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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ホルンはツノを吹いたのが始まり

2025-07-25 21:00:00 | 古典
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→音楽の喜び フルートとともに
https://m-fluteangel16.hatenablog.com/
木曜日の朝はギターのKさんが クランウェル ツノガエルを連れて牧野まで来てくれました。

昨年も同じ時期4日ほど預かりました。
Kさん、福井まで昆虫ツアーに行くので飼っているカエルさんを預かります。
昨年は500円玉位の大きさでしたが、成長して手のひら位の大きさになっていました

口が身体の半分位。
そして横に大きい。
目の上には小さなツノがついています。
かわいい〜!
けれど嫌いな人も多いので写真はやめておきますね。
29日の聴き合い会まで預かります。

お世話は生物オタクの次男がするんですけどね。
1日1回水を変えて水槽をきれいに保つ、餌は1週間に1回なので28日にドライフードをふやかしてやるだけです。

Kさんに着物ドレスを買いに行った話しをして、私のを試着してもらいました。
カエルさんと同じくKさんは顔出し禁止なので、恥ずかしながら私の新着物ドレス写真。

着物ドレスのYoko Yoshioka
Kさん、3着をお試し、とっても気にいったので、今度西宮ギター練習会の女子部を誘って
ヨシオカさんにドレスツアーに行くことになりました。


くずはモール梅梅で一緒にランチして解散。
レタスチャーハンおいしかったそうです。
私はエビチリ定食、写真忘れました。

ホルン(英語 horn、ドイツ語 Horn)はイタリア語でcorno(コルノ)、フランス語ではcor(コール)と言い、いずれも動物の角を意味します。
古くは「角笛」を意味していました。

角笛

広義のホルン(角笛)はかつて動物の角、ほら貝、金属などで作られました。

トランペットとの違いは通常トランペットの管が円筒を主体にするのに対し、ホルンが円錐を主にすることにあると言われていますが、現代のトランペットは円錐部分が増え、もはやこの区別は成り立たなくなっています。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン( Ludwig van Beethoven、1770-1827年)
神聖ローマ帝国ケルン選帝侯領ボン生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

ホルンソナタ ヘ長調 作品17を1800年に作曲しました。
ホルンとピアノの二重奏曲です。
ヴィルトゥオーゾホルン奏者のジョヴァンニ・プント(1746年 - 1803年)

のために書かれました。

プントに触発されたことが作曲のきっかけになりました。

同時期の作品にはピアノソナタ第11番や創作主題による6つの易しい変奏曲 ト長調などがあります。
後者により近いものがあります。

初演はプントのソロ、ベートーヴェン自身の伴奏で1800年4月18日にウィーンで行われました。

ベートーヴェンの弟子のフェルディナント・リースの伝えるところでは、ベートーヴェンが作曲にとりかかったのは初演の前日でした。

初演当日、ベートーヴェンは一部記憶を頼りにしつつ、またその場で即興で演奏しました。

作曲家ベートーヴェンの才能とともに、ごくわずかな時間で演奏の準備を整えたプントの実力の高さを伝えるエピソードであす。

ウィーン初演は成功を収め、5月初旬にペシュト(ハンガリー中部)にて再演の運びとなりました。

ベートーヴェンは作曲当時ウィーン以外では知られていませんでした。
プントとベートーヴェンによるペシュトでの演奏後、ハンガリーの評論家が次のように書いています。

「このベートーヴェンとは誰なのか。彼の名前は我々には知られていない。もちろん、プントはよく知られているが」

この演奏会後に両者は仲たがいをしたようで、ベートーヴェンは地方公演における共演を拒否してしまいます。

次に2人が同じ舞台に姿を現したのは1801年1月30日に開催されたウエンリンデンの戦いでの負傷者のための演奏会で、ベートーヴェンは自作ではなく、指揮者としてハイドンの交響曲2曲を含むプログラムを演奏しました。

この作品はナチュラル・ホルン


のために、低音を担当する第2ホルンの語法を用いて書かれています。

ベートーヴェンは第1楽章と第3楽章に急速なアルペッジオを取り入れる傍ら、不自然に低いト音を使用しています。
これらはいずれもプントが専門としていた第2ホルンの奏法の特徴でした。

楽譜の初版は1801年にウィーンで出版されました。
作品の販路を広げるために、おそらくベートーヴェン自身の手によるチェロソナタへの編曲が行われています。

以降は「ホルンまたはチェロとフォルテピアノのためのソナタ」として出版されました。

曲はヨゼフィーネ・フォン・ブラウン男爵夫人に献呈されています。

第1楽章 Allegro moderato 4/4拍子 ヘ長調 
第2楽章 Poco adagio, quasi andanteヘ短調
第3楽章 Rondo, allegro moderato 2/2拍子 ヘ長調


真夏の太陽が燃えている

2025-07-12 22:25:00 | 古典
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金曜日、庭の水栓の繋ぎがだめになったせいで、バケツとペットボトルでお水やり往復❍回、5日目。

酷暑のせいできゅうりは夕方にもやらないと葉が垂れてきます。
時間かかります。昔はみんなこれやってたのになぁ。 
しかしホースで散水前提で庭を作って来たので、もう…。

しかし、そのせいあってか、今日の収穫。


新鮮な野菜を見ると元気が出ます。食べるともっと元気が出ます。
幸せは何気ないささやかなことの中にあるみたいです。
夕方は突然の雷、豪雨。

午後の水やりはおやすみでした~。ほっ!

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn, 1732 - 1809年)神聖ローマ帝国オーストリア大公国ローラウ生まれ、オーストリア帝国ウィーン没

オラトリオ『四季』(Die Jahreszeiten)Hob.XXI-3作曲は
1798年4月頃のことで、オラトリオ『天地創造』が初演され、大成功を収めた直後であるといわれています。

しかし、それ以後の筆の進みはハイドンにしては遅く、結局1800年の全体が『四季』の作曲に費やされています。

台本はオーストリア貴族、ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵(1733-1803年)


によって書かれました。
この台本は、ジェームズ・トムソン(1700-1748年)

のイギリス叙事詩『四季』からの抜粋を、男爵自身のドイツ語訳で書いたものです。

1800年5月11日にハイドンがベルリンの友人(フンメル?)に宛てて書いた手紙には、「『四季』については丁度、「夏」の作曲をしているところです。そして、ここ最近は甚だ病気がちなのですが、この冬までには全曲を仕上げたいと望んでいます。
けれども、たとえこの難しい仕事が成功でなかったとしても、全ての音楽愛好家たちはその理由をわかってくれるでしょう。」と書かれ、『四季』の第2部「夏」の作曲に没頭していたことが窺えます。

全曲の完成は1801年初め頃と思われますが、自筆譜が失われているため、正確な日付は判明していません。

初演は同年4月24日にウィーンのメールマルクトにあるシュヴァルツェンベルク侯爵邸
1832年頃のニューマーケット。背景にはシュヴァルツェンベルク宮殿が見えています。
の大広間
シュヴァルツェンベルク宮殿のゴブランサロン
で、ハイドン自身の指揮で行われ、オーケストラと合唱、合わせて180人以上が出演したと伝えられています。

また5月1日に同じ場所で演奏が再び行われた後、5月24日にウィーンの宮廷でも演奏されています。

一般の人を対象にした公開初演は、同年5月29日にウィーンのレドゥテンザールで行われました。

晩年のハイドンと10年間親しく交わり、ハイドンが亡くなった翌年の1810年に伝記を出版したG.A.グリージンガーは伝記の中に、「ハイドンは『四季』の作曲のため、あまりにも緊張が続いたので、それから後めっきり病弱になった。この仕事を終えて間もない頃、彼はある種の頭痛熱に悩まされていた。」と記しています。

オラトリオ「四季」夏
第13曲 カヴァティーナ 
Die Mittagssonne brennet jetzt...Dem Druck erlieget die Natu
ルーカス(テノール)
真昼の太陽が燃えている…自然は圧力に屈している
しおれた花、
乾ききった草原、
乾ききった泉。
すべてが猛暑の猛威を露わにし、
無力な人間や動物たちは
地面に倒れ伏し、衰弱していく。









革命期の協奏曲

2025-07-09 20:54:00 | 古典
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月曜日の夕方6:00から渡邉橋近くのサロン ド プリンシパルでフルートアンサンブルの練習でした。

本来の「エスカル」の練習は6:30からですが、ライヒャのフルート四重奏シンフォニコ
とクーラウのフルートトリオop119をメンバーで聴き合い会でするので合わせ練習のために少し早めに来ました。

この日は大邱市との交流会の練習があるので終わってからも「アルルの女」第二組曲の練習があるので大忙し。

まずシンフォニコ
1815年
をやってみましたが、ツワモノばかりなので大丈夫。ただしpdfでだした版が違っていて、2カッコが2nd3rdはあるのに1st4thは無いと言うアクシデント。
しかし、なんとか解決。

1832年

クーラウは途中で時間になりましたが、休憩でなんとか最後まで吹けました。

そして「エスカル」の練習は今回から11月定期演奏会の新曲。

ドボルザークの「セレナーデ」の第2楽章

ドゥビエンヌの「フルート協奏曲」第7番Emoll
榎田先生がソロを吹かれます。

セレナーデは今回は初見なので
ゆっくり練習しました。が、日本人が苦手な三拍子、ワルツ! 

空中分解の危機が…先生「本当はもっと速いんだけど、今日のところはゆっくり三拍振りで」と言っていらしたのに2回目にはもう一拍振りでした。びっくり!けどやっぱりね。

さて、トゥヴィエンヌはロマン派のフルートの巨匠ですが、ヴィルトゥオーゾ。
ソロもすごいですが…伴奏の方も結構動きます。
「これは調子よく早く始めると後大変なことになるから気を付けてくださいよ。」確かに簡単なところで速くなり、大変なところでゆっくりなり、先生に、「速い!」「遅い!」と注意されまくりでした。

終わった頃に大邱市交流会に出演される人も混じって「アルルの女」、前にやったはずなのにいろいろ危ないところが…。8月19日まで頑張りましょう。

フランソワ・ドヴィエンヌ(François Devienne, 1759- 1803年)フランス王国オート=マルヌ県ジョワンヴィル生まれ、フランス共和国シャラントン没


は、18世紀フランスの作曲家・木管楽器奏者。パリ音楽院のフルート教授を務めました。

ドゥヴィエンヌは鞍職人の家庭に生まれました。14児の末子でした。
地元で聖歌隊員として最初の音楽教育を受けます。

1780年にフルートをフェリックス・ロー(Félix Rault)に師事し、ド・ロアン枢機卿

ルイ=ルネ=エドゥアール・ド・ロアン(Louis René Édouard de Rohan, 1734- 1803年)

の執事に加わります。

様々なパリのアンサンブルでソリストや楽団員として演奏活動を始め、フルートやファゴットを演奏、ファゴット奏者としてパリ・オペラ座にも加わっています。 

1789年頃に結婚し、5人の子供をもうけます。

作曲家として1790年代にいくつかのオペラで成功し、とりわけ『レ・ヴィジタンディーヌ』(訪問客)(Les visitandines, 1792年)
1790年代のフランスで最も人気を博したオペラの一つです。『訪問客』は、19世紀前半の3分の1にわたって上演されました。宗教団体を軽蔑的に描いたその主題は、革命期に絶大な人気を博した理由の一つでした。

もう一つの魅力は、シンプルな旋律と緻密な技巧を凝らしたアリアで、そのうち4曲は革命期の数多くの愛国歌のメロディーとして使われました。
 

は大成功でした。

ドヴィエンヌはフランス防衛軍軍楽隊の、軍曹の階級を持つ隊員で、無料音楽学校で軍楽隊の同僚の子女に指導する義務を負わされていました。

フランス革命( Révolution française [ʁevɔlysjɔ̃ fʁɑ̃sɛːz])は、1789年の三部会(聖職者、貴族、庶民を代表する)に始まり、1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターで終わった)

バスティーユ襲撃
の時期に無料音楽学校が国立音楽学校となり、1795年にパリ音楽院に改組されると、ドヴィエンヌは学校管理者とフルートの教授に任命されます。

重要なフルート教則本『フルート演奏の理論と実践』


(Méthode de Flûte Théorique et Pratique, 1793年)を上梓します。

これは何度も版を重ね、18世紀後半におけるフランス吹奏楽の向上に大きく貢献しました。

他の多くの音楽家と同様、ドヴィエンヌもフリーメイソン入会者で、(会員の多いオーケストラ)コンセール・ドゥ・ラ・ロージュ・オランピック(Concerts de la Loge Olympique 1780年代に設立された楽団)の団員でした。

精神を病み、1803年にパリ近郊シャラントンの療養所で亡くなりました。

約300曲に上る器楽曲は、ほとんどが管楽器のために作曲されています。
10曲ほどのフルート協奏曲と4曲のファゴット協奏曲、吹奏楽のための交響曲、様々な楽器のための三重奏曲や四重奏曲を残しています。

オペラは12曲あり優雅な旋律様式から、当時は「フランスのモーツァルト」と呼ばれていました。

フルート協奏曲第7番Emoll
1787年imbault出版

1.Allegr
2.Adagio
3.Rondo. Allegretto poco Moderato.


モーツァルトのライバルと磁器の生産

2025-07-07 23:54:00 | 古典

金曜日京都今出川大宮の富久田先生のレッスン室の前に飾ってあるロイヤル ダックス ボヘミアの貴族の紳士。
この紳士が古い京都の町家の障子の前にあるのがおしゃれです。

軒先には祇園祭に配られる函谷鉾のちまきが一緒に飾られています。

ロイヤル ダックス ボヘミアRoyal Dux Bohemiaの歴史。

ヨハン・フリードリヒ・ベトガー(Johann Friedrich Böttger, 1682 - 1719年)


は長年の中国の研究と挑戦の末、1709年にこの技術をヨーロッパ全土に普及させることに成功しました。この重要な発明はすぐに普及しました。

1710年にはマイセンに磁器工房が設立され、1718年にはウィーンが磁器製造の秘密を学びました。この知識はウィーンからヨーロッパ全土に広がり、

1720年にはヴェネツィア、1750年にはヘーヒスト、1751年にはストラスブール、1753年にも伝わりました。

18世紀90年代には、テューリンゲン出身の専門家たちの努力のおかげで、西ボヘミア地方で磁器生産が盛んになり、1794年にはクラーシュテレツでボヘミア初の磁器が生産されました。

クラーシュテレツ・ナド・オジーのクラーシュテレツ・ナド・オジー城内にある磁器博物館。1794年チェコ共和国で3番目に古い工場が併設されていました。

磁器生産は、テプリツェ近郊の別の地域でも発展し始めました。ここにはエネルギー源となる石炭鉱床と、良質な焼結粘土の豊富な鉱床など、生産に好条件が揃っていました。

ウースティ・モスト鉄道の開通により、原材料と製品の輸送が大幅に容易になりました。

テプリツェ地方では、陶磁器生産が急速に発展しました。

19世紀60年代には工場は3つしかありませんでしたが、10年後には8つ、80年代には12、世紀末には20、そして1905年にはこの地域に30 近くの工場がありました。

最初の工場の一つとして、ドゥフツォフ(ドゥクス)の工場は1853年に設立されました。

近隣で採掘された原材料から実用陶器を製造しようと、最初は慎重に試みましたが、モデル製作者のエドゥアルト・アイヒラー(1830-1881年)が工場を立ちあげ、E.アイヒラー・トーンヴァーレン・ファブリック社となりました。


1862年には、チェスカー・リーパ近郊のセルティのある小さな工場も増設しました。

この工場は隆盛期を迎え、ここで生産された製品は主にコペンハーゲン、ウースター、セーヴルのテラコッタ、ファイアンス、マジョリカ焼きでした。 

1878年、アイヒラー社はパリの博覧会で銀賞を受賞しました。


19世紀から20世紀への変わり目には、いくつかの重要な変化があった。エドゥアルト・アイヒラーの私有財産を株式会社に転換することで、工場は資本を強化しました。

AG(デュクサー・ポーツェラン・マニュファクトゥール社)となりました。 この新設会社は、ワイマール近郊のブランケンハインの磁器工場を建てました。

伝統的な製品に加え、磁器の生産も開始しました。1900年以降、伝統的な商標を使用しています。バラ色の素材で三角形に「ROYAL DUX BOHEMIA」の文字とどんぐりを描いたこの商標は、今日まで使用されています。

ウィーン分離派の時代、この工場は模型設計者のアロイス・ハンペルのおかげで目覚ましい成功を収めました。

「子供の秘密」、ロイヤル・ダックス、アロイス・ハンペル作、1919年頃

当時発表された製品のいくつかは、今日まで生産されています。この工場は、1904年のセントルイス万国博覧会でグランプリ


1906年のミラノ万博で銀メダル、

万国博覧会のために建てられたミラノ市立水族館
リベレツ万博で金メダルを受賞しました。

500人の従業員を雇用し、5基の丸窯と17基のマッフル窯を備え、独自の蒸気発電所と発電所を所有していました。

工場には独自のサンプル倉庫があり、ベルリン、ハンブルク、ウィーン、ロンドン、アムステルダム、ボローニャ、パリ、ストックホルム、マドリードに代理店がありました。

製品は主に輸出され、ロシアを含む全ヨーロッパ、さらには北米とも貿易関係がありました。この成功期は戦争によって中断されました。生産された製品の特殊性のため、戦前の生産水準を維持することは不可能でした。大きな財政難のため、ブランケンハインの工場は 1918 年に売却しなければなりませんでした。

二度の世界大戦間期、工房は世紀初頭の水準に匹敵する生産量を達成することができませんでした。戦時中に貿易関係が断絶し、もはや再建することはできませんでした。美術デザインに必要な資金も失われていました。世界恐慌の勃発により、工房は新製品の開発を中止せざるを得なくなり、達成した水準を維持することさえ困難になりました。

しかし、こうした困難にもかかわらず、工房は生産の特質を維持することに成功しました。既存の成功例や形状を基に、具象的・装飾的な磁器の生産を続けました。

第二次世界大戦後、ドイツ国籍の労働者の大半は国外へ疎開しました。その代わりに内陸部からの移住者が就労し、工場は独自の職業訓練センターを設立し、テプリツェの国立陶芸学校も再開されました。

プラハの高等工業芸術学校との協力も、同社のさらなる発展に大きく貢献し、膨大な生産規模を維持するのに役立ちました。

1950年代後半以降、ドゥフツォフ社は世界市場で失っていた地位を取り戻し始めました。ブリュッセル万国博覧会EXPO '58に出展されたヤロスラフ・イェジェク教授のコレクションは、その成功に大きく貢献しました。

牡馬、品番 677、高さ 16 cm、牝馬、品番 679、高さ 14 cm、牡馬、品番 678、高さ 16.5 cm、すべてヤロスラフ・イェジェク、ロイヤル・ダックス、デザイン 1958、ブリュッセル万国博覧会の金メダル、1958 年
その生産コレクションは、写実的な具象モチーフと、現代的な精神に基づいた滑らかで様式化されたフォルムを特徴とする具象磁器と装飾磁器の両方によってさらに充実しました。

現代の生産プログラムは国内でROYAL DUX BOHEMIAの商標で知られています。

1992年、ドゥフツォフ工場の名前は、ボヘミア王立ドゥクス磁器製造所に変更され、資本投入の枠内でチェコ磁器グループのメンバーとなり1997年まで、再び独立した株式会社となりました。(ロイヤル ダックス ボヘミアホームページより)

カール・シュターミッツ(Carl Stamitz, 1745年5月7日 - 1801年11月9日神聖ローマ帝国マンハイム生まれ、神聖ローマ帝国イェナ没)

はドイツのチェコ系作曲家。
マンハイム楽派第2期の傑出した作曲家です。

シュターミッツ一族の作品は、チェコ系のレコード会社から録音が出されるようになり、このためにチェコ語による綴りKarel Stamic(カレル・スタミツ)も定着しつつあります。

マンハイムに生まれ、父ヨハン(マンハイム楽派の開祖)から音楽教育を受けます。

1762年からマンハイム宮廷楽団で演奏し、1770年からパリでヴァイオリニストとして活躍しました。

後年はヨーロッパ各地を転々としており、プラハやロンドンにも暮らしています。

交響曲と協奏曲をそれぞれ50曲以上のこし、おびただしい数の室内楽も作曲しています。

モーツァルト父子は、カール・シュターミッツと面識がありました。

レオポルト・モーツァルトが、パリに滞在していた息子に書き送った手紙(1778年4月12日付け)によれば、ザルツブルクでカール・あるいは、弟のアントン・シュターミッツのシンフォニーが演奏され、「とても評判だった」が「やかましい」ものだった、と記しています。

モーツァルトは、この時期、前年からマンハイムに長期間滞在し、さらにパリでの音楽活動に活路を見いだそうとしていましたが、パリには、弟のアントン・シュターミッツがいました。
モーツァルトは、ザルツブルクの父親に対し、彼のことを「すばらしいクラリネット奏者だが、飲んだくれで、遊び人で、とてもだらしのない奴です」と書き送っています。
 また、モーツァルトによれば、この時期、兄のカールはロンドンにいたようですが、カールにも好感を抱いていなかったようです。

ライバルとみなしていたのかもしれません。

カール シュターミッツの交響曲ニ長調 "La Chasse"狩り (1772年作曲)
Mov.I: Grave - Allegro
Mov.II: Andante
Mov.III: Allegro moderato - Presto


モーツァルトの友人シュテードラー

2025-06-14 21:00:00 | 古典
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金曜日午後から長居公園近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村雅雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米素子のカルテットレッスン。

今回はレッスン後に頂くケーキを持って行こうと、前回行った牧野駅前のケーキ屋さんに早めに行ったら、半分シャッターが降りています。
何やら看板があるので見てみたら営業時間の変更。
土日は朝から開けていますが、平日は16:00〜!!
ウェブで金曜朝の営業時間、何度も確かめたのに〜。
嫌な予感がしたんだよね。
「1人でやっててたいへん。」なんてパティシエのお兄さん言っていたから…。

おおあわてで駅から離れて「まあだだよ」にUターン。
うちから近いのに〜。
ここ忘れてました。結構美味しかった覚えが。

待合せに遅れて、坂田さんは先に行っててくれました。
各駅停車だったので枚方市で特急に乗ると淀屋橋で合流できます。
「ご苦労さまでした。」と坂田さんねぎらってくれました。

さて、今回のレッスンはモーツァルトのフルート四重奏Gdurとモーツァルトのピアノ四重奏1番。

富久田治彦先生に学んだように第1楽章のテンポがこの前速すぎたので修正。
朗々と歌うようなアンダンテ。
ゆっくりになると…あれ?!数えられない。

何度か同じところで間違えました。ゆっくりになると音程、ニュアンス、様々なところに気をつけない目立ちます。特にモーツァルトは!
ピアノ四重奏は譜めくり…緊張します。
坂田さんも金重さんも上手くなってきました。
レッスン後のお茶とケーキ





写真撮るの忘れて先に半分食べちゃった〜!

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト( Wolfgang Amadeus Mozart 1756- 1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、オーストリア大公国ウィーン没
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとアントン・シュタードラー
クラリネット五重奏曲 イ長調 K. 581 は、1789年9月29日に作曲したクラリネットと弦楽四重奏のための室内楽曲です。 

クラリネット奏者で友人だったアントン・シュタードラーのために作曲されたため『シュタードラー五重奏曲』の愛称で呼ばれることもあります。

同年12月22日にブルク劇場


でシュタードラーのクラリネットにより初演されました。

アントン・シュタードラー( Anton Stadler、1753- 1812年)は、オーストリアのクラリネット奏者、バセットホルン奏者、作曲家です。

1779年にウィーン宮廷楽団
と契約し、1780年にフランシスカ・ビヒラー(Francisca Bichler)と結婚しています。フランシスカとは後に8人の子供をもうけ、3人が成人しています。モーツァルトと親しくなったのもこの時期と考えられています。

また彼は私生活上の問題が多く、各所に少なからぬ負債があった上に、1801年以降は愛人と暮らし妻フランシスカと別居してもいます。また、モーツァルトと同様にフリーメイソン

(『ロッジ』と呼ばれる集会場において、儀式や講義を通して、人間の基本的な道徳を学び教え合う。仲間そして人類における兄弟愛、個人の尊厳と自由を尊重すること、人間として家族や社会での責任を果たすことなどが強調されています。)


に入会し、モーツァルトと親しくなるきっかけだったとも伝えられています。

モーツァルトは
「あなたの演奏ほど、クラリネットが巧みに人の声に近づくことができるとは思ったことがありませんでした。あなたの音は柔らかく繊細で、心ある者は抗うことができません」

と書き送っています。  

経済的に余裕のなかったモーツァルトからシュタードラーがさらに借金をしたとも、逆に彼が晩年のモーツァルトの生活を支えたとも言われています。

モーツァルトの協奏曲と五重奏曲の自筆譜が失われたのは、シュタードラーが借金のかたにこれらの楽譜を売却したからだとも言われています。(その中には現存しない作品もあったそうです。)

この曲は『クラリネット協奏曲 イ長調 K. 622』と同様に、本来はシュタードラーが用いていた "Bass-klarinet"(現在のバセットクラリネット)
シュタードラーのバセット・クラリネット(左=スケッチ)
のために作曲されたものです。

バセットクラリネットは通常のクラリネットよりも低音部が長く、低音域が広いクラリネットの一種で、このことから「バセット」または「スモール・バス」と呼ばれるようになりました。

低音域は通常のE3ではなくC3まで広がり、E♭、D、C♯が追加されています。

現在一般に用いられる版は1802年に通常のクラリネット用に編曲されたもので、自筆譜は紛失しています。



クラリネットは当時はまだ目新しく、ようやくオーケストラの仲間入りをし始めた楽器でした。

しかしモーツァルトは当時の楽器のもつ可能性を利用し尽くし、クラリネット音楽の発展に対して重要な模範を提示しました。この作品においても、広い音域や歌謡的能力を活用する優れた書法を見ることができます。

モーツァルト作曲
クラリネット五重奏曲K.581
バセットクラリネットで演奏しています。



失われた楽章モーツァルト

2025-06-07 21:00:00 | 古典
金曜日は京都今出川大宮の富久田晴彦先生のレッスンでした。


モーツァルトのフルートカルテットGdur。
散逸したのか?はじめからなかったのか?他の曲は三楽章あるのにこの曲は二楽章しかありません。
しかし、それでもそこはモーツァルト!
短い中にも美しく、驚きに満ちています。
フルートカルテットと言うとこれも入れてモーツァルトの4曲。

木村直子先生と雅雄先生と金重美世さんとのアンサンブルレッスン4年目、モーツァルト最後の曲です。
本当に幸せな4年間でした。
富久田先生のお力もお借りして、心残りの無いようにしっかり準備してのぞみたいです。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756 - 1791年)ザルツブルク生まれ、ウィーン没

1770年ヴェローナのモーツァルトの肖像画

交響曲第54番 ロ長調K. Anh . 216/Anh.C 11.03/74g は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1771年にザルツブルクで作曲したと考えられています。

この交響曲は、2本のオーボエまたは2本のフルート、2本のホルン、そして弦楽器で構成されています。
当時オーケストラでは、ファゴットやチェンバロが配置されていれば、ベースラインを補強し通奏低音として演奏することも一般的でした。

この交響曲は次の楽章から構成されています。

アレグロ、34
アンダンテ、24
メヌエット、34
アレグロ・モルト、24

1879年から1882年に出版された『アルテ・モーツァルト交響曲集』では、41の番号付き交響曲に1から41までの番号が付けられています。

番号が付けられていない交響曲(K. 74gなど、1910年まで『アルテ・モーツァルト交響曲集』の補遺として出版されていたものを含む)は、モーツァルトの交響曲第41番(1788年作曲)よりも以前に作曲されたにもかかわらず、42から56までの番号が付けられることがあります。

この番号体系では、交響曲K. 74gは54番です。
この交響曲は(他の交響曲とともに)ルートヴィヒ・リッター・フォン・ケッヘル(1800- 1877年音楽学者モーツァルト研究で知られている)

にはブライトコップフ&ヘルテル社のカタログを通してのみ知られており、ケッヘル社カタログのAnhangにAnh. 216として収められていました。

20世紀初頭にベルリン国立図書館


でパート譜(現在は紛失)が発見され、1910年にブライトコップフ&ヘルテル社から出版され、マックス・ザイフェルトが編集しました。

このパート譜はザイフェルトがカタログ化される前に図書館から持ち出し(パート譜がカタログ化されたことは一度もなかったため)、その後返却されなかった可能性があります(カタログ化されていなかったため、おそらく気付がなかったと思われます。)。

ザスワフは、パート譜がベルリンカ美術コレクションの一部となり、クラクフのヤゲロン図書館で他のモーツァルトの手稿譜と一緒になったのではないかと推測しています。

パート譜が失われたため、この交響曲の唯一の出典はブライトコップフ&ヘルテル版(アルテ・モーツァルト・アウスガーベ所蔵)でした。

マックス・ザイフェルトは、ブライトコップフ&ヘルテルの古い手書きの目録には、かつて出版社に所蔵されていた12の交響曲が掲載されていたが、それらはすべて失われており、ケッヘルは付録にAnh. 214~223(2曲を見落としている)としてしか目録に記載できなかったと記しています。

しかし後に、ベルリン国立図書館でK. Anh. 214と216の2曲が発見された。これらは1770~1771年にイタリアで出版されたものです。

アルフレッド・アインシュタイン(1880 - 1952年ドイツ系アメリカ人音楽学者)


は、ケッヘル・カタログの改訂版において、この交響曲は1771年初夏のザルツブルクにおける2度のイタリア旅行の間に作曲されたと確信し、交響曲に「74g」という番号を与え、モーツァルトの作者であることに疑いの余地はないと記しました。

ケッヘル・カタログ第6版では、この交響曲に「Anh.C 11.03」という番号が与えられ、様式上の理由から偽作および疑わしい作品のカテゴリーに分類された。第9版では、アインシュタインの番号「74g」に戻されましたが、依然として疑わしい作品とみなされています。

フルートカルテットのGdurの三楽章もどこかの図書館か、美術館にでも埋もれていないかなぁ?

モーツァルトの交響曲第54番 ロ長調K. Anh . 216/Anh.C 11.03/74g



ハイドンの曲ではなかった!?

2025-05-25 21:00:00 | 古典
土曜日朝は伊藤公一先生のマスタークラスでした。
ひたすらスケールを見て頂いています。ちゃんと吹けているつもりでも、吹けていない。0.1ミリの誤差でも大きな建物を建てて行くと崩れるように、曲にならない。
果てしない気がしますが、お手本を吹いてくださるので希望があります。

ドルチェ楽器の3階でルイロットとボンビルを2本吹かせてもらいました。
ルイロットは溶銀。10000番代
とにかく軽い。レスポンスもよく音が飛んで行くようですが、少しパワーに欠けるように思いました。
ボンビルは溶銀と溶銀に銀メッキでした。



ボンビルはルイロットよりもパワーがあります。音色が軽い。
銀メッキは溶銀のみに比べて音色に厚みがあります。そして3本の中では1番重い、と言っても総銀よりは軽いですが…。

どの楽器も溶銀ということで軽くて、今回は60.〜70万円台でした。
初代ルイロットだと300万円台。
なかなか掘り出し物ってありませんね。



アントニオ・ロセッティ(ロゼッティ、Antonio Rosetti, 1750年 - 1792年6月30日)
ボヘミア王国リトムニェジツェ生まれ、ルードヴィヒスルスト没

は、18世紀ボヘミアの作曲家、コントラバス奏者。長らく、チェコ語名をフランチシェク・アントニーン・レスレル(Frantisek Antonin Rössler)
1773年にイタリア風の「アントニオ・ロセッティ」に名乗りを改めました。(確証は無い)
ドイツ語名のフランツ・アントン・レスラー(Franz Anton Rösler)でも知られています。

イエズス会の神学校で早期の音楽教育を受けたとみなされています。
その後のロセッティの足取りは、はっきりとはわかっていません。
1770年代初めにロシアのオルロフ伯爵連隊(1768年以来ロシア海軍の提督であったアレクセイ・グリゴリエヴィチ・オルロフ伯爵)


の音楽家として仕えていました。

1773年、南ドイツ、シュヴァーベン地方の領主であるエッティンゲン=ヴァラーシュタイン侯爵の宮廷楽団にコントラバス奏者として加わり、後に作曲活動も行いました。

ヴァラーシュタイン城

1777年にロジーナ・ネーアと結婚し、3児をもうけます。
1781年に休暇を与えられて、5ヵ月をパリで過ごします。

コンセール・スピリチュエル(18世紀フランスの演奏会・音楽集団の名称。「宗教音楽演奏会」の意味で、系統的に発達しえた最初の定期演奏会)をはじめ、優れた楽団の多くがロセッティの作品を演奏しました。

1782年に6つの交響曲が出版されました。

ヴァラーシュタインに戻った後、ドイツ語圏はもとより、フランスなどでも卓越した作曲家として認められるようになりました。

1785年、同郷でヴァラーシュタイン宮廷楽団の楽長のアントニーン・レイハがケルン選帝侯の宮廷楽長に招かれヴァラーシュタインからボンへ去ると、その後任となり宮廷楽団の活動に大きく貢献しました。

1789年にメクレンブルク=シュヴェリーン公の宮廷楽長に就任、シュヴェリーン近郊のルードヴィヒスルストに移住します。


メクレンブルク=シュヴェリーン公フリードリヒ・フランツ1世の肖像画、ルドルフ・ズールラント作

ロセッティは多作家であり、40数曲の交響曲や協奏曲、声楽曲を残しました。
モーツァルト研究者のH.C.ロビンス・ランドンは、これらの作品がモーツァルトのホルン協奏曲のモデルになったのではないかと示唆しています。 

独奏ホルンのための協奏曲のほか、2本のホルンのための協奏曲を数曲残しており、この分野での重要なレパートリーとなっています。

長らくヨーゼフ・ハイドン


の作品とされてきた、2本のホルンのための協奏曲変ホ長調は、スターリング・E・マリーによりロセッティの作品である可能性が高いことが証明されました。
この曲には、RWV(ロセッティ作品目録)C56Q が与えられています。

ロセッティのレクイエムは、モーツァルトが亡くなった9日後の1791年12月14日にプラハの聖ミクラーシュ教会でのモーツァルトの追悼式で演奏されました。なお、その際には作曲者自身は訪れていません。

このレクイエムは1776年、18歳で亡くなったヴァラーシュタイン侯爵夫人マリー・テレーゼのために作曲されたものです。

近年ロセッティの価値が再発見が進み、ヴァレンシュタイン城ではロセッティ音楽祭が開かれたりしています。

ヴァレンシュタイン家のホームページ、ロセッティコンサート、ツアーの予約ができます、
https://fuerstwallerstein.de/
本物はいつか姿を現す?!であって欲しい…。
 




パンの日

2025-05-03 21:01:00 | 古典
5月2日は高校の同窓会で再会した友だちOさん、Kさん、Wさんと私の4人で野崎でパン作り教室をしているMさんの家に行きました。

同窓会の日、「パン作りしてるなら、教えてもらおう!」ということで、やってきました。

朝から大雨。
車で松井山手駅の実家まで行って、車を置いてJRで一本です。
電車で行くと枚方まで出て、河内磐船駅で乗り換えて、野崎と三本。
時間的には変わらないけどめんどくさい。

Mさんの家は駅の目の前でした。

Mさん、パン作りの材料を用意してくれていました。
さすが先生!

混ぜるのはブレンダー。

発酵器

やオープン

もあって、発酵している間にチーズやハムを切って

のせます。
コーンパンと、バターシュガー

カスタードクリームも作って

入れます。

半月形がクリームパン、真ん中がアンパン、左端がチーズパン。

オープンで焼いてできました。

1人6個6種類のパン。

10:30から始めて、14:00頃になっていました。
おいしい紅茶と一緒にいよいよ食べる時間。
ここまでにいろいろしゃべっていますが、その上話して、クリームパンとチーズパンを食べました。
自分でもよくパン作りをするWさんが「温かいクリームパンなんて食べられないから。」と言うのでみんなクリームパンから食べました。

確かに焼きたてのクリームパンは今まで食べたことの無い美味しさでした。
それからチーズパンを食べたら、お腹いっぱい。
満足して帰ろうとしたら、



食パンとロールパンをお土産に頂いてしまいました。

Mさんに感謝。
旧交を温め、おかげさまで楽しい1日でした。

ミサ曲(ミサきょく)は、カトリック教会のミサ(感謝の祭儀)に伴う声楽曲のことです。

オッフェルトリウム (Offertorium)

はミサの後半「聖餐式」
(キリスト教において、イエス・キリストの最後の晩餐を記念し、パンとぶどう酒(または果汁)を分かち合い、キリストの体と血を記念する儀式。)
の始めに最後の晩餐を再現するため葡萄酒と種なしパンを祭壇に捧げます。
この間に歌われる歌のことです。

ヴォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

死者のためのミサ曲を1791年、作曲に取りかかりますが、体調を崩しがちとなり、11月20日頃には床を離れられなくなってしまいます。

12月になると病状はさらに悪化して、モーツァルトは再び立ち直ることなく12月5日の未明に他界します(享年35)。

彼の葬儀は12月6日にシュテファン大聖堂の十字架チャペルで行われ、4日後の10日にはエマヌエル・シカネーダーなどの勧めによりホーフブルク宮殿の前にある皇帝用の聖ミヒャエル教会でのミサで「レクイエム」の「初演」がそれまで完成した形(第2曲以下をクワイアーは斉唱)で行われました。

オッフェルトリウム【奉献文】

第9曲 ドミネ・イエス
【主イエス】
合唱、四重唱ともにポリフォニーが多く用いられた曲進行となる。"quam olim Abrahæ"以降はフーガで締めくくられています。

第10曲 オスティアス
【賛美の生け贄】
第9曲と対照的にホモフォニックに歌われます。最後のフーガは前曲のものが再現されます。アンティフォナ形式。和訳では「奉献唱」。



シャンパンの歌

2025-04-23 21:00:00 | 古典
日曜日コンサートの後はやっぱり打上げ!
韓国組が用意してくださったサムギョプサルのお店で乾杯です。
アルコール呑めない人はソフトドリンク…。甘い飲み物しかありません。
ノンシュガーというと糖質ゼロのコカ・コーラが出てきました。
烏龍茶とかありません。
結局ただの冷やしたお水をのみました。

このサムギョプサル豚肉のブロックが炭焼きの上にバーン!と置かれ焼けてきたらハサミで切ってくれます。
レタスや葉物はおかわり仕放題。

豚肉は食べたら次のが勝手に出てきます。
お酒飲み放題。
これで30000ウオン(3000円位)
安い!

言葉はあまりわかりませんが、通訳できる人も何人かいて、片言英語混じり。
「3rd、Flute!together Photo!」なんて言って肩を抱いて自撮りしたり。
「今度は8月19日神戸で合いましょう!」
「イェーイ!」「乾杯!」
という感じで夜は暮れ…私は11:00に夫と韓国の夫の仕事相手が車で迎えに来てくれたので、と言うか迎えの居酒屋で2人で飲んでたそうです。

とにかくそこでホテルに帰りましたが、他のエスカルのメンバーはそこから2次会も行ったそうです。すごい!

ヴォルプガンク アマデウス モーツァルト(1756-1791年)

『ドン・ジョヴァンニ』(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni(罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ), K.527)は1787年作曲されました。
ドン・ジョバンニは女の人をとっかえ引っ変え渡り歩き、最後には天罰が下るという物語です。
その中でドン・ジョバンニが歌う「シャンパンの歌」
彼の刹那的な生き方が現れている歌です。
対訳があったので載せました。
お酒はほどほどに、お相手には誠実に向き合いましょう…

『Fin ch'han dal vino(シャンパンの歌)』



謎の2楽章

2025-03-29 20:51:00 | 古典
金曜日の朝は久しぶりに長居公園近くの木村直子先生、雅雄先生のカルテットレッスンでした。
ヴィオラの金重美代さんのレッスンで、フルートを吹きます。

今回は、モーツァルトのフルートカルテットGdur、4曲のカルテットを1年一曲仕上げ、4年目最後の曲です。
この曲以外は3楽章ですが、これは2楽章しか伝わっていません.。

直子先生が、「この曲素晴らしいねぇ。この複雑なアンサンブル!モーツァルト晩年の作品みたいですね。」

通説では21歳の時の作品ですが、この曲はわからないことが多いのです。
確かに曲の構造は晩年かもしれないと今更ながら思いました。


ヴォルフガング アマデウス モーツァルト(1756−1791年)
神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

1777年のモーツァルト
フルート 四重奏K.285aGdur
は、
21歳の頃、
ボン出身でオランダ東インド会社に勤務した裕福な医師(理髪外科医)フェルディナント・ドゥジャンが200フローリンで「小さくて軽く短い協奏曲を3曲と四重奏曲を何曲か作ってくれ。」と頼まれたために作られた3曲の四重奏曲の1つと考えられています。

結局この時は一説によるとアロイジア ウェーバーに夢中で、注文通りに作ることができませんでした。
そのため96フローリンしか報酬を貰えず、父親に不満を訴える手紙を書いています。

父レオポルドはそんな息子を窘め、不十分な仕事を行わず、真面目に励むように書いています。

Gdurのカルテットは1778年1月か2月にマンハイムで作曲されたものと考えられています。

しかし自筆稿が現存せず、モーツァルトの死後まもない1792年に出版された初版は、なぜか第1番 Ddur K. 285の第1楽章の後にこの2つの楽章をつけて3楽章形式とされているなど、妙なことも起きていました。

交響曲第40番1788年、アイネ・クライネ・ナハトムジーク1787年などこの頃はマンハイム楽派を取り入れた作品を書いています。

マンハイム楽派の特徴
■マンハイムクレッシェンド
突然のクレッシェンド、オーケストラ全体で展開されるクレッシェンドとディミヌエンド、

■マンハイム・ロケット
ピアノのリリースを伴うクレッシェンド、(クレッシェンドを伴う上昇するアルペジオの旋律線を伴う、急速に上昇するパッセージ)
あるいはベースラインの最低音域からソプラノラインの最高音域まで急速に上昇する分散和音

■マンハイム・ローラー(オスティナートのベースラインの上に上昇する旋律線を伴う、拡張されたクレッシェンド・パッセージ)、

■マンハイムのため息
(下降するスラー音のペアで最初の2音に重点を置くバロック音楽の慣習を様式化したもの)

■マンハイムの鳥
(ソロ・パッセージでの鳥のさえずりの模倣)

■マンハイム・クライマックス(弦楽器以外のすべての楽器が演奏をやめる高エネルギーの部分で、通常はマンハイム・クレッシェンドが先行する)、

グラン・ポーズ
演奏が一瞬止まり、完全に沈黙した後、勢いよく再開。

この曲の中で扱われているのはマンハイムクレッシェンドとグラン・ポーズですが、それは。より複雑な旋律の重なりの後で洗練された形で使われています。
マンハイム楽派を取り入れて進化してる!
と、私は思うのですが、どうかな?
だから、1787年の一曲ではなくて、もっと後期の作品の可能性も有りと思いますがどうかしら?