音楽の喜び フルートとともに

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花を摘むのも悪くないよね。

2024-06-12 20:57:00 | 近代
第2火曜日 10:00〜
会館とのニで子育てサロンでした。

看護大学の学生さんたちも研修でいらっしゃいました。

お手伝いしてもらって、会場設営も早くできました。

手あそび、お歌を歌った後、

デコパージュ。
通常のティッシュケースは4面しないといけないので、時間がかかり過ぎることがわかったので、円筒形のティッシュケースを使うことにしました。
箱ティッシュ1箱分が入ります。
車とか狭いところで使うのにいいです。

1歳の子どもが多く、なかなか母子分離とはいきませんでしたが、なんとか時間内に作成することができました。







素敵にできました!

ボフスラフ・マルティヌー(1890 - 1959年)オーストリア=ハンガリー帝国ボヘミア ボリチカ生まれ、スイス
リースタル没

は、チェコ出身の作曲家。6曲の交響曲を始め、様々な楽器のための30曲近くもの協奏曲、11作のオペラをはじめ、あらゆる分野で作曲を行うなど大変な多作家でした。

靴屋を営む両親は、この村の火災監視とヤコブ教会の教会堂の管理を任されていて、教会の鐘楼塔に住んでいました。
マルティヌーが生まれ、幼少期を過ごした教会の塔(1910年代の絵葉書)
ボフスラフもこの塔の中で生まれ育ちました。
父親はアマチュア劇団の熱心な団員で、母親は読書や歌が好きで、民謡歌手でした。

幼少期の彼は内向的な性格で塔の外へ出ることはほとんどなく、一日中本を読んで過ごしていました。

7歳の時から近所の仕立屋にヴァイオリンの手ほどきを受けると、めきめきと腕を上げ、やがて地元の弦楽四重奏団でヴァイオリン奏者を務めるようになりました。

12歳の時には弦楽四重奏曲を作曲しています。
こうした才能に気づいた周囲の勧めや篤志家からの援助でプラハ音楽院

に入学しました。
しかし、彼はここでの授業に満足できず、学校の許可を得ずに素人の楽団に加わったりしたため「慢性的な怠慢」によって1910年に退学となっています。その後1912年からは故郷の小学校で教師を務めていましたが、1917年に音楽院時代の友人スタニスラフ・ノヴァークの世話でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の第二ヴァイオリン奏者となりました。

チェコフィル、本拠地のルドルフィヌム


ドボルザークホール

1919年にはカンタータ『チェコ狂詩曲』でスメタナ賞を受賞し、作曲家としてのデビューを飾りました。

同じ年に国民劇場オーケストラの国外公演で行ったパリで印象派の音楽を知り、ルーセルのスコアに魅せられた彼は、その後、演奏活動の合間に図書館へ通い印象派の作品を研究しました。

1922年にスーク

ヨセフ スーク(1874-1935年)
のマスタークラスに入り作曲を学ぶことになった時には「ドビュッシーのように」作曲したいと語っています。
翌1923年には奨学金を得て、念願のパリで学ぶこととなりました。

パリではルーセル

アルベール ルーセル(1869-1937年)
に対位法を学び、フランス六人組やストラヴィンスキーなどの影響を強く受けた作品を作曲しました。
1929年頃から作風は擬古典的なものとなり、故郷の民謡などを題材にバロック風の作品を書くようになります

1931年、パリのカフェで知り合った縫製工シャルロットと結婚しました。
シャーロット・レオニー・ヴィクトリーヌ・マルティヌー– クエンネヘン(1894 – 1978)
1938年ミュンヘン協定が締結された後は、二度と故郷に戻ることはなありませんでした。
1940年、彼の名がナチスのブラックリストに載り、パリを離れ、スイスの友人パウル・ザッハーやエルネスト・アンセルメの援助でアメリカに渡りました。

1941年、マルティヌーは、ナチスのヨーロッパ侵攻を避けてアメリカ合衆国へ渡ります。
彼の6曲の交響曲の内5曲がアメリカ合衆国滞在中に作曲されています。

1945年、チェコが解放されると、プラハ音楽院から作曲科教授の要請がありました。マルティヌーはこれに同意を伝えましたが、その後この話は立ち消えとなりました。
1946年に、セルゲイ・クーセヴィツキー

クーセヴィツキー 1874-1951年
から依頼され、バークシャー音楽センターの夏期講習の講師を務めることになりました。

この夏期講習の際、宿舎のバルコニーから転落して重傷を負い、1ヶ月以上の入院を余儀なくさせられ、退院後も頭痛、耳鳴り、難聴などの後遺症に悩まされました。
この頃から作風は次第に軽いものに変わって行きます。この頃まで彼は祖国に帰るつもりでいました。

実際に1947年の交響曲第5番の初演に作曲家の代理で出席するためにプラハを訪れた夫人は、西ボヘミアの芸術家村に帰国後の住まいの下見に行ったりもしています。

しかし、1948年のチェコスロバキア政変で共産党政権が誕生し、文化政策に理解を示していたヤン・マサリクが死亡したとの報を承け、帰国を断念しました。
プリンストン大学

での作曲の客員教授に就任しました。しかし望郷の念はやまず、この年の夏から数度ヨーロッパを訪問する機会があり、1953年にヨーロッパに移ることにしました。

ヨーロッパに戻った後、最初はニースに住みましたが、1956年からはローマのアメリカアカデミーで教鞭を執りました。しかし住まいを構えることはせず、ホテルを転々として暮らしていました。様々な委嘱に応えて、数多くの作品を作曲しました。

1958年11月、胃の手術を受けますが、これはすでに手遅れとなった癌でした。1959年春までは小康状態を保ちますが、同年8月28日、スイスのバーゼル近郊のリースタルの病院で息を引き取りました。遺体は彼の遺言により、ザッハーが所有する森の一隅に葬られました。

1979年マルティヌーの遺灰は故国へ帰りました。その後、前年に亡くなった夫人の眠るポリチカの聖ミヒャエル墓地の墓に納められましたが、その墓石には『泉開き』の一節から "Jsem doma" (「われ、故郷にあり」)と刻まれました。

「春の庭園」H.125
「Jaro v zahrade (Spring in the Garden), H. 125」というタイトルの子ども向けの 4 つのピアノ曲集です。
1920年に作曲されました。
おそらく、個々の曲のタイトルは。作曲家がつけたのではなく、出版社または他の誰かによって後から追加された可能性が非常に高いです。

1.今何して遊ぼう?
2.すぐに眠りに行ったほうがいいと思う。
3.なぜ兵隊さんの役をしなくてはいけないのですか?
4.花を摘むのも悪くないよね。

「春の庭園」H.125 第4曲