劇画『カムイ伝』、子ども達もSacchannに聞いても知らなかった。私が大学の頃だったか従兄弟の部屋でその全集を読みふけった事を思い出す。この本を手にするきっかけは昨年の石光真清さんの明治から一庶民として激動の時代を生きてきた手記を読んだのがそれである。今までは歴史の大きな変遷のみを教科書並びに歴史書から知識として知るだけで、この石光さんのおかげで、歴史のうねりの中で人々はどのように生きてきたのかということに興味を持つようになった次第である。
カムイ伝はカムイというが 忍びとなって活躍する、その面白さに昔は魅かれて読み漁ったのだが、今回この田中優子さんの解説により、この江戸時代という時代の日本のありようが実に良く分った。 其処には 階級制度、があり、また自然の中で人々の自給生活の工夫あり、今まで私の知らなかったその時代の人々の生活が描かれていたのだ。
印象に残る文節を綴る
その時代いつでも仕事があり、汗水流して働き、多くの人が収入を得られるという豊かさがあった。
現代人に(若者とは限らない)には夢がないわけではない。夢の中味が大地を離れ、宙を漂っているのだ。自分の身の底から出た夢ではなく、人から与えられた夢だからだろうか? そんなに金だけもって、その金で何をするのか?
役に立たない存在は一つもない しかもどれが良いということを規定する事は不可能で、・ ・ ・ であるからこそ、あらゆるものが役に立つ可能性がある。 ・ ・ ・ 動植物の世界は相互に補いあっているのであって、不必要や無駄が無く、カスもクズもゴミも存在しない。無駄や無意味やゴミを生み出すのは、都市生活や貨幣経済なのだ。
江戸時代は書類によって左右される法治国家であった。
生きようとすることは、そこに本人の意志があるかどうかということよりも、まず体がそれを望む、ということである。 中略 また、生きることに慣れすぎてしまった社会(それは豊かさに彩られた世界でもある)では、その錯覚が常識となる。そしてその常識に生きるものにとっては、仮にこれまで操ることのできた身体機能の一部が失われただけでも、たちまち、全体が崩壊してしまったかのようにおもわれてしまうのである。 中略 足を失った事よりも、男の命が残った事が彼らにとっての歓びだったのである。 中略 さらに付け加えておこう。生きようとする体に反して、それでも死にたいと人が思うのは、実はその多くが、単に社会性を脱ぎ捨てたい、と考えているからだ。そこで死を選択する事は、即ち、自分を取り巻く現状(社会環境)をどうにかしたい、またはそこから脱したいという願望を持ちつつも、実際には抜け出そうとする事も無く、死でもって解消しようとすることにほかならない(もちろん、すべての自殺がそうだとは言わない)。そして、その妥協へのはいけいには、どうせ変わらない(変われない、抜け出せない)という一種の絶望感が漂っている。確かにこの絶望は、抱いたものでなければ、理解できるものではない。 しかし、その感覚を覚えつつも、それでも己の体と共に、どうにか生き続けようとする人々も居るのである。
この不知火党の抱いていた壮大な夢(それは正助やカムイにも通じるところがある)は、決して彼らの代で達成されるようなものではなかった。だが、そのような大志を抱きつつ、時代を懸命に生き抜いた人々があった。
この最後の一節が 実はこのカムイ伝の最も表わしたかった事であろう。 登場人物たちはそれぞれ置かれた環境、立場の中で 精一杯自分たちが、また次の世代が、社会が良くなるようにと懸命に生きていた。そこには自分の命さえ投げ出す事もいとわなかった。