報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

イスタンブールの爆弾

2005年01月10日 20時08分19秒 | ●イスタンブル爆弾
 タリバーンのアフガニスタンを取材したあと、イランをトランジットで通過し、トルコに入国した。

 イスタンブールは地上の宝石だ。
 これほど、美しく、ロマンのある街もそんなにはないだろう。
 イスタンブールを境に、ヨーロッパとアジアが顔をつき合わせている。
 街そのものが世界史でもある。
 二週間前には、空襲やロケット攻撃のアフガニスタンにいたことがウソのようだった。
 
 イスタンブールで、安宿街の中にあるカーペットショップのイラン人店員と仲良くなり、彼が働く店でごろごろしながら、アフガニスタンで壊れてしまった体をやすめていた。イラン人店員は日本で働いたことがあり、かなり日本語が達者だった。日本語を話すイラン人は好人物が多い。それに比して日本語を話すトルコ人は悪党が多い。残念だが本当だ。

 ある日、店の外で彼と立ち話をしていたとき、いきなり空気を切り裂く異様な音響とともに大爆音が轟いた。我々は発射的に身をすくめた。目を開けると、巨大な黒煙が辺りを覆っていた。
 爆弾だった。
 十字路に立ち込めた不気味な黒煙を、ふたりで唖然と見つめた。爆弾は、小さな十字路の対角で炸裂した。ほんの10メートルほどの近さだった。本来我々二人は吹き飛んでいるはずの距離だ。一瞬その場を逃げかけた。親子爆弾の可能性もあると思ったのだが、店の軒下にカメラバッグを置いていた。カメラを手にするとやはり撮影してしまう。
 爆弾は、ゴミ箱の中に仕掛けられていた。
 人通りはほとんどない静かな通りだったので、幸い三人ほどが軽い怪我をしただけだった。

 ゴミ箱のあった位置を撮影したが、それが爆発のあとだとは写真では分からないくらいの損傷だった。ただ、そばにあった車のボディにはいくつも破片が貫通していた。ゴミ箱のすぐそばに人がいれば、ひどい怪我をしていただろう。我々が立っていたカーペットショップのガラスにもいくつか破片が貫通し、中の絨毯にも穴があいていた。やはり、体に当たれば、痛いだけではすまなかっただろう。

 爆発から五分もしないうちに、警察官や刑事が来た。異様にすばやい。イスタンブールの観光名所は、武装警官のものものしい警備が目立っていた。こういう事態は予想済みだったのかもしれない。

 その日のトルコのニュースはPKK(クルディスタン労働者党)の犯行と伝えていたようだ。
 PKKはトルコからの分離独立を目的とするクルド人武装ゲリラ組織だ。第二次大戦以降、クルド人はトルコ政府による理不尽な同化策を強いられてきた。あくまで分離独立を主張するクルド人には容赦ない攻撃が加えられている。トルコ軍による掃討作戦で、三万人のクルド人が犠牲になったとも伝えられている。同時にPKKもトルコ市民に対する攻撃を躊躇することはなかった。PKKは2000年には武装闘争を放棄して政治組織になったが、戦闘がなくなったわけではない。PKKのリーダー、アブドラ・オジャランは99年にケニアのナイロビで逮捕されている。

 爆発地点を撮影しているとき、少々足が震えた。たとえ最小クラスの爆弾といえども、自分の目の前で炸裂したのだ。「これがもう少し大きければ・・・」と思うと恐怖がこみあげてきた。いつどこで炸裂するか予想しようもない爆弾テロは、すなわち防ぎようもない。だから効果的なのだ。

 イラン人の友人とお互いの無事を喜びあったが、小さいながらも、この爆弾の恐怖は、しばらく我々の心にしつこくこびりついていた。小さくてよかったと思うと同時に、これがもう少し大きな爆弾だったら、我々が無事だった可能性は明らかに低い。何の遮蔽物もないところに我々は突っ立っていたのだ。

 クルド人の置かれている状況を、僕は十分に承知している。クルド民族は、国を持たない最大の民族だ。人口は約3000万。主にトルコ、イラン、イラクにまたがって分布している。どの国においてもクルド人の歴史は迫害の歴史だ。フセインによる毒ガス攻撃は、とくに有名だ。

 しかしながら、そうした知識は一発の爆弾の前に消し飛んでしまった。不特定多数の民間人を容赦なく殺傷する爆弾テロは、いかなる理由があろうとも容認することはできない。もちろん、トルコ政府のクルド人に対する苛烈な政策も容認する事はできない。
 しかし、迫害された者は、相手国民を無差別に殺戮しても許されるということにはならないのだ。

 もう二度と爆弾はごめんだと思っていたが、このちょうど一年後に、史上最大クラスの爆弾テロをナイロビで目の当たりにすることになってしまった。

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