カブールに着いて、報道関係者が最初にしなければならないのが、取材許可書を取ることだ。在日アフガニスタン大使館のサイトにも明記してある。これがなければ取材は許されない。
カブールは二度目とはいえ、最初に訪れてから8年も経っている。街の様子も激変している。まったく地理が分からないので、タクシーを利用したが、官庁街は歩いていける距離だった。しかも常に道路が渋滞しているため、歩いたほうが速い。
取材許可書は外務省で発行している。タリバーン時代と同じだ。オフィスは二階から三階に移動していた。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/35/0f05aee5f834bc23a5980cfc5e867966.jpg)
オフィサーから簡単な質問を受けた。取材地や滞在期間など基本的なことだ。
「ところで、アフガニスタンは初めてですかな?」
「いえ、二度目です」
「前回はいつで?」
「1997年です」
「・・・タリバーン・タイム」
「ええ、タリバーン・タイムです」
「当時は取材に支障はありませんでしたかな?」
「まったく問題ありませんでした」
それは意外ですな、という感じで取材許可書は発行された。取材許可書はA4用紙で、それに写真をステイプラーで留め、スタンプで割印をするというものだった。こういうのが一番困る。二つ折りや四つ折りにして持ち歩くとすぐにボロボロになる。ラミネートすると下敷きみたいになってとても不便だ。大事な取材許可書なので、滞在中は大切に保存したい。一日中歩き回るカメラマンにとってはA4用紙は処置に困る。オリジナルは部屋において、コピーを持ち歩くしかない。
はやくももらったばかりの取材許可書の処置に困ってしまった。カメラバッグには入らないし、ましてやポケットには入らない。結局、手に持つしかなかった。部屋を辞すときに、
「そうそう、二、三日後に大きな式典があるので、国防省へ行ってカードをもらってきなさい」
と言われた。
まだまったく地理が分からないのに、次は国防省を探さなければならない。結局、外務省からそれほど離れてはいなかったが、5人くらいに道を訊ねた。国防省は、セキュリティが厳しかった。二つのゲートですべてのカメラのシャッターを切らなければならない。中に爆弾が仕込まれていないかを確認するためだ。建物に入るときも、またシャッターを切らされた。6コマが無駄になった。 式典取材用のカードを受け取るときにもやはり、6コマが無駄になった。ただ、このカードはアフガニスタン滞在中、取材許可書の代わりとして大いに役立った。フォルシー(ダリ語)で「カルタ・ジョナリスタ」とでかでかと書かれていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/83/ffcb95ffbf276a1ac1b28dcacdba8287.jpg)
最初の数日間は、申請や手続き、そして式典でつぶれた。
式典は、「ムジャヒディン勝利式典」というものだった。
報道陣は、朝5時30分に集合させられ、バスで会場に運ばれた。しかし式典は11時からだ。
会場に着くと、徹底的な身体検査と荷物チェックをされた。カルザイ大統領やドイツの国防大臣などが出席するため、セキュリティは最高レベルだった。つまり、誰も信用しないということだ。チェックが厳重なのは理解できるが、ほとんど犯罪者扱いだった。高圧的で、絶対服従を強いる非常に気分の悪い態度だった。厳しい中にも節度というものが必要なはずだ。我々でさえ犯罪者扱いするくらいだ。収容所の中の人々がどんな扱いを受けているかは、想像に難くない。
チェックが済むと、狭い囲いの中に詰め込まれ、絶対にそこから出てはいけない。約30人が、朝の6時から、昼の2時までそこに閉じ込められた。炎天下の中、水もない。
囲いの周りには、M4A1自動小銃を持った5,6人のセキュリティが目の前でこちらを監視している。銃はいつでも発射できる状態だ。要人席と報道陣の囲いとは100メートルは離れている。空には、アパッチ攻撃ヘリが2機展開している。ここまですれば、確かにテロの危険はないだろう。
アホくさくて、終始、本を読んでいる白人記者もいた。その気持ちは大いにわかる。あるいは一種の抗議だったのかもしれない。普通こうした式典などでは、カメラマン同士で場所取りの激しい攻防が繰り広げられるのだが、それさえもまったくといってなかった。会場の片隅に閉じ込められては、どこから撮っても同じだ。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/fb/3f56f8692d5675553523824e82ac98ed.jpg)
見所もない退屈な式典がようやく終わると、報道陣はセキュリティから犬猫のように追い払われた。態度の悪い、つまり優秀なセキュリティから、僕は背中を突き飛ばされ、行け!と命令された。彼らは、人に高圧的な態度をとることが職性であり、それを行使したくてしかたがないといった感じに見えた。不必要に高圧的なのだ。グアンタナモやイラク、アフガニスタンの収容所の様子が推し量られる。
一応、カルザイ大統領だけは真剣にショットしておいた。アメリカの石油会社ユノカルの最高顧問としてタリバーン政権との交渉を担当し、そしてアフガニスタンの大統領に据えられた男、ハミド・カルザイ。ほんの数秒だが、ジープに乗ってわれわれの前を笑顔で通過していった。
カブールは二度目とはいえ、最初に訪れてから8年も経っている。街の様子も激変している。まったく地理が分からないので、タクシーを利用したが、官庁街は歩いていける距離だった。しかも常に道路が渋滞しているため、歩いたほうが速い。
取材許可書は外務省で発行している。タリバーン時代と同じだ。オフィスは二階から三階に移動していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/35/0f05aee5f834bc23a5980cfc5e867966.jpg)
オフィサーから簡単な質問を受けた。取材地や滞在期間など基本的なことだ。
「ところで、アフガニスタンは初めてですかな?」
「いえ、二度目です」
「前回はいつで?」
「1997年です」
「・・・タリバーン・タイム」
「ええ、タリバーン・タイムです」
「当時は取材に支障はありませんでしたかな?」
「まったく問題ありませんでした」
それは意外ですな、という感じで取材許可書は発行された。取材許可書はA4用紙で、それに写真をステイプラーで留め、スタンプで割印をするというものだった。こういうのが一番困る。二つ折りや四つ折りにして持ち歩くとすぐにボロボロになる。ラミネートすると下敷きみたいになってとても不便だ。大事な取材許可書なので、滞在中は大切に保存したい。一日中歩き回るカメラマンにとってはA4用紙は処置に困る。オリジナルは部屋において、コピーを持ち歩くしかない。
はやくももらったばかりの取材許可書の処置に困ってしまった。カメラバッグには入らないし、ましてやポケットには入らない。結局、手に持つしかなかった。部屋を辞すときに、
「そうそう、二、三日後に大きな式典があるので、国防省へ行ってカードをもらってきなさい」
と言われた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/5b/7e08e4d5276a430b4584dcbdbf97ab96.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/83/ffcb95ffbf276a1ac1b28dcacdba8287.jpg)
最初の数日間は、申請や手続き、そして式典でつぶれた。
式典は、「ムジャヒディン勝利式典」というものだった。
報道陣は、朝5時30分に集合させられ、バスで会場に運ばれた。しかし式典は11時からだ。
会場に着くと、徹底的な身体検査と荷物チェックをされた。カルザイ大統領やドイツの国防大臣などが出席するため、セキュリティは最高レベルだった。つまり、誰も信用しないということだ。チェックが厳重なのは理解できるが、ほとんど犯罪者扱いだった。高圧的で、絶対服従を強いる非常に気分の悪い態度だった。厳しい中にも節度というものが必要なはずだ。我々でさえ犯罪者扱いするくらいだ。収容所の中の人々がどんな扱いを受けているかは、想像に難くない。
チェックが済むと、狭い囲いの中に詰め込まれ、絶対にそこから出てはいけない。約30人が、朝の6時から、昼の2時までそこに閉じ込められた。炎天下の中、水もない。
囲いの周りには、M4A1自動小銃を持った5,6人のセキュリティが目の前でこちらを監視している。銃はいつでも発射できる状態だ。要人席と報道陣の囲いとは100メートルは離れている。空には、アパッチ攻撃ヘリが2機展開している。ここまですれば、確かにテロの危険はないだろう。
アホくさくて、終始、本を読んでいる白人記者もいた。その気持ちは大いにわかる。あるいは一種の抗議だったのかもしれない。普通こうした式典などでは、カメラマン同士で場所取りの激しい攻防が繰り広げられるのだが、それさえもまったくといってなかった。会場の片隅に閉じ込められては、どこから撮っても同じだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/fb/3f56f8692d5675553523824e82ac98ed.jpg)
見所もない退屈な式典がようやく終わると、報道陣はセキュリティから犬猫のように追い払われた。態度の悪い、つまり優秀なセキュリティから、僕は背中を突き飛ばされ、行け!と命令された。彼らは、人に高圧的な態度をとることが職性であり、それを行使したくてしかたがないといった感じに見えた。不必要に高圧的なのだ。グアンタナモやイラク、アフガニスタンの収容所の様子が推し量られる。
一応、カルザイ大統領だけは真剣にショットしておいた。アメリカの石油会社ユノカルの最高顧問としてタリバーン政権との交渉を担当し、そしてアフガニスタンの大統領に据えられた男、ハミド・カルザイ。ほんの数秒だが、ジープに乗ってわれわれの前を笑顔で通過していった。