クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

沼田城で上杉謙信は出会うはずのなかった誰と対面した?

2012年05月29日 | 戦国時代の部屋
元亀元年(1570)4月、上州沼田城で会うはずのなかった2人が対面している。
上杉謙信と、北条氏康の七男“三郎”である。

武田信玄が北条との盟約を破ったことで、
関東を舞台にした戦いは大きく変わった。
それまで激しく火花を散らしていた上杉と北条が、手を結ぶことになったのである。

最初は気乗りしない態度をとっていた謙信だったが、
関東における情勢は年を追うごとに悪化しており、
太田資正らの反対を振り切って北条と同盟を結ぶことになる。
謙信にとって劣勢だった流れを変えたかったのだろう。

古河公方問題、関東管領問題、領地問題と、
同盟を結ぶにあたってそれらの問題が両者の間で話し合われた。
その中で、北条氏康の子三郎を謙信の養子にすることが決まった。
最初は北条氏政の子国増丸の名が出ていたが、
最終的に三郎に白羽の矢が当たる。

元亀元年4月、三郎は小田原を出発。
上州厩橋城へ向かった。
『上杉年譜』によると、館林城主広田直繁や深谷城主上杉憲盛、
「羽生ノ番兵ヲ始メ、佐野・足利・沼田倉内ノ守兵」が護衛に集まったという。

三郎は厩橋城から沼田城へ向かう。
両城とも、謙信にとって関東経略の足掛かりとしていた城である。
同年4月10日、沼田城にて謙信と三郎は対面を果たすのだった。

謙信は三郎を連れて越後に帰府。
春日山城の二の丸を三郎の住まいとする。
そして、仙桃院の娘と結婚させ、「景虎」の名を与えられるのだった。
同盟を結んだものの、謙信は北条の要望に耳を傾けようとせず、
領地問題にもなかなか折り合いがつかなかった。

そんな同盟が長く続くはずがなく、元亀3年に破綻。
しかし、謙信は景虎をないがしろにはしなかったらしい。
人質ならともかく、養子に迎えた子である。
ましてや上杉一族の者と縁戚関係を結び、
北条の血が流れているとはいえ、景虎は「敵」ではなかった。

越相同盟の破綻後、北条の勢いは上杉方の城に迫る。
関宿城と羽生城は陥落し、武蔵国は北条によって平定された。
翌年には祇園城も北条の掌握するところとなり、
天正5年には長く反北条の姿勢をとっていた里見氏も和睦している。

天正6年、関東出陣の陣触れを出した上杉謙信だったが、
その年の3月9日に倒れ、同月13日に帰らぬ人となった。
謙信は後継を明確にしていなかった。
謙信の死去、この家督を巡って争いが勃発することになる。
世に言う“御館の乱”である。

上杉景虎と上杉景勝が激しく衝突。
最初は景虎が有利に戦いを進めていったが、
武田勝頼と手を結んだ景勝が勢いを盛り返す。
景虎の実家の北条も援軍に駆けつけようとしたが、
深雪に阻まれてうまくいかなかった。

そして、追い込まれた景虎は、
天正7年3月24日に鮫ヶ尾城にて自害。
26歳の若さだった。

もし、武田信玄が北条との同盟を破らなかったら、
景虎は謙信の養子にはならなかっただろう。
もし、景勝が武田勝頼と手を組まなければ、
景勝は御館の乱を勝ち、上杉家の家督を継いでいたかもしれない。
いずれも「if」にすぎないが、
武田の動きがその人生に大きな影響と影を与えたと言えよう。

元亀元年4月、小田原城を出立する景虎は、
このような最期を遂げると想像しただろうか。
あるいは、沼田城で対面した上杉謙信に何を感じただろう。
時代の流れは一人の若者を翻弄させ、
桜の花びらのごとく儚くその命を散らせた。


沼田城址(群馬県沼田市)



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