音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

山の王

2024-08-11 21:01:00 | ロマン派
土曜日は久しぶりに長男宅へ。緑濃い近江富士。
栗東で長男を拾って

菩提寺サービスエリアで

チャーシュー麺

唐揚げ定食。
安くて美味しかった。けど、すごい人出で混んでいました。
今日の目的は

彦根の

極楽湯。
ゆったりつかってリフレッシュしました。
彦根BIGで日用品と食品を買い込み

栗東の長男のマンションで焼き肉しました。

ヒューゴ アルヴェーン(1872-1960年)スウェーデン ストックホルム生まれ、スウェーデン ファールン没

1887年から1891年まで(15-19歳)ストックホルム音楽院に学びながら、ヨハン・リンデグレンの個人指導を受けます。生涯を通じ、指揮者としてヨーロッパを巡演しました。

また、スウェーデンの宮廷楽団 Hovkapellet でヴァイオリンを演奏し、1910年から1939年までウプサラ大学音楽監督 director musices を勤め、同大学の男声合唱団 Orphei Drängar を1947年まで指揮しました。

デンマーク人の画家 ペーダー・セヴェリン・クロイヤー(Peder Severin Krøyer :1851-1909)の妻で女性画家の マリー・クロイヤー(1867-1940)
自画像1900年頃
と関係をもち、クロイヤーの離婚後、1912年に結婚しますが、1936年に離婚しました。

マリーと離婚した後、彼はカリン・ウェスバーグと結婚しました。
2人は彼女が亡くなるまでの20年間(1936-1956年)を共に過ごしました。

その後に彼は1959年にアンナ・ルンドと結婚し、亡くなるまで彼女と過ごしました。

バレエ音楽「山の王」から「牛飼い娘の踊り」

この組曲は、1917年から1922年にかけて作曲されたバレエ・パントマイムです。

これは、山に囚われた少女という古い民話「デン・ベルクタグナ」に由来しています。

羊飼いの少女が山の王に誘拐され、愛する人に救われます。

しかし、最初に彼らを助けたトロルが、少女を自分で救えなかったことに腹を立てて彼らを見捨てたため、彼らは吹雪で死んでしまいます。

アルヴェーンは、ノルウェーの要素を加えたこの音楽を、1934年の映画『ソルバッケンの娘』の音楽に使用しました。

このバレエは4つの楽章に分かれており、「羊飼いの娘の踊り」(Vallflickan dans)は最もよく演奏される曲の1つです。

i. ベルスヴァルジェルセ(祈り)
ii. トロルの乙女の踊り
iii. 夏の雨
iv. ヴァルフリカンス・ダンス(羊飼いの娘の踊り)






病院嫌い…でも。

2024-08-10 21:01:00 | ロマン派
金曜日早朝、赤ちゃんを保育した後、歯医者さんで歯垢取り。
半年に1回行ってますが、前回事情があって飛び、なかなか予防できてません。
いつもはちょっと金具?で
取るだけですが1年になると多かったのか?新兵器を入れたのか?
電動工具で取ってくれました。
ちょっと痛くて、うがいしたら少し血が混ざってました。

先生いつも
「痛かったら手を挙げて教えてください。」と言われるのに手を挙げたら「痛かったですか、ちょっと痛いですね。もうちょっとがんばってくださいね。」と、止める様子もありせん。

予防のため。がまん、がまん。

その後、ダイソーでキッチン消耗品を買い、業務スーパーで野菜を仕入れて帰りました。
車載温度計は今日も「40℃」を、示しました。こう暑いと誰も歩いてません。車がなかったら、あちこち用事も済ませられません。

ダイソーの駐車場に咲いていたパボニア ハスタータ。
アオイ科フヨウ属 南米原産。
よくぞこの熱の中、咲いていました。

シャルル グノー(1818-1893年) フランス王国パリ生まれ、フランス王国サン=クルー没
父は彫刻家、母はピアニストでしたが、5歳で父が亡くなります。
母にピアノを学び、アントニーン レイハ


に個人で対位法を学びます。
その後パリ音楽院で学びます。

1839年作曲でローマ賞を受賞。
ローマに留学します。
そこでファニー メンデルスゾーンにも知り合い、高く評価しています。

1843年帰国してパリ外国宣教会の学校の教師につき、神学を学んだりしていましたがフランス革命で中断します。

二月革命
1854年に『血に染まった修道女』を初演しますが、成功しませんでした。

このためグノーはいったんオペラ作曲から遠ざかって交響曲を2曲作曲、1855年には『聖セシリア荘厳ミサ曲』を完成し、これらの作品によってグノーの名声は高まりました。

この時期またグノーは音楽教師ピエール・ジメルマンの娘のアンナ

と結婚し、パリの合唱団オルフェオン (fr:Orphéon) の指揮者に就任しました。

その頃自信を回復したのか
1858年
オペラコミック「いやいやながら医者にされ」Le médecin malgré lui, を作曲しました。

J.バルビエとM.カレ、作曲者自身の台本による3幕のオペラ・コミック(モリエール原作)。


『にわか医師』の訳題も用いられます。

オペラコミック
「いやいやながら医者にされ」

スガナレル(夫:木こり)とマルティーヌ(妻)の派手な夫婦喧嘩で幕が開きます。

終いにはスガナレルが奥さんを棒でブン殴ってしまい、腹が煮えくり返ったマルティーヌが復讐を考えているところに2人組(ヴァレールとリュカ)がやって来て、彼らの主人(ジェロント)の娘が言葉を話せない病気になり名医を探している、と言います。

ここでピンと名案が浮かんだマルティーヌ。
「スガナレルという木こりは無学な変人のようで、実は凄い名医で大勢の重病人を治したのよ。でもすごく変わってて、棒で思い切りぶちのめさないと自分が名医だって認めないの」と二人に言います。

喜んだ2人は、呑んだくれているスガナレルを見つけると早速棒でぶちのめし、耐えられなくて医者だと認めた彼をご主人の館に連れて行きます。

ジェロントの館の外では、青年レアンドルが娘(リュサンド)へのセレナードを歌っています。

ジェロント家の乳母が「お嬢さんの病気を治すには、好いた男と結婚させるのが一番」と言っても、別の金持ちと結婚させたいジェロントは聞く耳を持ちません。

そこに登場したスガナレルはいかにも怪しい雰囲気。

しかし言葉を話せず「アン、イン、オン・・」と妙な言葉しか言えなくなったリュサンドを適当に診察すると、メチャクチャなラテン語や口から出まかせでジェロントたちを煙に巻き、立派な医者だと感心されます。

お礼金をもらって退出すると、待っていたレアンドルに声をかけられます。

「リュサンドが恋人で、彼女は父が決めた別の男との結婚がいやで仮病をつかっています。」と打ち明けられ、レアンドルを薬剤師に仕立てて館を再訪します。

薬剤師が娘の脈を診ると思わず彼女が恋人への思いを声にし、「やあ!口がきけるようになった!」と喜ぶ父ジェントロ。

しかしリュサンドは「お父さんの決めた人と結婚するのは絶対にイヤ!」と言います。

そして隙を見てレアンドルと2人で駆け落ちしてしまいます。

ジェントロは、偽医者スガナレルが手助けしたことを知って大激怒します。

「訴えてやる!」と息巻いているところにレアンドルが再び登場。

「駆け落ちはやめて正々堂々と娘さんをもらい受けに来ました。叔父が亡くなり財産をすべて相続することになったのです」と言います。

するとジェントロ「ああ!喜んで娘を差し上げましょう」とコロッと態度を変えて、スガナレルも命拾い。

「全部私のおかげよ」というマルティーヌにスガナレルは「だが俺ほどの人間に、これからは尊敬の念を抱くように」と威張って幕となります。

●6重唱 意味のある言葉が話せなくなった リュサンドを、偽医師スガナレルが診察します。




太陽王に愛された音楽家

2024-08-09 21:00:00 | バロック
日々草がうちの裏庭で元気です。

後、ベゴニアも。
ベゴニアは暑くても元気に咲いています。と思ったらやはり原産は熱帯から亜熱帯地方でした。
交配品種が多く、温帯や寒冷地にも咲く品種もあるようですが…。

フランスの植物学者シャルル・プリュミエ(Charles Plumier1648-1704年)

が1700年に出版した書物の中で6種をベゴニア属として紹介しました。

ベゴニアの名はフランス人ミシェル・ベゴン(Michel Begon, 1638-1710) の名に由来します。

ベゴンはフランス領アンティル諸島(カリブ海の島)の総督(在職1682-1685)で、プリュミエを当地の植物採集者としてフランス王ルイ14世(1638-1719年)


に推薦した人物でした。

この時代「太陽王ルイ」のもとに権力が集中し、世界中の富が集まりました。その一部が植物でもありました。

5歳で王位についたルイ14世は執政に政治を任せ、若い頃はバレエに勤しんでいました。

音楽家のリュリと組んで王の権威を示す音楽とバレエで「太陽王」

を演出するなどして、力を示し、実権を握っていきました。

ジャン=パディスト リュリ(1632-1687年)トスカーナ大公国フィレンツェ生まれ、フランス帝国パリ没

「トランペットのためのメヌエット」もそういう曲の1つです。

ルイ14世は実権を握って、バレエを踊らなくなっても寵愛は変わらずリュリのための劇場を支援したりしていました。

しかし、リュリは強引な方法でライバルを蹴落としたりし、また当時禁忌だった男色が問題になり、王も遠のきます。
王太子の寵愛は変わらず、彼のための曲を書きます。
ルイ14世の病気快癒のための曲を指揮した時に指揮棒を足におとし、
現代の軍隊の指揮棒 指揮棒というより指揮杖だった?
壊疽を起こし急死しました。





雨の後、私は見た

2024-08-08 21:00:00 | ルネッサンス
降りそうで降らない。降っても少しだけ。
レッスンのみなさんとのご挨拶も
「暑いですね。」
「今年は異常ですね。昨年もひどいと思ったけれど、一段階上がった気がしますね。」
庭の植木も水をあげても、昼間には頭を下げてしまいます。

夕方になったら『雨降らないかな?』と待ってしまいますが今週はあまり降りません。降ってもお湿り程度。
降り過ぎるのも困りますが、そろそろ少し降っても良さそうです。

ルカ マレンツィオ(1553-1599年)

おそらくブレシア大聖堂
の礼拝堂の G. コンティーノの弟子であったと思われます。

トレントの礼拝堂でしばらく奉仕し、1578 年から 1585 年まではモデナのルイージ デステ枢機卿に仕えました。  
1588年から1589年にかけて、彼はフェルディナンド公

とロレーヌのクリスティーナの結婚式のためにメディチ家の宮廷に出席し、I.ペリやE.デ・カヴァリエリと連絡を取りながら、祝賀会の作曲に貢献しました。

この機会に彼は、マドリガルの枠内に留まりながらも、すでにフィレンツェの「リサイタル・カンタンド」(オペラの源流)を先取りした「ミューズとピエリデスの競争」と 「コンバット・ピティコ・ディ・アポロ」を作曲しました。

その後ローマに住み、オルシーニ家(1589年~1592年)とアルドブランディーニ枢機卿(1593年~1595年)に仕えました。

1595年に彼はポーランド王
ジグムント3世
の宮廷に仕えました。

1598年に彼はヴェネツィアに戻りました。彼の生涯の最後の時期に関する情報はありません。

タッソとグアリーニの友人であり、「音楽的ペトラルキズム」(イタリアのペトラルカ(1304-1374)の抒情詩に影響を受けた考えのこと)の最大の提唱者であるマレンツィオは、モンテヴェルディの直接の先祖であるマドリガルの発展における最高潮の瞬間を代表しています。

音の象徴主義(マドリガリズム)と「視覚音楽」の技巧は、彼の作品の中で、気候の描写と感覚を結びつけています。

リズムと言葉の意味に注意を払っていますが、マドリガーレがもはや詩的な形式に従属するのではなく、本質的に音楽重視になっています。

彼の音楽の特質は、長音階の範囲全体にわたる旋律の発明と、最も大胆な半音階の変化にも論理的な一貫性を持ち、ジェズアルドに見られた実験的な半音階の使用をより柔軟に展開しています。

マレンツィオの作品は、多数のマドリガーレ コレクション (5 声のマドリガーレ 9 冊、6 声のマドリガーレ 6 冊、4 声と 4 6 声のマドリガーレ 2 冊、5 声の精神的および時間的マドリガーレ 1 冊) に加えて、人気のあるヴィラネルとナポリの 3 声のアリア、そして神聖なジャンルではモテット、神聖なカンティオン、アンティフォンです。

四声のマドリガーレ
Non vidi mai dopo notturna pioggia
「夜の雨が降った後私は空に見た」

夜の雨が降った後の静かな空気の中を星が動き、
露と霜の中でより明るく燃えているのを
見るたびに、目の前に星の瞳が見える。
人生の疲れが癒される。
美しいベールの影に星を見たように。
あの日、星の美しさで空が燃え上がるのを見たように
涙を流しながらも星が輝き続けるのを見て
私は永遠に燃える。



ニースで作曲「海賊」

2024-08-07 21:01:00 | ロマン派
演奏に行った時に帰りに寄った住之江公園の蓮。

暑い日でした。
午後からは花がしぼみます。

ひまわりも植わっていました。

暑い中、釣りをしている子どもたちがいました。
ブルーギルでも釣ったかな?と思って覗いてみましたが、入れ物もなく、リリースしているみたいでした。
真っ黒に日焼けして毎日来ているよう、子どもといえどたくましい海賊のようでした。

ルイ エクトル ベルリオーズ(1803-1869年)フランス共和国コート=サンタンドレ生まれ、フランス帝国パリ没

「序曲 海賊」H101
1831年4月から5月にニース に初めて滞在し、序曲『リア王』、『ロブ・ロワ』序曲と『メロローグ』の作曲を開始しました。

以来、ベルリオーズはこの街に特別な愛着を抱いていました。

1844年8月1日に自ら主催した大規模な産業祭のストレスの後、ベルリオーズは予定していたバーデン=バーデンへの旅行を延期し、代わりに友人のアムサット博士の助言に従って、9月をニースで過ごすことにしました。

ニースでの滞在については『回想録』(第53章)に簡単に触れられていますが、ベルリオーズはニースで序曲『ニースの旅』(海賊に後に改称)

1610年のニース
の作曲を開始したことには触れていません。
この曲は滞在した塔にちなんで名付けられ、ベルリオーズはそれを『ポンシェットの塔』と呼んでいました。

1843年のポンシェット

20世紀初頭のポンシェット

この新しい序曲は、他のいくつかの作品とともに、1844年11月5日に姉のナンシーに宛てた手紙( CG第924号)で初めて簡単に触れられています。

この作品は、1845 年 1 月 19 日のコンサートで初演されました。1845 年の初めにシルク・オランピック( CG nos. 934、937 )
1837 年、テンプル通りのオリンピック・サーカス
(産業祭のため4回のコンサートが開催され、ベルリオーズは1000人以上のミュージシャンを雇いましたが、演奏者にかかる費用は、収益で完全には賄えませんでした)で行った一連のコンサートの最初の曲でした。

1 月 26 日の雑誌「ル・メネストレル」の書評で簡単に触れられているように、この新作は大成功しなかったようです。
ベルリオーズ自身もこの曲に満足していず、1845年から1852年の間に大幅に改訂しました。

ベルリオーズは長年ジョージ ゴードン バイロン(1788-1824年)
1824年バイロン
の作品の崇拝者で、例えば回想録(第 36 章) では 1831 年にローマのサン・ピエトロ大聖堂でバイロンの
The Corsair(海賊) を読んで感銘を受けたと書いていますが、そこには、また彼の他の著作にも、序曲le Corsaire がバイロンの作品に触発されたり関連したりしたという記述はありません。

当時流行っていたこともあり、関連がないとも言い切れません。

後にはハンス フォン ビューローが気に入り、ピアノ編曲をベルリオーズに依頼し、定番曲のように演奏して回るなど人気の演目になりました。


ピッコロとバスとバス

2024-08-06 20:57:00 | 古典
月曜日、約束のピッコロ頭部管の摺合せできてきました。
ドルチェ楽器で試し吹き
やっぱり格段に鳴らしやすい。
コルクが太って少し不格好、それにキャップが入らなくなりました。

摺合せとピッコロケースの改造に、6600円と言っていましたが、サービスしてくれました。
助かります。
その後、渡邉橋サロン ド プリンシパルでフルートアンサンブルエスカルの練習。

JR大阪駅から初めてバスに乗りました。

土佐堀1丁目で降りたらプリンシパルはすぐでした。

御堂筋で淀屋橋にでたら京阪中之島線に乗り換えて3駅。
圧倒的楽で安いです。
外国の人が多かったです。
小さな座席に身を小さくして乗っておられて可愛そうでした。
私もバスフルートとコンサートフルートとピッコロフルートの3本持ちでコロコロ付きスーツケースと背中にバスフルートをおんぶ。
バスの中ではかさばって肩身が狭かったです。
でも、土佐堀1丁目で降りたらすぐプリンシパルなので楽でした。

着いたらピッコロ担当Mさんに、楽器を見せて吹いてもらいました。
「あ!いいですね。」
「でしょう?!」
「上まで楽に出る。」
Mさんのピッコロはフィリップハンミッヒの上位機種。ハカランダ(ブラジリアンローズウッド)で作られていてワシントン条約で保護されたので同じものは新品では二度と手に入りません。
5ミリ短いけれど
これがやっぱりいい音色です。

ですが、パウエルの頭部管つけて吹いてもらいました。
やっぱり会わずブカブカ。
「え〜?大丈夫かな?」Mさん、半信半疑。
だけど吹いてみたら
「いいですね。上まで簡単に音が出ますね。」
してやったり!と私。
本当にいい買い物しました。

エスカルの練習はくるみ割り人形の組曲。
難しくて終始こればかりだったので
今日は私はこの曲はバスフルート。序曲だけバス使わないのでコンサートフルートで吹きました。

コントラスバスと言う楽器は伴奏楽器と考えられていました。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

アリア「このうるわしき御手と瞳のために」 KV 612
自作目録には、シカネーダー(当時40歳)の一座のバス歌手ゲルル(当時27歳)とコントラバス奏者のピシュルベルガー(Friedrich Pischlberger)のために作曲したことが書かれています。

シカネーダー

劇場支配人シカネーダー(モーツァルトの「魔笛」のパパゲーノ役)
は1789年からヴィーデン郊外のフライハウス劇場(アウフ・デア・ヴィーデン劇場 Freihaustheater auf der Wieden ともいう)

の興行主となり、新しい時代のさきがけとして、ドイツ語による台本をもとに大衆的な音楽劇を盛んに上演していました。

当時、トルコ帝国との戦いはオーストリアを苦しめていました。 多くの貴族はウィーンの館を後にして田舎の領地に移りました。
お金は不足していたし、モーツァルトの予約演奏会は、貴族と上流市民階級の資金不足で不調に陥っていました。

上流市民階級とシカネーダーの劇場が、宮廷オペラと貴族のサロンに取って代わろうとしていました。

モーツァルトもそこに目をつけました。
シカネーダーのフライハウスは、規模も水準も観客も、モーツァルトが満足できるもので、彼は足繁くそこに通いました
フライハウス劇場そのものは1787年から1801年(最後の公演は6月12日)までのわずか14年間しか存在しませんでした。

モーツァルトとシカネーダーとの共同作業は 1789年6月にレーゲンスブルクからウィーンに乗り込んできたシカネーダーは類まれな興行師魂を最大限に発揮し、輝かしいひと時代を築くことになります。
「次第に体の衰弱していくモーツァルトとはもう2年しか共に舞台をつくる時間は残っていなかった」のです。

魔笛を創作する直前に作られた「女ほど素晴らしいものはない」を主題にした「8つのピアノ変奏曲」(K.613)はその一つであり、バス歌手ゲルルのための

アリア「このうるわしき御手と瞳のために」 KV 612

もその時期に作られました。

歌詞
この美しい手によって、
この曖昧な光線によって、
私は誓います、最愛の人、私は
あなた以外の誰も愛さないと誓います。
空気、植物、石
は、私のため息がよく知っており、私の変わらぬ信念が
何であるかを教えてくれるでしょう。 幸せそうな視線を向けたり、
誇らしげな視線を向けたり、
あなたが私を憎んでいる、
または私を愛していると教えてください、

いつも甘い光に照らされています、
あなたが私を呼ぶなら、いつもあなたのものです、
地も空も私の中に住んでいるその欲望を変えることはできません。



音登夢さんと夢の共演!

2024-08-05 21:00:00 | コンサート
世界文化遺産、第18代反正天皇(はんぜいてんのう) 田出井百舌耳原北陵(たでいもずのみみはらのきたのみささぎ)
の近くのサンスクエア堺ホールでモーツァルトのフルート四重奏Adur K.298を演奏してきました。
ヴァイオリン属の発表会です。
管は私だけ…。

子どもたちはみんなうまくてビックリします。
大人の方たちも難しい曲に、挑戦されていて素敵です。

現役の音大生に、卒業されたプロの方もいらして先生方の教室はレベル高いです。

さて私たちの本番、ヴァイオリン木村直子先生、ヴィオラ金重美代さん、チェロ木村政雄先生とフルート久米素子で演奏。
途中どきどきすることもありましたが、なんとか完走!
1年の練習成果を発表することができました。

それに当日嬉しいサプライズ!
演奏すると聞いてご来場くださったMさんご夫妻に、動画撮影してくださって、差し入れまで頂きました。
とってもありがたくて嬉しかったです。
「音登夢」とは?
ヴァイオリン奏者の木村直子(きむらなおこ)、チェロの木村政雄(きむらまさお)によって1998年3月11日結成されました。

またの名を「浪花の夫婦デュオ」(笑)とも言われています。 

二人とも、京都市立芸術大学卒業、ウイーン留学の後、長く京都フィルハーモニー室内合奏団のメンバーを務めました。

 二人の間の子供の名前、音登オトと登夢トムにちなんで、俳優の常田富士男(ときたふじお)氏(まんが日本昔話の語り手)が音登夢オトトムと命名。

二人のデュオ(2重奏)を
最小単位にして様々な編成で様々な曲を編曲演奏しています。

2005年5月、第5回大阪国際室内楽コンクールフェスタ部門で本選に進み、ファイナリスト賞受賞しました!

2009年まで春の音登夢コンサート延べ11回開催。
音登夢キッズ(子供の弟子達)、弦楽団(大人対象)など多彩なユニットも派生して楽しいコンサート活動を展開中。

2016年5月 音登夢ファンクラブ結成2020年3月に結成22周年を迎えました。(音登夢YouTubeチャンネルより)

木村直子先生と木村政雄先のYouTubeチャンネル「音登夢」から「アルデバラン」編曲は木村政雄先生です。
















ある暑い夏の日

2024-08-04 21:00:00 | 近代
土曜日、うちの裏庭のスダチ、初収穫。
ちょっと早かった小さくて固い。
絞りにくい!
でも香りが高く酸味は充分。
冷しゃぶにかけていただきました。

午前中実家でレッスン。10:00で36度。
それなのに着いたら、母は、「午前中はクーラーを入れない。」とクーラーつけません。
「いやいや、昔と6度は平均気温違うし、昔だって36度過ぎたらクーラー入れてたでしょ。」
「汗かいてるから大丈夫。」
どういう意味?

12:00頃、帰ろうと車に乗ったら

41度!
サンシェードをしていたのに、ビックリしました。

母は正午過ぎてもクーラーつけません。「窓開けたら風が入るから。」家の中より暑い風なのに、もう打つ手なし。

咲いているのは百日紅だけ。

てらてらと小鳥も鳴かず百日紅
          正岡子規

ああ!暑い…そのまま、帰ってきました。

ジョージ ガーシュイン(1898-1957年)アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス没 

東欧系ユダヤ人の父親はロシア、母親はベラルーシからの移民でした。

『ポーギーとベス、Porgy and Bess)

ガーシュウィンが死の2年前の1935年に作曲した3幕9場からなるオペラです。

1920年代初頭の南部の町に住む貧しい黒人の生活を描いています。
ジャズや黒人音楽を用いて作曲されています。登場人物はごく数名の白人を除き全て黒人です。

海に面した黒人の居住区キャットフィッシュ・ロウ(“なまず横丁”)が舞台です。

第1幕
ある夏の夕方 - 夜
足の不自由な乞食のポーギーは給仕女のベスに思いを寄せています。

ベスの内縁の夫クラウンは賭博のトラブルから仲間を殺して逃亡し、これをきっかけにベスはポーギーと一緒に暮らすようになります。

住民たちはクラウンに殺されたロビンスの部屋に集まり、彼の死を悼むとともに、なけなしの金を出し合って葬儀の費用を捻出します。

第2幕
殺人事件の1ヶ月後 - その1週間後
ある天気のよい日、キャットフィッシュ・ロウの住民たちは離島にピクニックに出かけます。

ポーギーは足が不自由なために留守番をします。
ベスもピクニックに参加しますが、島に隠れていたクラウンと出会います。

島から戻ったベスは熱を出して寝込み、ポーギーは献身的に彼女を看病します。1週間後、回復したベスはクラウンとのことを告白し、ポーギーへの愛を誓います。

その翌日、ハリケーンがキャットフィッシュ・ロウを襲います。

住民たちが集まっているところへクラウンが登場しポーギーと険悪なムードになります。

その時、漁師ジェイクの妻クララが難破した夫の船を見つけ嵐の中へ飛び出して行きます。
クラウンは嵐を恐れる住民たちを臆病者と罵りクララを追います。

第3幕
ハリケーンの翌日
嵐のために死んだ仲間のための葬式が終わった後、
クラウンがポーギーの部屋に忍び込みます。
それを見たポーギーは乱闘の末にクラウンを殺してしまいます。

翌日、警察による捜査が行われ、ポーギーは検死のために参考人として警察へ連行されます。

ポーギーが犯人であることは発覚しなかったものの、彼は自分が殺した相手を見ることができなかったため警察に1週間勾留されてしまいます。

勾留がとけて意気揚々と帰ってきたポーギーはベスの姿がないことに気づきます。
住民たちから、ポーギーがいない間に遊び人の麻薬の売人スポーティング・ライフがベスを誘惑し、遠いニューヨークへ行ってしまったことを知らされます。

ポーギーは悲嘆にくれるどころか、ベスを見つけるため、不自由な足をおして数千キロ離れたニューヨークを目指し旅立ちます。




飛行機を飛ばしてみました。

2024-08-03 21:01:00 | 現代
水曜日は、5歳児を幼稚園までお迎えに行って1時間ほど預かりました。

幼稚園で作った蝶々。
ストローが2本ついていて、吹いたら飛びます。
これが気に入っていて、「作ろう!」と言ってきました。
「いいよ!」
ところが、「ストローが無いよ。」あちこち探してみましたがありません。

「ストローが無くても作れる飛ぶおもちゃってある?」
と聴くと、「ある!飛行機。」
「3角飛行機と4角飛行機。折ってあげる。」
3角に折ってから作るのが3角飛行機、4角に折ってから作るのが4角飛行機。
昔々からある飛行機です。

折り紙で作って飛ばしてみました。
4角飛行機は飛びません。
3角飛行機は飛びます。が、まだまだ飛ぶ飛行機が有りそう。
スマホでみたらたくさん出てきました。

作っでみました。
先折れ飛行機。
3角飛行機より飛びます。
「せーの!」で一緒に飛ばして、どちらが飛ぶか?やってみました。
「次のも!」

ジェット飛行機、これもよく飛びます。先折れ飛行機より飛びます。

輪っか飛行機。
これは全く飛びません。飛ばし方にコツがいるみたい。
結局飛ばせませんでした。

おヘソ飛行機は、A4で折る飛行機ということで、楽譜の反故紙で作りました。これが一番飛びました。

ここで時間。
「今度、続きやろうね!」と言いながら帰っていきました。


レオナルド・ダ・ヴィンチによるフライングマシン(オーニソプター)の設計図(1488年頃)

ライト兄弟が1903年に飛行機を世界で初めて飛ばしました。

ライトフライヤー号は木製の骨組に羽布張りで、方向転換ができ、ガソリンエンジンを使用していたそうです。

ヨーロッパでは、
サントス・デュモン(1873-1932年)ブラジル帝国ミナスジェライス州パルミラ生まれ、ブラジル サン・パウロ州グゥアルジャ没

1901年には半硬式の飛行船6号機で、制限時間内にエッフェル塔の周りをまわる飛行にかけられたドゥーチ賞を獲得。6号機はパリの市民らからは"プティ・サントス"と呼ばれ親しまれました。

1906年10月22日、ヨーロッパで初となる動力機の飛行に成功しました。

デュモンの飛行機「14ーbis」
アメリカのライト兄弟に遅れること3年、1906年10月23日にエンテ型の動力機「14-bis」号の公開実験で高さ3m、距離約60mを飛行しました。

11月12日再び公開で高さ6m、距離220mを飛行し、100m以上の飛行にかけられていたアルシュデック賞(アルクデアコン賞)を獲得しました。

このため暫くの間、デュモンが世界初と思われていた時代がありました。

1910年頃から多発性硬化症を発病し、引退してパリ郊外に家を買って隠遁生活をしていました。

しかし、第一次世界大戦が勃発し、飛行機や飛行船が兵器として使用された事実に失望し、ヨーロッパを去りブラジルに帰りました。

ところが、平和の国と信じて帰ったブラジルでもその飛行機が内戦鎮圧に使用されました。

デュモンは著名人の署名を集め、飛行機を戦争に使用しない提言を行いました。
が、ヴァルガス大統領(1862-1954年)

や国会はこれを黙殺しました。

デュモンはこれに絶望し、この後サンパウロ州グアルジャのホテルでネクタイで首を吊って自殺しました。

当局はデュモンの死因を「心臓発作」と発表しました。

ウィリアム ターナー ウォルトン(1902-1983年)イングランド ランカシャー オールダム生まれ、イタリア イスキア島没

1942年「スピットファイア」前奏曲とフーガ は英名をThe First of the Few(数少ない最初の人)というイギリス映画の音楽として作曲されました。

戦闘機スピットファイアの製作をしたRJ ミッチェルの伝記映画。


それはデュモンが心底嫌った
戦争利用を前提とした飛行機製作を英雄視する内容になっています。




広重と冬の旅

2024-08-02 21:00:00 | ロマン派
火曜日、あべのハルカスでやっている「広重 摺りの極み 展」に母と行ってきました。
松井山手から天王寺まで、京橋で乗り換えてJRだけで行けます。

なので、朝車で牧野から実家の山手まで行って、そこからJRに乗って行きました。

すごい人。
チケットを買って入るだけで30分以上かかりました。
平日でこれ!
朝一10:00オープンを狙ってくる人が多いみたいです。帰りに見ると半分位になっていました。

掛軸塾さんのYouTubeチャンネル
「歌川広重の浮世絵」で予習して行きました。

母が使うと言うので、音声ガイドも借りました。
落語家の春風亭一之輔さんが案内してくれます。

歌川広重(1797-1858年)
江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となりました。風景を描いた木版画で大人気の画家となり、ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えました。

代表作東海道五十三次
日本橋
名所江戸百景

おおはしあたけの夕立
ヨーロッパから輸入されたプルシアンブルーをふんだんに使いました。それは後年広重ぶるう、ベロ藍とも呼ばれました。

淀川くらわんか舟

雨や雪、風の表現。構図のおもしろさ、誤謬のない遠近法が特徴です。

330点、想像以上の出展数で細かい筆致をガラス越しですが、間近で見られます。
写真を撮れる作品も、数点ありました。 
消化するのに少し時間がかかりそう。
疲れてハルカスの中でランチ。

台湾料理「食習」。

台湾の味、かなり再現していました。
値段もリーズナブル。いつもうるさい母も満足。

母が気に入って買った広重のクリアファイル

東海道五拾三次 蒲原 夜之雪
雪景色を描き、広重の出世作となりました。
蒲原は実はこんな豪雪が降ることが無い土地だそうです、広重よほど雪景色を描きたかったようです。
景色だけでなく人を描くことで、雪の温度や厳しさを表現していると思います。

1797年広重と同じ年に生まれたヨーロッパの作曲家はフランツ シューベルト(1797-1828年) 神聖ローマ帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1827年歌曲集「冬の旅」を書いています。

第14曲. 霜おく頭(10) Der greise Kopfに雪の表現があります。

霜が自分の頭にかかり、頭が白くなります。
老人になり死が近くなったようだと喜びますが、霜は溶けて、死まではなんと遠いのだろうと嘆きます。