呼ばれているものは、本種でなく、キキョウあるいはムクゲを指している説もあります。)に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされています。


『和名抄』(929 - 930年)にアサガオ、『古今和歌集』(913年)にケニゴシ(牽牛子)の名があります。

世界的に見ても、これほど形態が多種多様に変化した園芸植物は他にないそうです

変異の著しいものには種子を作ることができないものもある。

この変異が著しいために、種子ができない、または非常に結実しにくいものは「出物(でもの)」と呼ばれています。

江戸時代、不稔である出物の系統を維持するために、変化が発現しなかった株(「親木(おやぎ)」と呼ばれる)により遺伝的に伝えるしかないので、たくさんの種をまき、小苗の内に葉の特徴から変化を有している株は出物として鑑賞用に育成し、残りの株の中から出物の変異を隠し持っている親木を鑑別し、こちらは出物の採種用として育成しました。

尾形光琳(1658-1716年)
そのため江戸時代の人々は経験的にメンデルの法則を知っていたとも言われています。

江戸時代の2度の朝顔ブームを機に品種改良が大きく進んで観賞用植物となり、木版の図譜類も多数出版されました。

この時代には八重咲きや花弁が細かく切れたり、反り返ったりして本来の花型から様々に変化したものが生まれた。これらの朝顔を現代では「変化朝顔」と呼ばれています。

変化朝顔は江戸、上方を問わず大きく流行し、特に珍しく美しいものは、オモトや菊などと同様、非常に高値で取り引きされました。


「大輪朝顔」も「正木(まさき)」と呼ばれる結実する変化朝顔の一種です。

江戸時代の変化朝顔ブームは、文化・文政期(1804年-1830年)、嘉永・安政期(1848年-1860年)にあり、幕末には約1200系統が作られました。

ブームの発端は、文化3年(1806年)の江戸の大火で下谷に広大な空き地ができ、そこに下谷・御徒町村付近の植木職人だった成田屋留次郎が、いろいろな珍しい朝顔を咲かせたことによります。

岳亭春信(生没年不詳) 1818年

留次郎は、江戸・京都・大阪の変化朝顔をまとめた『三都一朝』


『三都一朝』収載「青南天變紫柿咲分牡丹度咲」成田屋留次郎1854年
を出版し、品評会である「花合わせ会」を各地で催すなど、朝顔ブームの仕掛人でした。 


『三都一朝』収載朝顔2種』成田屋留次郎1854年

1828年葛飾北斎(1760-1849年)

変化朝顔の栽培方法を記した『牽牛花水鏡』や、変化朝顔の図諧『あさがお叢』『朝顔三十六花撰』なども出版されました。


葛飾北斎。1830年

その後、趣味としてだけでなく、下級武士の御徒が内職のひとつとして組屋敷の庭を利用して朝顔栽培をするようにもなりました

上記とは別に、熊本藩では武士たちによる園芸が盛んで、朝顔も花菖蒲や菊、芍薬、椿、山茶花などと共に愛好されており、盛んに育種されて独自の系統が生まれました。


この花は変化朝顔とは違い、本来の朝顔の花型を保ち、大輪であり、「肥後朝顔」と呼ばれています。

これが後世の大輪朝顔の祖先の一つになった。これら熊本の六種類の園芸植物は現在「肥後六花」と総称され、熊本に伝えられています。

戦後は大輪朝顔が主流を占めるようになり、直径20cm以上にもなる花を咲かせることのできる品種も現れました。

高度な栽培技術が確立されたことによります。

月岡芳年「当勢勇の朝顔」1860年

朝顔は別名「牽牛」といい、これは中華文化圏での名称でもあるが、朝顔の種が薬として非常に高価で珍重された事から、贈答された者は牛を引いて御礼をしたという謂れである。平安時代初期につくられらたわが国最初の漢和辞典に「牽牛子」と記載されていることから、朝顔が渡来したのはこの頃であったと推定されています。


朝顔の鉢を摘む美人歌川国保(1794-1832)

その後、江戸時代には七夕の頃に咲く事と、牽牛にちなみ朝顔の花を「牽牛花」と以前から呼んでいたことから、織姫を指し、転じて朝顔の花を「朝顔姫」と呼ぶようになり、花が咲いた朝顔は「彦星」と「織姫星」が年に一度出会えた事の具現化として縁起の良いものとされました。


これらの事により、夏の風物詩としてそのさわやかな花色が広く好まれ、鉢植えの朝顔が牛が牽く荷車に積載されて売り歩かれるようになりました。

また珍奇な品種は愛好家たちが門外不出として秘蔵していましたが、普通の品種は植木市や天秤棒を担いだ朝顔売りから購入することができました。 

朝顔はさすがにクラッシック音楽の中にはなかったので、

「新たにバラの花が」 

nuper rosarum flores

ギヨーム・デュ・フェイ(1397 - 1474年)


1451年以前のミニチュア画で、オルガンの横に立つデュ・フェイ(左)と小さなハープを持ったジル・バンショワ(右)
Nuper rosarum flores(「最近バラが咲いた」)は、フィリッポ・ブルネレスキの指示で建設されたドーム屋根の完成を記念して、1436年3月25日のフィレンツェ大聖堂の奉献式のためにギヨーム・デュファイが作曲したモテットです。


厳密に言えば、ドーム屋根自体は5ヶ月後まで完成せず、その時、フィレンツェの新任大司教ヴィテッレスキ枢機卿に代わって、フィエーゾレ司教ベノッツォ・フェデリギによって別途奉献式が行われました。

曲の題名は、大聖堂の名前であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖マリア)に由来しています。

1447年のルスティキ写本に描かれた大聖堂

冒頭の行は、教皇エウゲニウス4世

ジャン・フーケのオリジナルを基に、クリストファーノ・デル・アルティッシモが描いた肖像画
が(奉献の1週間前に)主祭壇を飾るために金のバラを贈ったことから来ています。

この作品は「西洋音楽文化史における象徴として扱われるようになりました」。

Nuper rosarum flores(「最近バラが咲いた」)

先日、厳しい冬にもかかわらず、教皇からバラが贈られました。

それは、壮大なデザインの神殿が、聖なる儀式を通して忠実に奉納された

天上の聖母マリア様への贈り物です。

このバラが永遠の装飾となりますように。

今日、イエス・キリストの代理聖職者であり、ペトロの後継者であるエウゲニウスが、 この同じ広大な聖なる神殿を 自らの手と聖水によって

奉献する栄誉に浴しています。

それゆえ、あなたの御子、

聖母マリア、処女の飾りである慈悲深い母と娘 よ、

あなたの町フィレンツェの人々は 、清らかな心と体であなたに懇願する者が、 あなたの祈り、あなたの苦悩、そして功績を通して、 すべての肉であるあなたから生まれた 主から、 恵みの恩恵と罪の赦しを受けるにふさわしい者とされますようにと、心から祈ります。

アーメン。

この場所は畏敬の念を抱かせる





メロンの頃

2025-08-18 21:00:00 | ルネッサンス
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https://m-fluteangel16.hatenablog.com/ 


富良野メロン。
次男がふるさと納税で頂いたもの。
実家に持って行って、お墓参りの後夕食後、母と長男も混じえてみんなで食べました。
やっぱりスペシャルにおいしかった!

メロンなんて贅沢なもの滅多に買いません。買ってもマクワウリとかアンデスメロン。
前回食べたのは従兄弟の結婚式
以来かも。



メロン(甜瓜、和名:メロン、英: melon、学名:Cucumis melo)は、果実を食用にするウリ科の一年生草本植物です。  

インドのインダス渓谷で紀元前2300年 - 同1600年ごろのメロンが発見されました。
その後インド中西部で紀元前1600年ごろのものが発見されています。

古代インドのアーリア人が、原住民のムンダ族がメロンに名づけていた複数の言葉を借用して、サンスクリット語でチャルバター(carbhatah)やキルビタ(cirbhita)などと呼んでいました。

これがウリ科植物やメロンの仲間を表すラテン語のククルビット(cucurbit)の語源となりました。

粘土板に書かれた楔形文字から、バビロニアの王、メロダク・バルアダン2世の菜園でメロンと解釈できる植物が栽培されていたとみられています。

紀元前2000年ごろの古代エジプトでは、エジプトメロンやヘビウリが食べられていたともいわれています。

古代ギリシアで、メロンの仲間についての記述として現れる最も古いものは、紀元前4世紀のヒポクラテス


によるものです。

古代ローマでも、同様にメロンが食べられていましたが、古代のメロンは現代のような甘いメロンではなかったと考えられています。

メロンがインドから東方の中国へ到達した時期は不明ですが、中国浙江省では紀元前3000年ごろのメロン種子が発掘されています。
中国産メロンについて
「蜂蜜のように甘く、麝香のような芳香を持つ」と評しています。

6世紀の中国で書かれた農書にはメロンの栽培法について解説され、『西遊記』の三蔵法師で知られる7世紀唐代の仏僧・玄奘


は、旅先のインド滞在記にメロンについても記録を残しています。

13世紀モンゴル帝国のシルクロードを旅したマルコ・ポーロ
は、ペルシアやアフガニスタンで栽培・日干し保存加工されている甘いメロンについて最高のものだと書いています。

14世紀後半に中央アジアを支配したティムールを訪問したスペイン使節団は、中央アジアで食べたメロンの味に魅了され「すばらしく非常に美味しい」と評しました。

大航海時代に入ると、16世紀イギリスの探検家アンソニー・ジェンキンソンのほか、19世紀ヴィクトリア朝の探検家フィレッ
ド・バービーナや、ジャーナリストのエドモンド・オドノヴァンらが中央アジアに訪れた際に食べた甘くて新鮮なメロンの美味しさに言及しています。

16世紀以降、カンタロープメロンと他の甘いメロンがヨーロッパで非常に人気があり、南フランスのカヴィヨン地方はカンタロープメロンの産地として有名になりました。

新世界には元々メロンは存在しませんでしたが、クリストファー・コロンブス(1451-1506年)

が1494年のカリブ海域をめざす2度目の航海で初めて持ち込みました。

メロンは旧世界から新世界でも急速に広がり、16世紀前半には中米で栽培され、16世紀後半から17世紀前半にかけて北米のフロリダやハドソン川流域でも栽培されるようになりました。

さらに1683年、スペイン人はメロンの種をカリフォルニアに持ち込み、北米のスペイン人入植地におけるメロン栽培は成功をとげています。

スペイン植民地時代初期のパナマとペルーや、イギリス・オランダ植民地でも、メロンはごくふつうに食べられていました。

南米北東部にあるオランダ植民地のスリナムで、奴隷反乱の鎮圧に加わったオランダ人のジョン・ステッドマンは、18世紀末に黒人奴隷がメロン栽培をしている様子を伝えています。

一方でメロンについての記述で初期のものは、何も知らない人がメロンを食べて命を落としたという根拠のない警告が多数あり、中世ヨーロッパ人のあいだでは、メロンは甘いのでつい食べ過ぎると病気にかかり命を落としたり、中毒性があると危険視する考え方もまかり通っていました。

19世紀末にアメリカ・カリフォルニアに移住してきたアルメニア人は、祖国から甘いカサバメロンやペルシャメロンを持ち込み、栽培しました。

その100年後、カリフォルニアへ移住したアフガニスタンと中央アジア移民も同様に、祖国から持ち込んだ甘いメロンの栽培に取り組んでいます。

北米産で緑果肉で刺激の強い香りを持つモントリオールメロンは、17世紀末にイエズス会がフランスからカナダに持ち込んだメロンを、19世紀に品種改良したものだと言われています。

収穫後は日持ちしないため一時絶滅しかかかりましが、1995年に種子がアイオワ州のシードバンクで再発見され、このメロンの生産を再開する努力と更なる改良が続けられています。

1970年代のイスラエルでは、ハネデュースメロンとマスクメロンを交配して甘く芳香のあるガリアメロンが作られ、これがブラジル、スペイン、アメリカ、パナマ、エジプト、コスタリカで商業生産されています。

フランスでは、南フランスのカヴァイヨン地方で産するカンタロープメロンが国の誇りとなっています。

1494年コロンブスが新大陸にメロンを持ち込んだ頃の音楽と言えば、

フアン・デル・エンシーナ(Juan del EncinaまたはEnzina, 1469年 - 1533年)はスペイン・ルネサンスの作曲家・詩人・劇作家。


カトリック両王時代(アラゴン王フェルナンド2世(Fernando el Católico)とカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel la Católica)。彼らは1469年に結婚し、後に彼らの子孫の下で王朝連合国家としてのスペイン王国が成立します。)


を象徴する文芸人で、しばしばスペイン演劇(スペイン黄金世紀演劇)の創立者と呼ばれています。

サラマンカ近郊の、おそらくエンシーナ・デ・サンシルベストレの出身。サラマンカ大学を卒業してすぐアルバ公(ガルシア・アルバレス・デ・トレド)に執事として仕えます。

1492年に、グラナダ陥落を記念して執筆した戯曲『名誉の勝利 Triunfo de la fama 』
イザベラ女王が購入したタペストリー「名誉の勝利」
によってアルバ公を楽しませます。

1496年に、叙事的な戯曲や抒情詩を集めた『カンショネーロ Cancionero 』を上梓すると、この戯曲はそれから20年間にたびたび版を重ねました。

数年後にローマを訪れ、音楽的力量によってローマ教皇アレクサンデル6世(1431-1503年)

を魅了し、ローマ教皇庁の聖歌隊長に任命されます。

1518年頃に上級聖職者に叙階されると聖地エルサレムに巡礼して、初めてミサ曲の作曲を着想。

1509年にはマラガ(スペイン・アンダルシア州マラガ県のムニシピオ(基礎自治体))司教座で参事会員に就任し、1519年になるとレオン地方の小修道院長に任命されます。

1533年に地元サラマンカで亡くなったと伝えられています。

フアン・デル・エンシーナの歌「Desidme, pues sospirastes 」を収録したカンチョネロ・デ・パラシオ所蔵のフォリオ

エンシーナの『カンショネーロ』(詩歌集)は、韻律論の序文があり、スペインにおける詩作の状況が論じられています。

14の戯曲は、中世ヨーロッパの神聖劇からルネサンスの世俗劇への変遷が特徴的です。
世俗的な作品はスペイン文化に新たな出発点を創り出し、宗教的な牧歌劇は、17世紀のスペイン演劇に至る道のりをつけました。

カンショネーロ・デ・パラシオ(王宮詩歌集) Cancionero de Palacio (1496年)より
「甘く愛しい炎」
甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす
愛しいあなたへ
それは少しずつ私を焼き尽くす
甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

この情熱的な女性へ
人々の先頭に立つ
私はいつまでも仕える
彼女に祝宴と遊びを与えるために

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

私は心に
固く決意しました
あなたのしもべとなり
彼女に祝宴と遊びを与えるために

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす

私は心に
固く決意しました
あなたのしもべとなるために
どんな時も
あなたのために燃えているのは良いことです

甘く愛しい炎
私の心を刻々と照らす


泉のほとりで

2025-07-31 20:59:00 | ルネッサンス
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→音楽の喜び フルートとともに
先週母と行った伊勢神宮内宮の池の鯉。

「暑い暑い」と口を開けば言ってしまいます。
今日も枚方は38度超え。


せめて池の鯉で涼しい気分に…。

洗濯機を回していたら、排水の途中で止まり、「排水フィルターのゴミを取り除いてください。」と出るので、フィルターを外すと、そこから大量の排水が吹き出て、大惨事に…。

パイプは正常に付いているけれど水が中に溜まっているみたい。重たい。
床下のどこかでパイプが詰まっているよう。

仕方ないので1枚ずつ洗面所で洗って絞って、乾燥はできるみたいなので乾燥モードに…。しかし、それも途中で止まったので
フィルターを抜いたらまた水浸し。
水が出るということは、下だけでなく上の給水もおかしいのかな?
洗面器で受けてもあふれる始末。
閉めては開け、閉めては開けて小出しにして、それでも横からあふれて…。

繰り返すこと何回か
給水側を止めて乾燥したら動くのでしばらくやってみましたが、熱くなるけれど乾燥しない。結局もうそこでやめて手で絞って部屋干し。

買って約10年もうだめなのかなぁ? 

せめて暑い夏でよかった。

トマス・モーリー (Thomas Morley、1557年 - 1602年)イングランド東部のノリッジ生まれ、

ルネサンス音楽末期のイギリスの作曲家です。

イングリッシュ・マドリガル(イタリア発祥の歌曲形式の名称)の作曲家であり、早い時期から多くの快活明快なマドリガルやバレットを作曲しました。

モーリーのバレットは、イタリアのジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディ(Giovanni Giacomo Gastoldi, 1554年 - 1609年)


のバレットに習ったものですが、それを英語にあったイギリス独自のものに発達させました。

「泉のほとりで」
Besides a fountain of sweet briar and roses,
heard I two lovers loving talk in sweet and wanton gloses.
Say, dainty dear, quoth he, to whom is thy liking tied?
To whom but thee my bonny love? the gentle nymph replied.
I die, quoth he,
and I, said she;
ah give me, give me then, quoth he,
but he durst not say, give me some token,
and with his hands the rest he would have spoken.
Fie away, nay fie away, cried the nymph then,
alas you well do know it;
ah, quoth he, sweetly come kiss me, and show it.
甘い茨とバラの泉のほとりで、
二人の恋人が甘く奔放な口調で愛を語るのを耳にした。
「ねえ、可憐な愛しい人よ」と彼は言った。「お前の好意は誰に向けられているんだ?」
「私の美しい恋人よ、あなた以外に誰が?」と優しいニンフは答えた。
「私は死ぬ」と彼は言った。
「私も」と彼女は言った。

「ああ、与えてください。」と彼は言ったが、
「何かしるしを与えてください。」と言う勇気がなかった。

彼は手を握って話した。
「離して、いや、離して」とニンフは叫んだ。

「ああ、あなたもよくご存じでしょう」
「ああ、優しく来て私にキスをして、見せてください」と彼は言った。



石とお酒の高級住宅街

2025-07-22 21:00:00 | ルネッサンス

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https://m-fluteangel16.hatenablog.com/
神戸御影駅近くの吉岡美恵子先生のお宅で13:30〜ピアノ合わせでした。
また暑さが戻ってきました。御影と言えども時間的に影一つない感じでひりひり肌に刺さるような日差しでした。

ライネッケのフルート協奏曲第一楽章。
息継ぎを細かく取ること、骨の音をしっかりテンポよく取ることなどなどご指導いただきました。

課題がいっぱい。
本当に練習できてなかったから…。昨日ショッカーなど小品が片付いたので今日からはライネッケに全集中できます。
頑張ろう!

御影(みかげ)は、兵庫県神戸市東灘区にある地名。広義では旧武庫郡御影町の一帯を指す地域名です。

御影は古い地名で、花崗岩の別名「御影石」の語源となり、江戸時代以後は酒造地としても知られるようになりました(灘五郷の一つ「御影郷」)。
近代には、もとの御影村などを含めて御影町が編成され、その山手側は高級住宅地としても知られました。

「御影」という地名の由来としては、「沢の井(澤之井)」と呼ばれる泉(阪神御影駅付近に所在する)に神功皇后(成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)

「神功皇后」『慶応頃錦絵帖』
一猛斎芳虎 作
がその姿(御影)を映したという伝承(『武庫郡誌』『御影町誌』)がよく知られています。

ほかに、聖徳太子の母(穴穂部間人皇女)(あなほべのはしひとのひめみこ、? - 推古天皇29年12月21日(622年2月7日)が難波から西に向かって仏を拝んだところ当地の山越しに阿弥陀仏の姿が現れたこという説(『摂津名所図会』吉野屋為八が計画し、1796年(寛政8年)-1798年(寛政10年)に刊行)、 


本住吉神社(もとすみよしじんじゃ)の神の姿が背後の山に現れるので「御影山」という説、

河内国魂神社の古い祭神であった天御影命(日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神)の名と関連付ける説(『西摂大観』)などがあります。

『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう、承平年間(931年 - 938年)の辞書)には菟原郡に属する郷の一つとして「覚美(かがみ)郷」を挙げ、これは御影付近と推定されています。

覚美郷には、金属加工の工人集団の鏡作部がいたと推測されています。

綱敷天満神社(つなしきてんまんじんじゃ)では、古くは銅の地金の塊を御神体としていました。

12世紀初頭の藤原基俊(康平3年(1060年)生まれ、永治2年(1142年)没


の歌集に 

「よにあらば又かへりこむ津の国のみかげの松よ面変わりすな」

という和歌があり、『源平盛衰記』(14世紀成立)には福原京近郊の松の名勝として「雀の松原」と並んで「みかげの松」の名が挙げられています。

以後、史料には「御景浜」「御影塚」「みかげ(見景)の宿」といった地名が見え、天正19年(1591年)の文書に「御影村」の名が現れます。

電鉄(現在の阪急電鉄神戸本線)が開通して御影駅が開業し、1920年代後半(大正末期から昭和初年)に阪神国道(国道2号)が整備され、その路面上に阪神国道電軌(のち阪神電気鉄道国道線)が開通したことにより、大阪市・神戸市と直結する交通の便を得ることになり。町域北部には高級住宅街が生まれました。

1933年(昭和8年)には御影公会堂(現在の御影石町四丁目。国の登録有形文化財)が建設されます。

昭和10年御影公会堂

御影町は1934年(昭和9年)の室戸台風、1938年(昭和13年)には阪神大水害により被災し、1945年(昭和20年)の神戸大空襲によっても大きな被害を受けました。戦災復興に財政上大きな課題を抱えた状況下で神戸市から合併の申し入れを受けました。 

1950年(昭和25年)4月1日付で御影町は全域が神戸市に編入され、東灘区の一部となりました。町有財産は御影財産区と郡家財産区の2つの財産区に引き継がれました。

御影石
六甲山地に産出する花崗岩


がいつ頃からか採掘されるようになりました。いつ頃から「御影石」と呼ばれて花崗岩の代名詞となるに至ったかははっきりしていません。

江戸時代後期の『摂津名所図会』(1798年発行)や『日本山海名産図会』(1799年発行)によれば、御影村の浜(御影浜)から積み出されたために「御影石」と呼ばれると記されています。

「御影石」が一般名詞化したのは、六甲の花崗岩が他地域に先駆けて大量送出を実現しただからという推測があります。

六甲山の花崗岩が、中世から西日本の広い範囲で石材として使用されていたことは判明しています。

六甲山地でしばしば発生する土石流によって下流に押し流された花崗岩の岩塊を加工して送出したのが始まりで、下流の岩塊を採りつくしたのち上流に採石場が開かれていったと考えられています。

安土桃山時代から江戸時代初期にかけての土木工事には六甲山から切り出された石材が盛んに用いられました。
たとえば天正17年(1589年)、京都の三条大橋が修築された時に橋脚に使われた石柱には「天正十七年津国御影」という刻銘があります。

享保・宝暦期には当地の採石・加工業は最盛期を迎え、荒神山(現在は住吉台)などが石切場となり、麓にある石屋川沿岸の石屋村は石工の村として繁栄しました。  

江戸時代後期には、花崗岩の主産地が瀬戸内海に移り、また大坂に石問屋株仲間が組織されたことなどから、当地での石材業は次第に衰えていき、21世紀現在、御影地区で石材の採掘は行われていません。

六甲山の花崗岩は「本御影石」と呼ばれます。
1956年に六甲山が国立公園(瀬戸内海国立公園)の一部に指定されて採取ができなくなったため、「本御影石」は宅地造成や自然崩落によってのみ入手できるものとなっており、希少価値の高い高級石材となっています。

酒造地「御影郷」
江戸時代から「灘五郷」(西郷、御影郷、魚崎郷(以上神戸市)、西宮郷、今津郷(以上西宮市)を指します)として知られる酒造地の一つが「御影郷」です。

「御影郷」と呼ばれる地域は、現在の御影本町・御影塚町、および東に隣接する住吉地区の住吉南町を含んだ地域で、白鶴・菊正宗・剣菱などの造り酒屋が操業しています。

「沢の井」は後醍醐天皇

文観開眼『絹本著色後醍醐天皇御像』(清浄光寺蔵、重要文化財)
に沢の井の水で醸した酒を献上し、嘉納されたというもので、酒造家の嘉納姓(嘉納財閥(かのうざいばつ)「灘の生一本」で知られています。)の起源伝承にもなっています。

室町時代中期に書かれた一条兼良の随筆『尺素往来』において「兵庫、西宮の旨酒」についての言及があります。室町時代にはすでに西宮で酒造が始まっていたと考えられます。

ルネサンス建築と彫刻と言えば柱や凝った装飾が大理石を使って行われていました。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(通称:ドゥオモ)はルネサンス建築の代表作です。

彫刻では、ミケランジェロの「ダビデ像」が有名です。 
この大理石像は、ミケランジェロが25歳の時に制作したもので、古代ギリシャの英雄ダビデの姿を力強く表現しています。ダビデ像は、人間の理想的な形を表現するルネサンスの特徴を象徴する作品と言えるでしょう。

ミケランジェロ・ブオナローティ作:ダビデ

多くの作曲家がルネサンス期に素晴らしい作品を残しています。
その頃の代表的な作曲家
ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525 - 1594年)ローマ教皇領パレストリーナ生まれの、

「鹿が泉を欲しがるように」
我が魂は渇望する、
詩篇は聖土曜日の水(洗礼盤)の祝福のための定められた洗礼の水と「聖餐の生ける水」を想起させ、神への憧憬を語っています。



ノートルダム大聖堂の新築記念

2025-07-15 21:00:00 | ルネッサンス
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日曜日に行った高山ダム。
1953年に近畿地方を襲った台風13号により大規模な水害が起きました。
その時に水害を抑えるために考えられた方策の1つが木津川水系のダムの建設でした。

考案の途中で1959年伊勢湾台風が起き、13号を越える洪水による被害が起き、より大規模な構想がたてられ、景勝地月ヶ瀬梅林の一部と京都、三重、奈良の196世帯が水没することになり、工事は難航しました。


紆余曲折の末、ダムは1969年完成しました。

初めは月ヶ瀬ダムとつけられる予定でしたが、水没した旧高山村の住民の要望で髙山ダムと名付けられたそうです。


ペロタン(フランス語: Pérotin)またはペロティヌス(ラテン語: Perotinus)は、中世西欧の作曲家。


12世紀末から13世紀はじめにかけてフランスで活躍しました。

出身や民族は不明ですが、フランス人であったと考えられています。
ノートルダム楽派のポリフォニー音楽の最も有名な担い手です。

ペロティヌスの作品は、初期ポリフォニーの宗教曲集『オルガヌム大全』によって伝承されています。

『オルガヌム大全』は、ペロティヌスの先人レオニヌスの作品も含んでおり、ノートルダム楽派によるオルガヌム曲集(中世ヨーロッパで発達した合唱の技法で、初めの頃は第一声が旋律を歌い、第二声がその完全四度または完全五度上を歌う形式でしたが、後にはより複雑になりました。ペロタンは声体ポリフォニーおよび4声体ポリフォニーの先駆者)の撰集となっています。

『アレルヤ、乙女マリアのほまれある御誕生』の1ページ

しかし、彼の生涯についてはほとんど知られていないため未だに確証はありません。

ペロティヌスの活動年代は、フィリップ・ル・シャンスリエ(Philippe le Chancelier, 1165頃 - 1236年)との共作について触れたパリ司教オドの記述から、だいたい12世紀後半から1220年までと算定されています。

また、四声オルガヌム《地上のすべての国々は Viderunt omnes》は1198年のクリスマスのために作曲されました。

もうひとつの四声オルガヌム《かしらたちは集いて Sederunt principes 》は、1199年の聖ステファノの日(12月26日、ノートルダム大聖堂の新築された翼面の献堂式が行われました)のために作曲された可能性を示しています。
ノートルダム大聖堂は、1163年、国王ルイ7世臨席のもと、ローマ教皇アレクサンデル3世が礎石を据えたことに始まりました。

建築工事の大半は司教モーリス・ド・シュリーとその後継者オドン・ド・シュリーが指揮を執って進められました。

2019年4月15日の火災。

2024年11月29日、5年前の火災からの再建工事を経て、同年12月7日に再開記念式典がマクロン仏大統領も出席して行われ、翌12月8日には修復後初のミサが執り行われ、一般公開も再開されました。

…ノートルダム大聖堂と髙山ダム…何の関係もありません…。

四声オルガヌム《かしらたちは集いて Sederunt principes 》





船は通り過ぎる

2025-07-11 21:12:00 | ルネッサンス
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火曜日の朝は眼科検診
牧野から一駅乗って、樟葉で特急を待っていたら来ました。

この車両好きです。
眼科健診は今日は少し調子がよかったみたい。右目はだいぶいいみたい。左目はイマイチ。
直前までサングラスをつけていると少しマシみたい。
目のことばかり考えてしまいます。楽譜が見えにくいのは、本当に困ります。
瞳孔を開く目薬を入れて検査。
これをすると水底にいるみたい。
藤森駅前に流れているのは琵琶湖疏水です。

琵琶湖の湖水を滋賀県大津市から西隣の京都へ流すために作られた水路(疏水)のことです。

京都に必ずある街角のお地蔵さん。
 


今日の疏水は穏やかで水面に景色がよく映っていました。
昔は船も運行していたそうですが、1936年からは停止しているそうです。

アドリアン・ヴィラールト(Willaert, Adrian)(1490年頃 - 1572年12月7日)

は、盛期ルネサンス音楽のフランドル人作曲家です。
おそらくブルッヘの出身ですが、二次資料が示唆するのは、ルーセラーレ(Roeselare。西部フランドル、現ベルギー領)の地です。
ヴィラールトはまず法学を学びにパリに赴きますが、結局のところ音楽を学ぶ決心をしたそうです。
同地でフランス宮廷礼拝堂の作曲家のジャン・ムートンに入門します。

1515年頃、ローマに向かいます。
ヴィラールトの逸話が今も伝わっています。
それによるとヴィラールトは、自作のモテット(6声のための《善き甘き御言葉 Verbum bonum et suave 》)がローマ教皇庁の聖歌隊によって歌われているのに気付いて驚いていると、さらに驚いたことに、礼拝堂の歌手たちは、その曲がかの有名なジョスカンの作曲であると思い込んでいたという。そこでヴィラールトが相手の思い込みを訂正して――自分こそがその作者であると事実を告げました。
すると、礼拝堂の聖歌隊から、二度と歌いません、ときっぱり断わられました。
ヴィラールト初期の様式は、ジョスカンに非常によく似ていました。

1515年7月になると、フェラーラでイッポーリト・デステ1世
の宮廷に仕えるようになります。
イッポーリトは旅好きで、ヴィラールトは主君に同行して各地を回りました。そのため1517年から1519年までハンガリーに住みました。

1520年にイッポーリトが亡くなると、ヴィラールトはフェラーラ公アルフォンソ・デステ(1476-1534年)

に仕官します。
1522年になるとアルフォンソの宮廷礼拝堂に職を得て、1525年まで同地に滞在。
1525年には、ミラノのイッポーリト・デステ2世に雇われたという記録が残っています。
ヴィラールトの契約のうちで最も重大で、なおかつ西洋音楽史上で最も重大な契約のひとつが、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂楽長への着任です。

同地の音楽はヴィラールトの前任者ピエトロ・デ・フォッシス Pietro de Fossis の許で斜陽を迎えていました。
ヴィラールトはみごとに復興を果たし、1527年の契約から1562年の逝去まで、事実上の終身楽長としてその地位を守りました。

ヨーロッパ中の多くの作曲家がヴィラールトの門を叩きにヴェネツィアを訪れました。

エイドリアン・ヴィラールト/N(1480-1562)。フランドルの音楽家。木版画、ヴェネツィア、1559年。
1550年にはヴィラールトは《分割合唱のための詩篇集 Salmi spezzati 》を出版しました。これがヴェネツィア楽派(ヴェネツィアで、16世紀中期から17世紀初頭にかけて活躍した作曲家たちのことです。二つの聖歌隊と2台のオルガンを用いた二重合唱(複合唱)の技法の開発が知られています。)の最初のコーリ・スペッツァーティ様式( cori spezzatiは、空間的に離れた位置にある複数の合唱隊が、交互に歌い継ぐという書法が特徴的です。)による作品となりました。

『船は通り過ぎる』
Passa la nave は、イタリアの人文主義者フランチェスコ・ペトラルカ
Francesco Petrarca, 1304年7月20日 - 1374年7月19日
の詩に基づく幻想曲です。
忘却に満ちた我が船は、
冬の真夜中、荒れ狂う海を、スキュラとカリュブディスの間を進んでいく。
舵には君主、いやむしろ我が敵が座っている。
それぞれの櫂は、嵐と終末を嘲笑うかのような、速くも残酷な思考を帯びている。
帆は、ため息、希望、そして欲望の、永遠の湿った風によって破られている。
涙の雨、軽蔑の霧が、既に疲弊した索具を濡らし、鈍らせる。それらは誤りと無知に絡み合っている。
二つの甘く馴染み深い印は隠され、理性と芸術は波間に消え去り、私は港に絶望し始めている。


ジンジャーとナツメグ

2025-07-10 21:00:00 | ルネッサンス
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近所のスーパーで新生姜を見つけたので、

皮を軽く剥いて千切り。
2分お鍋で茹でて
あげたら塩を振り

冷まします。

煮汁はスープに

瓶におたふくのらっきょう漬けの甘酢を入れて2日。

新生姜漬けの出来上がり。
簡単な割に美味しいです。
水曜日今日の枚方市は39.9度。
酷暑を乗り切りましょう。

和名ショウガの由来は、大陸からミョウガとともに持ち込まれた際、香りの強いほうを「兄香(せのか)」、弱いほうを「妹香(めのか)」とよんだことから、これがのちにショウガ・ミョウガに転訛したとする説。

江戸時代の農業百科事典『成形図説』のイラスト(1804)

漢語「生薑(しゃうきゃう)」が「ミャウガ」からの干渉によって転訛したという説とが有るそうです。

別名はハジカミ。
古くはサンショウと同じく「はじかみ」と呼ばれ、区別のために「ふさはじかみ」「くれのはじかみ」ともよばれました。

英名は Common ginger(コモン・ジンジャー)といい、日本でもジンジャーの別称で呼ばれています。

gingerの由来は、古代インドで使われていたるサンスクリット語sringa-veraで、「枝角の形」を意味する語から来ています。  

熱帯アジアが原産という説が最も有力だそうですが、野生のショウガが発見されたことがないためショウガの原産地は厳密には不確定だそうです。

長い間インドのポンディシェリの近くにgingi地方という地域があって、そこがショウガの原産地と考えられていました。

それがラテン語のジンジベル(Zingiber)の語源という説もあったが、今日ではサンスクリット語のショウガ(śṛṅga-vera)のペルシア語訳(dzungebir)が語源と見られています。

インドでは紀元前300 - 500年前にはすでに保存食や医薬品として使われていました。

ショウガに関する最初の記録は、中国の戦国時代(紀元前475-221年)に孔子の弟子たちによって書かれた論語です。

その中で、孔子は毎食ショウガを食べていたと言われています。(孔子は『論語』の中で「毎食、少量の生姜を」と説いています。)


論語の一部
406年、法顕僧はショウガを鉢植えで栽培し、壊血病を防ぐために中国の船で運んでいたと書いています。

宋王朝(960-1279)の間、ショウガは南の国々から中国に輸入されていました。

ヨーロッパでは、アラブ人によって地中海にもたらされ、ディオスコリデス(40–90)や大プリニウス(24–79)などの著述家によって記述されています。

150年、プトレマイオスは、ショウガがセイロン(スリランカ)で生産されていると述べています。

クラウディウス・プトレマイオス( Claudius Ptolemaeus ;西暦 100年頃- 160年代/​​170年代)

ショウガは、腎臓などに使うなど裕福な人しか購入できない非常に高価なハーブ療法の一部としてローマ帝国に輸入されました。

アエティウス・オブ・アミダ(  5世紀半ばから6世紀半ばにかけて活躍したビザンチン・ギリシアの医師、医学著述家)は、ショウガとガランガルの両方を複雑なハーブ処方の材料と説明しています。

ヨーロッパ人が植物としてのショウガを初めて見て記録したのは、13世紀にマルコ・ポーロがインド・中国で見たのが初めてだそうです。

15世紀末に新大陸が発見されると、ショウガはすぐに栽培作物として持ち込まれ、16世紀半ばには西インド諸島はショウガの産地となりました。

中世には、ヨーロッパ人の嗜好がショウガの料理として好意的に受け止められるようになったため、生のショウガや保存食のショウガのヨーロッパへの輸入量が増加しました。

この時期、ショウガはいくつかの国の公式薬局方にも記載されています。
14世紀のイギリスでの相場はショウガ1ポンド(約450グラム)でヒツジ一匹の価格に相当したそうです。

ショウガは16世紀頃、スペイン王室の奨励により、黒コショウ、クローブ、シナモンとともにアジアからカリブ海諸島に密輸されましたが、生育したのはショウガだけでした。

ショウガは16世紀末までに砂糖に取って代わり、イスパニョーラ島とプエルトリコの主要輸出作物となりました。17世紀にはアフリカからの奴隷労働が導入され、砂糖の生産がより経済的になりました。

ケーラーの薬用植物誌の1896年カラー版

西洋料理では、ショウガは伝統的に、ジンジャーエール、ジンジャーブレッド、ジンジャースナップ、パーキン、スペキュラースなどの甘い食品に主に使用されています。 

カントンと呼ばれるショウガ風味のリキュールは、フランスのジャルナックで生産されています。

ジンジャーワインは、英国で生産されるショウガ風味のワインで、伝統的に緑色のガラス瓶で販売されています。ショウガは、ホットコーヒーや紅茶に加​​えるスパイスとしても使用されます。ギリシャのコルフ島では、ジンジャービールの一種であるτσιτσιμπύρα (ツィツィビラ)と呼ばれる伝統的な飲み物が作られています。
コルフ島とその他のイオニア諸島の人々は、イオニア諸島合衆国時代にイギリスからこの飲み物を取り入れました。

生姜は粉末生姜の6倍の割合で代用できますが、生姜と乾燥生姜の風味は多少異なります。

粉末状の乾燥生姜は、ジンジャーブレッド、クッキー、クラッカー、ケーキ、ジンジャーエール、ジンジャービールなどのレシピの風味付けによく使用されます。砂糖漬けまたは結晶化した生姜は、英国では「ステムジンジャー」として知られ、根を砂糖で柔らかく煮込んだもので、菓子の一種です。


「ナツメグとジンジャー」作者不詳1595 in Cambridge Consort Books

1580年、ロンドンからノリッジまで踊った男を描いた、小さなイングリッシュ・ダンスです。

歌詞は彼は10日以内にロンドンからノリッジまで踊りながら行くと言うことを成し遂げられるか賭けをします。

彼は賭けに勝ち、後にこの物語は「9日間の驚異Nine Days Wonder」という慣用句になりました。
つまり、どんな驚くべきことも人の噂や栄誉は9日間しか続かない。と言う意味です。
なぜこれがジンジャーとナツメグなのかは今となってはわかりませんが…。
この頃、入って来た高価で素敵な香辛料が、庶民も手に入れたかどうかはともかく知られていた。ということを示しています。




科学への希求

2025-07-06 20:58:00 | ルネッサンス
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家にいる土曜日。
先週行った緑化センターの写真の整理です。

百合の花も真っ盛り。
冒頭写真はオリエンタルリリー ビッグスマイルです。

オリエンタルリリー トリコロール

オリエンタルリリー カメレオン

カサブランカ
紫陽花も盛りでした。



カシワバアジサイ

コンペイトウ

ダンスパーティー 

アナベル

池の中には

鯉もいました。

学術的な植物園の最古のものは、エジプトのアレクサンドリアにあったアレクサンドリア図書館に隣接して設けられていました。

アレクサンドリアのものは、薬草として使うために、種類ごとに採集、分類して栽培されていたものだと伝えられています。

古代中国の神農(三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたと言われています。神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされています。)は、経済的または薬用価値のある植物を探して遠くの地域にコレクターを派遣しました。

薬草栽培は、中世ヨーロッパでは修道院を中心に盛んに行われました。

中世初期の庭園でイスラムスペインの例では医師が造った11世紀ウエルタデル・レイの庭、将来の植物園に似ていたものにトレドのイブンワフィド(999から1075 CE)があります。

モントピーリア医学校もスペインのアラブ人医師によって設立され、西暦1250年までにフィジカルガーデンを備えていました。
 
ヨーロッパでは、例えば、アリストテレス(384 BCE - 322 BCE)はアテナイのリュケイオンに薬用庭園を持っていました。

パドヴァ大学は、1222年に創立。
イタリアではボローニャ大学に次いで2番目に古い大学です。
特に医学、自然科学の分野での名声を勝ち取り、ガリレオやダンテ、ペトラルカが教鞭を取り、コペルニクスが学んだことでも有名です。

そこに世界遺産に登録された植物園があります。

パドヴァ植物園の16世紀の版画 — 元々の場所にある最古の学術植物園

植物学者フェデリコ・ボナフェーデが構想し、建築家のアンドレア・モロニが設計しました。

1545年5月29日にヴェネツィア共和国議会により設立が許可されました。
ジュスティーナ修道院の一部を植物園にすることで同年7月7日に開園しました。

これは研究目的の大学付属施設の植物園としては世界で最も古いと言われています。

敷地の面積は2.19ha。植物園内には創設当時の設計による庭園が残ります。
庭園は円形を基調とし、主に4つのエリアで区切られています。

植物園内最古の植物は、1585年に植えられたヤシの木です。

ゲーテが1786年にこの植物園を訪れた時に、このヤシの木を見て独自の自然観を得たとも伝わっています。
現在ではゲーテのヤシとも呼ばれています。

また、多くの有名な植物学者がここの「プラエフェクトゥス」(園長)を務めたことがあり、ミズアオイ科(学名のPontederiaceaeは元園長のジュリオ・ポンテデーラに由来)のような彼らの科学的業績にちなんで名付けられた植物もあります。

さらに、この植物園では、ヒマワリの花を、ヨーロッパで最初に開花させることに成功、イタリアで初めてジャガイモの栽培も行われました。

世界遺産には、1997年に登録されました。

トリエント公会議( Concilium Tridentinum,)は、教皇パウルス3世によって1545年3月15日にトリエント(現在のイタリア共和国トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント)で召集され、1563年12月4日にピウス4世のもとで第25総会を最後に終了したカトリック教会の第19回公会議のことです。

プロテスタントの勃興により、追い込まれたカトリック教会が、教義や文化あらゆる側面から討論し、見直しが行われました。

パドヴァ大学の植物園が建てられたのも調度その頃です。
南ヨーロッパの植物園は医療の発展のために大学医学部に関連し、イタリア北部のピサ植物園(1544)、パドヴァの植物園(1545)、センプリチ庭園(1545)、パヴィア王立大学(1558年)ボローニャのオルト・ボタニコ(1568年)dell'Universitàdi Bologna (1568年)などが、その頃続々と建てられています。

ヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei, 1520年頃 - 1591年)サンタ・マリーア・ア・モンテ生まれ、フィレンツェ没

は、イタリアのリュート奏者、作曲家、音楽理論家であり、有名な天文学者・物理学者ガリレオ・ガリレイ、およびリュート奏者で作曲家のミケランジェロ・ガリレイの父です。

後期ルネサンス音楽の重要人物で、バロック期を開く音楽的革新にも深く関わっています。 

幼少期よりリュートを学びました。
1562年までにピサに移り、貴族の娘と結婚。

1564年、長男のガリレオ・ガリレイが生まれ( ヴィンチェンツォには、この後、ガリレオを含めて6人または7人の子供が(続々と)誕生します。
1575年、ミケランジェロ・ガリレイが生まれます(ミケランジェロのほうは、成長後、リュート奏者で作曲家となります)。

ヴィンチェンツォは技量の高いリュート奏者で、その前半生においては有力で人脈豊かな後援者達の注目を集めました。

1563年、ヴェネツィアで16世紀における最も重要な音楽理論学者ジョゼッフォ・ツァルリーノと出会い、このツァルリーノの下で学び始めます。

しばらく後、ヴィンチェンツォはカメラータ(ジョヴァンニ・デ・バルディ伯爵主催による詩人、音楽家、知識人の集まり)に参加し、また古代ギリシア音楽に関する当時随一の学者であったジローラモ・メーイとも交流して、古代ギリシアの音楽や劇を再現することに興味をもつようになります。

1570年代には、ヴィンチェンツォの音楽理論と作曲に対する関心もそのような方向へと向かうようになりました。

その後、ツァルリーノとヴィンチェンツォは音律を巡る激しい論争を引き起こしました。
無伴奏で歌を歌う場合に、純正律を擁護するツァルリーノに対し、ヴィンチェンツォは平均律の優位性を主張しました。

この論争の中で『古代と今日の音楽に関する対話』


などの著作が著され、ピタゴラス音階への論駁や多声音楽の否定など、のちの音楽の科学や展開に貢献する多くの説が生まれました。

ヴェンチェンツィオ ガリレイ
対位法contrapont



おもてなしのバレエ晩餐会

2025-07-03 21:00:00 | ルネッサンス
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日曜日、私が働いている間男たちは夕飯に、いろいろ作っていました。
私がほぼ作らないメニューに挑戦!

焼きそばパン。
フランスパンは次男好物のカリカリの固めの京田辺の「ポップステップ」で買ってきたらしい。

次男は「うまい!うまい!」と焼きそばを口の端から垂らしながらあっという間に完食しました。

夫は彼方昔の学生時代の感傷に浸って「うまいだろ〜!」と満足そうです。

後手作りハンバーグとポテトとサラダ。
男飯の夜は野球とビール。

私もお相伴して満足、満足。

ルネッサンス時代のイタリアの食文化や食マナーは、ほかのどこの諸外国よりも、最先端を行き、他国が手掴みで食べ物を頬張っていたとき、イタリアでは、フォークで食べ物を口に運んでいたそうです。

ルネッサンス当時は、ナイフ担当、すなわちトリチャンテ「切り分け係り」という、専門職が存在していました。

1581年に発行された「トリンチャンテ」マニュアル

メデイチ家の宮廷晩餐会


「トリンチャンテ」という言葉は、いまは「包丁が切れる」とか「肉切り包丁」という意味で使われる、トリンチャンテ(Trinciante)という言葉が、彼らの呼び名です。

晩餐会の役職には
スカルコ(Scalco):晩餐会の総監督。

トリンチャンテ(Trinciante):お客様の前で、肉を切り分ける係り。

クレデンツィエレ(Credenziere):食器担当

ボッティリエレ(Bottigliere):料理に合ったワインを提供するソムリエ。当時のソムリエは、味の確認はもちろんのこと、毒が盛られているかどうかの、毒味の役割もありました。

コッピエレ(Coppiere):主賓にグラスを置き、飲み物を注ぐ係り。肌が白く、手先がよく手入れされた、若い美男子担当。

ソヴラスタンテ(Sovrastante):ウエイター。カップルに一人ついたそうです。


スズキとかマグロなど

アーティチョークは
果物のカテゴリーだったんだ。
メロン、リンゴ、洋ナシなど。



クロスティーニ ディ カテリーナ ディ メディチ”。
ホウレンソウと牛の脳味噌。


フィレンツェ風ビステッカ
キアニーナ牛
などなど

そしてもちろん音楽も!



オルレアン公アンリとカトリーヌ(1519-1589年)の結婚式。ジョルジョ・ヴァザーリ画。1550年。

カトリーヌはヴァイオリンをアマディに作らせ、
《ポーランド使節のためのバレエ》(the Ballet aux ambassadeurs polonais)は1573年に行われたとされるものです。(《ポーランド人のバレエ》と訳されることもあります。)

1573年にカトリーヌ・ド・メディシス


がポーランドから訪問中の使節のためにテュイルリー宮殿で披露した見世物でした。

振付家は、イタリア出身のバルタザール・ド・ボージョワイユー(イタリア名ではベルジオジョーゾ)で、もともとヴァイオリン奏者であり、カトリーヌに音楽監督と宮廷主席従者に任命されていた宮廷人でした。

歴史家ブランドームによれば、テュイルリー宮殿の大広間で、フランスの16の地方を表す16人の美女を登場させて「世界に比類ない美しいバレエを見せた」そうです。

彼女たちはみごとに規定された正確さで、さまざまな型を見せ、「旋回と一周と方向転換、交錯と混合、対面と休止」を演じました。
そして、それ以上に独創的な新しさを示し、真の意味の宮廷バレエの初めの『王妃のバレエ・コミック(演劇的バレエ)』を上演させました。

このバレエはポーランドからの来賓をもてなす外交の一環として、演じられました。

四方から取り囲む貴賓、観客からその踊りの図形の変化をたのしめました。

観客たちは上から見下ろす形で、演じ手の動きが成す幾何学的な動きを見て楽しんだようです。

このバレエの音楽を担当したと言われているのは

オルランド・ディ・ラッソ(Orlando di Lasso)(1532年 - 1594年)ベルギー、エノー州のモンスに生まれ、



生年は1532年頃とされていますすが厳密には不明。

通称から割り出された氏名はローラン・ドゥラットル(Roland Delattre)。
生い立ちには確証のない逸話がいくつも伝えられています。
中でも最も有名なものは、あまりの比類ない美声に3度も誘拐されてイタリアに辿り着いたというものです。

12歳の時にフェランテ・ゴンザーガに連れられ、北海湾岸のネーデルラントを旅立ち、マントヴァとシチリア、そして(1547年から1549年まで)ミラノに足を運びます。
ミラノ在留中にマドリガーレ作曲家のオステ・ダ・レッジョ(Hoste da Reggio)の面識を得て、初期の作曲様式に影響を受けます。

1550年代初頭からナポリでコンスタンティーノ・カストリオートにより声楽家兼作曲家として雇われました。
ラッソの最初期の作品はこの時期までさかのぼります。
それからローマへ移り、同地のフィレンツェ公家に仕官しました。

1553年には、ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂楽長に就任します。


サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂
わずか21歳の人間にとっては華々しい名誉職であったにもかかわらず、ラッソはわずか1年間だけで離職してしまいます(後任はパレストリーナ、1555年着任)。

1554年になると所在についての確たる証拠がなくなるものの、フランスとイングランドを訪問していたといわれています。

1555年にネーデルラントに帰国し、初期作品をアントウェルペンで出版しました(1555年~1556年)。

1556年にバイエルン公アルブレヒト5世(1528-1579年)


の宮廷音楽家に採用されます。ラッソはミュンヘンに勤めるネーデルラント出身者のひとりでここで有名になりました。

1563年には楽長に昇格。
ミュンヘン時代は幸福だったようで、この地に定住することを決め、1568年に所帯をもち、後に作曲家になる息子ふたりをもうけました。

ラッソは終生にわたってバイエルン宮廷に奉公し、アルブレヒト5世とその後継者ヴィルヘルム5世(1548-1626年)


に仕えました。

ラッソが1560年代までにかなり有名になり、ミュンヘンに留学してラッソの門を叩くものも現れるようになりました。

ラッソの名声は限られた音楽界の外にも広まるようになり、1570年には神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世(1527-1576年)


から貴族に叙列されました。
作曲家には異例の待遇でした。

1571年には教皇グレゴリオ13世 (1502-1585年)


より教皇庁騎士に叙任され、黄金拍車勲章を授与されます(作曲家に対する待遇は、それから200年後にモーツァルトに対して行われただけです)。

1571年と1573年には、シャルル9世の招待でフランスを訪問しました。
この時、「王妃のバレエ」を作曲したと思われます。

こうした君主や貴族の中には、より魅力的な地位を申し出てラッソを口説き落とそうとする者もありましたが、ラッソは報酬よりも、自分の地位の確かさと、バイエルン宮廷の申し分のない演奏活動に対する関心が優先したようです。

1580年には、ザクセン公よりドレスデン宮廷への就職を打診された際、ラッソは次のように書き送っています。

「私は自宅からも自宅の庭からも、そのほかのミュンヘンのよいところからも離れたくはないのです。」

(しかしながら別の見方も可能かもしれない。ラッソは結婚するまでに幾多の宮廷を渡り歩くことで、当時の宮廷社会の裏側や暗部を知っていた可能性があり、おそらく、当時の複雑なヨーロッパの社会情勢や宗教界の分裂を考え、家庭を守る意味から、より高い名声や報酬を棒に振ったのでと考えられてもいます。また、当時のヨーロッパ君主や諸侯のかけ引きに乗じることで、主君から慰留のために報酬が上乗せされたのかもしれません)。

ラッソは1570年代後半から1580年代にかけて、数回イタリアを訪れ、当時の最も進んだ音楽様式と流行に遭遇しました。

1590年代には健康が衰え始め、心気症の治療を受けている。
しかし、なお作曲に加えて、時おり旅行に出ることもできました。

絶筆は、精緻を極めた21の宗教マドリガーレからなる曲集《聖ペテロの涙 Lagrime di San Pietro 》で、没後に出版された楽譜(1595年)は、ローマ教皇クレメンス8世に献呈されました。

バレエ音楽は残っていないので、他の曲。
Osculetur Me 彼は私にキスしてくれるでしょう