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音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

生き抜いた作曲家

2025-09-07 21:00:00 | 近代
はてなブログでも公開しています。全面引越しはまだ😉💦
→音楽の喜び フルートとともに


土曜日甲東園ホール、ピアノトリオコンサートを聴きに行きました。

聴き合い会でお会いした日野上さんにおすすめされました。
甲東園ホールは駅から直結していて、行きやすい上に音響も抜群なホールです。

ヴァイオリン中嶋弥生 チェロ渡邊弾楽 ピアノ 山中歩夢

ラヴェル特集ですが、マ・メール・ロワピアノトリオ版
マ・メール・ロワはフルートアンサンブルでもやった曲ですが、撥弦版はまた新鮮でした。
ピチカートを効果的に使っていたりして、おもしろかったです。

タイユフェール ピアノトリオ
タイユフェールはパリ6人組の1人ですが、あまり演奏されないです。しかし聴いてみると思いの外力強く、エネルギッシュな曲。
もっと取り上げられてもいいのではないか?と思いました。

ラヴェル ピアノトリオop90
バスク生まれのラヴェルが民謡などを取り込んで、作った曲。中にはマレーシアの舞踊の曲を入れ異国情緒も盛り込んでおもしろい曲でした。
亡き王女のためのパヴァーヌとこのシリーズを締める日本の曲ということで変奏「赤とんぼ」。
アンコールは写真撮影OKということで撮りました。

ジェルメーヌ・タイユフェール(Germaine Tailleferre, 1892 - 1983年フランス共和国サン=モール=デ=フォッセ生まれ、フランス パリ没)

パリ音楽院で学んだ後、個人的にシャルル・ケクランとラヴェルに師事。
シャブリエ、サティの影響を受けた快活でさわやかな作品を残しました。
コクトーに「耳のマリー・ローランサン(1883 - 1956年)」

ポスター『ポスター台を囲む三人の女性』(仮題)1937年。ローランサン原画による商店ポスター 
と呼ばれた作曲家です。
フランス六人組のメンバーの一人。

父親は、娘の音楽教育に一切の興味を見せず、むしろ「女に音楽なんて…売春婦と同じだ。俺のように日々労働者として働くことこそが仕事なんだ」と言い放つ人物でした。
本名はマルセル・タイユフェス (Marcelle Germaine Taillefesse) でしたが、横暴で家庭を顧みない父親への反感から、タイユフェールという姓に改めました。

修道院付きの学校に学んだ母親から、ピアノなどの教養を学んで楽才を発揮し、パリ音楽院への進学を許されます。

音楽院ではダリウス・ミヨーやジョルジュ・オーリック、アルテュール・オネゲルと出逢い、親交を結びました。

いくつかの学科で首席になり、18歳の時、ハープ科の助教授カロリーヌ・タルデューのために『タルデュー夫人のためのハープ小曲集』(Petit livre de harpe de Madame Tardieu)を作曲しました。
これは現存する最初の作品のひとつと言われています。

早くから優等生ぶりを発揮する一方、ピアノ科の試験の最中に院長フォーレに気押され、無意識にバッハを移調して演奏して(フォーレを含む)
験官を驚かせたり、オルガン科で即興演奏の学習中に、「ストラヴィンスキーの様式」を選んで教授の逆鱗に触れたりなど、いくつかの武勇伝を残しています。

またこの頃、無教養で野卑な父親から解放されたことへの反動で、音楽以外の勉強もしており、気球の操縦も学んでいます。

友人たちとともにモンマルトルやモンパルナスの芸術家集団と親交を結び、その中で知り合った彫刻家のエマニュエル・サントール(Emmanuel Centore)は、後にタイユフェールの妹と結婚しました。

「フランス六人組」の原型が出来上がったのも、モンマルトルの友人の画家のアトリエにおいてでした。

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない。

ジャン・コクトー

1912年の宣言文『牡鶏とアルルカン』Le Coq et l'Arlequin, が出版されると、音楽評論家で作曲家のアンリ・コレの批評によって、「フランス六人組」という名称が与えられ、一躍グループを有名にしました。

「六人組」は、当初は共作を行い、ピアノ曲集『六人組のアルバム』(Album des Six)などを出版しました。

ルイ・デュレ1888 - 1979年)

を除く5人は、その後もコクトーの台本『エッフェル塔の花嫁花婿』(Les Mariés de La Tour Eiffel)をもとにバレエ音楽を共作しました。このバレエは、もともとコクトーがオーリックに持ちかけて始まったものでしたが、オーリックがリハーサルに間に合うように作曲できるほどの速筆ではなかったため、六人組で共作することになりました。
この頃デュレはパリにいなかったために参加していません。

ラヴェルを信奉していたデュレはやがて六人組を脱退することになりましたが、この頃デュレはまだ毎回、六人組の演奏会に出席し、その後も他の人との関係は悪くありませんでした。

タイユフェールはといえば、モーリス・ラヴェル(1875-1931年)

の知遇を得て、1923年からモンフォール=ラモリのラヴェルの自宅に通って個人指導を受けていました。 
ラヴェルは早くから彼女とミヨーの才能を激賞し、タイユフェールにローマ大賞選抜試験を受験するように励ましていました。

しかし1925年、タイユフェールはアメリカ人の諷刺漫画家ラルフ・バートン(1891- 1931年)


に口説き落とされ、結婚してニューヨークのマンハッタンに移住してしまいます。

1927年に2人はフランスに戻りますが、チャップリンを含む幅広い著名人と親交の深かったタイユフェールに対して、バートンが嫉妬から兇暴化し(一説によると家庭内暴力さえ日常的であったといわれています)、耐え難くなったタイユフェールは、間もなくバートンと離婚しました。

後にバートンと結婚した理由を尋ねられて、タイユフェールは「寂しかったから」と答えています。が第一次世界大戦に前後する時期、タイユフェールはヴァイオリニストのジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880 - 1953年)

と愛人関係にあり(『ヴァイオリン・ソナタ第1番嬰ハ短調』はティボーに献呈されています)、報われぬ恋に疲れていました。その矢先に、遊び人のバートンに言葉巧みに誘惑されてしまったといわれています。

この結婚は3年半で離婚に至りました。

3ヶ月後に書いた「声楽とピアノのためのフランスの6つの歌(Six chansons françaises for Voice and Piano)」は、”夫の暴力から流産に至った自分を癒す作業”と捉える専門家が著書を出版しています。

バートンは妊娠中の妻のお腹めがけて銃で威嚇し、胎児を殺したい、でも君の命は守ると言い放ち、その3日後に彼女は流産をしました。彼はその後も銃の威嚇を続け、タイユフェールは逃げ、友人たちに匿われて生き延びました。

子どもが欲しかったことから、離婚から2年後、今度はフランス人の弁護士と結婚しました。
ロマンティックで愛に溢れていたのは束の間、この夫も彼女の手書き譜にインクをぶちまけ、妻のみならず幼子にも手をあげました。
その後、夫は精神病を患い、最後は結核病棟へ入院。離婚は50年代初めに成立しました。

1920年代はタイユフェールにとって激動の時期でした。
『ピアノ協奏曲』や『ハープのためのコンチェルティーノ』、バレエ音楽『鳥商人』(Le Marchand d'Oiseaux:スウェーデン・バレエ団のための作品)および『新しきシテール島』(La Nouvelle Cythère:ディアギレフとロシア・バレエ団の依嘱作品)などのいくつかの代表作のほか、先駆的な映画音楽の作曲も手懸けて、アフリカ音楽を主題に用いるなどの試みもしています。

チャールズ・スペンサー・チャップリン( Sir Charles Spencer Chaplin、1889- 1977年)

は、映画音楽をタイユフェールに書いてもらいたがっていましたが、タイユフェールはチャップリンの作曲センスを認めていて、チャップリンに自分で作曲するように助言しました。

チャップリンとタイユフェール

1930年代はいっそう実り豊かで、『2台のピアノと合唱、サクソフォーン、管弦楽のための協奏曲』や『ヴァイオリン協奏曲』、オペラ『ズライナ』(Zoulaïna)、ポール・ヴァレリーとの共作カンタータ『ナルシスを讃えて』など、野心的な作品が相次いで生み出されました。
この時期にも一連の映画音楽やドキュメンタリーの付随音楽を手懸けています。
第二次世界大戦の勃発によって、グラスの自宅にほとんどの草稿を置き去りにしたまま、亡命生活に入らなければならなリませんでした。
 
イベリア半島を横断して運よくアメリカ合衆国行きの船に乗り込み、そのままペンシルベニア州フィラデルフィアで戦時中を過ごしました。

終戦後の1946年、フランスに帰国して作曲活動を再開します。

バレエ音楽『魔術師パリ』(Paris-Magie)、オペラ『小船が一艘ありました』(Il était un Petit Navire)・『哀しみ』(Dolores)・『小さなシレーヌ』(La Petite Sirène)・『教師』(Le Maître)、オペレッタ『香水』(Parfums)、『バリトン、ピアノ、管弦楽のための協奏曲』、『フルートとピアノ、管弦楽のためのコンチェルティーノ』、『2台のギターと管弦楽のための協奏曲』、『ピアノ協奏曲第2番』、『ヴァイオリン・ソナタ第2番』、『ハープ・ソナタ』などの作品のほか、映画音楽やテレビ音楽を手がけます。

同時代の前衛音楽の勃興にも無関心ではなく、『クラリネット・ソナタ』では「面白半分に」十二音技法を取り入れ、打楽器とピアノのための『ラモーを讃えて』は、タイユフェール自身はあまり評価しませんでしたが、辛辣で小気味よい表現は再評価されつつあります。
1976年にパリの私立学校エコール・アルザシエンヌの音楽教師を引き受けます。

最晩年にはもっぱら小品ばかりを手がけましたが、これは老化にともなう手の関節炎のためもありました。

それでもなお、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ピアノのための『田園風ソナタ』(Sonate Champêtre)や、2台ピアノのためのソナタ、2台のピアノと管弦楽のための『コラールと変奏』のほか、いくつかの童謡や、子供向けのピアノ曲集を手懸けました。
最後の大作『コロラテューラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲』(Concerto de la Fidelité)は、作曲者の死の前年にパリ・オペラ座で初演されました。
なお92歳で亡くなる数週間前まで作曲を続けました。

晩年を過ごしたRue d'Assas 87にあるメモリアル・プレート

セーヌ=エ=マルヌ県のケンシー=ヴォワザンに埋葬されています。

タイユフェールのピアノ三重奏曲ピアノとヴァイオリンとチェロのための
Trio pour piano, violon et violoncelle
1917年に作曲しました。
1978年4月彼女はこの三重奏曲の第一楽章と最終楽章に二つの新しい楽章を加えた新しいバージョンを作曲しました 。
この新しい作品は、ピアニストのミシュリーヌ・ドンデーヌ(彼女の作品の編曲版を数多く手がけているデジレ・ドンデーヌの妻)に捧げられています。

ピアノ三重奏曲
1.Allegro animato
2.Allegro vivace
3.Moderato
4.Très animé


ラヴェル事件で辞任

2025-08-31 21:05:00 | 近代

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→音楽の喜び フルートとともに
https://m-fluteangel16.hatenablog.com/ 
土曜日は西宮ギター練習会でコンサートでした。

ギターの鈴木淳一さんは現代音楽好き。
好き過ぎ!特にブローウェルが好きでいつも彼の曲ばかりやっています。
何かやりたいと言われるので聞いたら、前回は吉松隆の「デジタルバード」を渡されました。
一楽章はなんとかなったけど、続きはいつかまた今度。で終わっていました。

今回は私がデュボワの「古典的なあなた」を渡しました。
以前この練習会によく来られていたTさんが「亡くなった友だちの楽譜をもらったから、フルートとギターの分あげる。」と頂いた中にありました。

時は過ぎて行きますが、私たちの身の回りにもささやかに受け継がれて行くものがあります。

フルートとギターのための「古典的なあなた」を書いたのは
ピエール マックス デュボワ(ピエール=マックス・デュボワ(Pierre-Max Dubois、1930- 1995年)フランスタルヌ県グロレ生まれ、ロカンクール没

は、フランスの作曲家。パリ音楽院教授。ダリウス・ミヨー

1892-1974年
の弟子でした。

1967年から1995年まで、パリ音楽院(パリ国立高等音楽・舞踊学校)教授を務めました。

実はピエール デュボワと間違えてフランソワデュボワをガッツリ調べて書いてしまいました。
歴史的事件のフランソワ=クレマン デュボワ。

苗字が同じだけで関係はありまん。頑張って書いてしまったのでやっぱりフランソワ デュボワを残すことにしました。

フランソワ=クレマン・テオドール・デュボワ(François-Clément Théodore Dubois, 1837 – 1924年)フランス マルヌ県ロスネー生まれ、

家族は音楽家とは無縁で、父ニコラは籠職人、祖父ジャンは学校の先生てした。

母セリニー・デュボワ(旧姓シャルボニエ)は職業に就かず、幼いテオドールを育てることに専念しました。

デュボワはランス大聖堂


の聖歌隊指揮者ルイ・ファナールにピアノを学び、ロズネの市長ウジェーヌ・ド・ブルイユ子爵の保護下に入り、ピアニストのジャン=アンリ・ラヴィーナ(1818 - 1906年)


を紹介されました。

ラヴィーナのコネのおかげで、デュボアは1854年にダニエル・オーバールが校長を務めるパリ音楽院に入学することができました。

ピアノをアントワーヌ・フランソワ・マルモンテルに、オルガンをフランソワ・ブノワに、和声を フランソワ・バザンに、対位法と作曲をアンブロワーズ・トマ(1811- 1896年)

に師事しました。

学生時代、1855年からはサン・ルイ・デ・ザンヴァリッドで、1858年からはサント・クロテロティルド(セザール・フランク指揮)でオルガン奏者として雇われました。

和声、フーガ、オルガンで次々に一等賞を獲得し、1861年にフランスの最高音楽賞であるローマ賞を受賞しました。

この賞により、ローマのフランスアカデミーのヴィラ・デ・メディチで、多額の補助金が支給され宿泊所と授業料を得ることができました。


1861年12月からの在学中に、デュボアはジュール・マスネを含む同級生と親しくなりました。

学業の合間に、彼はローマとその近郊の建造物を訪れ、システィーナ礼拝堂の音楽公演を聴き、ナポリ、ポンペイ、ヴェネツィア、ヴェローナ、マントヴァ、ミラノ、フィレンツェを旅しました。

その印象を古典様式の序曲、イタリアのブッフォ・オペラ(オペラ・セリアのリハーサル)、そして最後に荘厳なミサ曲という形で音楽に表現しました。

1866年にパリに戻ると、デュボワはサント・クロチルド教会の礼拝堂長(聖歌隊指揮者)に任命され、1867年の聖金曜日に彼の部隊は『キリストの最後の七つの言葉』を演奏しました。
この作品は後に1870年の民衆コンサートや他の多くの教会でも演奏されました。
この作品は後に1870年の民衆コンサートや他の多くの教会でも演奏されました。


デュボアの国立音楽協会の同僚: 左上から時計回りに:ロマン・ビュシーヌ、カミーユ・サン=サーンス、ガブリエル・フォーレ、セザール・フランク
1871年、カミーユ・サン=サーンスとロマン・ビュスィヌがフランス国立音楽協会を設立した際、デュボワはアンリ・デュパルク、 ガブリエル・フォーレ、セザール・フランク、エルネスト・ギロー、マスネらと共に創立メンバーの一人となりました。

同年、マドレーヌ寺院の聖歌隊指揮者に任命されました。

1870年から71年の普仏戦争中、

国民衛兵に入隊しました。
伝記作家ユーグ・アンベールは「彼とサン=サーンスは軍服を着てマドレーヌ寺院でよく会っていました。一人は礼拝堂の聖歌隊を指揮し、もう一人は大オルガンに上がった」と記しています。

二人はパリ・コミューン(1871年フランス革命政府)の血なまぐさい末期を逃れ、サン=サーンスはイギリスへ、デュボワはロズネの実家へ帰りました。

デュボワは1871年にアントワーヌ・エルワルトの後任としてパリ音楽院の教授に就任し、その後20年間その職を務めました。

1872年8月、デュボワはオペラ=コミック座の指揮者を父に持つピアニストのジャンヌ・デュヴィナージュ(1843年 - 1922年)と結婚しました。それは生涯続く幸せな結婚生活で、二人には二人の子供が生まれました。

デュボワはオペラ作曲家になる野望を抱いていましたが、パリの大手オペラ団に足がかりを得ることはできませんでした。

1873年、旧アテネ劇場で、ジュール・バルビエとミシェル・カレの台本による一幕劇『エミールのリュート』が、ジャン・グレゴワール・ペナヴェールとポール・ラコームの短編オペラとの三本立てで上演され、成功を収めました。
1878年には、パリ市が設けた音楽コンクールでバンジャマン・ゴダールと賞を共同受賞し、作曲した『失楽園』が、1878年11月に公費で初演され、その後2回の日曜日にシャトレ座コンサートで再演されました。

1877年、サン=サーンスはマドレーヌ寺院


のオルガン奏者を引退し、デュボワが後任となり、フォーレが聖歌隊長に就任しました。

1879年、デュボワはパリの大手オペラ座の一つでオペラを上演した。 2月、オペラ・コミック座がデュボワの一幕物喜劇『Le Pain bis』を上演しました。『演劇と音楽の年鑑』は、その楽譜を気取らず「機知と技巧に欠けるわけではない」と評価し、特に独創的ではないものの、非常に優雅で、優れたメロディーもあると評しました。

1880年7月、デュボワはフォーレとともにミュンヘンへ行き、ワーグナーの 『タンホイザー』と『マイスタージンガー』の公演を鑑賞しました。

フォーレと同様に、デュボワはワーグナーの音楽に感銘を受けていたものの、他の多くのフランスの作曲家のように自身の作品に影響を与えることはありませんでした。しかし、パリに戻ってからはワーグナーの楽譜を集中的に研究しました。

デュボワはフランスの最高峰の劇場であるパリ・オペラ座でオペラを上演させることはできませんでしたが、1883年にデュボワの音楽による三幕バレエ『ラ・ファランドール』がロジータ・マウリ主演で同劇場で上演されました。

この作品は人気を博し、その後数年間、オペラ座で頻繁に再演されました。
デュボワはレジオンドヌール勲章シュヴァリエを授与されました。

1884年、デュボワは4幕オペラ『アベン・ハメット』で多額の成功を収めました。シャトレ広場のイタリア劇場で初演され、熱狂的な歓迎を受けましたが、4回の公演で閉幕しました。財政危機で劇場が閉鎖に追い込まれたため、デュボワは歌手たちの未払い賃金を支払うという個人的な負債を抱えることとなりました。

1891年1月にレオ・ドリーブが亡くなると、デュボワは後任として音楽院の作曲科教授に任命されました。

シャルル・グノーが1894年に亡くなった後、デュボワは後任としてアカデミー・デ・ボザールの会員に選出されました。

1896年、1871年より音楽院の院長を務めていたトーマスが死去しました。 
デュボワが院長に任命され、トーマスの頑固で保守的な体制を継承しました。
 
オーベール、アレヴィ、特にマイアベーアの音楽が学生の正しい手本とみなされ、ラモーなどの古いフランス音楽やワーグナーを含む現代音楽はカリキュラムから厳格に排除されました。

デュボワは、音楽院の学生時代に学部の反近代主義に従わなかったモーリス・ラヴェル
(1875年3月7日 - 1937年12月28日) 

1912年
に対して執拗に敵対し、 1902年にデュボワは音楽院の学生がドビュッシーの画期的な新作オペラ『ペレアスとメリザンド』の公演に行くことを禁じましたが、無駄でした。

1905年6月、ラヴェルのローマ賞受賞を阻止しようとする教員たちの露骨な試みによる世間のスキャンダルにより、デュボワは予定していた退職を前倒しせざるを得なくなりました。

フォーレはデュボワの後任として校長に任命され、フランス政府から音楽院の近代化の指示を受けました。

デュボワは、私生活においては、自身が率いていた学問的体制下においてほど反動的な姿勢をりませんでした。

1914年、ワーグナーの『パルジファル』が遅ればせながらパリで初演された際、デュボワは同僚のジョルジュ・ユエに「これほど美しい音楽はかつて書かれなかった」と語りました。
私生活では、彼はドビュッシーの音楽、すなわち「微妙なハーモニーと貴重な洗練」に魅了されていました。

音楽院を退官した後も、デュボワはパリの音楽界では馴染み深い人物であり続けました。

彼は音楽院卒業生協会の会長を務め、毎年の表彰式を主宰していました。
晩年まで精力的に活動していました。
1923年の妻の死は彼にとって大きな痛手となり、立ち直ることはできなませんでした。短い闘病生活の後、1924年6月11日、パリの自宅で86歳で亡くなりました。
彼は教育においてより永続的な影響を与えており、理論書『対位法とフーガに関するTraité de contrepoint et de fugue』と『和声学に関するTraité d'harmonie théorique et pratique』は、今日でも時折用いられています。

3声による簡単なミサよりキリエ
https://youtu.be/JLKk37lP_4I?si=-SprrzHeJrYYvtpj


フルートコンベンションin神戸1日目

2025-08-24 08:05:00 | 近代
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フルートコンベンション初日。
12:30メインホールでのオープニングセレモニーを目指して行きました。
震災の時に被災された人もたくさんいて神戸でやっていいものだろうか?と悩んでいる時被災された先生から「何言ってるんですか、こんな時だからやってください!」と言われてやってみたら、「我々もエネルギーをもらってすごい盛り上がりでした。」と言われていたのが刺さりました。

幕開けはデュカスのファンファーレ「ペリ」ユニバーサルフルートオーケストラジャパン。

フルートカルテット。「リュスランとリュドミラ」序曲を4人で…すごい超絶技巧でした!
全く乱れもなく、さすがでした。

ユニバーサルフルートオーケストラジャパンにソリスト清水信貴さんを迎えてジェイコブのフルート協奏曲。

関西のフルートを学ぶ学生さんたちのオーケストラ。
「こひすみつやま」酒井格作曲
指揮は関谷弘志さん。
よく練習されていて音程、ハーモニーも合っていて端正な演奏でした。
セレモニーの最後は関西のプロの演奏家によるオーケストラ演奏。
曲は多久潤一朗さんの委嘱作品で兵庫にちなんで5moment
それぞれヒョウと読む漢字一文字の5楽章

二楽章は雹でオーケストラ全員がホイッスルトーンで雹をみごとに表していました。
驚いたのは四楽章。
ベートーヴェンの交響曲第5番運命、ショスタコーヴィチの交響曲第5番、ゴジラやテイクファイブなど5のゴのつく曲のメドレー、なんと12曲入っていたそうです。
その後マリア ピッチーニさんのマスタークラスでプロコフィエフの「フルートソナタ」全四楽章を2人の受講生で分けて受講されました。

時間があったので展示ブースで試奏。

パウエル、YAMAHA、パール、コタト、アキヤマ、などのメーカー。野中、グローバルなど代理店などで私はバスフルートとアルトフルートなど特殊管を主に吹かせてもらいました。


その後、YAMAHAのショーケースではザビエル ラックと上野博昭と、のYAMAHAの楽器を使ったリサイタル。

ラックさんのブレッド ディーン「ソロフルートのための悪魔」現代の特殊奏法が満載のおもしろい楽曲でした。

ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」

上野博昭さんのカール フリューリンク「幻想曲」op55
お二人でドップラーの「アンダンテとロンド」

ここで今田聡美さんと合流。
金井直子さんの「演奏家のための栄養学」

いい演奏をするには身体が大切。身体作りは食事から、ということで最新の栄養学、サプリの取り方、料理の仕方などとてもためになるお話しでした。

最後は、瀧本実里さんのリサイタル。
栄養学と少しかぶってしまって途中から、サンカンのソナチネ、プーランクの「ソナタ」などなど
美しい音色、音程、素晴らしい演奏でした。
あまりにも盛りだくさんの1日。
明日も行きます。
詳細はまた今度。

家から2時間位かかるので、お昼も夕ご飯も食べれなかったので帰って早く食べて寝なくちゃ。投稿文は移動しながら電車の中で書いています。

明日は7:00出発!
みなさんのブログへの訪問は後日させて頂きますね。
瀧本実里さんのフォーレの動画見つけました。


滅ぼし得ぬもの

2025-08-17 21:03:00 | 近代
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男たちを混じえて父のお墓参り。
私と母は2回目。
長男も次男もお盆休みが無いので土曜日になりました。
お酒好き、阪神好きな父のお供えはミックスナッツとワンカップ酒。
このところの阪神の好調には気分良く呑んでいるでしょう。
ちなみに私は野球音痴。 
長男だけが阪神ファン。昔父と観戦に行ってファンになったらしいです。
次男は中日、夫はひいきチームは「無い。」と言っていますが、巨人のような気がします。
まあ、どのチームでもみんな仲良くテレビ観戦しています。

私はケーゲルシュタットも吹いてみたら間違いがあちこち見つかってまだ完成しないし、他にも譜読みが忙しい。

ギターとフルートの二重奏
デュボワの組曲、
ボザの3つの小品、ヒナステラのソナタ、モーツァルトの魔笛、オーボエとの二重奏。ヴァイオリンとの二重奏でテレマンのソナタ。
クラリネットとケーゲルシュタット。フルート二重奏でテレマン。
一回りするだけで練習時間終わってしまいます。
プラス昨日富久田先生の発表会があると聞いたので曲を決めなくては!

それに来週8月19日大邱市と神戸市の交流コンサートがあります。フルートオーケストラで「アルルの女」第2組曲を演奏します。18日リハーサルと。

8月22-24日神戸でフルートコンベンションに参加ということで時間がありません。(これは演奏しませんが、)

とりあえず、
8月29日「聴き合い会」のボザとテレマン
8月30日「西宮ギター練習会」のデュボワ
を完成させなくては!

というわけでお盆は家族サービスで気になりますがあまり吹けません。

カール・ニールセン( Carl August Nielsen 1865- 1931年)
デンマークノーレ・リョンデルセ生まれ、デンマーク コペンハーゲン没



交響曲第4番 作品29, FS 76 は、カール・ニールセンが1914年から1916年にかけ作曲した交響曲です。

作曲者自身によって『不滅』(または滅ぼし得ざるもの、デンマーク語: Det Uudslukkelige、英語:The Inextinguishable)という副題が与えられています。

4つの楽章の要素が移行していくという構成になっており、しばしば4楽章や2楽章の曲と誤解されるが、単一楽章の作品です。

ヨーロッパで激化していた第一次世界大戦を背景にしたこの交響曲は、ニールセンが書いた最も劇的な作品の一つで、とりわけ2つのティンパニの「戦い」で知られています。

2群のティンパニによる競演を特徴とし、ニールセンが手がけた交響曲の中でも特に劇的な作品です。

ニールセンは1914年に新しい交響曲の構想を練り始め、5月にツェレにいる妻に手紙を書きました。

「新しい作品のアイデアがあります。プログラムはありませんが、私たちが生命の精神、あるいは生命の顕現として理解しているもの、つまり

「動くもの、生きようとするものすべて…生命と動きだけ。
多様で――実に多様で――それでいて繋がり、まるで一つの大きな動き、あるいは流れの中で絶えず動いているかのように」を表現したいと思っています。
このことを表現できる言葉か短い名前が必要です。それで十分です。私が望むことを完全に表現することはできませんが、私が望むのは良いものです。」

1916年までこの作曲に没頭し
作曲者自身はデンマーク語"Det Uudslukkelige" という副題を与えました。

これは日本語
「消し去り難いもの」や
「滅ぼし得ぬもの」
といった意味であり、日本では簡潔に『不滅』の副題で親しまれています。また、ドイツ語により "Das Unauslöschliche" と表記されることがままあり、ニールセンは
交響曲の注釈の中で、 

「生きるという根源的な意志」
について言及しています。
ニールセンの交響曲は、この第4番以降の作品において多調性を採用し、『交響曲第6番』までの3つの交響曲については基本となる調が記されていません。
これは古典的な交響曲のような、基本となる調を設定し、他の調との対比により構成する、という概念を排す意図からです。
この第4番はニ短調の前奏部(Allegro)で始まり、
第2部(Poco allegretto、ト長調)
クラリネットによるイ長調、間奏となる気楽な田舎風の曲想です。
第3部(Poco adagio quasi andante)伝統的な緩徐楽章の役割は悲劇的な曲想。
第4部(Allegro)では2群のティンパニが活躍し、結末においてホ長調となって締め括られます。
ニールセンの作品では最も演奏・録音の機会に恵まれています。
1916年2月1日、コペンハーゲンで作曲者ニールセンの指揮により行われました。
交響曲第4番「不滅」より

管弦楽の魔術師の編曲

2025-08-12 21:01:00 | 近代
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降らないと思っていたら大雨。
ここ枚方はそれほどでもありませんでしたが、熊本の皆さんは怖い目にあってないでしょうか?
とっても心配です。

旧宅に行ったら、葉が茂ってジャングルみたいでした。

ミニバラが咲いています。
夫と次男で管理していますが、物が増えてすごいことに…。
一応整理はしているようですが。

クラリネットのKYさんに頼まれたモーツァルトのケーゲルシュタット。

ヴァイオリンのパート楽譜を渡されていましたが、コンサートが終わったのでようやくよく見てみたら、
「!!!」
音程が違う。
ヴィオラを編曲したみたいですが調性も変更したみたいです。

LINEでKYさんに確かめてみたら、別の編曲から引っ張ってきたらしいです。

そこからいろいろ探してみましたが、ヴァイオリン編曲版はクラリネットを編曲。
使えません。
フルート編曲版はあるにはありましたが、5重奏編曲の一部。
トリオには使えません。

困った…。

仕方ない作るか。
ヴィオラ譜を移調。
楽譜を作ることにしました。
全7ページ。

スコアメーカーにスキャンして移調。
簡単!って訳にはいきません。
スコメは誤読もあるし(現存の機種の中ではたぶん1番読める。)、スラーやリハーサルマークなど整えるのに1ページ2時間は掛かります。

今1ページできたところ、後は夜。

ジョゼフ・モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph Maurice Ravel 1875 - 1937年)フランス共和国シブール生まれ、フランス共和国パリ没

25歳ラヴェル

パリ音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレやエミール・ペサールらのもとで学んだラヴェルは、当時のパリの国際的で実験的な空気を背景に、若く革新的な芸術家と行動を共にし、強い影響を受けます。

1898年3月5日の国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たしたラヴェルは20世紀に先んじて作曲家として認められ、その作品は議論の対象となりました。

いっぽうで作曲の大胆さと自身が「解放者」と目すシャブリエとサティへの賞賛は、伝統主義が支配的なサークル内でおおくの反目を買いました。

出世作とされる「水の戯れ」の発表の1年前に作曲されたのが、

『亡き王女のためのパヴァーヌ』( Pavane pour une infante défunte)。

1899年に作曲したピアノ曲、後の1910年にラヴェル自身が管弦楽曲に編曲しました。

『逝ける王女のためのパヴァーヌ』や『死せる王女のためのパヴァーヌ』などとも訳されます。

パヴァーヌは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの宮廷で普及していた舞踏のことです。

厳粛なスペインに影響された16世紀イタリアの宮廷作法で、パヴァーヌはスペイン起源の舞曲とする説、「パドヴァの踊り」(padovana)とするものと、もう一つは、一列に並んだ女性を、孔雀(ラテン語でpavo、スペイン語でpavon)の尻尾に見立てたとするものがあります。

曲名にある
infante「インファンタ」はスペイン王国やカスティーリャ、レオン、アラゴン、ナバラの諸王国、およびポルトガル王国の王族に授けられる称号、身分。
王子、王女のことです。

défunteは「死んだ」の意味で、そこから「亡き王女のためのパヴァーヌ」と日本語では訳されています。

しかしこの言葉には
「かつての」「過ぎ去った」
という意味もあります。

何よりラヴェル自身、この題名は「亡くなった王女の葬送の哀歌」ではなく、

「昔、スペインの宮廷で小さな王女が踊ったようなパヴァーヌ」

だと言っています。

この古風な曲は、歴史上の特定の王女に捧げて作られたものではなく、スペインにおける風習や情緒に対するノスタルジアを表現したと言われています。

諸説ありますが、ラヴェルがルーヴル美術館を訪れた時にあった、17世紀スペインの宮廷画家ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez, 1599 - 1660年 


が描いたマルガリータ王女


の肖像画からインスピレーションを得て作曲されました。

ラヴェルはこの曲を自身のパトロンであるポリニャック公爵夫人ウィナレッタ・シンガー(Winnaretta Singer, Princess Edmond de Polignac, 1865-1943年)


に捧げ、1902年4月5日、スペインのピアニスト、リカルド・ビニェス(Ricardo Viñes, 1875- 1943年)


によって初演されました。

この曲は世間からは評価を受けましたが、ラヴェルの周りの音楽家からはあまり評価されませんでした。

ラヴェル自身も「大胆さに欠ける」、「シャブリエの過度の影響」、「かなり貧弱な形式」と批判的なコメントを行っています。

一方で、ラヴェルが晩年重度の失語症に陥った状態でこの曲を聴いた際、

「美しい曲だね。これは誰の曲だい?」

と尋ねたという逸話が残っています。

曲はト長調で4分の4拍子、速度標語は「十分に柔らかく、ただし緩やかな響きをもって」(Assez doux, mais d'une sonorité large, 四分音符=54)
ピアノ版とオーケストラ版を聴き比べでみましょう。
違いますか?

ピアノ版

オーケストラ版
オーケストラ版は、1910年にラヴェル自身が編曲し、1911年に初演されました。

「管弦楽の魔術師」の異名に恥じない華麗な編曲で、小規模な編成で、今も人気の一曲です。


子どもの頃に作った「熊」2曲

2025-08-11 21:03:00 | 近代
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日曜日の朝は、福祉交流会でした。
フェイクレザーで作る動物と小物入れ。
型紙をレザーに貼って、動物の方だけパンチで穴を開けます。

これが大変!
なかなか空きません。
初めに手を叩かない、机に穴を開けないようにコルクを敷くなど金槌使用時の注意をみんなに約束してもらって始めました。
 
ところが、開かない、開かないとやっているうちにコルクを通過して長机に穴を開けてしまう子どもが続出。

困った…。
子どもの力を侮っていました。
これは私たちの責任です。

講習、続行。

完成しました。

普段使わない工具を使っての製作は大人も子どもも真剣な眼差しで、助け合いながら作っていました。

「あなあけへん〜!もういややあ〜。」と言っていた子どもも頑張って最後まで作り上げ、できた作品を写真撮らせて!というと並べてくれました。

お母さんだけでなくお父さんたちの参加、高齢の方の参加もありました。
地域の人と子どもたちの会話も増えて温かい地域になるといいな〜。

初代準男爵サー・エドワード・ウィリアム・エルガー(Sir Edward William Elgar, 1st Baronet, OM, GCVO、1857 - 1934年)
イングランド ロウアーブロードヒース生まれ、イングランド ウスター没

1900年頃

『子供の魔法の杖』(The Wand of Youth)は管弦楽曲です。

子供の魔法の杖 児童劇のための音楽(第1組曲)Op.1A
THE WAND OF YOUTH, Music to a Child's Play (Suite No.1)
子供の魔法の杖 児童劇のための音楽(第2組曲)Op.1B
THE WAND OF YOUTH, Music to a Child's Play (Suite No.2)
の2つの組曲からなります。

少年の頃、兄弟姉妹と共に上演する劇のために、エルガーは劇付随音楽を作曲しました。

ウスター近郊にあるエルガーの生家。現在はエルガー生誕地博物館として整備されています。

Edward Elgar (1857-1934) with his brother Frank and sisters. 19th century. Worcester, Elgar Birthplace Museum (Photo by DeAgostini/Getty Images)

彼はその曲想をスケッチブックに書き留めておき、40年の時を経て、そのスケッチを基に2つの『子供の魔法の杖』組曲を作曲しました。

作品はフルオーケストラで書かれ、エルガーの成熟したオーケストレーションの腕前を示すものですが、彼はこの組曲を今も手元に残る彼自身の最初の作品として作品番号1を付しています。

第1組曲
1907年に完成した第1組曲は「我が友人C・リー・ウィリアムズに (To my friend C. Lee Williams)」と書かれています。
リーはグロスター大聖堂


のオルガニストを務め、「三聖歌隊の父 (Father of the Three Choirs)」と謳われた人物です。

第1組曲
序曲 Overture
セレナード Serenade
メヌエット(古い様式) Minuet (Old Style)
踊り Dance
妖精の笛吹き Fairy Pipers
まどろみの情景 Slumber Scene
妖精と巨人 Fairies and Giants

初演は1907年12月14日、ロンドンのクイーンズ・ホールでヘンリー・ウッドの指揮によります。

1908年に完成した第2組曲は「ウスターのヒューバート・A・レスターに (To Hubert A. Leicester, Worcester)」捧げられました。彼はエルガーの古くからの友人で、ウスター市長にもなった人物です。

第2組曲
行進曲 March
小さい鐘(スケルツィーノ) The Little Bells (Scherzino)
蛾と蝶(踊り) Moths and Butterflies (Dance)
泉の踊り Fountain Dance
飼いならされた熊 The Tame Bear
野生の熊たち The Wild Bears
1908年9月9日、スリー・クワイア・フェスティバルのプログラムの一つとして、ウスターにてエルガーの指揮により初演。

今日子どもたちと作ったフェイクレザーの動物、くまにちなんで「子どもの魔法の杖」第2組曲より「飼いならされた熊」と「野生の熊たち」の2曲。

飼いならされた熊 The Tame Bear



野生の熊たち The Wild Bears








熱いカレーを食べるような曲

2025-08-01 21:00:00 | 近代
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出張先の夫から「荷物来た?」
夜勤明けの次男が荷物を開けてみると…。

睡蓮鉢、緩衝材代わりにフェイクモスが付いていました。

うちには亀とタナゴの鉢。
旧宅には、カワムツの水槽が二鉢、クワガタがたぶん50匹ほど、他にももうすでに睡蓮鉢2つに水草とカワムツが泳いでいます。
狭い家にまだ増やす?!
クラムウェルツノガエルを無事お返ししてロス状態ではあるけれど…。
どこに置くのかな〜?

アルベルト・エバリスト・ヒナステラ(Alberto Evaristo Ginastera,1916- 1983年)アルゼンチン ブエノスアイレス生まれ、スイス ジュネーブ没

ブラジルのヴィラ=ロボス、メキシコのチャベスやポンセらと並び、ラテンアメリカでもっとも重要なクラシック作曲家の一人です。

ヒナステラとはスペイン語読みであるが、イタリア系アルゼンチン人である彼の苗字はジナステラと読み、彼自身もそう発音されることを望んでいました。

1938年、ブエノスアイレス音楽院を卒業。

1945年から1947年にかけてアメリカ合衆国を訪れ、アーロン・コープランド(Aaron Copland、1900年-1990年)

にタングルウッド音楽センター
正門
で学びました。

その後ブエノスアイレスに帰り、そこで作曲家協会を共同で設立しました。
数々の指導の後、1968年からアメリカへ戻り、1970年からヨーロッパに移住。
ジュネーヴで67年の生涯を終えました。

1949 年に彼は、今日ではジラルド ジラルディ音楽院

と呼ばれる音楽・舞台芸術院を設立しました。

作品には数種のオペラピアノ協奏曲2曲、チェロ協奏曲2曲、ヴァイオリン協奏曲1曲、ハープ協奏曲1曲を含む。特に「ハープ協奏曲 作品25」は数少ないハープのための協奏曲として時折演奏されています。

他にバレエ音楽、室内楽及びピアノのための多くの作品があります。

アルゼンチン音楽の影響下に、オスティナート語法をふんだんに用いた明快な作風で知られています。

その後は次第に原始主義的・無調的な作風に移行し、最終的には十二音技法や微分音も用いました。

これに関してヒナステラ本人は、彼の音楽を3つの時期に分類しています。

1期目は「客観的愛国心」(この時期の作品はアルゼンチン民謡をじかに用いた曲が多い)、

2期目は「主観的愛国心」(1948年〜、このころには、民謡を直接的には使っていませんが、はっきりとアルゼンチンの個性を残っています)、

そして3期目は「新表現主義」(1958年〜 、民謡の要素は連続の技法を使用し、より近代的な作風になっています)です。

アストル・ピアソラは彼の最初期の弟子です。

フルートとオーボエのための二重奏曲 (1945年25歳)

初期の作品で、そこには民族性や十二音技法は無く、各曲に4度累積動機を持つフランス近代の響きを感じさせます。

第1楽章は近代ソナタ様式で書かれ、第1主題は古典舞曲風の4度下行累積和音を随所に織り込んだ主題が躍動し、対旋律はそれを模倣、応答します。 
第2主題は対照的に付点4分音符の長閑な田園風主題が響き渡ります。

第2楽章は三部形式で、静寂の中にオーボエとフルートが4度累積和音を伴う近代的な牧歌主題を応答、模倣し合います。中間ではオーボエの4度音程で装飾された持続音[E音]上にフルートが遠方から下行4度累積主題の響きを立体的に放ちます。

第3楽章は下行4度累積和音と上行音階から成るジーグ舞曲風のフーガ主題が曲全体に躍動し転調して、模倣していきます。装飾音で飾られたコミカルな対旋律はフーガ主題に3(6)度進行で同調して活発に踊り続け、最後はフーガ主題のみで模倣しあいます。

なぜこの曲?熱い時に熱いカレーを食べるような感じかな!(私の主観)




コントラバスとクラリネットの曲

2025-07-30 20:59:00 | 近代
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7月29日(火)第26回聴き合い会でした。

朝、フルートの宮本さんを牧野の自宅にお迎えして、ピアノの坂田さんと初顔合わせ。
3人でクーラウのトリオop119を合わせてお昼ご飯を食べて牧野生涯学習センターへ移動。

着いたらロビーでフルートの今川さん、山中さんがお昼ご飯を食べていました。

私はプログラムをコピー。
12:15に音楽室の鍵を頂いて会場設営。
13:00開場なので、その間にライヒャのカルテット「シンフォニコ」を合わせて、本番。

さて、今回はコントラバスとクラリネットのデュオやオーボエソロ、ヴィオラの弾き歌い…ちょっとびっくりしますが、ヴィオラを弾きながら歌われるのですがハーモニーになっていたり、同じ音を歌われません。

ギターの弾き歌い、ピアノソロ、ギターソロやギターとクラリネットのデュオ、古楽器ビウエラなど盛りだくさんのプログラムでした。



今回限りの特別企画ストーリーテーリング「3匹のこぶた」もおもしろかった!

今日は以前から聴き合い会に、参加してくれていたGさん。
赤ちゃんを連れてきてくれました。
4ヶ月。
妊娠中もギリギリまで聴き合い会に出演して演奏してくれていましたが、かわいい赤ちゃん連れ!

みんな交代で抱っこさせてもらって、感動でした。
長い時間いたのに本当に静かに聞いてくれていて、それも感動でした。
音楽好きなのかな?
このまま成長してくれるといいなぁ。

充実の1日、打上げは牧野駅前の安くて美味しい大和水産さん。
音楽三昧の充実の1日でした。

パウル・ヒンデミット (Paul Hindemith、1895-1963年)
ドイツ帝国ハーナウ生まれ、西ドイツフランクフルト没

は、作曲家、指揮者、ヴィオラ奏者。その他にもヴァイオリン、クラリネット、ピアノなど様々な楽器を弾きこなす多才な演奏家でした。

父親はシレジアのナウムブルク・アム・クヴァイス(現ポーランド領ノヴォグロジェツ)出身の職人で、芸術家になろうとしたが成功しませんでした。

自らの夢を託そうとして、父は子どもたち(パウル、弟のルドルフ、妹のトーニー)に厳格な音楽教育を施しました。
 
1908年にフランクフルトのホッホ音楽院に入学し、ヴァイオリンをアドルフ・レーブナーに学ぶ一方で、作曲と対位法をアルノルト・メンデルスゾーンとベルンハルト・ゼクレスに学びました。

父は子どもたちで弦楽三重奏団をくませて演奏させました(パウルはヴァイオリン)。

1913年から劇場の管弦楽団のヴァイオリン奏者として音楽家としてのキャリアを開始しました。

生計のためにコーヒーハウス、ダンスホール、映画館などで働くこともありました。

20歳の時にフランクフルト・ムゼウム管弦楽団(フランクフルト歌劇場管弦楽団)のコンサートマスターを務めています。

1915年からは師のアドルフ・レーブナーの弦楽四重奏団のヴィオラ奏者をつとめました。

第一次世界大戦で父親は戦死しました。ヒンデミット本人も1918年に従軍しています。この時代に書かれた曲は大部分がヒンデミットの生前には出版されていました。

戦後、ヴィオラのソロ奏者としての活動を行うとともに、多くの作曲を行いました。

1920年に結成したアマール弦楽四重奏団では、8年間にわたり活動し、1921年に開かれた第1回ドナウエッシンゲン室内音楽祭において『弦楽四重奏曲第3番』作品16の初演を行っています。 

1923年からはフランクフルト市南部にあるザクセンハウゼン地区にある要塞跡を改装して住んでいました。
建物は現在ヒンデミットの記念館になっています。

1924年にフランクフルト歌劇場の主席指揮者であったルートヴィヒ・ロッテンベルクの娘のゲルトルート(ヨハンナ・ゲルトルーデ)と結婚しました。

1927年にベルリンに引っ越し、ベルリン音楽大学の作曲科の教授をつとめています。

当時ヴァイオリンのヨーゼフ・ヴォルフスタール(没後はシモン・ゴールドベルク)、チェロのエマヌエル・フォイアーマンと結成した三重奏団は有名で、自身が演奏するための弦楽三重奏曲も作曲しています。

作曲家としてはオペラ、映画音楽、あるいは電子楽器トラウトニウムのための音楽など幅広い活動を行い、自ら演奏するためのヴィオラやヴィオラ・ダモーレのための曲も書きました。

この頃からヒンデミットは国際的に有名になります。

ナチス・ドイツ時代のはじめにおいてはヒンデミットの評価は揺れていました。

ヒンデミットの音楽はロマン派の作曲家からすると進歩的すぎるが、アヴァンギャルドな立場を取る作曲家たちにとっては穏健で順応的すぎると批判されていました。

ナチスにとっては、ヒンデミットは受け入れられないものではありませんてました。

しかし、ヒンデミットは当時帝国音楽院の顧問であったのにもかかわらず、ユダヤ人のヴァイオリン奏者、チェロ奏者と弦楽三重奏を組んでレコーディングをするなどし、ナチスから反感を買っていました。

1934年にフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって交響曲『画家マティス』が初演され、大成功しました。

しかし、同年10月にナチスの機関紙が「堕落の旗手」としてヒンデミットを非難しはじめます(ヒンデミット事件)。

12月にヒンデミットはゲッベルスによって「無調の騒音作家」とされました。
1936年には公式にヒンデミット作品の演奏が禁止され、1938年の退廃音楽展でも批判されます。

作品の発表の場を失ったヒンデミットはベルリンから離れることが多くなり、1935年にはトルコ政府からの依頼で、音楽教育の編成に携わり、アンカラ音楽院の開校に尽力しました。
1937年から1939年まで毎年渡米しています。

Rudolf Wilhelm Heinisch画、クラリネットを吹くヒンデミットのカリカチュア、1937年。
1938年夏にスイスに亡命し、ヴァレー州ブリューに住みました。
さらに1940年にはアメリカに亡命し、イェール大学の教授としてニューヘイブンに住みました。
アメリカ時代に作曲された曲には『ウェーバーの主題による交響的変容』、『ルードゥス・トナリス』など、人気の高い曲が多いです。

第二次世界大戦終結後の1946年1月にアメリカの市民権を得ましたが、1951年からスイスのチューリヒ大学の教授の任につきました。

1953年にはイェール大学を辞してスイスに引っ越し、モントルー近郊のブロネに住みました。

ウィーン音楽院の教壇にも立ち、1956年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の初の日本への演奏旅行に指揮者として来日しています。

1963年11月に自宅で高熱を発し、診療のためにフランクフルトを訪れましたが、そこで12月28日に死去しました。
死因は出血性膵炎でした。スイス・ヴォー州ラ・シエザのラ・シエザ墓地に埋葬されています。
1927年作曲
ミュージカルフラワーガーデンとライプツィヒア・アレリー(ライプツィヒのいろい )
Musikalisches Blumengärtlein und Leyptziger Allerley
コントラバスとクラリネットの為に書かれています。


夏の牧歌

2025-07-28 21:02:00 | 近代
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土曜日は自宅練習。
明日7月27日12:30開演
六甲アイランド ラサーラ ディ オルフェオで 
吉岡美恵子先生主催
ぐるーぷ あんだんての発表会に出ます。

ライネッケのフルート協奏曲第一楽章を演奏します。
今日は練習。

庭の散水しました。

きゅうりはもうちょっと。

ミニトマトは
いい色!

アルテュール・オネゲル( Arthur Honegger、1892 - 1955年)フランス共和国ルアーブル生まれ、フランス パリ モンマルトル没

左映画監督アベル・ガンス 右オネゲル(1923)

は、スイスとフランスの二重国籍を持ち、主にフランスで活躍した作曲家です。

夏の牧歌(なつのぼっか、Pastorale d'été)は、交響詩てす。フランスの作曲家ロラン=マニュエル(1891-1960年)に献呈されました。

1920年の夏、作曲家28歳のとき、両親の故郷でもあるベルナー・オーバーラント地方の景勝地、

ヴェンゲンで書かれました。オネゲルは、1916年にフランス6人組

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル(英語版)。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない。
としてデビューしましたが、この曲の好評が作曲家としての名声を固める一歩となりました。

作曲のきっかけは、スイスの楽器制作者レオ・シル
の依頼によります。

レオ・シルは、独自に製作した特殊な弦楽器を普及する目的があり、伝統的な弦楽四重奏に加えて通常より小さなヴァイオリンやより大型のコントラバスなどとのアンサンブル曲として依頼しました。

しかし、オネゲルは、結局通常のオーケストラ編成によって作曲しました。レオ・シルの楽器は現在残っていません。

曲は、アルテュール・ランボー
(Arthur Rimbaud、1854年10月20日 - 1891年11月10日)

の『イリュミナシオン』の中の一節「私は夏の曙を抱いた」というフレーズに霊感を得て書かれたものとされます。

アルプス地方の朝の清浄な空間を、おだやかな抒情と精妙なオーケストレーションで描き出している。三部形式で、静けさをたたえた主部、木管が舞曲風の旋律を奏でる中間部からなる。

初演は1921年2月、パリで行われた。聴衆による人気投票で第1位に選ばれ、ヴェルレイ賞を受けました。

編成はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、弦5部。






富久田治彦先生のプロコフィエフ

2025-07-26 21:00:00 | 近代
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金曜日11:00〜京都今出川大宮の富久田治彦先生のレッスンでした。
カンカン照り。
10:00前ですでに30度くらいあります。
ライヒャルトのエチュード第6番スケールですが、スタカートがついています。エチュードには200と書いてありますが、ダブルタンギングでしっかり音と音程を守って吹きましょう。
タンギングの時に楽器が揺れないように、軽いタンギングで

ロングトーンは音が揺れないようにノンビブラートで、終わりの音を始まる直前の緊張感で終えましょう。

ライネッケのフルート協奏曲を見ていただきました。
ライネッケは3連付をきちんと慌てないで吹くこと。
頑張って息を入れすぎないで力を抜いて駆け上がる。
タンギングも優しく。
フルートを吹く姿勢が大切ひじを張って吹きましょう。

pはもっとレガートで
最後のF#は激しくビブラートしないで終わりのように吹きましょう。
帰りは12:00過ぎで何度かわかりませんが予報では最高気温37度。
暑すぎて、出町大橋から写真を撮るのがやっとですぐ帰ってきてしまいました。


富久田治彦先生
京都府京都市出身。
フルートを12歳で始め、川瀬瑩公氏、伊藤公一氏に師事する。京都市立芸術大学を経て、1988年同大学院を修了。修了に際し大学院賞を受賞。在学中に第3回日本フルートコンヴェンションコンクール第1位。1989年名古屋フィルハーモニー交響楽団に入団。その後、第1回日本木管コンクール第2位、1991年にはバロックザールでのリサイタルが評価され、青山音楽賞を受賞。1995年アフィニス文化財団海外研修生に選ばれ、アメリカ合衆国へ留学。ミッシェル・デボスト氏、フェンヴィック・スミス氏らのもとで研鑽を積む。
ソリストとして名古屋フィルハーモニー交響楽団と共に協奏曲等を数多く演奏している他、宗次ホール主催「富久田治彦プロデュースによる室内楽シリーズ」やリサイタル、アジア・フルート・コングレス、日本フルート・コンベンション、および日本各地で開かれるフルート・フェスティバル等で活躍している。2018年には国立台南大学に招聘され、また韓国釜山市で開かれたアジア・フルート・コングレスではファイナルコンサートの指揮者を務めた。
幅広い活動を国外にも展開している。日本音楽コンクール、日本木管コンクール、全日本吹奏楽コンクール等審査員を歴任。現在、名古屋フィルハーモニー交響楽団首席フルート奏者。京都市立芸術大学大学院および椙山女学園大学大学院非常勤講師。アジア・フルート連盟常任理事。(アッセンブリッジ ナゴヤより)

セルゲイ・セルゲーエヴィチ・プロコフィエフ(1891 - 1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没


1936年、プロコフィエフと彼の家族は、それまでの4年間モスクワとパリを行き来した後、モスクワに永住しました。
ソ連公認の詩人の歌詞を使って一連の「ミサ曲」(作品66、79、89)を書いたりしました。

ソ連での最初のオペラ「セミョン・コトコ」を作曲し、これは監督のフセヴォロド・メイエルホリド(1874-1940年)

によるプロデュースが予定されていました。
が、オペラの初演は、メイエルホリドが1939年6月20日にNKVDに逮捕され、 1940年2月2日に銃殺されたため延期されました。

同年末、プロコフィエフはヨシフ・スターリン

の60歳の誕生日を祝うために『ズドラヴィツァ』 (「乾杯!」英語では『スターリン万歳』の副題が付けられました)(作品85)の作曲しました。

1941年から25歳のミラ・メンデリン


と関係を結び、妻カロリーナ・コディナ(1897年 - 1989年、芸名リナ・リュベラ)と2人の息子と別居しました。

リナ・イワノヴナ・プロコフィエワと息子たち

後にはリナはアメリカ政府のスパイ容疑でソ連政府に逮捕されたりして結局別れます。
まだこの頃ドイツ侵攻の際、自身がミラ メンデリンとトリビシに疎開した時にリナたちにも疎開するように勧めましたが断られています。 

ピアノソナタ第6番1940年、第7番1943年、第8番1944年、を作曲ししました。これらは今日では「戦争ソナタ」呼ばれています。
作品はソナタ第7番はスターリン賞(二級)、第8番はスターリン賞(一級)を受賞しました。

しかし、ソナタ第7番の中心楽章がロベルト・シューマン


の 歌曲集『悲しみ』(歌曲集、作品39より)に基づく主題が使われていて、その歌詞は

「私は時々喜んで歌うが、密かに涙を流し、心を解放する。
ナイチンゲールは…地下牢の奥底から憧れの歌を歌う…誰もが喜ぶが、誰もその歌の痛みや深い悲しみを感じない」

であり、プロコフィエフの真意はどこにも書かれていませんが、「スターリンが自分が創造したと皆に信じさせたかった涅槃を明るく呼び起こす作品…」では、なかったことが、示唆されています。

フルート・ソナタ ニ長調作品94は、この時期、1943年に作曲されました。

当初はフルートとピアノのために作曲されましたが、後にヴァイオリン用に編曲され、作品94aとして出版されました。

どちらのバージョンも何度も録音されています。

フルート・ソナタ ニ長調は1943年の夏に完成しました。

当時、プロコフィエフは『イワン雷帝』の音楽を作曲していました。
このフルート・ソナタ ニ長調は、1943年12月7日にロシアのモスクワで、ニコライ・ハリコフスキー(フルート)とスヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)によって初演されました。

その後、 1944年にプロコフィエフは、ヴァイオリニストのダヴィド・オイストラフの協力を得て、作品94aとしてヴァイオリン用に編曲しました。

ヴァイオリン版は、1944年6月17日にダヴィド・オイストラフ(ヴァイオリン)とレフ・オボーリン(ピアノ)によって初演されました。

第一楽章 モデラート
第二楽章 スケルツォ:プレスト
第三楽章 アンダンテ
第四楽章 アレグロ・コン・ブリオ

プロコフィエフ フルートソナタ 第一楽章 演奏富久田治彦