goo blog サービス終了のお知らせ 

報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

ランドスライド 

2006年02月27日 19時13分51秒 | ●パキスタン地震
「昨日、ランドスライドがあったよ」
16才のジャファーが情報を届けてくれた。
ランドスライドと聞いて、道路沿いの崖が崩れたのだと思った。
山岳部へ通じる幹線路には無数の危険箇所がある。
崖道を車で走っていると、いまにも頭の上に崩れ落ちてきそうな地層に恐怖を感じる。
しかし、ランドスライドがあったのは、誰も予想もしなかった場所だった。
ムザファラバード市内だ。

1月31日、ムザファラバード市内のSama Bandi地区の斜面がゆっくり移動し20家屋を呑み込んだ。
強い余震があったわけではない。
雨が降ったわけでもない。

現場を訪れると、特に急な斜面でもなかった。
そんなところが、突然移動しはじめたのだ。
大地はゆっくり移動し、3日かけて家屋を飲み込んでいった。
異常を感じた住民は事前に避難していた。

おなじような危険地域は他にもあるに違いない。
しかし、どこがスライドするかは誰にも予測できないだろう。
ムザファラバード市や山岳部の村の再建の困難さを感じてしまう。

ランドスライドの基点部。幅約100m、長さ約300mに渡って大地が移動し、すり鉢状に窪んでしまった。






















斜面は窪み、波打ち、ひび割れ、元がどのような状態だったのか想像できない。









もはやまともに歩くことができない。
雨が染み込むと大地は重みを増し、さらに下流へ押し流されるのではないだろうか。











































画面左端がスライドの先端部。ひとまずここで停止したが、安心はできない。

ランドスライドの先端部によって押しつぶされたファルーク氏の家屋。








ランドスライドの境界線。
隣家は倒壊。かろうじて難を逃れたものの恐怖が去ったわけではない。














この地域一体は危険地帯とされている。さらなるスライドの恐怖を抱えたまま住み続けるしかないハジさん。








ランドスライドで家屋を失った人々。20家屋が押しつぶされた。










かろうじて難を逃れたテント。
しかし、この地域一体150戸がスライドの危険を抱えている。

配給

2006年02月25日 19時19分29秒 | ●パキスタン地震
被災者には生命線と言えるWFPによる小麦粉の配給。
小麦粉は主食チャパティとなる。
この日は、一家族に25kgの小麦を三袋と植物油一缶が配給された。
別の日に、紅茶、ビスケット、ドライフルーツなどの嗜好品と石鹸、歯磨き粉などが配られた。
野菜や肉類などの配給はほとんどない。
各家庭でやりくりしなければならない。
昼にWFPから小麦粉が運ばれてきた。





























箱の中身は植物油。USAIDから。

配給の準備が整ったのはすでに夜。名簿と登録カードを照合し、配給券が渡される。














合計75kgの小麦粉を担ぐ。













別の日に、紅茶やビスケットなども配られた。

こちらの袋は、「スイート」だそうだが、中身は分からず。








テント学校・青空学校

2006年02月24日 20時02分44秒 | ●パキスタン地震
地震で学校もほとんどすべてが破壊された。
多くの児童学生、教師が犠牲になった。

ほとんどの親が子供の教育が途絶えてしまうのではないかと危惧している。
教育に関しては、Unicefと多くの地元の教師の努力によってかろうじて維持されている。
しかし学校の数も教師の数も圧倒的に足りない。
もちろん、机椅子、黒板などの備品は無きにひとしい。

校舎はUnicefによって大型テントが贈られているが、
テントの外で授業をすることも多い。
テント内のスペースの問題もあれば、
震災の後遺症の場合もある。









































































































テント生活:雨

2006年02月23日 15時21分24秒 | ●パキスタン地震
ある朝、テントを打つパラパラという音がした。
雨だ。
誰もが恐れている雨。
支給された防水シート一枚でどこまで防げるのか。
外に出られない強さだった雨は、しだいに弱くなり数時間で止んだ。
昼には太陽が出て、強い日差しが大地を乾かした。

ムザファラバード滞在中に経験した雨はその程度だったが、
土砂降りの雨が一日中続けばどうなるかは明らかだ。
「ウォータープルーフ・テントが欲しい」、誰もがそう願っている。


































































テント生活:サニタリー

2006年02月22日 16時08分47秒 | ●パキスタン地震
大集団による共同生活で問題になるのが公衆衛生だ。
衛生設備は各国政府、国連機関、NGOなどによって作られている。
パキスタンの一般的な水洗様式が用いられている。
テント・ビレッジの人口に比べ、サニタリー設備の足りているところは少ないだろう。
中にはまったく設備のないテント・ビレッジさえある。
女性にとっては由々しき問題だ。

また、寒い季節に冷たい水を浴びることは、
体調を崩す恐れもあるため、
この時期ほとんど水浴びはなされていないようだ。
頭髪に虱のわいている子供もいる。
衛生環境はよいとは言えず、今後悪化することも考えられる。


白く点在しているのがサニタリー。ここは随所に設備があり、充実しているようだ。

敷地の問題もあり、十分な数が作れないところは不便を強いられる。
女性には辛い環境だ。

テント生活:炊事洗濯

2006年02月21日 18時02分39秒 | ●パキスタン地震
炊事は各家庭で行う。
たいていはテントの外に簡単な釜戸が作られている。

テントが密集しているので火元が多少不安である。
















燃料も各家庭で枯れ木や古着を拾ってくる。














テントの中で炊事をしている家庭もある。
炊事と暖房を兼ねているわけだが、少し不安である。








             テントの中は煙と湯気でかなりむせ返っている。

火の粉や灰が舞うこともある。










テント火災も発生しておりパキスタン軍が消火器を配布した。














主食のチャパティ。
















チャパティ用の小麦粉はWFP(世界食料計画)によってなんとか配給されているが、野菜や肉類などは配給されない。












飲料水はMSF(国境なき医師団)やOxfamなどのNGOの努力によって十分確保されている。









洗濯やトイレ用の水は水道がひかれている。これはオーストリア軍によって建設された水道。






























テント生活

2006年02月20日 19時31分59秒 | ●パキスタン地震

狭く不便なテントだが、中は何とか居住性を良くしようとそれぞれ工夫している。







防水シートの上に布団をひき、荷物や毛布が背もたれになる。居心地はかなりよい。








しかし、3m四方ほどの三角テントの中は狭い。中央部しか立てない。









ジッパーはないので気密性はない。外気も砂埃も舞い込んでくる。だいたい布団の上は常にざらざらである。






















どこも大家族なので、全員がテントに入るとかなり狭い。










日が落ちると急速に気温が下がる。機密性のないテント内は外気と同じ気温になる。






































徐々に電線を張る工事はなされているが、電気のないテントは多い。
























電気が来て、いくら居住性をよくしても、所詮は三角テントである。
いつまでも住みたいと思う人はいない。
ましてや、防水加工もほどこされていない隙間だらけのテントである。
誰もが雨が降ることを恐れている。

破壊された街

2006年02月18日 23時13分41秒 | ●パキスタン地震
ムザファラバードの街を遠くから望むと一見何事もないかのごとく見える。
しかし、破壊の程度に差はあるものの、街の全域が被害を受けている。
倒壊していないだけで、すでに居住するには危険すぎる建物が多い。

都市としての機能は、ひとまず維持されている。
電力も飲料水も供給されている。
商業活動も行われ、食料品や日常雑貨は問題なく手に入る。
ただし産業と言えるものはない。













































































































テント・ビレッジ

2006年02月17日 19時27分46秒 | ●パキスタン地震
かの地で移動中に目にするのは無数のテント・ビレッジだ。
ムザファラバードの市内、郊外、山間部を問わず、いたるところにテントの集落がある。
テント・ビレッジの住人は、山間部の被災者だ。
都市部の被災者は、自宅脇や自宅の上にテントを張って生活している。
狭く不衛生なテント生活はいつまでも続けられるものではない。
しかし、山間部の村は、いまも土砂崩れの危険にさらされている。





































































被災地ムザファラバードから

2006年02月09日 18時56分04秒 | ●パキスタン地震
ムザファラバードからお送りします。

この地にきて三週間が経ちます。
ビザを延長し、あと一週間滞在できます。
この間、あるテント・ビレッジで寝起きしています。

この地の被災者の現状を手短にお伝えするのは難しいです。
想像以上に環境は悪いと言えます。
しかし、今日明日生きる死ぬという状況ではありません。
長期的な問題です。
三ヶ月後、半年後、一年後のことが被災者にはまったく分からない。
好転しているかもしれないし、悪化しているかもしれない。
不便なテント生活をしながら、ひとまず今日を生きるしかありません。
未来に対して何の希望も見出せない、それが被災者の現在の気持ちです。

食料は足りているとは言えないです。
シャワーを浴びることもできないので、衛生環境も非常に悪いです。
日中は暑いといっていいくらいの陽気ですが、日が落ちると極端に気温が下がります。
テントの中はかなり冷え込みます。
粗末なテントでは寒さを防ぐことはできません。

数字的には莫大な国際援助金が、届いているはずですが、実際に被災者の手元に届いているのは、驚くほどわずかなものです。

テント生活をする被災者にとってさらに不幸なのは、「被災者救援」が国内外の政治宗教団体の宣伝や勢力の拡大に利用されていることです。
その詳しい実態は僕には窺い知ることができませんが、かなり「過激」な団体が運営するテント・ビレッジもあるようです。

被災地からレポートできるのは今回だけだと思います。
明日からパキスタン・インドの国境地帯の被災地へ行きます。

中司達也
ムザファラバードにて

なぜ国際社会はパキスタン被災者に冷たいのか

2005年11月09日 19時29分19秒 | ●パキスタン地震
パキスタン北部地震での公式死者数は7万3276人(11月2日時点、パキスタン政府発表)。
また、世界銀行などの調査では8万7350人。
負傷者は10万人。
被災者は300万人。

ただ、パキスタン北部地震は、こうした数字で見る以上に深刻な被害をもたらしている。被害は標高3000メートルを越える高地に集中している。道路は寸断され、まともに通行できない。ヘリコプターでしかアプローチできないため、救助や救援は困難を極めている。治療を受けらないまま耐えている負傷者も多い。食料や物資の輸送もいまだ十分とは言えない。そして、これから厳しい冬をむかえなければならない。日々、二次災害が進行していると言える。

インドネシア沖地震による津波では、道路は影響を受けなかった。また、津波の物理的な被害は、最大でも海岸線から300メートルほどだった。道路も残り、被害の面積も小さかった。被災後の救助・救援は非常に円滑かつ迅速に進んだ。

被害の状態を考えれば、パキスタン北部地震は、より多くの援助が必要だと国連機関は訴えているが、実際は、国際社会はインドネシア沖地震のときよりもはるかに消極的だ。

未曾有の災害に際して、国際社会がとる救援や支援・援助というのは、その被害の規模で決まるのではないことが、よくわかった。結局、国際社会における地位によってすべては決まるということだ。他国にとって重要な国は、手厚い援助を受けられ、そうでない国は、見捨てられる。そういうことだ。

インドネシアは、アメリカをはじめ日本、オーストラリアと30年以上にわたって良好な関係にある。インドネシアな広大な国土を有し、豊富な天然資源も存在する。地政学的な重要度は特に高い。マラッカ海峡は海運ルートの要衝だ。タンカーや貨物船だけでなく、米軍の艦船や潜水艦も航行する。イラク戦争で米軍艦船の支援にむかった自衛隊の艦船も当然マラッカ海峡を通行した。

マラッカ海峡は、経済的にも軍事的にも非常に重要な海の通路である。もし、インドネシアがマラッカ海峡を封鎖すれば、多くの国が影響を受けることになる。アメリカや日本、オーストラリアが腐敗した独裁者スハルトを支援し続けたのは、このためだ。もちろん、スハルト後も、インドネシアの重要度は変わらない。

では、パキスタンはと言えば、核開発に象徴されるように、国際的な協調よりも、独自路線を堅持してきた。反米的な姿勢も強かった。また、インドとは長年カシミールをめぐる争いを展開している。地政学的にも、先進国にとって重要とは言えない。アフガニスタン戦争・イラク戦争に際して、ついにアメリカに協調する姿勢をとるようにはなったが、国民の反米感情は以前にも増して強くなっている。

歴史的、地政学的にみて、インドネシアとパキスタンは、国際社会での位置や重要度が歴然と違っている。災害に際しての、国際社会のとる援助・支援の差は、ここに由来していると言っていいだろう。未曾有の災害に際して、国家間の援助に頼っている以上、常にこのような現象がおこる。本来、国連のような機関が資金をプールしておくなどの備えが必要なのではないだろうか。それが国際機関としての役目ではないのか。

特定の地域や国だけが、天災に際して冷遇されるなどあっていいわけがない。
天災を利用した制裁のように思えてしまう。

パキスタン地震3

2005年11月08日 14時27分30秒 | ●パキスタン地震


大阪外国語大学・ウルドゥー語専攻の学生の方々が、パキスタンの新聞を翻訳、掲載するサイトを立ち上げたと連絡が入りました。
世界のメディアが、パキスタン北部地震への関心を失しない始めているため、われわれのもとに届くニュースも極端に少なくなってきました。
「学生が現地に行ってもできることは限られている。私たちなりにやれることを考えました」
こうした活動がこれからとても貴重なものになると思います。

パキスタン北部地震関連情報
http://www.osaka-gaidai.ac.jp/~sas/Urdu/zalzala.htm

パキスタン地震2

2005年10月17日 17時40分57秒 | ●パキスタン地震


震源地付近を中心に、地図を拡大してみて、パキスタンのイスラマバードとインドのスリナガルがかなり近くに位置することに、いまさらながらに気がついた。どちらも訪れたことのある都市なのだが、こんなに近いとは思わなかった。また、かつて歩いたのは震源地から北東のナンガパルバット山周辺の集落。

震源地付近のムザファラバードは、どちらの都市からもそう遠くは離れていない。かつては、両地域をつなぐ中継都市だったに違いない。地図で見る限り、インド側からの方が被災地へのアクセスがいいのではないかとも思える。インドのスリナガルは整った大きな町であるし、被災者の収容も問題ないだろう。もし、インドからのアクセスが許可されれば、どれだけの被災者が救助できるだろうか。すぐ近くで大勢の人々が苦しんでいるというのに、何もできないカシミールの人々こそ、もどかしい思いをしているのではないだろうか。「カシミール紛争」が被災者の苦痛を拡大している。

パキスタン地震

2005年10月15日 03時11分15秒 | ●パキスタン地震
パキスタン地震の犠牲者の数が日増しに増加している。たった一回の地震でここまでの犠牲者が出るとは。今後も、増え続けるのだろう。予測不能な地球の営みだが、スマトラ沖地震といい、あまりの犠牲者の多さに愕然としてしまう。最終的には、4万人とも5万人とも予想されているが、被災者は全体で250万人。これだけの人が、これから厳しい冬を迎えなければならない。高峰の連なるパキスタン北部の寒さは非常に厳しい。

かつて、真冬にパキスタンの山奥を訪れたことがあるので、冬の厳しさを実感している。標高が高く、潅木もほとんど生えていないので、凍てつく風を遮るものがない。今回の震源地よりもさらに北部の山岳地帯へ入ったのだが、ニュース映像で見る限り、今回の被災地も、かなりの山岳地のように見える。おそらくかつて訪れた山間の集落と状況はそれほど変わらないだろう。山間部の生活は普段でも非常に不便で、物資も乏しかった。食料備蓄など当然ないはずだ。

急峻な山岳部から都市へのアクセスは平常時でも非常に困難だった。道路は切り立った崖っぷちに沿って造られている。岩盤は見るからに脆い。実際、巨大な落石に道路が塞がれ、ダイナマイトで爆破するまで何時間もかかったことがあった。対面からきたジープの客とこちら側のジープの客が総出で、落石を崖下に転がした。最後に残ったジープ大の巨石二つをダイナマイトで爆破した。パキスタンの山岳部の脆い山肌が、巨大な地震に遭えばどうなるかは想像に難くない。

山奥の集落の家屋も非常に不安定だった。四方に石を積み上げただけで建物を作ってしまう。あとは石の隙間を泥で埋めるだけだ。驚異的なバランス技術だが、柱もなければ、筋交いもない。地面が少し揺れればひとたまりもないだろう。

インド政府は、インド側のカシミールからならアクセスできると言っているが、パキスタン政府が拒絶している。国境地帯には、軍事拠点やゲリラキャンプがあるためらしい。ならば、そうした地域には援助国の軍隊も近づけないかもしれない。天災に、人災が加わり、さらに悲惨な事態をまねくのではないのだろうか。

食料も、燃料も、医薬品もなく、孤立したまま外と連絡が取れない集落はかなりの数に登るのではないのだろうか。そうした集落すべてに手が回るのかどうか、とても不安だ。