12月7日に歩いた堅破山のコース図
近いポイント名が重なったので拡大したコース図
12月7日、久々に好天に恵まれたので、日立市の一番標高の高い山
堅破山(たつわれさん)658メートルに登りに行った。
12月14日まで道路工事中で、登山口の駐車場までは車で
行くことができない。
ただ工事区間の直前に臨時の駐車場が有るという情報を
日立市観光協会のホームページで知った。
行ってみると、車両通行止めの柵の手前の路肩に5~6
台ほど駐められるスペースが有った。
工事箇所の車両通行止、(登山者の歩行は可)
この手前50メートルほどの所に臨時駐車スペース有り
工事区間の様子1
工事区間の様子2
工事区間の中に左斜面の崩落が一ヶ所有り
右端に寄って歩くようになっている
堅破山の参道入口付近の様子、ここまでが工事区間
黒前神社参道入口の一の鳥居
参道入口から左の林道を500メートル行けば登山口駐車場
の案内版が有る
林道の様子
登山口の直前の右側に参道の二の鳥居が有る
写真では判りづらいが中央の林の中
左奥にちらりと駐車場が見えている
登山口の駐車場、トイレとベンチがある。
およそ20台ほと駐車できる広さがある。
トイレの前に清流が有り、階段で下りられる
飲むのは難しいが、顔や手は洗えるので便利
駐車場に有る堅破山観光案内
上の観光案内の堅破山のいわれを書いてある部分
同じく案内図の部分、このコースを全て周回した
この日、晴天にもかかわらず、登山者に一人も会わなかった
わずかに臨時駐車場に、後から軽の四駆でやってきた若者一人が
通行止めの柵を見て、即座に引き返していったのを見たきりである
駐車場の奥から、杉林に覆われた登山道を登ってゆくと
最初に出てくるのがこの「後生車」である。
後生車のルーツは、チベットの「マニ車」と言われているが
マニ車が中に経文を入れてあり、回した数だけお経を唱えた
事になるというが、後生車は日本の風習にとけ込んで変化し
石の車を回す事で、死者に呼びかける目的に変わったという。
私は死者に呼びかけるつもりは無いが、一応車を回して安全を
祈った。
木漏れ日の差す杉林の登山道を登って行くと
どこから落ちてきたのか、モミジの葉が無数に散らばっていた
堅破山には奇岩が多いが、最初に出てくるのがこの「不動石」で
石の上には不動明王が奉られている。
この不動明王自体は、明治時代に建てられたものと言い、不動明王の
足下から清水が流れ出している。
元は黒前神社の御輿がお休みした場所とも言われている。
(ネットで調べると、以前は不動明王の回りを木製の柵で
囲んでいたらしいが、今は柵が壊れて無い。)
途中にはベンチもいくつか設置されていたが、どれも
長い年月に晒されて傷んでいた。
二つ目に現れてくるのは、この「烏帽子石」で
その昔、八幡太郎義家が堅破山の神霊に参拝したときに
かぶっていた烏帽子に似ていることから名づけられたと言う。
三つ目は手形石で八幡太郎義家の手形石と呼ばれている。
(石の手形と言えば、私のふる里の岩手には、岩手の名前の
由来になった岩におした鬼の手形が有る。)
少し登ると左の沢に見えてくる大岩が「畳石(たたみいし)」で
これも八幡太郎義家が腰掛けた畳石と呼ばれている。
畳石の由来が書いてある説明版
畳石の上側の登山道には、湧き水を流している水場が有る。
これは水場から見下ろした畳石
少し登って振り返ると、名残のもみじが日を浴びていた。
丸太のベンチらしいものも設置されていたが、惜しむらくは
その上に倒木が横たわっていた。
やがて登山道は平坦な道になり、楽々歩ける様になる
これはたぶん炭焼き小屋の跡だと思う。
前回の時には説明版が有ったような記憶が、、、、!?
ボケ老人を許されよ(苦笑)
平坦な道の突き当たりに見えてくるのが東屋と弁天池
傍らには弁天様の祠が奉ってある
暖かいコーヒーをいれて、ここで一休みすることにした。
寂しいと思うほど静かだった。
わずかに梢を渡る風の音と、東屋の下にあるパイプから
したたり落ちる水の音がするだけだった
この弁天池は、別名「雨乞いの池」とも呼ばれている
らしい。
弁天池をよく見ると、奥で二ヶ所からパイプで水を入れている
そのせいで水がきれいなのだ。
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ちょっと休憩して気分転換
霞ヶ浦早朝
霞ヶ浦の水鳥
霞ヶ浦から筑波山
12日追記分はここまで
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弁天池の入口から右に登る階段を見上げると、三の鳥居と
仁王門が見える。
この仁王門は、廃仏毀釈のおり、破壊を恐れて表側に
左大臣、右大臣を飾って随神門に見せかけて難を逃れている
裏側に仁王様が有るらしいが、暗くてよく見えなかった。
仁王門をくぐって登ると丁字路にぶつかり、そこにこんな
案内板が立っている。
山と渓谷のガイドブックでは、左の太刀割石に先に行って
戻ってくるのだが、今日は一周するつもりなので、右の
山頂に向かう。
この丁字路に見事なモミの木が立っている。
見上げるとモミの梢の先に光が当たって輝いていた。
右から左に回り込むようにして登って行くと、釈迦堂と
甲石が見えてくる。
山と渓谷のガイドブック「「茨城県の山」では、この
釈迦堂の事を1993年版では神楽殿、2006年版では薬師堂
と書いてあったが、現地の駐車場の案内図には釈迦堂と
書いてあったので、釈迦堂として紹介する。
甲石と呼ばれる巨石
甲石の説明版
甲石の側面にこんな岩窟がある
岩窟の説明版
甲石の前にある舟石、「一見、船が山に登る形に似ている石」
と書かれているが、船が山に登る?? (笑) 発想が面白いぞ!
釈迦堂として紹介する
この場所の入口の左側に黒前神社の札所がある
その札所には、黒前神社の由来が書かれている。
それによれば、この堅破山が昔「つのがれ山」と呼ばれて
いたこと。
常陸風土記に書かれている黒坂命(くろさかのみこと)を
奉る黒前神社が有ること。
巨石信仰の場として、七奇石と呼ばれる巨石と三瀑と呼ばれる
滝の名勝が有ることが書かれている。
七奇石とは、烏帽子石、畳石、甲石、舟石、胎内石、神楽石
太刀割石の事で、太刀割石は別名「将軍石」とも呼ばれると
又、三瀑と呼ばれる滝は、不動滝(奈々久良滝)、剣滝、龍馬滝
と書かれているが、これから行く奈々久良滝以外は地図に紹介
されていない。
黒前神社本殿と山頂は、釈迦堂の左脇から石段を
登った所にある。
どなたかの記事に171段とか書いてあったが、私は
数える気が無い。階段は嫌いだ。
石段を登ると、昨年の地震で崩れたのか、拝殿の前に
ブルーシートが敷いてあり、石像も崩れているものが有った
黒前神社の本殿は、この拝殿の後ろにあり、石造りの
本殿だと言われている。
拝殿の扉は閉じられたままで、本殿は見ることもできなかった
拝殿の前を通り抜けて進むと、下の甲石に抜ける道と
奥の胎内石に向かう分岐があり、そのまま直進すると
山頂の展望台が見えてくる。
堅破山の三角点で記念撮影、標高658メートル
正確には、658.3メートルで、日立市内の一番高い場所である
山頂の展望台には、上のような展望図が有る
これは地元の人でないとなかなか判らないかもしれない
特に真弓山は判別できなかった。
この写真の左のやや三角の山が神峰山、右の山頂の上に
かすかにアンテナタワーが見える山が高鈴山である。
参考のためにカシミールで作った展望図を載せる
上の方位は、地図の方位と同じ真方位で描かれている。
それ故、神峰山は154度、高鈴山は167度付近の方向
と言える。
問題なのはこの展望図で、八溝山の後ろには日光がこない
これはカシミールで作った八溝山方向の展望図である
そしてこちらは日光方面の展望図です
その方向を撮った実際の写真はこれ、うーん?
こんな日に限ってコンパスグラスをもっていないので
正確な方位が判らない、同定はしないでおこう。
霞んで写真にはならなかったが、筑波山が見えていた。
山頂からさらに先に進むと巨岩の脇を下って胎内石に
到着する
岩の下は洞穴の様になっている
胎内石の説明版
伝説というのは面白い、黒坂命(くろさかのみこと)が東征に
一人で来たとは思えないのだが、童子に助けられてこの洞窟で
休んだという。
ところで、この黒坂命は、常陸風土記の中では、茨城(うばらき)の
郡(こおり)に国巣(くず)(注、土地の人の言葉でつちぐもとか
やつかはぎと言う)である山の佐伯、野の佐伯ががおり
いつも土窟(つちむろ)を掘り、穴の中に住んでいた。
人が来ると窟の中に隠れ、人がいなくなると、野に出て遊んでいた。
性格は狼のようで、情は梟のようであった。
こっそりと窺っては鼠のように掠め盗むようなことをして、呼び寄せて
さとそうとしても近づかず、その風習も違っていて融和するこことは
なかった。
このとき、臣の一族である黒坂命が、彼らが野に出て遊んでいる時を
窺って、茨棘(うばら)を穴の中に入れ、やがて馬に乗った兵によって
彼らを穴の中に追い詰めた。
穴の中に逃げ帰った野の佐伯たちは、皆その茨棘によって死んで
しまった。
それで、その茨棘の名を取って、この県(あがた)の名につけたと言う
ことである。と古老の話を伝えている。
と言うことで、茨城県の名前の由来の元を作っている人である。
中央に従わない先住民を国巣(くず)とかの蔑称で呼んでいた事が判る
余談だが、風土記は713年に諸国の国司に詔(みことのり)を発して
作らせた地方白書のようなもので、1.地名には好ましい名をつける
2.土地の鉱産物、動植物の品目名 3.山川原野の名称の起源
4.土地の肥沃 5.古老の伝える古伝承 の報告を求めたもの
これからすれば、諸国の風土記が有っても良いはずなのだが、残念
ながら、残っている風土記は、5つしかない。
常陸風土記、播磨風土記、出雲風土記、豊後風土記、肥前風土記
の五カ国だけである。
南北朝時代から戦国時代にかけて、散逸してしまったという
余談のついでに、この黒坂命の墓が美浦村に残っていると言う話
常陽リビングの 茨城歴史散歩 をご覧ください。
貴重な文化財を無くすとは何事と思いますね。
茨城の地名由来について追記
書き忘れましたので追記します。
常陸風土記の「茨城(うばらき)郡」には、もう一つ由来が
記されていて、黒坂命が佐伯を滅ぼすのは一緒ですが、穴に
茨棘を入れるのではなく、茨を以(も)ちて城(き)を造りき
このゆえに、地(くに)の名をすなわち茨城(うばらき)と謂ふ
といひき。と書かれている。
書き出しに「あるものいへらく」と書かれているので、前の
古老とは別な人物から聞き書きである。
茨で城を造ったから茨城だという実にわかりやすい由来である。
何でも「いばらきけん」と読む方と「いばらぎけん」と読む方が
いて、「いばらぎ」じゃないよ「いばらき」だよ と書かれている
ホームページも見た気がするが、風土記を見れば「いばらき」が
正しいのかもしれない。私は「いばらぎ」と言ってしまうが(苦笑)
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「伝説の山・堅破山に登る」も、書き足し書き足しで長くなり
1万字を超えた。このブログの字数制限は2万字なのだが
長すぎるのは読みにくいので、ひとまず終了する。
後編は後日機会があれば記載したい。
昨日(16日)は宝篋山の観察会が有って、久しぶりに大勢の方と
山を歩いた。
体調は最近不調が続き、昨日も絶不調だったが何とか1日
歩き通す事ができた。
自然博物館の小幡先生の話によると、筑波山一帯には
127種のシダ植物が有るという。
その中の50数種を昨日は観察したシダ三昧の観察会だった
でも私の頭には、ウラジロの大群落とコシダの群落しか
残ってないよー。メモリー不足だなー増設して!!