音楽の喜び フルートとともに

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2024-08-12 21:01:00 | バロック
夫と次男とお墓参りに行こうと母を誘いに行ったらお客様。

お墓参りは明日にして、京都亀岡方面にドライブ。
スカイラインを動かさないとまたバッテリーが上がるから…。
例によってあてどない出発。
「どこ行くの?」
「…。」
本人にもわからないらしい。

結局亀岡の巨大建造物ガレリア亀岡に駐車。

ピアノも置いてありました。


道の駅もあるので野菜を買って、


うなぎ寿司半額。
撮る前に食べてしまいました。
残り1個!。

さくらプリンは母にお土産。

この後、亀を探して川へ。
うなぎは採れません…。

うなぎは
古代ギリシア、アリストテレス(BC384-BC322年)

は本種が降河回遊をしていることを記しています
沿岸や河川で捕獲される個体が成熟した卵をもっていないことは当時から知られ、本種がどこから来てどこへ行くのか、さまざまな憶測を生んできました。

アリストテレスは地中からヨーロッパウナギ


が生れると信じていました。
古代ローマの博物学者であった大プリニウス(23-79年)


は、体から剥がれ落ちた皮膚の破片から稚魚が生まれると考えていました。

これらの荒唐無稽な仮説は、1887年にイタリアのメッシーナ海峡で成熟卵をもつ雌が発見されたことにより、初めて科学的に否定されました。

さらに、それまで別種の魚類と考えられていたレプトケファルスが、ウナギ類の仔魚であることも判明し、ヨーロッパウナギの生活史は、急速に明らかになりました。

食用魚としての歴史も長く、欧州各地で干物・塩漬け・燻製・フライ・煮込み・焼き魚など、さまざまな調理方法で利用されてきました。

ロンドン・イーストエンドのウナギゼリー寄せなど、郷土料理として知られるものもあります。 

鰻のゼリー寄せ

日本のウナギと同じように、捕獲したシラスウナギを成魚まで育てる養鰻場も、ヨーロッパ各地に存在します。

19世紀には河口に大量に押し寄せたヨーロッパウナギでしたが、乱獲や工業化に伴う生息環境の攪乱によって資源量は著しく減少し、近年では絶滅が危惧されています。

ヨーロッパウナギについては、1990年代に稚魚を中国で養殖し日本へ輸出する販路が定着し、輸出が本格化すると資源は激減しました。稚魚の乱獲が主な原因と指摘されています。

フランソワ クープラン(1668-1773年)フランス王国パリ生没

(1735年)アンドレ・ブイの原画に基づくジャン=シャルル・フリパールの銅版画。
フランソワ・クープランの父親のシャルル・クープラン (1638-1679) はルイ・クープランの弟で、1661年からはルイの後任としてパリのサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めていました。

1662年2月20日にシャルルは理髪師の娘マリ・ゲランと結婚し、1668年11月10日にフランソワ・クープランが生まれました。

1679年、彼が10才の時に父シャルルが亡くなります。

サン・ジェルヴェ教会のオルガニストとなるにはクープランは未だ幼すぎ、教会評議会は彼が18才の誕生日を迎えた時に父親の地位を引き継ぐことに同意し、それまではミシェル=リシャール・ドラランドが代理を務めることになりました。

クープランの教育はサン・ジャック・ド・ラ・ブシュリー教会のオルガニストで国王のオルガニスト (organiste du roi) でもあったジャック・トムラン (en:Jacques Thomelin) が引き受けました。

クープランは約束の日が来るのを待たずに実質的にサン・ジェルヴェ教会のオルガニストを務めるようになり、1685年11月1日には教会評議会はクープランに対する報酬の支払いを決定しています。

1689年にクープランはマリ=アンヌ・アッソーと結婚、

1690年には最初の出版作品である2つのオルガン・ミサからなるオルガン曲集を出版し、
1693年にはルイ14世


によってトムランの後任に選ばれました。

国王のオルガニストとして宮廷との結びつきを強めたクープランは、教師として多くの王家の人々にクラヴサンを教え、王室楽団では常任クラヴサン奏者を務めました。

さらに宮廷作曲家としても活動するようになり、室内楽だけでなく王室礼拝堂用の宗教音楽も手がけました。

国王の命を受けた3組のヴァーセット集が1703年から1705年にかけて出版されています。

多数のモテットが1690年代後半に書かれました。
この頃からクープランはイタリア風のトリオ・ソナタの作曲に取り組みはじめており、最初のうちは
それらをイタリア風の偽名で発表していました。

1713年に『クラヴサン曲集第1巻』出版されました。

クープランは序文で「これらの楽曲を作曲する際、私の頭のなかにはさまざまなおりに得た対象があった。私が何を考えたかを標題が示しているので、それ以上に説明をする必要はない。」と記しています。

1716年にはクラヴサン演奏論である『クラヴサン奏法』 (L'art de toucher le clavecin) を出版しました。
またクラヴサンにふさわしい音楽について実例を示すためのアルマンド1曲と、自身のクラヴサン曲集で使用されている調によるプレリュード8曲が収録されています。

1717年には『クラヴサン奏法』の第2版が出版され、おそらく同じ年に『クラヴサン曲集第2巻』が出版されました。

第2巻の組曲は(第8オルドルを例外として)組曲の定型はほとんど放棄されており、描写的な標題を持つ作品の比重が増しています。

クープランの重要な宗教声楽作品である『ルソン・ド・テネブレ』 (Leçons de ténèbres) もこの頃に出版されています。全部で9曲中、現存するのは3曲のみです。

1722年に『クラヴサン曲集第3巻』が出版され、『王のコンセール』 (Concerts Royaux) がその第2部として出版されました。

さらに1724年には『王のコンセール』の続編として『趣味の融合、あるいは新コンセール』 (Les Goûts réunis ou Nouveaux Concerts) を出版 、1725年に『比類なきリュリ氏の思い出にささげる賛歌のコンセール』 (Concert en forme d'apothéose à la mémoire de l'incomparable M. de Lully)、1726年に『諸国の人々 - トリオによるソナードとサンフォニー組曲集』 (Les Nations - Sonades et suites de simphonies en trio)、1728年に『通奏低音付きヴィオール曲集』 (Pieces de violes avec la basse chifrée) と、この時期クープランは続々と室内楽作品を出版しています。

1730年の『クラヴサン曲集第4巻』の序文でクープランは健康状態が悪化していることを記しています、

「三年程前これらの作品は書き上げられた。しかし私の健康は日々弱るばかりなので友人たちは仕事を休むよう忠告してくれた。それでその後何も大きな仕事をしていない。諸賢が今日まで私の作品に喝采を送らんとせられたことに御礼申し上げる…」

その3年後の1733年9月11日にクープランはその生涯を閉じました。

『クラヴサン曲集第4巻』
Quatrième livre de pièces de clavecin (1730) - 第20から第27オルドル
の第21曲目「鰻 」L'anguille