元亀元年(1570)4月、上州沼田城で会うはずのなかった2人が対面している。
上杉謙信と、北条氏康の七男“三郎”である。
武田信玄が北条との盟約を破ったことで、
関東を舞台にした戦いは大きく変わった。
それまで激しく火花を散らしていた上杉と北条が、手を結ぶことになったのである。
最初は気乗りしない態度をとっていた謙信だったが、
関東における情勢は年を追うごとに悪化しており、
太田資正らの反対を振り切って北条と同盟を結ぶことになる。
謙信にとって劣勢だった流れを変えたかったのだろう。
古河公方問題、関東管領問題、領地問題と、
同盟を結ぶにあたってそれらの問題が両者の間で話し合われた。
その中で、北条氏康の子三郎を謙信の養子にすることが決まった。
最初は北条氏政の子国増丸の名が出ていたが、
最終的に三郎に白羽の矢が当たる。
元亀元年4月、三郎は小田原を出発。
上州厩橋城へ向かった。
『上杉年譜』によると、館林城主広田直繁や深谷城主上杉憲盛、
「羽生ノ番兵ヲ始メ、佐野・足利・沼田倉内ノ守兵」が護衛に集まったという。
三郎は厩橋城から沼田城へ向かう。
両城とも、謙信にとって関東経略の足掛かりとしていた城である。
同年4月10日、沼田城にて謙信と三郎は対面を果たすのだった。
謙信は三郎を連れて越後に帰府。
春日山城の二の丸を三郎の住まいとする。
そして、仙桃院の娘と結婚させ、「景虎」の名を与えられるのだった。
同盟を結んだものの、謙信は北条の要望に耳を傾けようとせず、
領地問題にもなかなか折り合いがつかなかった。
そんな同盟が長く続くはずがなく、元亀3年に破綻。
しかし、謙信は景虎をないがしろにはしなかったらしい。
人質ならともかく、養子に迎えた子である。
ましてや上杉一族の者と縁戚関係を結び、
北条の血が流れているとはいえ、景虎は「敵」ではなかった。
越相同盟の破綻後、北条の勢いは上杉方の城に迫る。
関宿城と羽生城は陥落し、武蔵国は北条によって平定された。
翌年には祇園城も北条の掌握するところとなり、
天正5年には長く反北条の姿勢をとっていた里見氏も和睦している。
天正6年、関東出陣の陣触れを出した上杉謙信だったが、
その年の3月9日に倒れ、同月13日に帰らぬ人となった。
謙信は後継を明確にしていなかった。
謙信の死去、この家督を巡って争いが勃発することになる。
世に言う“御館の乱”である。
上杉景虎と上杉景勝が激しく衝突。
最初は景虎が有利に戦いを進めていったが、
武田勝頼と手を結んだ景勝が勢いを盛り返す。
景虎の実家の北条も援軍に駆けつけようとしたが、
深雪に阻まれてうまくいかなかった。
そして、追い込まれた景虎は、
天正7年3月24日に鮫ヶ尾城にて自害。
26歳の若さだった。
もし、武田信玄が北条との同盟を破らなかったら、
景虎は謙信の養子にはならなかっただろう。
もし、景勝が武田勝頼と手を組まなければ、
景勝は御館の乱を勝ち、上杉家の家督を継いでいたかもしれない。
いずれも「if」にすぎないが、
武田の動きがその人生に大きな影響と影を与えたと言えよう。
元亀元年4月、小田原城を出立する景虎は、
このような最期を遂げると想像しただろうか。
あるいは、沼田城で対面した上杉謙信に何を感じただろう。
時代の流れは一人の若者を翻弄させ、
桜の花びらのごとく儚くその命を散らせた。
沼田城址(群馬県沼田市)
上杉謙信と、北条氏康の七男“三郎”である。
武田信玄が北条との盟約を破ったことで、
関東を舞台にした戦いは大きく変わった。
それまで激しく火花を散らしていた上杉と北条が、手を結ぶことになったのである。
最初は気乗りしない態度をとっていた謙信だったが、
関東における情勢は年を追うごとに悪化しており、
太田資正らの反対を振り切って北条と同盟を結ぶことになる。
謙信にとって劣勢だった流れを変えたかったのだろう。
古河公方問題、関東管領問題、領地問題と、
同盟を結ぶにあたってそれらの問題が両者の間で話し合われた。
その中で、北条氏康の子三郎を謙信の養子にすることが決まった。
最初は北条氏政の子国増丸の名が出ていたが、
最終的に三郎に白羽の矢が当たる。
元亀元年4月、三郎は小田原を出発。
上州厩橋城へ向かった。
『上杉年譜』によると、館林城主広田直繁や深谷城主上杉憲盛、
「羽生ノ番兵ヲ始メ、佐野・足利・沼田倉内ノ守兵」が護衛に集まったという。
三郎は厩橋城から沼田城へ向かう。
両城とも、謙信にとって関東経略の足掛かりとしていた城である。
同年4月10日、沼田城にて謙信と三郎は対面を果たすのだった。
謙信は三郎を連れて越後に帰府。
春日山城の二の丸を三郎の住まいとする。
そして、仙桃院の娘と結婚させ、「景虎」の名を与えられるのだった。
同盟を結んだものの、謙信は北条の要望に耳を傾けようとせず、
領地問題にもなかなか折り合いがつかなかった。
そんな同盟が長く続くはずがなく、元亀3年に破綻。
しかし、謙信は景虎をないがしろにはしなかったらしい。
人質ならともかく、養子に迎えた子である。
ましてや上杉一族の者と縁戚関係を結び、
北条の血が流れているとはいえ、景虎は「敵」ではなかった。
越相同盟の破綻後、北条の勢いは上杉方の城に迫る。
関宿城と羽生城は陥落し、武蔵国は北条によって平定された。
翌年には祇園城も北条の掌握するところとなり、
天正5年には長く反北条の姿勢をとっていた里見氏も和睦している。
天正6年、関東出陣の陣触れを出した上杉謙信だったが、
その年の3月9日に倒れ、同月13日に帰らぬ人となった。
謙信は後継を明確にしていなかった。
謙信の死去、この家督を巡って争いが勃発することになる。
世に言う“御館の乱”である。
上杉景虎と上杉景勝が激しく衝突。
最初は景虎が有利に戦いを進めていったが、
武田勝頼と手を結んだ景勝が勢いを盛り返す。
景虎の実家の北条も援軍に駆けつけようとしたが、
深雪に阻まれてうまくいかなかった。
そして、追い込まれた景虎は、
天正7年3月24日に鮫ヶ尾城にて自害。
26歳の若さだった。
もし、武田信玄が北条との同盟を破らなかったら、
景虎は謙信の養子にはならなかっただろう。
もし、景勝が武田勝頼と手を組まなければ、
景勝は御館の乱を勝ち、上杉家の家督を継いでいたかもしれない。
いずれも「if」にすぎないが、
武田の動きがその人生に大きな影響と影を与えたと言えよう。
元亀元年4月、小田原城を出立する景虎は、
このような最期を遂げると想像しただろうか。
あるいは、沼田城で対面した上杉謙信に何を感じただろう。
時代の流れは一人の若者を翻弄させ、
桜の花びらのごとく儚くその命を散らせた。
沼田城址(群馬県沼田市)
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