クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

大越に建つ“小山朝政の墓”は何を伝える?

2012年05月20日 | ふるさと人物部屋
“小山朝政”の墓碑(宝篋印塔)は、
大越公民館(埼玉県加須市)の裏にある。
これまで“徳性寺”の境内を探し回ったが、
道理で見つからないはずである。

いや、かつては墓碑の場所も、境内の一部だったのだろう。
小山朝政の墓碑から徳性寺の本堂まで、
歩いて5分もかからない。

徳性寺について、『新編武蔵風土記稿』は
「小山判官朝政の祈願所にして、其後小山義政再興する所なり」
と記している。
小山朝政は源頼朝に仕え、平家と戦った人物である。
没したのは、暦仁元年(1238)だった。

ところが、小山朝政の墓碑の基礎部分には、

 右志者覚遠菩提也 貞和元乙酉十二九敬白

と刻されている。
(と、言っても、基礎部分は苔生していて、肉眼で判読するのは難しい)

貞和元年は1345年であり、南北朝時代である。
伝承に“小山義政”が建てたとあるように、
墓碑ではなく供養塔として造立したのだろう。
『新編武蔵風土記稿』を信じるならば、徳性寺を再興したそのときに……

小山義政は南北時代の動乱で戦功を挙げ、
太田荘を与えられた人物だった。
徳性寺の建つ大越は太田荘に含まれる。
ちなみに、徳性寺から近いところでは、
太田荘の総鎮守“鷲宮神社”には、小山義政が太刀一振を奉納している。

小山義政は宇都宮氏との争いをきっかけに、
鎌倉公方足利氏満に目をつけられ、
その追討を受ける羽目になった。

義政は剛の者であったらしい。
降伏しても再び決起し、足利氏満に刃向かった。
その数3回。
しかし追い詰められ、
1382年4月13日に下野国の糟尾山中で自害して果てた。
世に言う“小山義政の乱”である。

この乱によって、関東で大きな力を持った豪族小山氏は滅亡。
太田荘は鎌倉府の御料所となり、
新しい時代を迎えるのだった。

しかし、小山義政が建てたであろう伝小山朝政の墓碑が破壊されることはなかった。
この宝篋印塔はなかなか伝承の域を出ないが、
地域の迎えた南北朝時代をそこはかとなく伝えている。


小山朝政の墓(埼玉県加須市)





コメント (8)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 羽生で冠水なんてするの? ―... | トップ | 羽生の空には“バルーン”が飛... »
最新の画像もっと見る

8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
1345年に小山義政存在したのですか?? (長さん)
2012-05-22 13:30:44
 私は小山義政は、この記事を見るまで、
1345年当時-4歳かと思っていました。
たいへん驚きました。なお、小山氏政と、
小山義政の間には、中継ぎの家臣が居たと
しないと、辻褄が合わないことも、知って
います。小山市史の資料編に、「謎の
一回だけ名の出る人物」というのが居た
と記憶しますが、うっかり、小山市で
記録を取らず、名を忘れてしまいました。

余裕あれば確認してください。この忠臣
はなかなかの兵で、芳賀高名の乱のとき、
足利基氏と宇都宮氏綱の間の、調停を
事実上していると見られます。

なお、小山氏政も、1345年の時点で
は15~6歳だと認識しています。
返信する
長さんへ (クニ)
2012-05-22 23:57:32
コメントありがとうございます。
確かに、1345年当時義政は4歳頃だったかもしれません。
加須市の徳性寺にある小山義政が建てたという小山朝政の墓碑は、
江戸時代に成立した地誌『新編武蔵風土記稿』の伝えるところであり、
伝承の域を出ないものです。
なので、書き方が誤解を招くものだったかもしれません。
あくまでも、小山義政が建てた“と言われている”墓碑ということになります。
近隣の鷲宮神社に1376年の義政奉納の太刀があるので、
小山氏ゆかりの者が建てたのが、いつの間にか「義政建立の墓碑」になったのかもしれません。

『小山市史』資料編も見てみます。
貴重な情報をありがとうございます。
ちなみに、この墓碑の金石文は『新編埼玉県史』資料編9に掲載されています。
返信する
義政1349年生まれ・・ (長さん)
2012-05-23 09:53:52
-4歳 <・・・生まれて無いです。
返信する
長さんへ (クニ)
2012-05-23 23:50:37
生まれてませんか。
小山氏政だとしても若い気もしますが、
宗教に絡む働きかけをすることによって、
これから領地を治めていく気概を感じなくはありません。
返信する
太田荘は1335年~1381年の間は小山氏勢力圏内 (長さん)
2012-05-24 09:24:07
太田荘自体は、1335年に小山朝郷が
足利尊氏から賜ったとされているそうで
すから、小山氏政の兄、小山朝郷(当時
25歳~30代位?)の時代のもののよ
うですね。
返信する
長さんへ (クニ)
2012-05-25 00:06:44
なるほど。
ありがとうございます。
いずれにせよ、加須市の墓碑は伝承の域を出ないので、
今後の研究で何か新しい発見や見解が示されることがあるかもしれません。
太田荘に住む者にとって楽しみです。
返信する
中継者名は「小山朝明」 (長さん)
2012-06-04 08:57:31
一番上のコメントで、小山氏政と、小山義政
を中継した親族は、小山朝明(全く無名)で
す。文献の年号からみて、芳賀高名の乱で、
足利基氏と宇都宮氏綱の仲介をした、実質的
な小山のリーダーとみられます。(西暦
1363年。)この時点で、幕府等から来る
小山義政宛ての文書は、「小山小四郎殿」と
なっており、形式的に元服前の当主宛で出し、
小山朝明等の小山家臣に、幕府は用事がある
と命令を出して、動かしていたようです。
返信する
長さんへ (クニ)
2012-06-04 23:59:23
小山朝明ですか。
「全く無名」でありながら、重要な仕事をしてますね。
「小山朝明」で検索してみましたが、確かに出てきませんでした。
歴史には、朝明のような埋もれた人物はどのくらいいるのでしょう。
合戦ではなく、仲介というやや目立ちにくい仕事なだけに、
その名が時代とともに薄れていったのか……
ちょっと寂しい気がします。
そこに光を当てる研究者の仕事は並々ならぬものがありますね。
情報をありがとうございました。

返信する

コメントを投稿

ふるさと人物部屋」カテゴリの最新記事