音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

チューリップの曲

2024-04-11 21:00:00 | 古典
ご近所のチューリップが満開でした。






ハインリヒ・リヒナー(1829 – 1898 年 ) プロイセン王国シレジア ゴールドベルク地区のハルパースドルフ(現ポーランド トファルドチツェ)生まれ、プロイセン王国ブレスラウ(現ポーランド ヴロツワフ)没

は多作な作曲家で、現代では生徒向けに書かれたシンプルなピアノ作品である教育曲で最もよく知られています。

彼のソナチネ、第4番、第49番、第66番は特に軽くて流暢な古典的なスタイルですが、ハーモニーには時折ロマン主義の影響が見られます。

彼は監督兼オルガニストでもあり、11,000人の処女教会(ケルンの聖ウルスラ教会)
第二次大戦で破壊され再建されたウルスラ教会

オルガン
でオルガニストとして働き、ブレスラウのゼンガーバンド(合唱祭)の監督として人生の一部を過ごし、そこで亡くなりました。

「チューリップ」は1873年出版されたピアノ独奏曲集「色とりどりの花」Bunte Blumen, Op.111の4番目の曲です。

「色とりどりの花」
とても美しいTausendschön

バラRose

クローブNelke

チューリップTulpe

パンジーStiefmütterchen

風Winde

第4曲「チューリップ」






フルートとヴィオラの二重奏

2024-04-04 21:00:00 | 古典
今日は塚口駅近くのt-raumでハープレッスン。
実は1月発表会のあと、二男が骨折し、手術当日とレッスンが重なり泣く泣くキャンセル。
3月は介助とフルートの忙しさにかまけて抜けてしまい、気がつけば4月。
4月21日にカフェでハープアンサンブルを、演奏します。

先生ニッコリ笑って「本番までにもう一度レッスンしましょうね。」
「はぁ〜い!」

今日はその後、金重さんと待ち合わせ。


塚口駅近くの「わらわら」でお刺身定食を食べて、これで1000円。
金重さん、美味しいものを見つけるのうますぎます!

もう一度t-raumに戻ってヴィオラとフルートの合わせ。


ホフマイスターのヴィオラとフルートのための3つのデュオの中の一曲を
6月9日に六甲 里夢で演奏します。

どれにするか?
まだ迷っていたので選曲。
第1番はわかりやすくシンプルな作りです。
第3番は振幅の幅が大きくてドラマティックです。
第2番はヴィオラが難しいらしく却下。
何度か演奏して、今回は第一番に決めました。

フランツ・アントン・ホフマイスター(1754 – 1812年)南西ドイツ(現バーデン=ヴュルテンベルク州)のロッテンブルク・アム・ネッカー生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

14歳で法律を学ぶためウィーンへ行きます。
しかし勉強していくうちに音楽で生きていこうと決め、その広く多様な作品をもってして、1780年代までにウィーンで最も人気のある作曲家の一人となりました。

1785年頃にウィーンの音楽出版ビジネスの先駆けのひとつとして、Artaria and company設立の5年後に次いで事業を設立しました。

ホフマイスターは自作や多くの当時重要な作曲家(ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、クレメンティ、アルブレヒツベルガー、ディッタースドルフ、ヴァンハルなど)の作品を出版しました。

これら有名な作曲家たちはホフマイスターの個人的にも親しい仲にありました。

モーツァルトは弦楽四重奏曲第20番
をホフマイスターに捧げ、フルート四重奏曲第4番の変奏曲にホフマイスターの歌曲の主題を使っています。

またベートーヴェンは手紙の中でホフマイスターを“もっとも愛しい兄弟”と綴っています。

ホフマイスターの出版活動は1791年にピークを迎えましたが、その後は作曲活動へとシフトしたようです。
彼のオペラの多くは1790年代はじめに作曲・上演されました。
が、ビジネスセンスの欠如していたのと相まって、作曲数も減っていきました。

ホフマイスターの多様な全作品の中で有名なのはフルートのための作品です。

協奏曲や、フルートが主役の室内楽。
これらの作品の多くはフルートが最も魅力的な楽器と考えた当時ウィーンに多くいたアマチュア音楽家のために作曲されました。

フルートの作品以外に、少なくとも8つのオペラ、50以上の交響曲、多数の協奏曲(少なくとも25曲はフルート協奏曲で、他にヴィオラ協奏曲があります)、多数の室内音楽、ピアノ曲、いくつかの歌曲集などがあります。

「3つのフルートとヴィオラのための協奏的二重奏曲」が作曲された経緯ははっきりしていませんが、1790年自分の出版社から出版された多くの作品の1つとして作曲されています。

第一番






狸囃子

2024-03-18 21:01:00 | 古典
土曜日朝、実家に置いているスカイラインを久しぶりに動かしに行ったら、
バッテリー上がっていてJAFさんを、呼びました。
すぐ駆けつけてくれました。
1時間はエンジンを止めては行けないとそのまま次男と、姪、夫と出かけました。
「どこへ行こうか?」
お天気はいいし、あちこち混んでいるので、空いてそうな方向へドライブ。

やってきたのは



信楽駅。


たぬき
梅の花も咲いて暖かい日でした。

フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809年)神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

トーマス ハーディ画ハイドン
「交響曲第89番」
本作は自筆原稿が残っていて、「1787年」の日付が記されています。第88番『V字』と共にヨハン・ペーター・トストのために作曲されました。
トストは1783-1789年エステルハージ家の第2ヴァイオリン奏者で裕福なウィーンの卸商組合委員でした。
その年パリで活動することになり、そのための曲をハイドンに依頼しました。
第88番、89番はトストに渡りこの曲はともに『トスト交響曲』とも呼ばれています。
ちなみにトストは後にエステルハージ家の家政婦と結婚してパリで商人として活躍しました。彼はまたモーツァルトからも曲を買っています。

古くは『W字』(Letter W)の愛称で呼ばれることがありました、これは第88番と同様に、ハイドンの生前にロンドンのフォースター社からハイドンの交響曲選集の第2集(全23曲)を出版した際に、各曲に「A」から「W」までのアルファベット一文字からなる整理用の番号が印刷されていたのが愛称としてそのまま残ったものです
これは今では呼ばれていません。

しかし、私たち日本人にとってもっと重大な秘密が…

ここの冒頭、中山晋平の童謡『証城寺の狸囃子』に酷似した2小節の分散和音で演奏された後に第1主題が出現するというサプライズが…。いや、気のせい、気のせい。





ベートーヴェンの年金事情

2024-03-14 21:02:00 | 古典
水曜は次男の検診でした。
レントゲン撮って、順調に回復してるかどうか?
8:00に出たら、20分で着いて…早くつきすぎました。
前回混んでて40分かかったので、早めに行ったら20分で着きました。
レントゲンもサクサク進んで早く終わるか?
9:30診察。
早い!
しかし、「膝蓋骨を押さえているはずの杭(くい)が外れかかっている。」
ので、「これ以上外れたら、取らないといけない」らしい。

取るってまさか「再手術?」
「はい、そうですね。」
「状態見ながらリハビリやってもらって、それから手術するかどうか判断します。」
「それまで頻繁に、1週間に一度位見せてくださいね。」
一度診察室から出され、しばらくしたらまた呼ばれ
「リハビリは90度までにしておくように伝えてださい。超音波あてましょうか?」
「膝蓋骨でそれほど早く治るという報告はないんですが、ここは骨ができやすいところなんで、でもやってみるのもいいかな?どうされますか?」
することにしました。
そして小さな声で
「すみません。」

あれれ!?やっぱり失敗?
レンタル料金3か月5万円…労災申し込み中とサイン書いて放免。

ルートヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

は、生活苦から逃れようとして、ついに誘いのあったカッセル宮廷(ナポレオンの侵攻により1806-1813年の間ウェストファリア王国)
ベルクパルク・ヴィルヘルムスヘーエのヘルクレス
への異動を考え始めます。

ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(ナポレオンの弟)


が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート現3000万円位?)の年金で誘いをかけてきたからです。

ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職を思い止まらせたのは、ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、キンスキー公の3人です。

取りまとめ役はルドルフ大公でした。彼らが拠出した年金総額は3者合計で4000フローリン(5000万円)。

ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンでした。

1781-1831年神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子。1819年にオロモウツ大司教と枢機卿に選出されました。ベートーヴェンのパトロンおよび弟子として知られています。

ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲は
『ピアノ・ソナタ第26番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、
『ピアノ三重奏曲第7番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『
ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)などです。
ルドルフ大公は1500フローリンの年金を払っていました。

ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンでした。

ヨーゼフ・フランツ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ(1772 - 1816年)は、オーストリアのボヘミア系貴族、軍人、芸術愛好家。階級は陸軍少将。侯爵、ザーガン公爵、ラウドニッツ公爵。

彼が契約書にサインしていた額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。

ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲は
ベートーヴェン初期の
6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲
『第三番』(「英雄」、Op55)、
『第五番』(「運命」、Op67)、
『第六番』(「田園」、Op68)、
中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、
『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などがあります。

ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していました。

ウィーニッツ・アンド・テッタウ第5王子 フェルディナンド・キンスキー王子(1781-1812年)は、ウィーニッツ・テッタウ(ウィーン ハプスブルク君主国)の第5王子キンスキー王子。

エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はキンスキー公に献呈されています。

ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始めます。

ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いができなくなりました。

同じ年、キンスキー公がプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減します。

そこでベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」で訴え、有利な判決を受けました。

3人との契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、

そして仕事や芸術振興の目的で一定期間ウィーンを離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていました。

ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、当時当たり前だった教会音楽への貢献を求めることがありませんでした。

彼ら自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族でした。

そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもありました。なので経済的・社会的上下関係としてはパトロンでしたが、芸術分野では師弟関係にありました。

ロブコヴィッツ大公に献呈された
『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)
は、1809年に作曲された弦楽四重奏曲です。

第1楽章の随所に現れるピッツィカートの動機から、「ハープ」という愛称を持っています。

大作を書いた後は、作品の規模は縮小し、代わりにロマン的な情緒やのびのびとした感情をたたえる作風へと変化しました。
のびのびと書かれたこの曲はパトロンたちがベートーヴェンに与えた比較的自由な関係によるものだと思われます。


ファンダンゴと呼ばれる踊り

2024-03-03 21:00:00 | 古典
次男と食べました。

「食事はどう?」と聞いたら
「結構うまい。」

と聴いて、デイルームに貼ってあった献立表を映しました。
面会15分、一回2人まで。

「リハビリめっちゃ痛いわ。」
「そうか。大変やな。」
洗濯物を持って帰りました。

ファンダンゴ(Fandango)はスペイン起源のダンス、またはそれとともに歌われる歌あるいは音楽。特にフラメンコで男女ペアで踊るダンスが有名です。

元来はギターと手拍子またはカスタネットで伴奏する活気あふれるダンスで、英語などではその様子から派生した「馬鹿騒ぎ」の意味でも使われます。元は6/8拍子で、その後3/8拍子、3/4拍子にもなりました。

ポルトガル起源とも言われ、18世紀始めのスペインの記録にも思えます。18世紀末にはスペインのみならず全ヨーロッパで知られ、バレエやオペラにも取り上げられました。

クラシック音楽でも、モーツァルトの『フィガロの結婚』を始め、多数の作品に残っています。

現在はスペイン、ポルトガルのほか、かつてスペインの植民地だったフィリピンなどでもダンスとして残っています。
また、メキシコ南部のベラクルス州では、 人々が集いダンスを踊り楽器を奏で歌を歌う、コミュニティ全体で祝うパーティのことを「ファンダンゴ」と呼び、 人々はベラクルス州伝統の音楽であるソン・ハローチョの演奏に合わせ、サパテアドを踊ります。

毎年初夏、ベテランズ・デーの頃、アメリカ合衆国のサンディエゴとメキシコのティフアナの間の国境の金網越しに、両国のあらゆる音楽を交換し合うFandango at the Wall(スペイン語: Fandango Fronterizo)が2008年以来開かれています。
この場合、ファンダンゴは「楽しい集まり」のような意味で使われています。

ルイジ・ボッケリーニ(Ridolfo Luigi Boccherini, 1743- 1805年)は、トスカーナ公国・ルッカ生まれ、スペイン王国マドリード没

は作曲家、チェロ奏者です。

当時弦楽器が盛んだったイタリアのルッカに5人兄弟の3番目として生まれます。
父レオポルドは町楽師のチェロ・コントラバス奏者でした。彼や、ルッカ大聖堂楽長のドメニコ・フランチェスコ・ヴァンヌッチらからチェロを学び、13歳でデビューを果たしました。その後ローマでも研鑽を積み、20歳前半には父と共にウィーンの宮廷に勤め高い評価を得ます。

父が亡くなった後はヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレーディと組み、ヨーロッパ中で華々しく演奏活動を行います。1768年には演奏会の本場パリのコンセール・スピリチュエル「宗教音楽演奏会」で成功を収めるなど、名声を極めます。

1769年スペインの宮廷に招かれドン・ルイス皇子


付き奏者兼作曲家となり、マドリードで後半生を送りました。

ドン・ルイス皇子の家族(1783)ゴヤ画(左脇の画家はゴヤ自身、右から3人目で立って腕組みしているのがボッケリーニと思われる)

1785年ドン・ルイス皇子の死去後は作品をブランデンブルク=プロイセンに送っていたらしいです。

晩年は失職し貧困と忘却の内にこの世を去りました。

ギター五重奏曲第4番ニ長調 G.448は、アマチュアのギタリストであり、1796年からボッケリーニのパトロンであったブナバント侯フランシスコ・ボルハ・デ・リケル・イ・デ・ロス (Francisco Borja de Riquer y de Ros) のために作曲されたものです。

これらの作品のほとんどはボッケリーニ自身が作曲した室内楽曲の編曲であり、この第4番も第1楽章と第2楽章が弦楽五重奏曲ニ長調Op.10-6 G.270の第1・第2楽章の、第3楽章と第4楽章が小弦楽五重奏曲ニ長調Op.40-2(50-2) G.341の第1・第2楽章の編曲となっています。

ボッケリーニはドン・ルイス王子の招きにより1749年からスペイン宮廷に仕えて以来、終生マドリードに住んでいました。この作品の第4楽章「ファンダンゴ」はボッケリーニがスペイン音楽の語法を作品に自らの楽曲に取り入れた一例といえます。

ボッケリーニが作曲したギター五重奏曲のなかで、もっとも人気のあるもののひとつになっています。

特に第3楽章と第4楽章は『序奏とファンダンゴ』の題で、ギター・アンサンブルやピアノとギターの二重奏など様々な編曲でクラシックギター奏者に親しまれています。

第1楽章 Pastorale
第2楽章 Allegro maestoso
第3楽章 Grave assai
第4楽章 Fandango

茶団子、チャダンゴ、ダンゴ、ファンダンゴ…バンザーイ🤣



ジュピターと呼ばれる交響曲

2024-02-27 21:00:00 | 古典
次男が入院して、明日手術です。
9:00に病院まで送って、説明を受けました。
手術の手順の説明ビデオ。
全身麻酔でするので、麻酔科医さんの説明、聞き取り。

病棟案内。説明。
…とあれ?
先生によれば2.3日から、1週間の入院といわれましたが、病棟看護師さんから早くても、3月12日まで入院。
リハビリを入れたら3月19日。
長い!
説明とは違うと言ったら、「どういう状態で退院したいかによりますね。」
ということでした。
「自宅2階に上がれるようになってから。」というと、
「先生に聞いておきますね。」
ということでした。
あれれ?どちらが本当かな?

明日は13:00〜4時間の手術だそうです。付き添いに行きますが、コロナ対策で病院にはいられないそうです。
初めに行って一旦帰って、また行くかな?

交響曲第41番 ハ長調 K. 551 は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク㈹司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没
1789年モーツァルト
が1788年に作曲した交響曲で、最後の交響曲です。
『ジュピター』(Jupiter)の愛称で親しまれています。

1788年8月10日に完成し、同年に作曲された『第39番 変ホ長調』(K. 543、6月26日完成)、『第40番 ト短調』(K. 550、7月25日完成)とともに「3大交響曲」と呼ばれています。
他の2曲とともに作曲の目的や初演の日時は不明です。

モーツァルトを尊敬していたリヒャルト・シュトラウス


は、1878年1月26日にルートヴィヒ・トゥイレに宛てた手紙に「私が聴いた音楽の中で最も偉大なものである。終曲のフーガを聞いたとき、私は天国にいるかの思いがした」と称賛しています。また1926年には自身の指揮で録音も行なっています。

自筆稿は現在ベルリン国立図書館
にあります。

『ジュピター』(ドイツ語では『ユーピター』)という愛称はモーツァルト自身によるものではなく、本作のスケールの大きさ、輝かしく荘厳な曲想からローマ神話の最高神ユーピテル(ギリシア神話でいうゼウス)にちなんで付けられたもので、標題的な意味合いはありません。

これは同時代のヨハン・ペーター・ザーロモン(1745年 - 1815年)

ボン生まれのヴァイオリニスト
が名付けたとヴィンセント・ノヴェロ(1781年 - 1861年)の『モーツァルト巡礼』(1855年)に紹介されています。

またイギリスのタイムズ紙(1817年5月8日)

には、翌5月9日にハノーヴァー・スクエア・ルームズ

で開催される演奏会の広告に "Grand Sinfonie (Jupiter), Mozart" と記載されていることから、19世紀半ばにはすでに広く知れ渡っていたと考えられます。

また一説には、ヨハン・バプティスト・クラーマー(1771年 - 1858年)

が自ら設立した出版社「J・B・クラーマー& Co.」で楽譜を出版する際に付けたともいわれていて、伝えられるところによると、第1楽章冒頭の和音がクラーマーにユーピテルが落とす雷を連想させたからといわれています。

ユーピテル(ジュピター)・トナンス像
プラド美術館所蔵
『ジュピター』という愛称が定着するまでは、ドイツ語で「最終フーガを伴った交響曲」といった意味の "Sinfonie mit der Schlussfuge" という愛称でも呼ばれていました。こちらは現在では完全に廃れてしまっています(1937年に出版されたケッヘル目録の第3版では、副題として表記されています)。

また、日本ではごく稀に『木星』と訳している媒体もありますが、明らかな誤訳です。

第4楽章で使われる「ジュピター音型」と呼ばれる(C - D - F - E、ド・レ・ファ・ミの4音符)は、モーツァルトがたいへん好んだモチーフです。

これを使ったモーツァルトの曲は
『交響曲(第55番)変ロ長調』(K. 45b) - 第1楽章
『ミサ・プレヴィス ヘ長調』(K. 192) - 第3曲「クレド」
『ミサ曲 ハ長調《クレド・ミサ》』(K. 257) - 第4曲「サンクトゥス」
『交響曲第33番 変ロ長調』(K. 319) - 第1楽章
『3つのバセットホルンのための5つのディヴェルティメント』(K. 439b) - 第4番 第1楽章
『ヴァイオリンソナタ第24番(旧第33番) 変ホ長調』(K. 481) - 第1楽章
があります。




ギターの天才

2024-02-23 21:00:00 | 古典
近所に椿の紅唐子が咲いていました。

木瓜の花

郵便局から6月エスカルの発表会で演奏する曲の伴奏譜を送りました。
またしてもブリジアルディの「ローエングリン幻想曲」
今度は安達萌さんのピアノてす。

楽しみにしています。

おっと!その前に3月9日(日)ギターの川原久美子さんと西宮ギター練習会で演奏。それから3月31日(日)阪南ギタークラブ 第7回発表会に出ます。

阪南市文化センター サラダホール 
11:45開場 12:15開演
第三部にギター前田恵理さんと出ます。
曲は「ジュリアーニの協奏的大二重奏曲op.85」

むかしむかしにやったことがありますが、もう忘れてます。
練習しなくっちゃ。
川原さんとも同じ曲。
川原さんとやってなかったのが不思議な位有名曲です。
それから
前田さんと合わすのは初めてなので楽しみです。

マウロ・パンタレーオ・ジュリアーニ( 1781 - 1829年)ナポリ王国ビッジェーリオ生まれ、ナポリ王国ナポリ没

ウィーンで活躍したナポリ王国のギタリスト・作曲家。19世紀初頭におけるクラシック・ギターのヴィルトゥオーゾの一人とされています。

早くから兄ニコラスとともにバルレッタに移り、その地を学習の拠点としました。

初めはチェロの指導を受け、ヴァイオリンも学んでいました。
その後ギターに没頭するようになり、わずかな期間で非常に熟練したギター奏者に成長しました。

マリア・ジュゼッペ・デル・モナコと結婚し、息子ミケーレ(1801年 バルレッタ - ?)とガエターノ(1803年〜?)の2人の子どもを授かります。
その後は一時期ボローニャやトリエステに滞在していました。

1806年の夏、チェロやギター、対位法の学習を済ませると、家族を残したままウィーンに出向きます。
ウィーンでヴィルムート嬢(Fräulein Willmuth)という女性と関係を結び、1807年にはマリアをもうけ、1813年エミリアをもうけました。

ウィーンでは、古典派の器楽曲の様式に通じるようになり、1807年には古典派様式による自作の出版に取り掛かります。

ヨーロッパ全土に演奏旅行に乗り出し、行く先々で、その超絶技巧や音楽的な趣味が称賛されました。大成功をおさめて音楽界の名士となり、19世紀初頭のウィーンで活躍した演奏家や作曲家のなかでも、最高の一人に数えられました。

ジュリアーニは、西洋音楽の状況において、ギターの新たな役割を洗練させた音楽家です。

オーストリア帝国の上流社会や、ベートーヴェンやロッシーニのような著名な作曲家にも知られるようになり、ウィーンで最も活動的な演奏家と共演しました。

1815年にピアニストのヨハン・ネポムク・フンメル(その後はイグナツ・モシェレス)、ヴァイオリニストのヨーゼフ・マイゼーダー、チェリストのメルクとともに、シェーンブルン宮殿

の植物園

で(入場料が1ドゥカートだったことにちなんで「ドゥカーテン・コンツェルト」と呼ばれた)一連の室内楽の演奏会を行ないました。
ジュリアーニはこれに出演したことで、ウィーンで名声を馳せました。

同じく1815年には、ウィーンの帝国議会の名士たちのための公式の演奏家となりました。
また、1813年12月8日には、ベートーヴェンの《交響曲 第7番》の初演にも(おそらくチェリストとして)参加しています。

ウィーンでは、作曲家としてはささやかながら成功しました。
ジュリアーニは、楽譜出版社アルタリア(1770年ウィーンに創立した出版社)と提携していて、ジュリアーニのギター曲の大部分を出版しました。

その他の地域ではあらゆる出版社と取り引きし、自作をヨーロッパ各地に広めました。
また、ギター教師としても名声を得て、ボブロヴィッチやホレツキーら、数々の門人を輩出しました。

1819年に、主に経済的な理由から、ウィーンを後にします(財産や預貯金は、債権者への返済のために差し押さえられていました)。

イタリアに戻ると、トリエステやヴェネツィアで過ごし、ついにローマに落ち着きました。

ローマでは大して成功せず、わずかな作品を出版し、1度きりの演奏会を開いただけでした。

この間、1813年生まれの娘エミリアは、1821年から1826年まで腹違いの姉妹マリアとともに、1823年7月、重病の父親を見舞いに、たびたびナポリを訪ねています。

両シチリア王国の都では、ジュリアーニの評価が好転し、地方の出版社によって、その他のギター曲を出版することができました。

1826年には、ポルティチにてフランチェスコ1世

とボルボーネ家の宮廷のために御前演奏を披露しました。
この頃がジュリアーニのナポリ時代であり、同じく巧みなギター奏者に成長した娘エミリアとしばしば共演するようになりました。

1828年の末までに体を壊し、1829年5月8日にナポリで生涯を閉じました。ジュリアーニの訃報は、ナポリの音楽界に大きな驚きを与えたといわれています。

協奏的大二重奏曲op85は1817年アリタリア社から

出版されています。





天上の声か、恐怖の楽器か?

2024-02-19 21:00:00 | 古典
土曜日は、次男夜勤のはずでした。
ところが午前1:30にスマホに電話。
 
「会社の階段で、転倒して骨折ったみたいだから迎えに来て。」って

午前中、地域の小学校でうどん作りをして帰ったら夫と土曜日でも見てくれるところを受診してくれてました。

見事に膝骸骨が真っ二つ。
ギプスしておくので、月曜日に別の病院で手術してって言われたらしい。

全治3ヶ月。
チタンで繋いで、半年後また手術して取りましょうと言われました。

私は12月に骨折。骨は治ったけれどその後コロナになって後遺症も治りきらないのに…。
参りました。

私のベッドがまた役に立ち。
杖では足りなくて次男は松葉杖をつくようになりました。
あ~あ!
いよいよお祓いしてもらわなくては。
ってそんなに信じているわけではありませんが。こう続くとね。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教国ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没


アダージョとロンド ハ短調 K.617を作曲しました。

楽器編成はグラスハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロの五重奏。

自筆譜の最初のページ(大英図書館所蔵、シュテファン・ツヴァイク・コレクション Zweig MS 61)
盲目のグラスハーモニカの名手、マリアンネ・キルヒゲスナーのために1791年5月23日に作曲され(モーツァルトの自作作品目録の日付による)、6月10日、ウィーンのブルク劇場の音楽アカデミー(演奏会)で初演されました。続いて、8月19日にケルントナートーア劇場でも演奏されています。

グラスハーモニカは
グラス・ハープを工夫し、多数の音を様々に奏しやすくさせ、細かな音の動きや、同時に多数の音を独りで奏することが容易になりました。

直径の異なる碗状にした複数のガラスを大きさ順に十二平均律の半音階に並べ、それらを鉄製などの回転棒に突き刺して回転させながら、基本的には、水で濡らした指先をガラスの縁に触れさせる摩擦によって、グラス・ハープと同様に共鳴するガラスからの音で音楽を奏します。

パガニーニは
「何たる天上的な声色」と言い、
トーマス・ジェファーソンは
「今世紀の音楽界に現れた最も素晴らしい贈り物」と主張し、
ベンジャミン・フランクリンは
「何ものに比べがたい甘美な音」と表現したと伝えられています。
またフランクリンは、もしハープが「天使の楽器」であるなら、
アルモニカは「天使の声」であると形容しました。
ゲーテ、モーツァルト、ハッセ、テオフィル・ゴーティエなども、この楽器を絶賛した記録が残っています。

マリー・アントワネット


も、これを習って奏したと記録されています。

作曲家のグルックや、イギリスの演奏家ウィリアム・デレヴァル(William Deleval)が、水を入れる量によって音程を調整された複数のゴブレットを奏でる演奏会をベンジャミン・フランクリン

が1757年にイギリスで聴きました。
その魅惑的な新楽器をもっと工夫したいと思い、1761年にフランクリンはこのアルモニカを完成させました。

ロンドンのガラス吹き師チャールズ・ジェームズ(Charles James)と共に製作された最初の1台は、
1762年1月にマリアンヌ・デイビーズ(Marianne Davies)による演奏で世界に初披露されました。この楽器は、アメリカ合衆国において発明された楽器の記念すべき第1号でした。

ちなみに、ベンジャミン・フランクリンは発明家としての信念に則り、爆発的な人気を呼んだこの楽器の特許の申請を生涯拒否し続け、発明による喜びを潔く社会に無料奉仕したのでした。

この魅惑的な音色を持つ新しい楽器は最初から熱狂的な支持を得て、人々はその音色に酔いしれ練習に熱中し、1700年代のうちにおよそ4,000台とも、5,000台ともと言われるほどの台数が欧州各地に出回ったとされています。

しかし、その風が変化したのは、練習や演奏に熱中した多くの人が、アルモニカのせいで神経障害やうつ病、目まい、筋肉の痙攣などに罹ったと言い出した時です。
アルモニカはその美しい音色とは裏腹に大変怖い楽器だという噂が口々に伝わって、人々の恐怖感が煽り立てられました。

実際に、精神病院に入院したり夭折した者もいましたが、それがますます根拠のない憶測を招き、えも言われぬ甲高い響きが死者の魂を呼び寄せて神秘的な力を宿らせ、聞いた人の頭をかき乱しておかしくしてしまったなどと口々に言い始めるようになってしまいました。

更には演奏会場で子供が死亡するという事件まで発生してしまい、その事件をきっかけに、ドイツのあちこちの地方で警察当局が全面的にアルモニカ演奏の禁止令を発令するまでに発展しました。家庭内の痴話喧嘩から、早産やペットの痙攣まで、おかしなくらいにそれらが次々とアルモニカのせいにされ、奏しているのを発見されると逮捕される始末でした。

催眠術と呼ばれる技術を最初に始めたのは、モーツァルトのパトロンでもあったウィーンの医師フランツ・アントン・メスマー(Franz Anton Mesmer) 

でした。
メスマーは自ら仮説を立てた動物磁気説に基づき、後世に催眠術や催眠療法と呼ばれるものに近いことを行ないました。(現代、英語で「催眠術」のことを"Mesmerize(メズマライズ)"と言い、「催眠術師」のことを"Mesmerist(メズマリスト)"と言うのは彼の名に由来します。)

このメスマーの治療では、しばしば締めくくりにガラス製のアルモニカを演奏することでも知られていました。

人気の彼は、盲目のピアニスト、マリア・テレジア・フォン・パラディス(Marie Paradies)


の治療を依頼されましたが、視力を一時的に取り戻すことに成功したにもかかわらず、彼女の精神衛生を後に害したとされ、ウィーンから追放されるという処分を受けました。

現代においても、当時の神経障害の要因について明確な科学的根拠が解明はされていません。良からぬ噂が楽器に対する精神的な先入観を植えつけたせいとも言われています。

第一に、ガラスとの摩擦によって引き起こされる持続的な振動のせいで、演奏後には指先に痙攣を覚えますが、それが神経を害するというものです。

第二に、そこはかとない高音が聴覚から脳を共鳴させ、悪影響を与えるというものです。

第三に、柔らかい吹きガラスの類は、鉛を25~40%も含んだクリスタル・ガラスを用いていたため、濡らして触れる指先から鉛が浸透し、鉛中毒を起こしたせいというものです。

しかし、第三の説については特に信憑性が低いです。鉛中毒は18世紀と19世紀前半において、アルモニカ奏者であろうとなかろうと、治療のために医者から鉛の化合物を処方されて長期間服用してきた患者もいれば、食物や飲物の中に防腐剤や甘味料として恒常的に添加されていた酢酸鉛を人々は多く経口摂取していたし、更にスズや鉛の鍋やヤカンなどが調理に使用されていました。

第一、第二の説も、はっきりと科学的には証明されていません

この後、この楽器はすっかりと姿を消してしまいました、

ゲアハルト・B・フィンケンバイナー(Gerhard B. Finkenbeiner)によって1984年に復興されました。

発明当時アルモニカの第一人者は、オーストリアの盲目の女性演奏家マリアンヌ・キルヒゲスナー(Marianne Kirchgessner)でした。モーツァルトは彼女と親しくしていて、彼女のために『アダージョとロンド ハ長調 KV.617』の美しい五重奏曲や『アダージョ ハ長調 KV.617a』の独奏曲を作曲しました。

最近までこの曲は、パイプ・オルガンやピアノで代用されて演奏されてきましたが、いよいよグラスハーモニカの「天上の声」で世界を浄化してみたい。



再会の期待を込めた「告別」

2024-02-13 21:14:00 | 古典
名古屋の夜の部は体調が良くないのでご辞退して、そのまま帰ってきました。
ごめんなさい。
行き迷ったと言ったら、2人が同じ方向だからと新幹線名古屋駅まで
送ってくれました。
名古屋の人優しいです。フルートもうまい!

駅で名古屋のお土産買いました

名古屋マカロンラスク

こちらは富久田先生からみんなに頂いたマドレーヌ。

甘さ控えめでふわふわ!美味しかった。

「また、会いましょうね!」と別れました。
先生も「もうこけないでくださいね!」
はい。気をつけます。

ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

1803年のベートーヴェン

のピアノソナタ第26番「告別」
は、ベートーヴェン自身が標題をつけています。名前をつけたのは、この『告別』と『悲愴』としかありません。


彼のパトロンで、弟子であり友人でもあったルドルフ大公

ルドルフ・ヨハネス・ヨーゼフ・ライナー・フォン・エスターライヒ(ドイツ語: Rudolf Johannes Joseph Rainer, Erzherzog von Österreich, 1788年1月8日 - 1831年7月24日)は、神聖ローマ皇帝レオポルト2世の末子。1819年にオロモウツ大司教と枢機卿に選出された。一般的にはルドルフ(ルードルフ)大公の呼び名で、ベートーヴェンのパトロンおよび弟子として知られています。

のウィーン脱出が関係しています。

オーストリアは1809年4月9日にナポレオン率いるフランス軍と戦闘状態に陥入りました。
ナポレオンの軍勢は5月12日までにウィーンへと侵攻します(第二次ウィーン包囲)。

オラース・ヴェルネが描いたヴァグラムの戦いでのナポレオン1809年

神聖ローマ帝国皇帝フランツ2世の弟にあたり皇族の身分であったルドルフ大公は5月4日に同市を離れることになりました。

ベートーヴェンはピアノソナタの第1楽章の草稿に
「Das Lebewohl(告別)」と記すとともに「1809年5月4日、ウィーンにて、敬愛するルドルフ大公殿下の出発に際して。」と書き入れました。

初版の表紙1811年
オーストリアの降伏により同年10月14日に終戦。
フランス軍が撤退した後の1810年1月30日にルドルフ大公はウィーンへと戻りました。

第2楽章の「Die Abwesenheit(不在)」はこの期間のことを示しています。

さらに第3楽章には
「Das Wiedersehen(再会)」、
「敬愛するルドルフ大公殿下帰還、1810年1月30日」と書き込まれています。

この曲を出版したブライトコプフ・ウント・ヘルテル社は各楽章の表題をフランス語に置き換えて
"les adieux"
"l'absence"
"le retour"
と表記しました。
親交の深かったルドルフ大公のために作曲されたこのピアノソナタの標題にはベートーヴェン自身もこだわりがあったらしく、
「Das Lebewohlは
les adieuxとは全く違うものである。前者は心から愛する人にだけ使う言葉であり、後者は集まった聴衆全体に対して述べる言葉だからである。」と手紙で抗議しています。

ただし、作曲者自身もスケッチ段階では第1楽章の「Das Lebewohl」を取り消して「Der Abschied(別れ)」、第3楽章は「Die Ankunft(到着)」としていたことが分かっています。

出版社へと持ち込まれたのは第24番、第25番のソナタと同じ1810年2月10日でしたが、このソナタ第26番のみ翌年に作曲者自身による修正を施され、1811年7月に出版されました。

ベートーヴェンのいう
Das Lebewohl」はドイツ語辞書でひくと「別れの挨拶」という意味が、出てきます。

日本語で「告別」は、別れを告げる。という意味の他に告別式など、亡くなった人との永遠の別れを含む言葉で、再会の期待を込めて言うときには違うような気がします。

但し、現代の辞書をひいてみるとベートーヴェンの「告別」を指す言葉と載ってしまっているので、もうこの言葉はベートーヴェンのこの曲を指す言葉として新しい意味を持ったと思われます。

但し、キリスト教圈の告別式は天国で、幸せに包まれることで、再会を期待した式でもあるので日本のような物忌みや縁起の悪い意味が含まれません。

彼らにとっては現世で再会できても、来世で再会できても同じ。

しかも、「告別」は第1楽章だけで、第2楽章は「不在」第3楽章「到着」と再会の喜びを表したものであると思って聞いてみると、また、音楽も違って聴こえてくる?




体力回復音楽

2024-02-07 21:05:00 | 古典
ようやく熱も取れて明日からは再始動できそうです。

長ネギとアスパラガスのバター焼き。
作ってくれました。
器からはみ出ているところが野趣溢れるところ。
毎食運んでくれてありがとうございました。

1月に入ったばかりのオーケストラから、2月18日にベートーヴェンの交響曲第5番第4楽章、献堂式、命名祝日を弾きましょう。とお誘い。
「今回は忙しいから無理」と思っていたところ、また一度プッシュされて行きますと返事したのは良かったけれど、それから一回も吹かない間にコロナで休んでしまい。

今頃、楽譜を見て焦っています。

週末にはギターとの本番5曲。…新曲一曲ありますが、一回も吹いてません。

しかも日曜は名古屋で超難曲のブリジアルディの「ローエングリン」が待っています。
ありがたいけれど、流石にこれはひどい。
体力大事やな。と今更ながら思う私。

栄養ドリンク飲んで特訓。
とにかく間に合わせます。

体力回復をネットで検索していたら、クラシック音楽が良いと出てきました。

やっぱり、ベートーヴェンかあ!ベタですが仕方ないな。
聴いてるだけで力がみなぎってくる気がするものね。

ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェン(1770-1827年)神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
1815年Joseph Willibrord Mähler画
「命名祝日」(めいめいしゅくじつ、Zur Namensfeier)作品115は、1815年に完成させた管弦楽のための演奏会用序曲です。
クリスマスに初演され、芸術のパトロンとして知られるアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ

1775-1833年ポーランドリトアニアの貴族、プロイセン王女と結婚 ショパン、パガニーニ、メンデルスゾーンなど多数の音楽家を庇護しました。
へと献呈されました。

命名祝日はアッシジのフランチェスコ
「聖フランチェスコ」(画:フランシスコ・デ・スルバラン、1658年)清貧の思想で知られる「裸のキリストに裸で従う」と素足で過ごしたと言われています。
の記念日でありオーストリア皇帝フランツ1世

1768-1835年神聖ローマ帝国最後の皇帝でオーストリア皇帝として帝位を維持しました。
の聖名祝日(守護聖人を選んで、名前を頂き、その日を自身の祝日にして祝う習慣で、皇帝の場合はフランツ ヨーゼフ フランチェスコという名前でした。)である10月4日のことを指しています。

ベートーヴェンは1814年の同日に向けて本作を完成させようと試みましたが間に合わせることができず、作業を翌年の春まで中断することにしました。

冒頭の主題は9年後に彼が交響曲第9番でフリードリヒ・フォン・シラーの『歓喜の歌』に付した旋律と関係しています。

作曲時期はベートーヴェンの中期にあたります。素材は彼が1810年から1814年にかけて書き留めていた着想を用いています。