kyon's日誌

つれづれに・・・

103歳・・・の続き

2015年06月11日 | 日記
文章が沁み入ります・・・魂がスーッと通っている感じというか、心がぶれてない、つまるところ、軸のブレが無い。精神性の高い方ですね・・・103歳。。。

今の年代だからちょっと噛みしめられ、母の事があるのでその言葉の深さが沁みるというか、もっと若い頃に読んだら、ワタシのことだ、また理屈で頭が一杯になったかもなぁ・・・と思う(^^ゞ
語録としてよりも文章がいい。
日本語の美しさも感じる。書の世界でアーチストである視線があるからかな~?
で、ちょっと叱られた気にもなる文章もあった。
気に掛かる母の言葉に翻弄されたり揺らされたりしている気持ちにも喝を入れられた気にもなった。

いつ死んでもいい、
どうせ誰にも看取られず一人ぽっちで死ぬんだ、
年は取りたくないもんだ、
人生はもう諦めている、
こんなにどこもかしこもダメだらけになってしまって、
等々・・・
ワタシの耳に入る言葉は80の頃にはまだ少しは前向きだった母を消失して嘆く言葉がどんどん出て来る訳です。
そのくせ生きる為の努力を失ってしまっているのではないのですね、
よく食べるし、あちらが痛いこちらが痒いと言っては医者に走る訳ですから、見苦しかろうがどうだろうが、生きる為に必死な訳です。

何だか、カナシクなるより腹が立つ気にもなる事が多くなってくるワタシな訳です・・・根っこの部分にある母の本意が分からずに呆れてしまう訳です。
言いようが無い・・・励ましようも無い・・・そういう言葉をやりきれない思いで聞き流すけれど、・・結局は切り捨てるように投げておく感情が、また妙に溜まっていく訳です。
母とワタシの中でだけやり取りされる言葉ではあるので、ワタシの胸に納めておけばいいだけなのだけど、ワタシの中でもとっ散らかってしまっている・・・どういう風に母という人を受け入れて行けばいいのか分からなくなったりもする。
人一人が死に向かって淡々と歩むことの何と難しいことかを思い知らされる。

ならばボケたから良いかというものでも無い気がする。
ボケたらボケたで、残される者にはこれも非情なり・・・
どうしたらこの喪失感や絶望感を脱せるのか?
そのきっかけが見つからない・・・まぁ、足りないながらのワタシでも、そこは少しく悩む訳です。何しろ、ワタシはまだ母の年齢に至ってはいない訳ですから、何をどうして欲しいかなど、実のところは分かっていない。
でも、
聞きづらいそれらを吐きだす事で、するべきはした、思い残すことは無いと、
満足のいく人生だったと自分を認めてあげたいのだと分かった・・・気がした文章を見つけた。
「そう思いたいだけなのだ」・・・何度も何度も念を押すように、自分を納得させようとしている言葉だったと気づかされた訳です。

で、叱られた気になったのは、年齢という枠に収まるなという言葉でした。
年齢で自分を閉じ込めてはイケない・・・
「いい加減」の良さも書かれてた・・・ふとあの方を思い出したり・・・(^^ゞ
同じだったのは、「面白がる」こと。
沢山の人との出逢いで受けたものや、或いは異文化と出遭ったことなど・・・
あえて無駄もしてみようという言葉も、実に実にワタシに沁みる。
それらは精神を高めていくことに繋がることを感じさせる文章でした。

思いの限りを長々とワタシは書き連ねるけれど、短い文章でも完結している文章というのは心地の良いものなのだな・・・と。
夢中を求めて生きている103歳は凄いとあらためて感じたことでした。
コメント (6)
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