僕は文系出身で、ほとんど理系的素養がない。本棚には生物学の本が少しはあるが。そんな僕ではあるが、ちょっと待ってくれと言いたいことがある。血液型による性格分類だ。いくらなんでも、血液型で人の性格が分類できるわけがないだろう。
これについては、実際に調べたことがある。教育実習で講義するためだ。社会に広範に流布している概念でも、科学的根拠のないことはいくらでもある、安易に信用してはいけない、ということを生徒に示すためにとりあげた。
しかし、あれからいったいどれくらいの年月が経っただろうか。いまだに、血液型性格分類は不動の地位を日本人の心の中に占めている。まったく不気味ですらある。もちろん、現代日本でも、さまざまな迷信はある。迷信が社会においてことさら害があるとは思わないし、それらを一掃することに、意味があるとも思わない。
しかし、人間の性格ほど複雑で不可解なものはない。精神科医や心理学者でさえ、人のこころなど読めない。現代医学も、いまだ人のこころの深奥までさぐってはいない。人のこころや性格を明らかにしようというのは、宇宙の成り立ちを解明するのと同じくらい、途方もない試みだ。
その未知なる人間のこころをたった4つの血液型で分類するなどというのは、当然科学ではない。単なる遊びだ。しかし、遊びというには、すでに度を越しているように思う。現代日本人は、現実を歪めて、無理やり簡素化・類型化しなければ、恐くて人間関係を築けないのだろうか。
確かに、組織や企業内では、あまりにも対人関係が複雑であると、組織活動にも影響がでる。組織は、その構成員をできるだけ類型化しようとしてきた。”出る杭は打たれる”という言葉が象徴的だ。就職活動は、個性を消したドブネズミ色のスーツと相場が決まっている。組織は、個性を嫌う。もし、人間の性格が4種類しかなければ、組織にとって非常に都合がよろしい。
こういう研究報告がある。
「血液型性格分類が流布されていることで、各人の行動様式に告げられた性格が織り込まれてしまっている影響が指摘されている」
(血液型ステレオタイプによる自己成就現象)
要するに社会に広範に流布されることにより、自己暗示がおこる可能性を示唆している。「血液型による類型化された性格」に、本当の性格が近づいていくということだ。実際ににそうした影響があるかないかは別として、社会にとってはそうあってほしい現象だろう。
日本社会は個性の発揮を忌み嫌う。この現代に、まったく非科学的な血液型性格分類なるものが一定の地位を保ち続けているのは、なるべく個性のない人間を量産したいという日本社会の願いのように思われる。
これについては、実際に調べたことがある。教育実習で講義するためだ。社会に広範に流布している概念でも、科学的根拠のないことはいくらでもある、安易に信用してはいけない、ということを生徒に示すためにとりあげた。
しかし、あれからいったいどれくらいの年月が経っただろうか。いまだに、血液型性格分類は不動の地位を日本人の心の中に占めている。まったく不気味ですらある。もちろん、現代日本でも、さまざまな迷信はある。迷信が社会においてことさら害があるとは思わないし、それらを一掃することに、意味があるとも思わない。
しかし、人間の性格ほど複雑で不可解なものはない。精神科医や心理学者でさえ、人のこころなど読めない。現代医学も、いまだ人のこころの深奥までさぐってはいない。人のこころや性格を明らかにしようというのは、宇宙の成り立ちを解明するのと同じくらい、途方もない試みだ。
その未知なる人間のこころをたった4つの血液型で分類するなどというのは、当然科学ではない。単なる遊びだ。しかし、遊びというには、すでに度を越しているように思う。現代日本人は、現実を歪めて、無理やり簡素化・類型化しなければ、恐くて人間関係を築けないのだろうか。
確かに、組織や企業内では、あまりにも対人関係が複雑であると、組織活動にも影響がでる。組織は、その構成員をできるだけ類型化しようとしてきた。”出る杭は打たれる”という言葉が象徴的だ。就職活動は、個性を消したドブネズミ色のスーツと相場が決まっている。組織は、個性を嫌う。もし、人間の性格が4種類しかなければ、組織にとって非常に都合がよろしい。
こういう研究報告がある。
「血液型性格分類が流布されていることで、各人の行動様式に告げられた性格が織り込まれてしまっている影響が指摘されている」
(血液型ステレオタイプによる自己成就現象)
要するに社会に広範に流布されることにより、自己暗示がおこる可能性を示唆している。「血液型による類型化された性格」に、本当の性格が近づいていくということだ。実際ににそうした影響があるかないかは別として、社会にとってはそうあってほしい現象だろう。
日本社会は個性の発揮を忌み嫌う。この現代に、まったく非科学的な血液型性格分類なるものが一定の地位を保ち続けているのは、なるべく個性のない人間を量産したいという日本社会の願いのように思われる。
自然相手のお米づくり、そのたいへんな苦労を実感いたしました。
また、寄らせていただきます。
ですよね。
俺も自分の考え方を再確認できました。
いろんな意味で。
ありがとうございます。
ちなみにB型です。
当然、日本に限ったことではなく、どの時代のどの社会にも共通します。したがって普遍的必然とも言えます。しかし、それが社会の活力を奪ってしまうほどであるとしたら、それは問題です。
いま、人材がどんどん海外へ流れる傾向にあるのも、日本の社会が活力を失っているからでしょう。景気が悪いというだけではないです。それは、スポーツの世界にも表れています。野球界でも人材は海外へ流れています。おカネや名誉の問題だけでなく、より魅力のあるフィールドへ人は魅かれるものです。
政治や経済、社会構造というのは、恒久不変なものではなく、本来時代に応じて変化していくものです。しかし、たいていの社会では、変革よりも現状維持の方向へ力が働きます。しかし、それが度を越せば社会の活力を奪ってしまいます。
古い体制を維持したい社会運営者には、個性の発揮とは有害なものです。豊かな個性の育成は、社会を活性化すると同時に、物事の価値感も変えます。不必要なもの、無駄なものは淘汰されます。したがって古い価値観を維持するためには、画一的(没個性的)である必要があるのです。
個性とは、人と違ったことをすることでも、奇抜なことをすることでもありません。自分の人生を豊かに生きるという過程で現れてくるものにすぎません。そして、豊かさの追求の仕方は人それぞれです。
本来、多様であるものを、画一化しようとすれば、必ず歪みがでます。
確かに日本の就職活動・企業は没個性ですよね。でもそれは日本の場合、経済成長が90年代のバブルの頃まであまりに順調かつ急速に進み続けて、人々が企業というものに対して疑問を持たなくなってしまったからではないですか?企業にとっては消費者も社員も没個性的である方がマーケティングしやすく利益も出しやすいんでしょうね。
そして、それは日本に限った事ではないのでは・・?と。2年ほど前ヨーロッパ旅行をしたのですが、現地の10代が自分の10代の頃と同じように企業のマーケティング戦略どおり、没個性化してるのを見ましたよ。
自分も今24でこうした問題に興味を持ったばかりですけど、日本社会=没個性と決める前になぜ没個性なのか分析するべきなのでは・・と思います。
科学技術の進歩によって、われわれの暮らしの利便性は増していますが、われわれの置かれている状況は何も変わっていません。政治や経済の構造が変わっていないのですから、社会も変わりようがありません。
われわれの暮らしをより豊かにするにはどうしたらよいのか。それを考えていきたいと僕は思っています。もちろん、日本人の暮らしだけが良くなればいいのではありません。また、豊かさとは何かというのも、とても抽象的な概念です。それを、ひとりひとりが考えることが、ものごとをより良い方向へ変えていく社会的なエネルギーになると思っています。大切なのは、ひとりひとりが事実を観察し、自分で考えるということです。
議論や討論もその過程を補完する大切な作業だと思います。この世界を、日本をよりよくあって欲しいという共通の願いが確認し合えれば、たとえ、相反する考え方であったとしても歓迎しています。
マスコミ関係者に多いですね。 あなたのようなのが。
コメントありがとうございます。
そうです。日本は本来、多様な文化や習慣、言語を有するバラエティ豊かな社会なんです。それを、どんどん単一で均質の方向へ持って行こうとしているわけです。日本人は「単一民族」などというのは、その最たるものです。そして琉球文化やアイヌ文化は、ほぼ完ぺきに破壊されてしまいました。文化的な多様性が失われ、日本人が均質化していくほど、社会の持つ活気、エネルギーも失われていきます。
ここ数年、年間の自殺者数が、3万人を超えているのも、社会的な耐久力がないことの表れだと思います。日本の自殺率は常に世界トップレベルを維持しています。常に周りに迎合しながら生きてきた日本人は、困難に対して非情に脆弱になっているように思います。
このまま、日本人の単一化、没個性化が進むというのは、実に怖ろしいことです。
日本には、地獄の特訓みたいな新入社員研修がありますが(いまはどうなのかな?)、僕は、もうそれだけで、企業では働けないと悟りました。ついにリクルート・スーツを着ることもありませんでした。体験したことがないから、はっきりとは言えませんが、見るからにバカバカしい新入社員研修は、これから属する集団への同化をうながす儀式なのでしょう。自分を捨てて、集団に奉仕する精神ですね。
日本の社会は、決して、自分を発揮して、集団に貢献するということではないわけです。
思うに、こういう社会が一度下降線をたどると、なかなか浮上できなくなるように思います。没個性で自分を主張することの苦手な集団は、本質的には活力のある集団とは言えないです。景気のいいときは問題がなくても、ダメになりだすと、どんどんダメになる。
東南アジア諸国は、長く貧しい時代を経てきましたが、貧しくとも、とても活気のある社会だと思います。煮えくり返るような生活のエネルギーにあふれています。僕は、ずっと日本を出たり入ったりしてきましたから、それを強く感じます。逆に日本は、景気のよかった豊かな時代でも、そういう煮えるようなものはあまり感じませんでした。
没個性の日本の社会は、本質的に生きるエネルギーを生み出さない構造なのだと思います。しかし、統治するには、非常に都合がよい社会と言えます。
日本の社会というのは、あらゆるベクトルが、没個性(類型化、パターン化)の方向に向っていると思います。
人間、自分は自分でいいのですよ、ね。
血液型による類型化に対して僕も日々小さな疑問を感じていました。単なる遊びといってはそれで事足りるでしょうが、日本人のほとんどがこの遊びを知っているということの方が興味深いです。
それと最近ちょっと不気味に思っているのが、NHKの列島リレーニュース。日本各地のどうでもいい話題を毎朝報道しています。あれは完全に「日本人」を「日本人」として再確認させるためだと思っています。
それほど「同質」であることを日々確認しなければいけない日本人は、実は他国よりも多様な考え方や出自を持っている個人の集まりなのかも知れません。
私は一般企業で働いたことが無いのでよく知らないのですが。。。
学生の時、海外の大学生が日本の企業で研修を受けるための手伝いをやるサークルに入っていました。
で、京都の某メーカーに行った人が「毎日朝礼で社訓を読んでる」って苦笑いをしていました。
「ワレワレ@@ハ、シャカイノタメニ・・・」とか、毎日読まされるから覚えたって言っていました。
ちょっと、こういうのも、怖いですよねぇ。
日本の企業では当たり前なのかもしれませんが。
大丈夫ですよ。
疑問を持っているということは、ちゃんと自我を持っているということですから。完全に組織に同化してしまったら、疑問も不安も感じませんからね。
<タリバンファンさんへ>
そういえば、mixiで「血液型バトン」ってありましたね。
あれも、多くの人に抵抗なく受け入れられているという事例のひとつといえるでしょう。でも、あれも遊びですから。そのものには、問題はないんです。
社会の中に病根があるんです。
<reiさんへ>
マイナス・イオンもよく聞きますねぇ。
よく耳にすれど、いったいそれが何なのかは、さっぱりわからない。
天木直人さんのHPを読んでいたら、
「自民党に入れない人は、地獄に落ちる」
と発言した有名な女性占い師のことが書いてありました。
こういうことをTVでは平気で発言させるんですねぇ。
<Meeさんへ>
日本の教育内容から言えば、この程度のまやかしは一蹴されていいはずなんですが、それが、ここまで長く(1970年くらいかららしいです)社会の中で生き続けているというのは、明らかに不自然なんです。不自然なことには、かならず理由があるはずです。
僕のような文系人間は、これは社会の維持に都合のよい概念だから、わざと温存されていると見るわけです。日本の社会は、「個的行動」よりも「集団的行動」を尊重します。その方が何かとコントロールしやすいですからね。常に「集団的行動」の条件づけを行っていると思います。
スポーツの応援でも、僕は不気味なものを感じることがあります。
血液型信仰やスポーツの応援、あるいは組織運営方法などから、日本の社会の状態が見えてくるわけです。その見えてくる日本の社会にちょっと愕然とするわけです。
思うに、微妙に科学的っぽいから此処まで信じられているのか、とも。
星占いはお遊び程度ですが、血液型となると信じ切ってる人居ますから。
しかしですねぇ、たかだか赤血球の表面のタンパク質がちょっと違うだけで性格が変わるかぁぁぁあ?
各個人の差なんていうのはもっともっと沢山あります。
そもそも、「家族の前での自分」と「職場での自分」はまるっきり性格が違っていたりしますし。
誰だって積極的でもあり、慎重であるときもあり。
大体、「専門家」のデータとか、自分の理論にあってるところだけ見せてるし。
そうやって血液型信仰をテレビでガンガン流している人々に、本当に嫌悪感を覚えます。実際にいじめとかに発展していますよね・・・・。
と、まぁ、そういう風潮に解せないと思ってばかりだったのですが、「どこかの型に属さないと不安」というのはあるかもしれないですねぇ、日本人。
そういう目でこの「血液型信仰」を見たことはありませんでした。
キング或いは超常的な占いなどが必要以上に溢れています。
これらは今まで、一種の文化として、科学的追及をしない代わりに控えめにしておくという倫理が存在していたのですが、現在のメディアにはそんなものは微塵も無いようです。
□型は○○しなければならない。
○○しないと地獄に堕ちる。
という様な個人のアイデンティティーを無視した表現は吐き気がします。
他にもマイナスイオンというものがあります。
熱狂しているのは日本だけです。
この程度のものを科学的に追求し、論破することは簡単なのですが、それでも日本人は何の根拠も無く今日もせっせとマイナスイオン製品を買っているのです。反論する人々の声は全く届きません。
根拠の無いものを信じる理由は「周りがそうしているから」と「エライ人が言っているから」の二つに尽きるでしょう。
マイナスイオン程度ならいいのですが、世の中には同じやり方の巨悪が存在することも事実です。
日本社会は同じ顔をし同じ髪の色をし、誰かに従い、機械になっていれば安泰が訪れるという様な宗教があります。それが今日の社会的混乱の元凶の一つでもあります。
受動的ではなくもっと能動的に…
そんな変化をしてもいいように感じます。
まわってきて、遊び心でやりました、、、
>もし、人間の性格が4種類しかなければ、組織にとって非常に都合がよろしい。
なるほど、そういう事ですか、
私も会社人間として、何年間も
家庭を犠牲にしての残業、
ミーティング、社内のコミュニケーションを
図るためという食事会、飲み会などなど
気がつけば、AかB、どっちかの取り巻き連中に別れ、そのまた、枝分かれして
会社の中は、まさに人間関係が4分類されているかのようでした。
血液型での分類は、そんな地位を築いてしまっていますか。確かにみんな、人の血液型をよく聞きます。そして僕も時どき聞きます。しかも、幾分当たっている気がしています。A型の人はやはり几帳面な人が多い気がします。血液型もなかなか面白いと思っているわけです。
“日本社会は個性の発揮を忌み嫌う”
これは僕も日々感じます。これは本当に嫌でたまりません。しかし、僕は残念ながら会社という組織に属してしまっています。そのうち飼い慣らされてしまうのでは?あるいはもう飼い慣らされてしまっているだろうか?と日々不安になります。