永禄9年に臼井城を攻めた上杉謙信は、
ここが一つの転機となります。
上杉勢による猛攻で、堀を一つ隔てた本丸を残すまでとなった臼井城は、
誰の目から見ても落城は時の問題でした(「鑁阿寺文書」)。
ところが、城攻めは失敗。
『北条記』によれば、「悪日」とされる日に城の一部が崩れ、
上杉方の兵や馬が悉く死去。
また、小田原から援軍に駆け付けた「松平孫太郎」の奮戦も目覚ましく、
その戦いぶりは謙信から「赤鬼」と言われるほどで、
城を落とすには自軍の犠牲も相応に覚悟しなければならなかったようです。
あと一歩のところまで攻め寄せたのに、
城が落ちることはありませんでした。
謙信にとって歯がゆかったかもしれません。
また戦いに参陣していた国衆にとっても……。
このとき、上杉勢の中に羽生城主・広田直繁の姿があったかは不明です。
永禄9年の作成と見られる陣立書には「金山口号調儀」とあるので、
直繁の身は忍城主成田氏らと共に上野国にあったかもしれません。
謙信は臼井城を落とせないまま撤退。
足利義氏は、この戦いによる上杉勢の死傷者について約5千人と、
豊前山城守に書き送っています(「豊前氏古文書抄」)。
これは誇張した数と思われますが、
上杉勢が損じた兵は少なくはなかったはずです。
この合戦が関東国衆に与えた影響は少なくありませんでした。
というのも、臼井城攻城戦から間もなくして、
上杉氏から離反する国衆が相次いだからです。
宇都宮氏、皆川氏、由良氏、成田氏などが後北条氏に従属。
関東における謙信の勢力は一気に後退。
さらに、それに追い打ちをかける出来事が起こります。
それは、北条高広の離反です。
北条(きたじょう)氏は厩橋城にあり、
謙信の関東静謐の主翼をなす人物と言っても過言ではありませんでした。
関東に新たな販売ルートに開発すべく、
新潟本社から群馬県の支社に出向した部長が、
ある日突然ライバル社に寝返ってしまったようなものです。
部長クラスですから、ある程度の機密情報も持っています。
内部事情や密かに進めていた謀・計画など、
重要な情報が敵に流れてもおかしくありません。
謙信にとっては大きな打撃です。
国衆はおろか、身内である家来までもが離れてしまったわけです。
関東静謐事業の頓挫と言っても過言ではありませんでした。
北条高広がなぜ謙信から離反したのか、その理由はよくわかっていません。
実は、謙信にとってそれは衝撃的事実ではなく、
大きな計画を実行するために彼自身が意図したものだった、
という見方もできなくはありません。
しかし、真相は闇の中。
色々な思惑が渦巻いていたことは想像に難くない一方で、
性格的なものもあったでしょうか。
何にせよ、関東の勢力図を鳥瞰すれば上杉勢の大きな後退であり、
従属を続ける国衆にとっても、将来に暗雲が立ち込める出来事でした。
国衆たちや北条高広の離反を耳にした広田直繁は、
どんな反応を示したでしょう。
その気持ちに迷いが生じたかもしれません。
直繁にとっても試練の時を迎えることになります。
ここが一つの転機となります。
上杉勢による猛攻で、堀を一つ隔てた本丸を残すまでとなった臼井城は、
誰の目から見ても落城は時の問題でした(「鑁阿寺文書」)。
ところが、城攻めは失敗。
『北条記』によれば、「悪日」とされる日に城の一部が崩れ、
上杉方の兵や馬が悉く死去。
また、小田原から援軍に駆け付けた「松平孫太郎」の奮戦も目覚ましく、
その戦いぶりは謙信から「赤鬼」と言われるほどで、
城を落とすには自軍の犠牲も相応に覚悟しなければならなかったようです。
あと一歩のところまで攻め寄せたのに、
城が落ちることはありませんでした。
謙信にとって歯がゆかったかもしれません。
また戦いに参陣していた国衆にとっても……。
このとき、上杉勢の中に羽生城主・広田直繁の姿があったかは不明です。
永禄9年の作成と見られる陣立書には「金山口号調儀」とあるので、
直繁の身は忍城主成田氏らと共に上野国にあったかもしれません。
謙信は臼井城を落とせないまま撤退。
足利義氏は、この戦いによる上杉勢の死傷者について約5千人と、
豊前山城守に書き送っています(「豊前氏古文書抄」)。
これは誇張した数と思われますが、
上杉勢が損じた兵は少なくはなかったはずです。
この合戦が関東国衆に与えた影響は少なくありませんでした。
というのも、臼井城攻城戦から間もなくして、
上杉氏から離反する国衆が相次いだからです。
宇都宮氏、皆川氏、由良氏、成田氏などが後北条氏に従属。
関東における謙信の勢力は一気に後退。
さらに、それに追い打ちをかける出来事が起こります。
それは、北条高広の離反です。
北条(きたじょう)氏は厩橋城にあり、
謙信の関東静謐の主翼をなす人物と言っても過言ではありませんでした。
関東に新たな販売ルートに開発すべく、
新潟本社から群馬県の支社に出向した部長が、
ある日突然ライバル社に寝返ってしまったようなものです。
部長クラスですから、ある程度の機密情報も持っています。
内部事情や密かに進めていた謀・計画など、
重要な情報が敵に流れてもおかしくありません。
謙信にとっては大きな打撃です。
国衆はおろか、身内である家来までもが離れてしまったわけです。
関東静謐事業の頓挫と言っても過言ではありませんでした。
北条高広がなぜ謙信から離反したのか、その理由はよくわかっていません。
実は、謙信にとってそれは衝撃的事実ではなく、
大きな計画を実行するために彼自身が意図したものだった、
という見方もできなくはありません。
しかし、真相は闇の中。
色々な思惑が渦巻いていたことは想像に難くない一方で、
性格的なものもあったでしょうか。
何にせよ、関東の勢力図を鳥瞰すれば上杉勢の大きな後退であり、
従属を続ける国衆にとっても、将来に暗雲が立ち込める出来事でした。
国衆たちや北条高広の離反を耳にした広田直繁は、
どんな反応を示したでしょう。
その気持ちに迷いが生じたかもしれません。
直繁にとっても試練の時を迎えることになります。