花と山を友として

何よりも山の花が好き、山の景色が好き、山で出逢う動物が好き、そして山に登る人が好き。
写真と紀行文で綴る山親父日記

しだれ桜の小石川後楽園に寄る

2011年04月03日 | 写真

大本山永平寺別院・長谷寺山門


長谷寺に咲くしだれ桜

昔の職場で親しかったS君の奥様の墓が東京の麻布にある。
群馬に帰った彼と、何十年ぶりかで再会したのは2年前である。
そのとき、彼の奥様が亡くなった事を聞いた。

それ以来、墓参りに行かなければと思いながらも、今日まで
果たせずにきた。
先日の地震で、予定されたイベントがすべて中止され、今日は
何の予定も入っていない。

彼から書いてもらった地図を頼りにお墓参りに行った。
渋谷から都バスに乗って、南青山7丁目で降りると、長谷寺は
すぐであった。

観音堂で線香が買えると言うので、まず観音堂に行ってみた。
年配の係の人に聞くと、線香に火をつけてくれたうえ、墓まで
案内してくれた。

墓碑銘を読むと、彼女は54歳の若さで他界していた。
彼女は、家内の職場の保育士だったので、家内とも親しい間だった。
だから本当なら、家内と一緒に来なければならないのだが
体調が悪くてこれなかった。

いつかは家内と来るからね と心で言いながら、遅くなって
ごめんと謝った。
いつも はにかんだように笑う彼女の顔が浮かんだ。
子供好きの優しい女性だった。
遅いよ と言うように、七回忌の卒塔婆が、何本も墓の後ろで
揺れた。


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小石川後楽園のしだれ桜

三十数年も新宿につとめていたのに、小石川後楽園には一度も
行った事がない。
墓参りに行ったついでに、飯田橋で降りて小石川後楽園に寄った。
この後楽園は、水戸徳川家の上屋敷に作られた庭園だから
茨城とも関係が深い。
茨城に住んでいるから一度は見ておきたいと言うわけである。

嬉しいことに、65歳以上は150円だと言う。
免許証を受け付けに見せて、150円で入った。



折から園内は桜が見頃を迎えつつ有った。
ただ惜しむらくは、どんよりとした曇り空だった事である。
園内を巡ると、超望遠で撮影している人がいた。
聞いてみると、カワセミの雌を撮影している人で、モニター
に写るカワセミを拡大して見せてくれた。
肉眼で見ると、カワセミの姿が判らないから、さすがに
鳥見の人はすごい。しかもズームマイクで声まで拾っている。


しだれ桜の間から高層ビル

やっぱり桜には青空が欲しい。
しだれ桜の後ろに東京ドームを入れて撮って見たが、曇り空で
ドームの屋根がはっきり判らない有様だった。
以下の写真は、いずれも小石川後楽園でさつえいしたもの。

明日は、昔の職場の旅行仲間の集まりが東京であるので、また
行けたら良いなー。







補足説明

水戸徳川家は、徳川家康の十一男頼房が初代で、その中屋敷として
三代将軍家光から、寛永6年この地を与えられ、廻遊式庭園として
築造したのが始まりである。
後に上屋敷となり、頼房の次男であった光圀(黄門様)が二代藩主として
この庭園の築造にも力を注ぎ、隣国の明の遺臣で、日本に亡命していた
朱舜水の意見を用いて、今見るような中国趣味豊かな手法を加味したという

偕楽園の名前も、光圀が朱舜水に命じて選んだもので、宋の范文正の
「岳陽楼記」の中から「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」から
とったものである。
意味は「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみは遅れて楽しむ」
と訳されている。

光圀と言う人は、本来二代目になる筈だった兄頼重に気をつかい
後に頼重の子、綱条(つなえだ)を養子に迎え、水戸家の三代藩主
とした。
頼重その人は、高松藩松平家の初代藩主となった人である。

(小ネタ話し)
徳川家の家系図を調べていて、びっくりしたのは、十一代将軍
家斉(いえなり)、なんと子供が50人以上もいる。
もちろん一人の女性に生ませた訳ではないが。
精力絶倫とはこのことだろう。脱帽。









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