クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生で冠水なんてするの? ―はにゅう萌え(48)―

2012年05月19日 | はにゅう萌え
地下道や高速道路を横切る小さなトンネルなどに、
「冠水時には通れません」の貼り紙がしてあるが、
冠水なんてするのかな? と思っていた。

甘かった。
なめていた。

冠水は、する。
貼り紙は正しい。

羽生はかつて大きな沼が横たわり、
1年中じめじめと湿った田んぼが多かった。
利根川、会の川に挟まれ、ちょうどお椀のような形をしている。
利根川に近いほど作物にやる水が不足し、
離れるほど水はけの悪さに悩まされていた。

「正保年中改定図」を見ると、
現在の群馬県館林市に残る城沼のような沼が広がっていたことがわかる。
羽生にも城があったから、まさしく城沼だ。
「正保年中改定図」にも、「平城跡」「要害吉」の文字が見える。

古老の話だと、田んぼへ行くにも舟を使っていたらしい。
また田植えも、胸まで水に浸かりながらしていたのだとか……

生まれた頃からアスファルトに覆われた風景を見てきたぼくらは、
そんな話にいまいち実感ができない。
おとぎ話のようにさえ聞こえてしまう。

しかし、沼は埋め立てられ、アスファルトで覆われても、
ひと度まとまった雨が降ると、水のたまる場所がある。
往古の地形の記憶を彷彿とさせるものだ。

こうした水が人々を悩ませもし、
肥沃な土壌を作ってきた。
平将門、源頼朝、北条氏、後北条氏、徳川家康など、
西国とは別の「国作り」を関東の地で夢見たのも、
肥沃な土壌と水運が彼らの心を惹きつけたからだろう。
羽生城はなくなり、沼も次々に姿を消したが、
豊かな土地がいまも農作物を育んでいる。







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