音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

緑の袖 

2024-07-14 21:00:00 | 近代
三連休の始まりは実家でレッスンの後、里山へ

お茶の緑が濃いです。

松尾神社の手前の池には


ねむの木の花が…。
今にも降りそうですが、降らない。
湿気が多くて、そのうち霧まで出てきて幻想的でした。

幻想曲(げんそうきょく)は、ファンタジア。
一般に作曲者の自由な想像力に基づいて創作される器楽作品の名称として用いられます。
しかしその実例は、即興的なものから厳格な対位法によるもの、小品から多楽章形式の大規模な作品までいろいろです。

レイフ ヴォーン・ウィリアムズ(1872-1958年)イングランド ダウンアンプニー生まれ、イングランド ロンドン没
 
「グリーンスリーブス幻想曲」は、彼の作品の中で最も有名なものです。

イングランドの古い歌『グリーンスリーヴス』に基づきます。

『グリーンスリーヴス』はエリザベス朝時代(1558-1603年)から知られている曲です。

My Lady Greensleeves
ダンテ・G・ロセッティ画

ヴォーン・ウィリアムズはシェークスピアの喜劇「ウィンザーの陽気な女房たち」を基にしたオペラ『恋するサー・ジョン』 (Sir John in Love) を1928年に完成しました。

この歌劇は、サー・ジョン・フォルスタッフ(恋人、詐欺師、魅力的な男性、みすぼらしい騎士)の活躍を描きます。
2人の純真な若い恋人、数人の不運な求婚者、陰謀、策謀、そして善意の復讐の物語です。

この劇の中の曲をラルフ・グリーヴズ(Ralph Greaves)が編曲し、独立させた作品が『グリーンスリーヴスによる幻想曲』です。

初演は1934年9月27日、ロンドンにおいてヴォーン・ウィリアムズ自身の指揮で行われました。

なお、このグリーヴズの編曲以外にも、様々な編成のための編曲が数多くの人の手で行われているほか、作曲者自身によるピアノ独奏版も存在します。

ヘ短調、レント、8分の6拍子でフルート独奏の導入部の後、ヴァイオリンとヴィオラが「グリーンスリーヴス」を奏でます。

イ短調、アレグレット、4分の4拍子の中間部ではヴィオラとチェロに新たな旋律が現れますが、これはヴォーン・ウィリアムズがノーフォークで採集した民謡『ラブリー・ジョーン』(Lovely Joan)です。

フルート独奏のカデンツァをはさんで再び導入部と「グリーンスリーヴス」に戻り、静かに曲を閉じます。


お別れ

2024-07-10 20:56:00 | 近代
ギターとチェロを演奏されるKさんが亡くなりました。
西宮ギター練習会で出会いました。
もう何年になるかな?

牧野の聴きあい会を始めた頃にあっちではチェロは弾けないからと
何度か来てくださいました。
歳をとってから始めたからとおっしゃっていましたが、ピアノの名手や、同じチェロの方をお連れくださって
力のこもった演奏をされていました。

ここ数年は私の顔をみるたびに「フルートと合奏してあげるよ。」と声をかけてくださっていたのに雑事に気を取られて果たさずじまい。

本当に残念でした。
でも、昨夜Kさんのことをいろいろ思い返していると、聴き合い会に来られた時に一度だけ持ってこられた楽譜を一緒に演奏したことがありました。

「オブリビオン」フルート、ギター、ピアノ版
優しい笑顔で、大作では無いけれどいい音でチェロをひびかせて…その時の温かい空気。、楽しかったこと思い出しました。

お通夜に伺ったら、2020年に癌と診断されて手術をして、一度は回復されましたが再発。宣告を受けられました。
しかし、家族と一緒に最後まで過ごされていたこと、好きなことをして、一度も不機嫌になったことがなく、却って奥さまの体調を気遣われていたことなどKさんらしいエピソードを話されました。

私は最後をそんなふうに過ごせるかしら?
お通夜で会った友人たちと飲みながら思い出話をして帰宅しました。

Kさん、楽しく温かい時間をありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。


アストール ピアソラ(1921−1992年)アルゼンチン マル・デル・プラタ生まれ、アルゼンチン ブエノスアイレス没

作曲の「オブリビオン」は
1984年のマルコ・ベロッキオ監督の映画『エンリコ四世』の挿入曲として作曲されました。

映画『エンリコ四世』は落馬事故で頭を打ったショックで記憶を失い、自分が皇帝エンリコ四世だと思い込んで古城で暮らす男を主人公にしたストーリー。
もともとは戯曲だったものを映画化した作品です。

マルチェロ・マストロヤンニ主演、音楽をピアソラが担当という豪華な作品でしたが、当時は日本未公開で近年までなかなか映像を見ることができませんでした。

「オブリビオン=忘却」というタイトルが物語るように、甘美なメロディながらどこかはかないこの曲は、狂気と正気が交錯するようです。

「はたして彼は本当に記憶を失っているのか?」

おおむね3・3・2のゆったりとしたミロンガ(アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル南部のダンス音楽、4分の2拍子、変則的なシンコペーション、一部はタンゴ)のリズムに乗って演奏されます。

ピアソラとも共演している歌手ミルヴァの歌うフランス語の歌詞のついたバージョンも存在しています。

Astor Piazzolla
J'oublie (Oblivion)
忘却
作詞ディビット マクニクール
1982年

ビロードのシーツが

重たく感じるようになったとき

二人の愛を忘れる

夜更けのバーで聴いたメロディも

頬よせあって踊ったことも

私は忘れる

短い一夜が過ぎ去り

振り返ることなく駅で別れ

そして私は忘れる

忘れる


フルート属が活躍する曲

2024-07-09 21:04:00 | 近代
月曜日18:00〜は渡辺橋近くのサロンドプリンシパルでフルートアンサンブルエスカルの練習でした。
無料体験の方がいらして、張り切っていましたが、
曲が初見の「アルルの女」の組曲と「くるみ割り人形」2回目。

楽器をどれにする?から始まりましたが、神戸のメンバー2人も加わって、アルルはフルート6th まであり、それにアルト、バス、コントラバス。
大編成です。それにピアノと太鼓も加わるかも。

アルト・フルートを演奏する人が足りなくて少し問題になりました。
職場が変わってアルト・フルートを仕事の間おいとけない!アルト嬢

Tさんが練習の時は貸してくれることになって解決。

くるみ割り人形はほぼバスの無い曲があって楽かと思ったら動きがあって結構難しい。
でも楽しい。定期演奏会は11月。

みんな意気軒昂です。


モーリス ラヴェル(1875-1937年)フランス共和国パリ生まれ、フランス共和国パリ没

1910年ラヴェル

バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第2組曲
1909年、ラヴェルはロシア・バレエ団の主宰者であるセルゲイ・ディアギレフ(1879-1929年)

より呼び出され、“ダフニスとクロエ”と銘打った1冊の台本を手渡されました。

フランスの画家ラファエル・コランの作品『ダフニスとクロエ』

「来年うちがやる新作バレエを作曲して欲しいんだ」

それは振付師ミハイル フォーキン(1880−1942年)

が、古代ギリシァに伝わる物語を基に5年の歳月をかけて自ら起こした台本でした。

ラヴェルは持ち帰り、ページを繰ってはみたものの・・・時間をじっくりかけて作っている割には、若い男女の恋物語に醜い牛飼いの横恋慕が入るお決まりで起伏に乏しい筋書きにがっかりします。

加えて、フォーキンと打合せを重ねれば重ねるほど、彼のイメージしているバレエ音楽とラヴェルの作曲の方向性が上手く噛み合わず、なかなか作曲の筆は進みませんでした。 

結局その年は新進気鋭の作曲家ストラヴィンスキーが起用され、1910年は「火の鳥」、翌1911年は「ペトルーシュカ」が上演されました。

しかし、これがラヴェルにとって起爆剤となりました。

ラヴェルが打ち出したコンセプトは、ギリシャ神話に基づく「音楽のフレスコ画」。

楽器編成は色彩豊かな打楽器群に加え、ディアギレフの反対を押し切って混声合唱も起用しました。

1912年6月8日、「ダフニスとクロエ」はパリのシャトレ座


において、ロシア・バレエ団(バレエ リュス)により初演されました。

ちなみにこの公演に居合わせたストラヴィンスキーはさらにこの「ダフニス」に刺激を受け、翌1913年「春の祭典」を発表します。

Ⅰ.夜明け
Ⅱ.パントマイム(無言劇)
Ⅲ.全員の踊り

Ⅱのパントマイムでは、ピッコロ、コンサートフルート、アルト・フルートとフルート属が大活躍します。

Ⅱ,パントマイム
パンの神に感謝の意を表すため、ダフニスはパン(牧神)に扮し、クロエは妖精に扮して、無言劇を演じます。  
ダフニスに扮したミハイル・フォーキン(1914年のロンドン公演)

2本のフルートが交代で吹く、息の長いソロが続きます。

そして激しい踊りの末、クロエはダフニスの腕の中に倒れこみます。

2人はここでハッと我に返り、アルトフルートの低音のソロに導かれつつ、静かに幸福を噛みしめます。

1番フルートの大ソロが終わると、ピッコロを交えながらフルート1番と2番がひとつのラインを紡ぎ出します。ふたりを祝福する来客のやんやの波が最高潮に達したあと、ふらふらしたクロエがフルート1&2番が掛け合うオクターヴのパッセージからピッコロの上行型に押し寄せられ、今度はあたかも1本の楽器のように下降するピッコロ→フルート1番→フルート2番→アルトフルートの音階でダフニスの腕の中にはらりと倒れ込みます。

 そして、クロエがダフニスの腕に倒れ込んだ後、アルトフルートが演奏されます。
抱擁のテーマを吹くのですが、この旋律は「愛の主題」ともいわれています。

「非常に表情豊かに」との指示があります。
アルトフルートはフルートより完全4度低い音域を持つ楽器です。たった4度ですが、普通のフルートよりも柔らかくて、温かく包み込むような音色を持っています。
1854年頃に開発された聴き慣れない音色の楽器を、いきなり使っているところは、さすがオーケストレーションの魔術師ラヴェルと言わざるを得ません。


夏の日

2024-07-08 21:01:00 | 近代
すっかり夏の様相の里山。


何をすると言うのでも無いのですが…

いくつか巡回ポイントがあります。



合歓の花


そうそう、ガサガサポイントでメダカとカワエビを発見しましたが…。

咲いているのはハルジオンばかり。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツオフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没

4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、
プロコフィエフはモスクワに居を構えることにしました。

プロコフィエフと2人の息子、スヴャトスラフ、オレグ、そして最初の妻リーナ。1936年

彼の全作品中でももっとも知名度のある『ピーターと狼』が、ナターリャ・サーツ

の依頼で中央児童劇場
モスクワ児童劇場の建物(画像は劇場創設以前、1901年のポストカード 
のために作曲されました。

サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得します。
これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として作曲、出版しました

それに加えて作曲されたのが「子どものための音楽」作品65です。

ジェームズ・リールによる解説
「子どもが聴きやすい音楽を作れ」というソ連政府の指示に応えて、セルゲイ・プロコフィエフは1936 年に短く絵画的なピアノ曲集を作曲しました。

「子どものための音楽」作品 65 として出版されたこの作品は大変好評を博し、プロコフィエフは1941 年に 7 曲をオーケストラ化し、「夏の日: 小管弦楽のための子どもの組曲」と名付けました。


プロコフィエフは最終的に、オーケストラ化されたこれらの曲の 3 曲目と 6 曲目を、最後のバレエ作品「石の花」に再利用しました。

この組曲は「モーニング」で始まります。これは、オーケストラの底で静かに響くドスンと震える音に乗せて、ためらいがちに奏でられる繊細な木管楽器の曲です。

イギリス人が「ティップ・アンド・ラン」(アメリカ人は「タグ」と呼びます。=追いかけっこ)
「ティップ・アンド・ラン」は、軽快な木管楽器の音色が奏でるスケルツォです。

「ワルツ」は、かなり決まりきった弦楽器のメロディーで始まり、予期せぬリズムの変化やハーモニーを奏でる完璧なキャンバスとなっています。

「悔い改め」(「後悔」とも訳されます)は、組曲の中で最も長い楽章で、約 3 分です。プロコフィエフは、ピチカートの弦楽器による時折風刺的な伴奏で、この非常に雰囲気のある葬送曲にいくつかのウィンクを加えています。

「行進曲」は、パロディという意味でのみ軍国主義的であり、ビゼーのカルメン の「子どもの行進曲」に似ています。

「夕べ」では、落ち着きのない弦楽器の伴奏に乗せて短い木管楽器のソロが演奏されます。
この楽章には特定のプログラムはありませんが、穏やかに舞う木管楽器のソロはホタルを連想させ、第 2 セクションの静かな 4 音の打楽器のオスティナートは、カエルや夜の虫の穏やかなリズムを思い起こさせます。

「月明かりの草原」は詩的で素朴な音楽シーンです。最も興味深いのは、プロコフィエフがオーケストラのソリスト、特にフルートとホルンの間で主題の断片を渡し、その後、結論が出ないままフェードアウトしていくことです。




ギターで有名な作曲家

2024-07-01 21:00:00 | 近代
夙川公民館ホールで西宮ギター練習会のコンサートでした。
曇り時々雨。
朝9:15集合。
枚方からだと7:50出発。
なかなかハードです。

出番は3:15以降ですが、早めに行ってお手伝い。それに岡山さんとの合わせできるかな?と思って。

何せ難曲ボルヌの「カルメン幻想曲」

オペラ「カルメン」の曲をうまく繋いて変奏を加えて金属のフルートがいかにいろんなことができるようになったか?をアピールするための音楽です。

超絶技巧。
でも、おもしろくてワクワクします。
もともとはピアノとフルートの為に作られました。

編曲譜面を見つけて岡山さんに送ったら、演奏しにくいところをさらに編曲して作っておいてくれました。
というのもギターを知らない人が作ったようで、曲の途中でG弦を1音下げるなどと書いてあります。

ギター2本置いておいて、替えるしか無い!
置いておくと調弦も狂うし、あまり良くないということで、初めから1音下げた調弦で初め、最後までそれで演奏するという…音が変わらないフルートという楽器をやっている私にすれば発狂ものの編曲です。
が、岡山さん涼しい顔で弾いてくれました。

ジュリアーニの「協奏的大二重奏曲op85」の方は、川原さんと、長い演奏会の最後に演奏させて頂きました。

第1.2.4楽章ですが、最後の最後になってコロナの咳の虫が…。
必死でこらえてなんとかごまかして吹きました。
最後の10小節やばかった!

がなんとか吹ききって川原さん「なんとか行ったね!」とすぐに声かけてくれました。

いろいろご心配おかけしましたが、まあ成功と言っていいかと思います。

この前買ったドレスも着ました!


今回はポンセの特集もありました。
マヌエル・マリア・ポンセ・クエラル(1882-1943年)メキシコ サカテカ生まれ、メキシコメキシコシティ没

サカテカス州フレスニージョで生まれましたが、生後間もなくアグアスカリエンテスへ移りました。
地方の聖堂で教育を受け、16歳で教会の正オルガニストを務めるなど音楽の才能をあらわし、その後18歳からメキシコシティ国立音楽院で学びました。

1905年に渡欧、ボローニャとベルリンに留学し、リストの弟子のマルティン・クラウゼにピアノを師事しました。

1907年に帰国して、母校で教鞭を執り始めます。 
メキシコ革命の混乱を避けて1915年から1917年までキューバに滞在します。

この間にニューヨークで作曲家・演奏家としてデビューを果たしました。
その後メキシコに戻ってフランス出身の女性歌手と結婚します。

1925年から再び渡欧し、パリ音楽院でポール・デュカに作曲を師事、また同地でギター奏者のアンドレス・セゴビアと親交を結びます。
短期間ナディア・ブーランジェにも師事しています。
1933年に帰国し、メキシコ大学や母校で教鞭を執る一方、ピアニスト、指揮者としても活躍しました。

晩年は腎臓病、リウマチに苦しみました。
1948年、ミゲル・アレマン大統領から「芸術科学国家賞」を音楽家として初めて受賞しましたが、間もなくメキシコシティで尿毒症により死去しました。

翌1949年、メキシコ国立芸術院のホールが "Sala Manuel M. Ponce" と命名されました。メキシコシティのパンテオン・シビル・デ・ドロレスに埋葬されています。

ポンセはヤッシャ・ハイフェッツの編曲でヴァイオリン小品として有名になった歌曲『小さな星(エストレリータ)』(Estrellita)の作者として有名です(詞も彼自身による)。

新古典主義様式でヴァイオリン協奏曲やギター協奏曲『南の協奏曲』(Concierto del Sur, 1941年)などの大作も残しました。

ポンセのオリジナルな器楽曲として有名なのはギター作品で、とりわけ、『「ラ・フォリア」を主題とする変奏曲とフーガ』(1929年)や、シューベルト没後100周年を記念する『ロマンティックなソナタ』(Sonata Romantica, 1927年 - 1929年)、『ギター・ソナタ第3番』(Sonata III, 1927年)、『南国のソナチネ』(Sonatina Meridional, 1939年)は、セゴビアの演奏技巧を考慮して作曲されており、ギター演奏家に人気があります。

ポンセはヨーロッパ仕込みの洗練された作風で知られ、創作の素材としてはスペイン征服後の民謡を多く用いました(ピアノ用に2曲残した『メキシコ狂詩曲』(1911年/1913年)など)。しかし、後年には教育用の『20のやさしい小品集』(1939年)において先住民族の民謡を素材として用いています。また、フランス留学後は新古典主義、多調などを取り入れた先鋭的な作風に転じました。

ソナタ第三番は1927年セゴビアのために書かれました。



からあげと聴くとあの曲

2024-06-16 21:04:00 | 近代
パンケーキなるものを食べてみました。
ってギターの川原さんが食べたのですが…。

ジュリアーニのデュオコンチェルタントop.85
6月30日西宮ギター練習会のコンサート 夙川公民館ホールで演奏します。

みっちり練習した後、くずはモールでランチ。
アロハテーブル。前回来た時は長蛇の列で入れませんでしたが、今回は一組待っているだけでした。1:30頃だからピーク過ぎてただけかも。


私はおろしチキン唐揚げ。
お腹いっぱいなりました。

スティーブン・コリンズ・フォスター(1826 - 1864年)アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ローレンスビル生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク没

は、19世紀半ばのアメリカ合衆国を代表する歌曲作曲家。

アルスター・スコッツ(北アイルランドに入植したスコットランド人)の曽祖父の家系を引く比較的裕福な家庭に10人兄弟の末っ子として育ちました。
彼の生まれた家は「白壁の家」(White Cottage)と呼ばれていました。父のウィリアムは、ヴァイオリンを演奏し、母のエリーザ・トムリンスンも詩情豊かな教養に富む女性でした。姉2人もピアノをよく演奏しました。

フォスター自身も幼児期より並ならぬ音楽的才能を見せ、7歳からはフルートを、9歳からはギターを独学で習得し、後にはクラリネットも修め、1841年、15歳の時にはアゼンス・アカデミー卒業式の際に自作の「ティオガ円舞曲」をアテネ・アカデミーの教会でフルートで奏しました(この作品はピアノ独奏曲として現存します)。

作曲に興味を持ったフォスターはモーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバーらの作品を寝る間も惜しみ研究していたという。このようにアカデミックな音楽教育はほとんど受けなかったにもかかわらず、二十歳になるまでにすでにいくつか歌曲を出版していました。

最初の歌曲は1844年に出版された「窓を開け、恋人よ」(Open Thy Lattice, Love)で16歳のときの作品です。

翌1845年には弟と友人からなるセーヴル・ハーモニスツ重唱団のために「ルイジアナの美人」、「ネッド叔父さん」などを作曲します。

1845年4月にピッツバーグは大火に見舞われ、町の3分の1にもあたる約1000棟の建物を焼失する。

1846年にオハイオ州シンシナティに転居し、兄の蒸気船海運会社・アーウィン・フォスター商会(Irwin & Foster)で簿記係を務めます。
当時のシンシナティは、ピッツバーグをしのぐ勢いの多文化社会であり、彼の働く会社の窓の外にはオハイオ川に蒸気船がひっきりなしに行き交い、南部の黒人音楽や荷揚げ作業人夫の労働歌に満ち溢れていました。

このシンシナティ在住中に、当時独立戦争後の新大陸で流行した黒人霊歌風である最初のヒット曲「おおスザンナ」を発表。

これは1848年〜1849年のカリフォルニアのゴールド・ラッシュの賛歌となりました。

当時、白人が顔を黒く塗り大げさに歌うミンストレル・ショーやエチオピア風の喜劇役者の魅力に強く引きつけられていましたが、その結果が1849年に出版された曲集『フォスターのミンストレル・ソング集』(Foster's Ethiopian Melodies)に結実し、クリスティ・ミンストレルズによってヒットした「やさしいネリー」(Nelly Was A Lady)が収録されています。

同年フォスターはペンシルベニアに戻ってコンサートを開き、クリスティ・ミンストレルズと共演、最も有名な歌曲が書かれる時代の始まりとなりました。

1850年に、ピッツバーグの名医の長女であるジェーン・マクダウェル(Jane Denny McDowell, 1829年 - 1903年)と結婚、翌年には娘マリオンをもうけます。

この後に音楽的円熟を見せ「ケンタッキーの我が家」、「主人は冷たい土の中に」、「故郷の人々」(「スワニー河」)の傑作を次々に生みます。

1853年にフォスターはニューヨークに出てファース・ポンド社と契約を結び、自作・他者の歌曲などをアンサンブル用に編曲した「ソーシャル・オーケストラ」(The Social Orchestra)を発表。翌1854年には「金髪のジェニー」を発表。この年に妻子もニューヨークに移り住みます。

が、翌年にはフォスターは単身ピッツバーグに戻り、続いて妻子も追うが、1855年の両親の死と翌1856年の兄ダニングの死はフォスター一家に打撃を与え、借金暮らしに陥ります。

1857年、ファース・ポンド社との先払い契約によって辛うじて金銭を得るが困窮生活は続きます。1860年にニューヨーク市に再び転出し「オールド・ブラック・ジョー」を発表。

1864年1月10日、マンハッタンの下町「バワリー」のノース・アメリカン・ホテルに滞在中であったフォスターは、粉々に割れた洗面台のそばで頭部および頚部から大量に出血した状態で倒れているところを作詞家ジョージ・クーパーによって発見され、ベレビュー病院に搬送されたものの3日後の13日に発熱と出血多量で死亡しました。

数日前から発熱していて、意識朦朧の状態でベッドから起き出し、洗面所に入ったところで平衡感覚を失って転倒、その際に頭部を洗面台にぶつけて割ってしまい、その破片で頚動脈を切断されたことが致命傷になったものと推測されています。

37歳没。この時のフォスターの所持品はわずか38セントの小銭と、「親愛なる友だちとやさしき心よ」(dear friends and gentle hearts)と走り書きされた紙片だけでしたた。

フォスターの死を知らされた妻ジェニーは遺体と対面するやその場で泣き崩れたと伝えられています。

1862年の作品「夢見る人」(「夢路より」)が発表されたのは死後2か月後のことである。亡骸はペンシルベニア州ピッツバーグのアレゲーニー墓地に埋葬されています。

ケンタッキーの我が家(: My Old Kentucky Home)は、アメリカ合衆国ケンタッキー州の州歌として採用されている。日本ケンタッキー・フライド・チキンのCMソングでもある。

ケンタッキーの我が家は、1852年に 作詞・作曲され、1853年に出版されました。

1928年3月19日には公式州歌としてケンタッキー州議会により採用されます。 州北部の町バーズタウンにあるフォスターの従兄弟で法律家のジョン・ローアンの家が、この「我が家」のモデルといわれています。

しかし、フォスターがその時期に彼の家を訪れたという証拠がなく、これを疑問視する声もあります。  

「ケンタッキー」の名称の採用は「故郷の人々(スワニー河)」と同様に語呂の良さで選んだのではないかとする説もあります。

1852年には、黒人奴隷問題に大きな影響を与えた「アンクル・トムの小屋(Uncle Tom’s Cabin)」が出版されており、作曲の動機になったのではないかとの説も有力です。

この曲は、ケンタッキーダービーの際に毎年伝統的に、ルイビル大学のマーチングバンドの演奏に合わせて歌われています。
1982年からはスティーブンフォスターハンデキャップという競馬の競走が行われています。

「ケンタッキーの我が家」
懐かしいケンタッキーの家は日差しで明るく輝いている
夏の日、人々は皆、楽しそうにしている
トウモロコシの穂先は熟して、牧草地には花が咲いている

鳥達は一日中音楽を奏で
これ以上泣かないで、私のお嬢さん
おお、今日はもうそれ以上泣かないで
私たちは懐かしいケンタッキーの我が家の為に歌を一曲歌う

遠くへ行ってしまった懐かしいケンタッキーの我が家の為に
子供達は小屋の床を楽しそうに転げ回る
全ては幸福で輝いていた

やがて厳しい時代が来てドアを叩く
懐かしいケンタッキーの我が家、おやすみなさい!





白と黑

2024-06-13 21:00:00 | 近代
ご近所のアナベル。

白い紫陽花流行っているみたい。
最近良く見かけます。

日本人は白を特別の色と考えている人が多いそうです。

『日本書紀』孝徳天皇、白雉元年(654年)の条では、穴戸(長門)の国司である「草壁連醜経」という人物が白い雉を献じ、

「公卿より始めて、百官等に及るまでに清白けき意を以て、神祇に敬奉りて、並に休祥を受けて天下を栄えしめよ」と言って年号を「白雉」と改めたことが記されています。

また、光仁天皇も、即位にあわせて肥後国から白い亀が献上されたことで、ただちに年号を「宝亀」と改めたとされます。

それらが実際にあった出来事なのかはともかく、少なくとも日本書紀が作られた時代には、「白色には時代を変える力がある」というイメージがリアリティを持っていたことが伺えます。

また同時に、白色は、「誠」あるいは「内に含むことのない」心のしるしとしても用いられるようになりました。

用例としては、戦場での軍使の旗や、降伏を示す時の旗などです。

戦闘の場面で、降伏のしるしに白旗を掲げた事が、やはり『日本書紀』に書かれていて、最も古いもので、推古天皇の8年(600年)の条に、戦場で新羅王が白旗をあげたとされています。

日本では、さらに時代が下ると、白色は「内にあるものを外に表す」というニュアンスも含むようになってきます。こうしたニュアンスは、今でも「自白」「白書」などの言葉に見受けられます。

白色は、純粋さや混じりけのなさ、そしてそのような状態の心を表す色だったのです。

さて一方で、上記のような意味とは別に、白色には「死」「不気味さ」「虚無」などのイメージもあります。

これは、昔の人が骨の色から連想したのかも知れません。

例えば陰陽五行説では、白色は「秋」の色とされており、これは冷たさやほの白い印象を受けます。

「幽霊」の衣服も白衣というイメージが強いです。

こうした「幽霊は白衣を着る」というイメージが定着したのは江戸時代以降と言われてますが、はっきりとは分かっていません。 

1776年鳥山石燕「画図百鬼夜行」「幽霊」

ただ、近松門左衛門作の時代物の三傑作とされる作品のひとつ『雲女五枚羽子板』では、侍女の幽霊が出るところで、以下のように描写しています。

「塀の内より白鷺の飛ぶ如く、雪渦まいて提燈に、映ると斉しく女の姿、白衣白髪白妙の雪女とも謂いつべし」

『雲女五枚羽子板』の初演は宝栄5(1708)年とされています。
おそらく、この頃にはすでに「幽霊は白衣を着る」というイメージが一般的になっていたと考えられます。

「白色」には、吉兆としてのイメージと、不吉さを伴うイメージの二つの面があることが分かりました。まったく正反対です。

生まれた時には白い産着を着せられ、亡くなった時にも白装束を着せられます。

吉と不吉、生と死……。日本人の人生とは、実は「白に始まり白に終わる」もののようです。

長崎盛輝
色・彩飾の日本史: 日本人はいかに色に生きてきたかより

西洋音楽の中の「白」を探しましたが、やはりなかなかありません。
「雪」とか「白鳥」「白夜」なんて言うのはあるのですが…。

『白と黒で』(フランス語: En blanc et noir)という曲を見つけました。

クロード・ドビュッシーが1915年に作曲したピアノ二重奏のための曲です。

第一次世界大戦の衝撃と体調の悪化による1年ほどの作曲活動の停滞から立ち直り、ドビュッシーは友人のロベール・ゴデに「私は作曲せずにはいられないのです」と書き送ります。

作曲開始時の曲名はフランシスコ・デ・ゴヤの版画集『ロス・カプリチョス』

『ロス・カプリーチョス』:理性の眠りは怪物を生む <Los Caprichos>: The sleep of reason produces monsters

にちなんで『白と黒でのカプリス』というものでした。
第2曲の献呈から、前年に勃発した第一次世界大戦の影響がはっきり感じられる。

『白と黒で』という題名に関しては、鍵盤の白黒を指す、絵画(版画)の白黒を指す、の二つの説があります。

絵画の色説は、編集者のデュランへの手紙で、「カリプスの第二曲の色合いがあまりに黒のほうに押し流されて、ゴヤの『カプリチョス』と同じくらい悲劇的になってしまったので少し明るくした」と言っていること。

また別の友人への手紙で
「これらの作品は、色彩や感動を脱色しようとした結果、ベラスケスの灰色にまでなった」と語り、どちらも絵画を引き合いにしていることをその根拠としています。また各楽章には時局がらみの政治的意図をこめた引用が付されています。

ディエゴ ベラスケス(1599-1660年)人物画の背景を単色にして人物を浮き上がらせる手法を確立した。ここで言われた「ベラスケスの灰色」とは背景のことかな?
第1曲はセルゲイ・クーセヴィツキー,(1874- 1951年アメリカ合衆国で活躍したユダヤ系ロシア人指揮者、作曲家

に、第2曲は第一次世界大戦で戦死した陸軍中尉ジャック・シャルロ(出版者ジャック・デュランの甥)、第3曲はイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882- 1971年)

に献呈されています。

1.Avec emportement (無我夢中で)
標題はジュール・バルビエとミシェル・カッレによる戯曲「ロメオとジュリエット」(シャルル・グノーの同名のオペラの台本)

の一節です。

2.Lent. Sombre (ゆるやかに。沈痛に)
標題にはフランソワ・ヴィヨン
(1431? - 1463年以降)15世紀フランスの詩人。中世最大の詩人とも、最初の近代詩人ともいわれています。


彼の「フランスの敵に対するバラード」の一節が掲げられています。

テーマにプロテスタントのコラールである「神はわがやぐら」
「神は我がやぐら」(1533年版)マルテイン ルター作曲。
が引用され、終盤では「ラ・マルセイエーズ」(フランス国歌)

を思わせる断片が入っています。

3.Scherzando (諧謔的に)
シャルル・ドルレアン
(1394 - 1465年)百年戦争期のフランスの王族。オルレアン公、詩人として知られています。

彼の詩の一節「冬よ、お前は嫌なやつだ」が掲げられています。




花を摘むのも悪くないよね。

2024-06-12 20:57:00 | 近代
第2火曜日 10:00〜
会館とのニで子育てサロンでした。

看護大学の学生さんたちも研修でいらっしゃいました。

お手伝いしてもらって、会場設営も早くできました。

手あそび、お歌を歌った後、

デコパージュ。
通常のティッシュケースは4面しないといけないので、時間がかかり過ぎることがわかったので、円筒形のティッシュケースを使うことにしました。
箱ティッシュ1箱分が入ります。
車とか狭いところで使うのにいいです。

1歳の子どもが多く、なかなか母子分離とはいきませんでしたが、なんとか時間内に作成することができました。







素敵にできました!

ボフスラフ・マルティヌー(1890 - 1959年)オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア ボリチカ生まれ、スイス
リースタル没

は、チェコ出身の作曲家。6曲の交響曲を始め、様々な楽器のための30曲近くもの協奏曲、11作のオペラをはじめ、あらゆる分野で作曲を行うなど大変な多作家でした。

靴屋を営む両親は、この村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任されていて、教会の鐘楼塔に住んでいました。
マルティヌーが生まれ、幼少期を過ごした教会の塔(1910年代の絵葉書)
ボフスラフもこの塔の中で生まれ育ちました。
父親はアマチュア劇団の熱心な団員で、母親は読書や歌が好きで、民謡歌手でした。

幼少期の彼は内向的な性格で塔の外へ出ることはほとんどなく、一日中本を読んで過ごしていました。

7歳の時から近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けると、めきめきと腕を上げ、やがて地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになりました。

12歳の時には弦楽四重奏曲を作曲しています。
こうした才能に気づいた周囲の勧めや篤志家からの援助でプラハ音楽院

に入学しました。
しかし、彼はここでの授業に満足できず、学校の許可を得ずに素人の楽団に加わったりしたため「慢性的な怠慢」によって1910年に退学となっています。その後1912年からは故郷の小学校で教師を務めていましたが、1917年に音楽院時代の友人スタニスラフ・ノヴァークの世話でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。

チェコフィル、本拠地のルドルフィヌム


ドボルザークホール

1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてのデビューを飾りました。

同じ年に国民劇場オーケストラの国外公演で行ったパリで印象派の音楽を知り、ルーセルのスコアに魅せられた彼は、その後、演奏活動の合間に図書館へ通い印象派の作品を研究しました。

1922年にスーク

ヨセフ スーク(1874-1935年)
のマスタークラスに入り作曲を学ぶことになった時には「ドビュッシーのように」作曲したいと語っています。
翌1923年には奨学金を得て、念願のパリで学ぶこととなりました。

パリではルーセル

アルベール ルーセル(1869-1937年)
に対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲しました。
1929年頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになります

1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚しました。
シャーロット・レオニー・ヴィクトリーヌ・マルティヌー– クエンネヘン(1894 – 1978)
1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなありませんでした。
1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載り、パリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡りました。

1941年、マルティヌーは、ナチスのヨーロッパ侵攻を避けてアメリカ合衆国へ渡ります。
彼の6曲の交響曲の内5曲がアメリカ合衆国滞在中に作曲されています。

1945年、チェコが解放されると、プラハ音楽院から作曲科教授の要請がありました。マルティヌーはこれに同意を伝えましたが、その後この話は立ち消えとなりました。
1946年に、セルゲイ・クーセヴィツキー

クーセヴィツキー 1874-1951年
から依頼され、バークシャー音楽センターの夏期講習の講師を務めることになりました。

この夏期講習の際、宿舎のバルコニーから転落して重傷を負い、1ヶ月以上の入院を余儀なくさせられ、退院後も頭痛、耳鳴り、難聴などの後遺症に悩まされました。
この頃から作風は次第に軽いものに変わって行きます。この頃まで彼は祖国に帰るつもりでいました。

実際に1947年の交響曲第5番の初演に作曲家の代理で出席するためにプラハを訪れた夫人は、西ボヘミアの芸術家村に帰国後の住まいの下見に行ったりもしています。

しかし、1948年のチェコスロバキア政変で共産党政権が誕生し、文化政策に理解を示していたヤン・マサリクが死亡したとの報を承け、帰国を断念しました。
プリンストン大学

での作曲の客員教授に就任しました。しかし望郷の念はやまず、この年の夏から数度ヨーロッパを訪問する機会があり、1953年にヨーロッパに移ることにしました。

ヨーロッパに戻った後、最初はニースに住みましたが、1956年からはローマのアメリカアカデミーで教鞭を執りました。しかし住まいを構えることはせず、ホテルを転々として暮らしていました。様々な委嘱に応えて、数多くの作品を作曲しました。

1958年11月、胃の手術を受けますが、これはすでに手遅れとなった癌でした。1959年春までは小康状態を保ちますが、同年8月28日、スイスのバーゼル近郊のリースタルの病院で息を引き取りました。遺体は彼の遺言により、ザッハーが所有する森の一隅に葬られました。

1979年マルティヌーの遺灰は故国へ帰りました。その後、前年に亡くなった夫人の眠るポリチカの聖ミヒャエル墓地の墓に納められましたが、その墓石には『泉開き』の一節から "Jsem doma" (「われ、故郷にあり」)と刻まれました。

「春の庭園」H.125
「Jaro v zahrade (Spring in the Garden), H. 125」というタイトルの子ども向けの 4 つのピアノ曲集です。
1920年に作曲されました。
おそらく、個々の曲のタイトルは。作曲家がつけたのではなく、出版社または他の誰かによって後から追加された可能性が非常に高いです。

1.今何して遊ぼう?
2.すぐに眠りに行ったほうがいいと思う。
3.なぜ兵隊さんの役をしなくてはいけないのですか?
4.花を摘むのも悪くないよね。

「春の庭園」H.125 第4曲









デンマーク趣味

2024-06-11 21:00:00 | 近代
ピアノのTさんと久しぶりにランチに行きました。
昨年クリスマスコンサート以来です。
樟葉の小料理「七乃葉」さんです。
予約しようとネットで申し込もうとしてくれましたができなかったので、直接お店に、

11:20頃着くと閉まっていましたが、前に二人待っています。
準備中の札がかかっていましたが、覗くと出てきてくれました。
「ネット予約できなかったのですが、ランチいけますか?」
「ちょっとお待ち下さい。」
大丈夫でした。
「11:30オープンなので、少しお待ちください。」ということで、前で少し待って、その間にもう二組。
月曜平日なのに…。

玉手箱弁当。
つき出しが出てきて、それから三段重箱を開けると

天ぷらとお造り

真ん中のお重箱は、焼き物、煮物とごま豆腐。

五穀米がついて2千円。
お味も良かったです。
前のスーパーでお買物して、枚方家具団地のくらこんの工場でおぼろ昆布とだし昆布、ひじきを買って、自宅に戻りました。

そこから本番。お茶しながら、夕方まであれこれしゃべって癒やされました〜!

フレデリック ディーリアス(1862-1934年)イングランドブラッドフォード生まれ、フランス共和国グレ スュル ロワン没

Seven Danish Songs 7つのデンマークの歌 (1897)は
ディーリアスがデンマークからインスピレーションを得た曲を集めた歌です。

スカンジナビアとその文化に対する深い共感に基づいたディーリアスの特徴を最もよく表しています。

1911年の出版ですが、他の声楽曲はすべてそれよりずっと以前に書かれたものです。ディーリアス自身が作ったか、ディーリアスが承認した英語の翻訳が採用されています。

ホルガー ドラックマン(1846-1908年)デンマーク コペンハーゲン生没、


イエンス・ペーター・ヤコブセン(18471885年) デンマーク ユトランド半島ティステッド生まれ、デンマーク ディステッド没



イェルカ ローゼン ディーリアス(1868-1935) ドイツ

ディーリアスの妻。

Seven Danish Songs 7つのデンマークの歌 (1897)
1 Lyse Nætter 
 明るい夜
詞:ドラックマン (1846-1908年) デンマーク

2 Det bødes der for 
 それは讃えられてきた
詞:ヤコブセン (1847-1885) デンマーク

3 Løft de klingre glaspokaler
 高く掲げて鳴らせ ガラスの盃を 詞:ヤコブセン

4 Den Lenz lass kommen
 春に来させよ  詞:ローゼン (1868-1935年) ドイツ 原詩:ヤコブセン

5 Irmelin Rose 
イルメリンのバラ  詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

6 Im Garten des Serails 
 後宮の庭で  詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

7 Seidenschuhe 絹の靴 詞:ローゼン 原詩:ヤコブセン

第6曲 後宮の庭で
バラは頭を垂れる 重たげに
露や香りで
松の木々は揺れている 
静かに気だるく
蒸し暑い空気の中
泉の銀はゆっくり戯れる
眠たげな安らぎの中
モスクの光塔は天に聳える
深い青さの中 三日月は滑り行く
青い輝きと共に
そしてくちづけしてる バラやユリたち 群がって
すべての小さな花たちは
すべての小さな花たちは
後宮の庭で!

チェロとピアノ編曲版で









クラリネットとヴァイオリン

2024-05-19 21:01:00 | 近代
土曜日午後14時〜堺市緑化センター、みどりのホールコンサートに出演してきました。
牧野からは京阪で京橋まで行って、

京阪快速急行とJRの上下交差のJR京橋駅
JR環状線で天王寺まで行って、鳳行きで10駅。



天王寺ではるかハローキティ号とすれ違い、テンション爆上がり。
百舌鳥駅で降りて

長塚古墳、世界遺産仁徳天皇陵。
前方後円墳の前を通って、やってきました。

体験型植物園 堺市都市緑化センター。

みどりのホール。
2列ほど椅子を並べて、誰が来るのかな?と思っていたら、後から後から人が現れて椅子を出して、詰めて、出して、詰めて頂いて…。満席に。
ちょっとびっくり。

ストーリーテリング
リコーダーカルテット
クラリネットとフルートのデュオ

そしてギターの川原さんが、タレガのアルハンブラ宮殿の思い出をされた後、フルート久米で、イベールの「間奏曲」ピアソラの「オブリビオン」「リベルタンゴ」。

2時間余りの長いコンサートの最後にも関わらずアンコールも頂いて、準備して無かったのでイベールの「間奏曲」を2回も聴いて頂きました。
喜んで頂いたみたいで本当に幸せでした。

帰り道、フランス人のクラリネット奏者ショカさんと京橋まで一緒でした。
ヴァイオリニストの奥さまが日本人ということで日本語お上手。

昔クラリネットをやっていて45年お休み…近頃また復活されたそう。
ソロでずっとされていましたが、今はブラスバンドに所属。
クラリネットライフを楽しんでおられるそうです。
奥さまのヴァイオリンと合奏されないのですか?
と聞いてみたら、音域がバッチリ同じなので合わないからやらないそうです。

フルートとヴァイオリンも重なっているけれど合奏曲結構ありますが、クラリネットは新しい楽器なのであまり無いのかも。

調べてみたらやはり少ない。
アレンジものはあるのですが…。
いいなあ~と思ったものは、ヴァイオリン、クラリネットにピアノのあるトリオでした。これがちょっといい感じ!

ダリウス・ミヨー(1892-1974年)フランス共和国エクス アン プロヴァンス生まれ、スイス ジュネーブ没

1939年作曲の「ヴァイオリンとクラリネットとピアノの組曲」op.157B

曲の作られた背景はよくわかりませんが、ブラジルの音楽を取り入れた組曲を成功させ、アメリカへ行きジャズを取り入れたバレエ作品「世界の創造」を完成させ作曲家として足場を固めていきます。
1925年いとこで女優で朗読家のマドレーヌ(1902 - 2008年)

と結婚しました。
1930年に彼女は息子、画家兼彫刻家のダニエル・ミヨー

を出産しました。作曲した1939年、第二次大戦下のフランスで、15世紀まで遡るユダヤ人の家系だったミヨーは、圧迫を感じていたことと思われます。

翌年1940年にはミヨーはナチスのフランス侵攻によりアメリカ合衆国に移住し、解放後まで帰ることができませんでした。