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を除く5人は、その後もコクトーの台本『エッフェル塔の花嫁花婿』(Les Mariés de La Tour Eiffel)をもとにバレエ音楽を共作しました。このバレエは、もともとコクトーがオーリックに持ちかけて始まったものでしたが、オーリックがリハーサルに間に合うように作曲できるほどの速筆ではなかったため、六人組で共作することになりました。

の知遇を得て、1923年からモンフォール=ラモリのラヴェルの自宅に通って個人指導を受けていました。

に口説き落とされ、結婚してニューヨークのマンハッタンに移住してしまいます。

と愛人関係にあり(『ヴァイオリン・ソナタ第1番嬰ハ短調』はティボーに献呈されています)、報われぬ恋に疲れていました。その矢先に、遊び人のバートンに言葉巧みに誘惑されてしまったといわれています。

は、映画音楽をタイユフェールに書いてもらいたがっていましたが、タイユフェールはチャップリンの作曲センスを認めていて、チャップリンに自分で作曲するように助言しました。

晩年を過ごしたRue d'Assas 87にあるメモリアル・プレート
→音楽の喜び フルートとともに

土曜日甲東園ホール、ピアノトリオコンサートを聴きに行きました。

聴き合い会でお会いした日野上さんにおすすめされました。
甲東園ホールは駅から直結していて、行きやすい上に音響も抜群なホールです。
ヴァイオリン中嶋弥生 チェロ渡邊弾楽 ピアノ 山中歩夢
ラヴェル特集ですが、マ・メール・ロワピアノトリオ版
マ・メール・ロワはフルートアンサンブルでもやった曲ですが、撥弦版はまた新鮮でした。
ピチカートを効果的に使っていたりして、おもしろかったです。
タイユフェール ピアノトリオ
タイユフェールはパリ6人組の1人ですが、あまり演奏されないです。しかし聴いてみると思いの外力強く、エネルギッシュな曲。
もっと取り上げられてもいいのではないか?と思いました。
ラヴェル ピアノトリオop90
バスク生まれのラヴェルが民謡などを取り込んで、作った曲。中にはマレーシアの舞踊の曲を入れ異国情緒も盛り込んでおもしろい曲でした。
亡き王女のためのパヴァーヌとこのシリーズを締める日本の曲ということで変奏「赤とんぼ」。
アンコールは写真撮影OKということで撮りました。
ジェルメーヌ・タイユフェール(Germaine Tailleferre, 1892 - 1983年フランス共和国サン=モール=デ=フォッセ生まれ、フランス パリ没)

パリ音楽院で学んだ後、個人的にシャルル・ケクランとラヴェルに師事。
シャブリエ、サティの影響を受けた快活でさわやかな作品を残しました。
コクトーに「耳のマリー・ローランサン(1883 - 1956年)」

ポスター『ポスター台を囲む三人の女性』(仮題)1937年。ローランサン原画による商店ポスター
と呼ばれた作曲家です。
フランス六人組のメンバーの一人。
父親は、娘の音楽教育に一切の興味を見せず、むしろ「女に音楽なんて…売春婦と同じだ。俺のように日々労働者として働くことこそが仕事なんだ」と言い放つ人物でした。
本名はマルセル・タイユフェス (Marcelle Germaine Taillefesse) でしたが、横暴で家庭を顧みない父親への反感から、タイユフェールという姓に改めました。
修道院付きの学校に学んだ母親から、ピアノなどの教養を学んで楽才を発揮し、パリ音楽院への進学を許されます。
音楽院ではダリウス・ミヨーやジョルジュ・オーリック、アルテュール・オネゲルと出逢い、親交を結びました。

いくつかの学科で首席になり、18歳の時、ハープ科の助教授カロリーヌ・タルデューのために『タルデュー夫人のためのハープ小曲集』(Petit livre de harpe de Madame Tardieu)を作曲しました。
これは現存する最初の作品のひとつと言われています。
早くから優等生ぶりを発揮する一方、ピアノ科の試験の最中に院長フォーレに気押され、無意識にバッハを移調して演奏して(フォーレを含む)
験官を驚かせたり、オルガン科で即興演奏の学習中に、「ストラヴィンスキーの様式」を選んで教授の逆鱗に触れたりなど、いくつかの武勇伝を残しています。
またこの頃、無教養で野卑な父親から解放されたことへの反動で、音楽以外の勉強もしており、気球の操縦も学んでいます。

友人たちとともにモンマルトルやモンパルナスの芸術家集団と親交を結び、その中で知り合った彫刻家のエマニュエル・サントール(Emmanuel Centore)は、後にタイユフェールの妹と結婚しました。
「フランス六人組」の原型が出来上がったのも、モンマルトルの友人の画家のアトリエにおいてでした。

ジャック=エミール・ブランシュ『6人組の面々』(1921年)。中央はピアニストのマルセル・メイエ。左側、下からタイユフェール、ミヨー、オネゲル、ピアニストのジャン・ヴィエネル。右側、左上がプーランク、隣がジャン・コクトー、下がオーリック。デュレはこの頃すでに6人組から離れていたため描かれていない。
ジャン・コクトー

1912年の宣言文『牡鶏とアルルカン』Le Coq et l'Arlequin, が出版されると、音楽評論家で作曲家のアンリ・コレの批評によって、「フランス六人組」という名称が与えられ、一躍グループを有名にしました。

「六人組」は、当初は共作を行い、ピアノ曲集『六人組のアルバム』(Album des Six)などを出版しました。
ルイ・デュレ1888 - 1979年)

を除く5人は、その後もコクトーの台本『エッフェル塔の花嫁花婿』(Les Mariés de La Tour Eiffel)をもとにバレエ音楽を共作しました。このバレエは、もともとコクトーがオーリックに持ちかけて始まったものでしたが、オーリックがリハーサルに間に合うように作曲できるほどの速筆ではなかったため、六人組で共作することになりました。
この頃デュレはパリにいなかったために参加していません。
ラヴェルを信奉していたデュレはやがて六人組を脱退することになりましたが、この頃デュレはまだ毎回、六人組の演奏会に出席し、その後も他の人との関係は悪くありませんでした。
タイユフェールはといえば、モーリス・ラヴェル(1875-1931年)

の知遇を得て、1923年からモンフォール=ラモリのラヴェルの自宅に通って個人指導を受けていました。
ラヴェルは早くから彼女とミヨーの才能を激賞し、タイユフェールにローマ大賞選抜試験を受験するように励ましていました。
しかし1925年、タイユフェールはアメリカ人の諷刺漫画家ラルフ・バートン(1891- 1931年)

に口説き落とされ、結婚してニューヨークのマンハッタンに移住してしまいます。

1927年に2人はフランスに戻りますが、チャップリンを含む幅広い著名人と親交の深かったタイユフェールに対して、バートンが嫉妬から兇暴化し(一説によると家庭内暴力さえ日常的であったといわれています)、耐え難くなったタイユフェールは、間もなくバートンと離婚しました。
後にバートンと結婚した理由を尋ねられて、タイユフェールは「寂しかったから」と答えています。が第一次世界大戦に前後する時期、タイユフェールはヴァイオリニストのジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880 - 1953年)

と愛人関係にあり(『ヴァイオリン・ソナタ第1番嬰ハ短調』はティボーに献呈されています)、報われぬ恋に疲れていました。その矢先に、遊び人のバートンに言葉巧みに誘惑されてしまったといわれています。
この結婚は3年半で離婚に至りました。
3ヶ月後に書いた「声楽とピアノのためのフランスの6つの歌(Six chansons françaises for Voice and Piano)」は、”夫の暴力から流産に至った自分を癒す作業”と捉える専門家が著書を出版しています。
バートンは妊娠中の妻のお腹めがけて銃で威嚇し、胎児を殺したい、でも君の命は守ると言い放ち、その3日後に彼女は流産をしました。彼はその後も銃の威嚇を続け、タイユフェールは逃げ、友人たちに匿われて生き延びました。
子どもが欲しかったことから、離婚から2年後、今度はフランス人の弁護士と結婚しました。
ロマンティックで愛に溢れていたのは束の間、この夫も彼女の手書き譜にインクをぶちまけ、妻のみならず幼子にも手をあげました。
その後、夫は精神病を患い、最後は結核病棟へ入院。離婚は50年代初めに成立しました。
1920年代はタイユフェールにとって激動の時期でした。
『ピアノ協奏曲』や『ハープのためのコンチェルティーノ』、バレエ音楽『鳥商人』(Le Marchand d'Oiseaux:スウェーデン・バレエ団のための作品)および『新しきシテール島』(La Nouvelle Cythère:ディアギレフとロシア・バレエ団の依嘱作品)などのいくつかの代表作のほか、先駆的な映画音楽の作曲も手懸けて、アフリカ音楽を主題に用いるなどの試みもしています。
チャールズ・スペンサー・チャップリン( Sir Charles Spencer Chaplin、1889- 1977年)

は、映画音楽をタイユフェールに書いてもらいたがっていましたが、タイユフェールはチャップリンの作曲センスを認めていて、チャップリンに自分で作曲するように助言しました。

チャップリンとタイユフェール
1930年代はいっそう実り豊かで、『2台のピアノと合唱、サクソフォーン、管弦楽のための協奏曲』や『ヴァイオリン協奏曲』、オペラ『ズライナ』(Zoulaïna)、ポール・ヴァレリーとの共作カンタータ『ナルシスを讃えて』など、野心的な作品が相次いで生み出されました。
この時期にも一連の映画音楽やドキュメンタリーの付随音楽を手懸けています。
第二次世界大戦の勃発によって、グラスの自宅にほとんどの草稿を置き去りにしたまま、亡命生活に入らなければならなリませんでした。
イベリア半島を横断して運よくアメリカ合衆国行きの船に乗り込み、そのままペンシルベニア州フィラデルフィアで戦時中を過ごしました。
終戦後の1946年、フランスに帰国して作曲活動を再開します。
バレエ音楽『魔術師パリ』(Paris-Magie)、オペラ『小船が一艘ありました』(Il était un Petit Navire)・『哀しみ』(Dolores)・『小さなシレーヌ』(La Petite Sirène)・『教師』(Le Maître)、オペレッタ『香水』(Parfums)、『バリトン、ピアノ、管弦楽のための協奏曲』、『フルートとピアノ、管弦楽のためのコンチェルティーノ』、『2台のギターと管弦楽のための協奏曲』、『ピアノ協奏曲第2番』、『ヴァイオリン・ソナタ第2番』、『ハープ・ソナタ』などの作品のほか、映画音楽やテレビ音楽を手がけます。
同時代の前衛音楽の勃興にも無関心ではなく、『クラリネット・ソナタ』では「面白半分に」十二音技法を取り入れ、打楽器とピアノのための『ラモーを讃えて』は、タイユフェール自身はあまり評価しませんでしたが、辛辣で小気味よい表現は再評価されつつあります。
1976年にパリの私立学校エコール・アルザシエンヌの音楽教師を引き受けます。
最晩年にはもっぱら小品ばかりを手がけましたが、これは老化にともなう手の関節炎のためもありました。
それでもなお、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ピアノのための『田園風ソナタ』(Sonate Champêtre)や、2台ピアノのためのソナタ、2台のピアノと管弦楽のための『コラールと変奏』のほか、いくつかの童謡や、子供向けのピアノ曲集を手懸けました。
最後の大作『コロラテューラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲』(Concerto de la Fidelité)は、作曲者の死の前年にパリ・オペラ座で初演されました。
なお92歳で亡くなる数週間前まで作曲を続けました。

晩年を過ごしたRue d'Assas 87にあるメモリアル・プレート
セーヌ=エ=マルヌ県のケンシー=ヴォワザンに埋葬されています。
タイユフェールのピアノ三重奏曲ピアノとヴァイオリンとチェロのための
Trio pour piano, violon et violoncelle
1917年に作曲しました。
1978年4月彼女はこの三重奏曲の第一楽章と最終楽章に二つの新しい楽章を加えた新しいバージョンを作曲しました 。
この新しい作品は、ピアニストのミシュリーヌ・ドンデーヌ(彼女の作品の編曲版を数多く手がけているデジレ・ドンデーヌの妻)に捧げられています。
ピアノ三重奏曲
1.Allegro animato
2.Allegro vivace
3.Moderato
4.Très animé