倉野立人のブログです。

日々の思いを、訥々と。

日(光)を浴びること・当てることの大切さと難しさ

2022-11-01 | 日記

ラジオのコラムで、コメンテーターとして出演した臨床心理学教授(A教授)が「引きこもり生活を送る人は「日の光」を浴びることが重要」との話しをされ、耳目を引きました。

現在、わが国には60万人を越える人が「引きこもり生活」を送ることになってしまっているそうです。

このこと(引きこもり)は、おそらく本人が望んで至った経過ではないと思います。

いち市民として社会の中で生活を送るうちに、ふとしたキッカケで社会と隔世することになってしまい それ以降は時計の針だけが進む毎日になってしまった。

本人やご家族や周囲の関係者のいずれもが、いわゆる普通の社会生活を送ることが望ましいことは百も承知の中、その一歩が踏み出せないままにいることは、忸怩(じくじ)たる思いの最たるものと拝察するところです。

 

ラジオの声でA教授は「引きこもり生活が長期に亘っている中、せめて一日に1回でも「太陽光を浴びる」ことを行なってほしいのです。」と語りかけていました。

それによると、引きこもりによる運動不足・太陽光を浴びない生活・他人との会話のない暮らしが続くと「セロトニン」という神経伝達物質(脳内物質)を減らしてしまうことになってしまうそうです。

「セロトニン」は  脳内にあるセロトニン神経から分泌され、私たちの精神状態を健やかに保つという大切な役割を果たしているとのこと。「セロトニン」が脳内に多く存在していれば、私たちはストレスにも動じることなく 健やかな社会生活を送ることができるそうです。たとえイヤなことがあっても気分転換できたり 失敗しても再びチャレンジを繰り返せる…さまざまな面で ストレスに負けない(くじけない)生活を送れるのは「セロトニン」の効果といえるとのことです。

この「セロトニン」を分泌するセニトロン神経は、太陽の光を浴び 適度な運動をし、そして周囲の人との触れ合いによって活性化されていきます。しかし、引きこもり生活が続き 孤独な状態で家の中にじっとしていると、セロトニン神経は次第に弱っていき セロトニンの分泌量が減って〝ストレスに弱い脳〟になってしまいます(これは「引きこもり問題」だけではなく、コロナ禍に伴う〝コロナうつ〟などのメンタルヘルス問題の原因にも挙げられています)。

で…「引きこもり」と「セニトロン」は、いわばマイナスの相関関係にあるそうです。

引きこもる→室内に居続け日光を浴びない→セロトニンがさらに欠乏する→朝の目覚めが悪くなり、イヤなことがあっても気分転換をしにくくなる→引きこもり生活がさらに続く…との〝負のスパイラル〟に陥ってしまう。

 

そんな状況下で「せめて」としてA教授が勧めるのが「一日1回、日光を浴びましょう」とのことです。

人と会わなくてもイイ、運動しなくてもイイ、せめて日中に一日1回でいいからカーテンを開けて 日(陽)の光を浴びて「セロトニン」を分泌してほしい、と訴えておられました。

 

がしかし、それを聞いた私は「それ(日中にカーテンを開けること)がイチバン難しいんじゃないか?」と思い 反駁(はんばく)しかけたものでした。

引きこもっている家族の居る部屋に日中に入り、カーテンを開けたりすれば「余計なことすんな!」と逆ギレされるんじゃないかと思ってしまいました。

すると、私の気持ち(疑問)を見透かしたようにA教授も「引きこもりの部屋のカーテンを開ける行為は できそうで出来ないものです。家族の方におかれても 突然に部屋に乗り込んで「シャーッ」とばかりに(カーテンを)開けるのではなく、(引きこもり家族に)寄り添う中で 段階的に開けられるよう努めてみてください。」と優しく説いておられたのでした。

 

 

・・・・・・。

このラジオコラムに接したときに私は、ジャンルや視点は全く違うものの「日(≒光)を当てる…当てない」という面で 福祉事業に思いが至ったところです。

前掲の「引きこもりの人に日の光を」については、家族や周囲がこの人を前向きに誘導しようと努め、その手段の一つとして日の光を浴びさせようとしているものです。

ところが逆に、対象者に敢えて光を当てさせず いわば室内に留め置くを旨とする事業もありはしまいか。

例えば 障がい者福祉(支援)。

本来であれば、障がい者に光を当て できれば外に出て社会参画させるべき(周囲が)努力すべきところ、敢えて障がい者には光を当てないよう…施設内に留め置き現状維持を旨として時間を過ごさせる対応、これは前掲の「当事者に光を!」とは全く逆行した考え方だと思います。

(この場合の「光」とは 物理的な「日光」というニュアンスではなく、周囲が積極的に見守ったり 脚光を当てるといった意味の「光」です)

 

 

「引きこもり」に端を発した「当事者に光を当てるか当てないか」の議論の通底には「真に相手のためになることを考えて行動しているか否か」が〝分かれ目〟としてあると思います。

家族や当事者を思いやり、いずれは社会で共生できるように計らってあげたい。

そう思えるか思えないかで、支援する側の深層心理までも読み解けるとも思うところです。