音楽の喜び フルートとともに

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ドン・ファンの始まり

2022-05-31 21:01:27 | バロック
クサノオウ。
いつもの里山に咲いていました。
見たことのない草花なので、撮ってきて後で検索してみると、茎を折ると黄色の汁アルカロイド系の毒が出て、触ると皮膚炎になると書いてありました。
瘡の黄とも草の王とも書かれたのは、毒性もあるが、治療薬としても効果があったそう。吸引すると手足が麻痺したり、幻覚作用もあったとか…やばいです。

アレッサンドロ メラーニ(1639-1703年)イタリア ピストイア生まれ、イタリア ローマ没

の書いた「罰せられた悪党」は1669年に初演された世界初のドン・ファン伝説による悪党が主人公の歌劇と言われています。

11歳でピストイア大聖堂で歌い始めます。
1663年オルヴィエートでマエストロ ディカペラ(教会合唱団のマスター)1665年フェラーラ、1666年サンタマリア マッジョーレ大聖堂のマエストロ

1612年サンルイジディフランチェーズ教会

のマイスターになりました。
彼は教皇クレメンス9世

のお気に入りでコンクラーベ(教皇選出)の曲を依頼したりしています。

その頃、1686年に「罰せられた悪党」は作曲されました。

その後も教会の祝祭の音楽を書き、イノセント11世の援助を得たりしています。

また、トスカーナ大公フェルナンド2世


メディチ家
の支援を受け、教授になっています。

「罰せられた悪党」は
マリー マンシーニ(マザラン枢機卿の姪)

の依頼で1669年カーニバル中に上演する歌劇として作曲されました。



パラッツォ コロンナ劇場で初演されました。
アクリマンテは、アトラーチェ王の妹イポメーネを狙っています。

イポメーネの恋人クロリドーロは、彼女が自分と王を裏切っていると、アクリマンテを毒殺しようとします。

アクリマンテの棄てられた妻アタミーラは、まだ彼を愛していて、手にした毒を眠り薬にすりかえます。

眠り薬を飲んだアクリマンテは、夢の中で冥府の女神までをも誘惑。

正気に戻った彼は更にイポメーネに手を出し、阻止しようとしたイポメーネの父ディデモを殺してしまいます。

罪の意識を感じないアクリマンテは、墓地で石像となったディデモを夕食に待しますが、いよいよ悪党が罰せられる時が来ます。



編曲と教育で名を残した作曲家

2022-05-30 21:34:25 | 近代
今日はセンメルトリオの練習日。

かわいいチューリップのお菓子を頂いて練習。


ヴィオラの金重さん、ピアノの坂田さんとフルート久米で6月26日自泉会館のプライベートコンサートの練習です。

日本の抒情歌からカタツムリと海を演奏。ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」から、「プレリュード」と「月の光」をトリオ編成でお届けします。

前回から1ヶ月経つといろいろ忘れています。
抒情歌は、ピアノ譜をトリオ譜に編曲しながらなので、自分がどこを演奏するのかわからなくなっていてつい要らないところで音を出したりしてしまいます。

それの方がよかったとか言いあって、編曲がまた始まってしまいました。

アンリ ビュッセル(1872-1973年)フランス オートガロンヌ県トゥールーズ生まれ、フランス パリ没

と言えば、ドビュッシーのピアノ連弾「小組曲」をオーケストラ編曲したことで有名です。

自身も1893年、ローマ賞を取るなど、作曲の才能もあります。

シャルル グノーの秘書をしたり、ドビュッシーを支持、ジュール マスネと20年に渡り擁護したりもしました。

他にもドビュッシーの「春」もオーケストラに編曲しています。
自身の作品はあまり残っていませんが、パリ音楽院で教授として後進を育てました。

その中には
ディテーユ、ボザ、ダマーズ、デザンクロなどなど多くの有名な作曲家がいます。

フルートの世界では、1908年パリ音楽院の卒業試験のために書かれた「プレリュードとスケルツォop35」が有名で今でも良く演奏されています。



5月のそよ風

2022-05-29 18:48:33 | ロマン派
旧宅のガレージに怪しい影。

棚の間から見える肉球‥。 

見ていると逃げてしまいました。
黒猫さんでした。

その後はまたフィールドワーク。
5月とは思えないほどの暑さでした。

フェリックス メンデルスゾーン(1809-1847年)
自由都市ハンブルク生まれ、ザクセン王国ライプツィヒ没

ドイツの画家カール・ヨーゼフ・ベガス(Carl Joseph Begas/1794–1854)が描いた12歳頃のフェリックス・メンデルスゾーンの肖像画。
この肖像画、本当かな?
こちらはもっと女の子より。


作者不詳のメンデルスゾーンの肖像画
かわいいです。

同じ人でしょうか?

「5月のそよ風」は、ピアノ曲集「無言歌集」第5巻の中の一曲です。
op 62-1 u185

Andante espressivoとメンデルスゾーンが書いているのを見て、出版社が「5月のそよ風」とつけました。
クララ シューマン(1819-1896年)ザクセン王国ライプツィヒうまれ、プロイセン王国フランクフルト アン マイン没

に捧げられました。






5月の歌

2022-05-28 22:57:07 | 名曲
今日は、西宮ギター練習会のコンサートでした。






鷺のねぐらがホールの横にあり、楽屋からよく見えました。

どきどきの本番。

川原久美子さんとフルートでバッハの「フルートソナタBWV1035」と岡山友樹さんとファリャの「7つのスペイン民謡」
を演奏しました。
楽しかったー。お客様も暖かく見守って下さっていい体験しました。

今帰ってきました。
疲れました。
今夜は1901年作曲 エドワード エルガー(1857-1934年)の5月の歌


いちごを食べちゃった

2022-05-27 21:11:36 | 名曲
里山に野いちごの季節がやってきます。
これはヤブヘビイチゴ。
食べられるのですが、これは甘味がなくいまいち。

でも、いちご1番乗り。

ナワシロイチゴはもう少し。

これは美味しいのになぁ。

エンゲルベルト フンパーディンク(1854-1921年)プロイセン王国ジークブルク生まれ、ドイツ国ノイシュトレーリッツ没

の「ヘンゼルとグレーテル」については以前に当ブログでご紹介しました。

ケルン音楽院に1872年に入学。
1879年奨学金でミュンヘンに行きラハナーとラインベルガーに師事します。
ベルリンでメンデルスゾーン基金から奨学金を得てイタリアへ、ナポリでリヒャルト ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没


に出会い、信頼を得ます。

ワーグナーに呼ばれてバイロイトに行き「パルシファル」の上演を手伝います。
2年後ワーグナーが亡くなると、また、学資を得てイタリア、フランス、スペインを旅行し、2年間バルセロナ音楽院で教鞭をとりました。
1887年ケルンに戻り、1890年フランクフルトホーホ音楽院の教授になります。
この頃から作品の人気が高まりベルリン マイスターシューレの教授になります。

「ヘンゼルとグレーテル」は1893年12月23日
ベルリンでリヒャルト・シュトラウス指揮によって初演されます。


ドイツのおとぎ話を元に描かれています。
母親の言いつけを守らずに仕事をせずに遊んでしまったヘンゼルとグレーテルは、ミルクのポットも割れてしまい、食料代わりのいちごを取りに森におつかいに出されます。

森の中をさまよいながら、いちごをたくさんとってよかった!

…とならず、カッコウの歌を2人で歌いながらいちごを1つ、2つとパクリ、パクリ。
ついに全部食べてしまいます。

だって歩き回って、お腹が空いていたんだもの!と2人の心の声が聞こえてきそうな一曲です。

その後、後悔した母親は父親と一緒に森に二人を探しに行きますが、森には魔女がいて大変なことになります。

カッコウの歌です。



夏の小交響詩

2022-05-26 20:54:00 | 名曲
うちの梅花空木。

大好きです。



鉢植えですが、毎年咲いてくれます。

シャルル グノー(1818-1893年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国サン=クルー没

父は設計士、母はピアニストで母から学び、パリ音楽院に入学します。
1839年カンタータ「フェルディナン」でローマ賞を受賞します。

2年間のイタリア留学の後、ウイーン、ベルリン、ライプツィヒを経てパリに帰ります。
1843年サン トゥスタッシュ教会のオルガニストになります。
1852年アンナ ジマーマンと結婚。


1859年になって歌劇「ファウスト」

ファウスト、メフィストフェレスの宮殿
を書き、ようやく成功します。

1867年「ロミオとジュリエット」を作曲。
1870-75普仏戦争を避けてイングランドに渡ります。
王立合唱教会に首席指揮者に就任し、声楽曲を多く作曲するようになります。
1871年に戦争が終わり家族はパリに戻りましたが、グノーはその後もイングランドにとどまります。

歌手のジョージナ ウェルドンの家にいました。


1875年彼女を離れ、パリに戻ります。
その頃には、尊敬されてはいましたが、時代遅れになっていました。

彼は1893年10月18日、ピアノで最後のレクイエム(ハ長調)を演奏しているときにセントクラウドで亡くなりました。

1885年に「9つの楽器のための小交響曲」を作曲します。

この曲はフルート、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2という編成で室内楽で20世紀における「シンフォニエッタ」(交響曲の性格を持ちながら規模の小さな作品)の先駆的作品になっています。

サル プレイエルで管楽器室内楽協会(1879年ポール タファネル設立)により初演されました。

初夏の香りがすると思うのですが、どうでしょう?




いつの世にもコーヒー・カンタータ

2022-05-25 21:34:30 | バロック
いつもの里山の茶畑。


幌をかけたり、外したりお手入れが大変です。

半分辞めてしまいました。
お世話されている方もご高齢になっています。

今日は、ピアノの坂田さんと小品を合わせました。
抹茶プリンをいただきました。
コーヒーを飲んでから、練習しました。

コーヒーは18 世紀から、ライプツィヒに普及し、
ツィンマーマンのコーヒーハウス

コーヒーハウスが建てられ、依存症が問題になっていました。

ヨハン セバスチャン バッハ(1685-1750年に)
神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯アイゼナハ生まれ、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒ没

の時代、ライプツィヒには8軒、コーヒーハウスがあり、
音楽が演奏されるコーヒーハウス
も出てきます。

その中の1軒、ツィンマーマンコーヒーハウスでバッハが作曲した「コーヒー・カンタータ」が1734年に
ゲオルグ フィリップ テレマンの指揮によりコレギウム・ムジクム(大学生主体の演奏団体)で
初演されました。

カンタータは、イタリアから伝わったカンツォーネのことで初めは歌のことでしたが、次第に大規模になり、器楽の伴奏が入る声楽曲全般を指すようになりました。

コーヒーは、黒いので女性が飲むと肌が黒くなるとか、黒い肌の子が生まれると言われて、女性は飲むことは許されず、コーヒーハウスも女人禁制でした。

ところが禁止されてもコーヒーを飲む女性は絶えず、「コーヒー・カンタータ」は、コーヒー好きな娘を戒めようとする父親と言うことをきかない娘の物語になっています。


【歌詞】
第1曲 レチタティーヴォ(語り)
(語り手)
おしゃべりはやめて、お静かに。
今から始まることの次第をお聞きください。
そうら その名もいかめしいシュレンドリアンが
娘のリースヒェンを連れてやってきました。
どんな仕打ちを娘から受けたのか、
よく聞いてみましょう。

第2曲

アリア(詠唱)
(父 シュレンドリアン)
子供というのは、
厄介千万、苦労の種でしかない。
娘のリースヒェンときたら、
毎日毎日、何度も何度も、言ってきかせても、
すぐもう一方の耳から出ていってしまう。

第3曲 レチタティーヴォ
ソプラノ、バス、通奏低音
(シュレンドリアン)
この厄介者、はねっかえり娘め!
いつになったらわかってくれるものやら。
コーヒーなんかやめなさい!
(娘 リースヒェン)
まあお父さん、そう厳しいこと言わないで。
もし、一日三回のコーヒーが飲めないなら、
とっても残念なことだけど、
しなびた山羊の肉みたいになっちゃうわ。

第4曲 アリア
(リースヒェン)
ああ、コーヒーの味の何と甘いこと!
千のキスよりまだ甘い、
マスカットよりもっと柔らか。
コーヒー、コーヒー、コーヒーなしじゃやってけない。
私を何とかしようと思ったら、
コーヒーをくれるだけでOKよ。

第5曲
(シュレンドリアン)
わかったぞ。
はやりのスカートも買ってやらない。
(リースヒェン)
そんなのなくても、死にゃしない。
(シュレンドリアン)
窓の中から、町を眺めることも
できなくしてやる!
(リースヒェン)
平気平気、おんなじことよ。
私はただコーヒーを飲ませてって言ってるだけよ。
(シュレンドリアン)
帽子につける金銀細工も、
手に入らないぞ。
(リースヒェン)
かまわない、でも、私の楽しみだけは取り上げないでね。
(シュレンドリアン)
この無礼者め、
コーヒー以外、何にも要らないというわけか?


第6曲 アリア
(シュレンドリアン)
わがまま、強情な娘は、
まったくどうにも手におえない。
でも、「泣き所」さえうまく見つけたら、
しめしめ、何とかできるだろう。


第7曲 レチタティーヴォ
ソプラノ、バス、通奏低音
(シュレンドリアン)
さあ、お父さんの言うことを聞きなさい!
(リースヒェン)
コーヒーのこと以外なら、何でもね。
(シュレンドリアン)
勝手にしなさい。
ところで、結婚する気はないんだろうな。
(リースヒェン)
父さん、もちろん夫が欲しいわ。
(シュレンドリアン)
誓って、結婚なんかは許さないね。
(リースヒェン)
コーヒーをやめないなら?
ああお父さん、わかりました、それならもう、
コーヒーなんか飲みません。
(シュレンドリアン)
やったぞ、とうとう言うことを聞かせた!

第8曲 アリア
(リースヒェン)
きょうのうちにも!
お父さんが許してくれた。
ああ、旦那さま!
ほんとにいい気分、
早く会いたい、
コーヒーのやめた代わりに、
今日ベットに行く前にでも
がっしりした素敵な旦那さまかみつかりますように。


第9曲 レチタティーヴォ(語り手)
(語り手)
こうして、シュレンドリアンさんは、
急いで娘のリースヒェンのために、
婿を探しに出かけました。
でも、リースヒェンは、
婿殿をうちに入れる前に、
こんな約束をさせようと思っていました、
「いつでも飲みたいときに、コーヒーを飲ませてくれるように。」

第10曲 合唱
猫はねずみとりが止められないように、
娘はコーヒーがやめられない。
母さんも、おばあちゃんも、
みんな飲んでる、
そんなコーヒーを娘がやめられるわけないでしょう!






夏の牧歌

2022-05-24 15:07:10 | 名曲
里山はアジサイ属がたくさん咲いていました。姫空木も満開。

今日はもう初夏のようです。

アルテュール オネゲル(1892-1955年)
フランス共和国ルアーヴル生まれ、フランス モンマルトル没

スイス人の両親。
コーヒーの輸入商社の支配人をしていた父のもと、ヴァイオリンとピアノを母から学びました。

1905年チューリヒ音楽院を経て
1911年パリ音楽院で学びます。
ダリウス・ミヨーと生涯の友となります。

第一次世界大戦に2年間スイス兵として従軍しました。

1913年にアンドレ ヴォラブールと出会い後に結婚します。
パリ6人組に参加します。

1920年作曲の交響詩「夏の牧歌」は、オネゲルの出世作になりました。
28歳の時にスイス ベルナー オーバーランドに行き、ヴェンゲンで書かれました。

両親の故郷で景勝地でした。

スイスの楽器製作者レオ シルの新しい楽器の為に依頼されました。
が、結局普通の弦楽オーケストラの為に書きました。

アルテュール ランボー(1854-1891年)
フランス帝国シャルルヴィル生まれ、フランス共和国マルセイユ没

の「イリュミナシオン」の散文詩「私は夏の曙を抱いた」という一節にインスピレーションを受けて作られました。

この曲はパリで行われた聴衆による人気投票で第一位に選ばれヴェルレイ賞を受けました。


ディーリアスのカッコウ

2022-05-23 21:12:11 | 近代
雛桔梗草(ヒナキキョウソウ)がたくさん里山のあぜ道に咲いていました。
野の草は小さいのでよく見ないとわかりません。

フィールドワークに余念のない生物オタクたち。
今年初めてのコクワガタを捕まえ、観察して帰しました。

フレデリック ディーリアス(1862-1934年)
イングランド ブラッドフォード生まれ、フランス共和国グレ=シュル=ロワン没

は1912年「春初めてのカッコウの声を聞いて」を書いています。

ディーリアスはオランダ系の血を引くドイツの裕福な商人の家に生まれます。父は一旗上げるためにイギリスに移り住みました。

4男10女の次男として生まれ、一度は経営を学ぶために、アメリカフロリダ州のオレンジ栽培のプランテーションに送られますが、黒人音楽を学び、2年で帰国。

フロリダのプランテーション

1888年にライプツィヒ音楽院で学び、ここで終生彼を支えるエドゥアルド グリーグ(1843-1907年)

に出会い、熱心に作曲を勧められます。

1907年パリで出会ったヘレーナ ゾフィー エミリー ローゼン 
通称イェルカ ドイツの画家と結婚し、彼女の実家のあるフランス グレ=シュル=ロワンに移住、終生そこに、住みます。

イェルカの描いたディーリアス

この頃から彼女の受け継いだ遺産がディーリアスを支えました。

二人の間には子どもはなく、イェルカは度々女性関係に悩まされます。

また彼はこの頃梅毒に感染。 
1918年頃から視力を失い、手足の麻痺に陥ったディーリアスを、献身的に介助し、最後には彼女自身大腸癌を患いながら介助し、1935年、彼を看取ります。


「春初めてのカッコウの声を聞いて」は、
「小オーケストラのための2つの小品」のうちの一曲です。
もう一曲は「川面の夏の夜」。

イェルカとの結婚生活の初期の作曲。

オーボエやクラリネットによるカッコウの鳴き声に誘われて、
テーマのノルウェー民謡「オーラの谷にて」が演奏されます。



花の章

2022-05-22 21:12:47 | 名曲
里山の池の側は、

空木が満開でした。
アジサイ科だそうです。

マーラーの交響楽第一番というと「巨人」という副題のついた壮大な音楽ですが、実は第二楽章「花の章」がマーラー自身によって削除されたことを知っていますか?

最近ではこの削除された第二楽章を加えて演奏されることがありますが、一時は失われていました。

1884〜1888年に作曲されました。
もともとは

第1部 青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど

第1楽章 春、そして終わることなく
第2楽章 花の章
第3楽章 順風に帆を上げて

第2部  人間喜劇
第4楽章 座礁、カロ風の葬送行進曲
第5楽章 地獄から天国へ
という副題がついていました。

その頃、マーラーはヨハンナ リヒターというソプラノ歌手に恋をしていました。


カッスル劇場の第二指揮者になったばかりで1885年に書いた「さすらう若者の歌」は、彼女への恋愛感情を書いたものだと言われています。
この恋は、マーラーの片思いだったようで、失恋しています。

1885年 ライプツィヒ歌劇場の第二指揮者になると
今度はウェーバーの孫のマリオン ウェーバー夫人と恋愛関係になります。
駆け落ちまで、考える仲になりましたが、実現しませんでした。 

そして、ここでも次第に人間関係が悪化し、身体も壊し、1888年手術をします。

ライプツィヒを去り、ブタペスト歌劇場の正指揮者になります。

1896年初演の時に第二楽章を削除しました。

長く失われたと思っていた花の章は第二次大戦後に弟子のペリン家で発見され、1967年に初演されました。