クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“北条氏繁”はイケイケ武将だったか?(2) ―逆井城―

2010年09月12日 | 城・館の部屋
逆井城に移る前、“北条氏繁”は岩付城代だった。
岩付城はもともと上杉謙信に心を寄せる“太田資正”が北条氏に敵対していたが、
嫡男の“氏資”が父を追放し、北条方の城になっていた。

ところが、氏資は永禄10年の里見氏との戦いで戦死してしまう。
これを機に氏繁は岩付領支配に関与し、
反北条の構えを見せる国衆の攻略に動いていくことになる。

特に、氏繁が担当したのは羽生城である。
越相同盟が破綻した元亀2年から、その矛先は羽生城に向かう。
それは忍城主成田氏の要請でもあった。

氏繁は鷲宮城主でもあった鷲宮神社の神主に宛てて、
「案内者」の必要性や、
羽生領の詳細について教えてほしいということを書き送っている。
北条氏政も羽生へ向い、小松に布陣するなど、
じわじわと圧力をかけていた。

同じ頃、関宿城にも攻撃を開始している。
第3次関宿攻防戦であり、もはや時代の流れは北条にあると判断したのか、
深谷城主上杉憲盛は謙信から離反して、北条氏に属した。

これによって、武蔵国で上杉方なのは羽生城だけとなる。
氏繁の士気も自ずと上がる。
天正2年春、上杉謙信は越山し、羽生城救援に向かった。
ところが、目の前に立ちはだかったのは雪解け水で増水した利根川だった。

佐藤筑前守に命令し、兵粮弾薬だけでも送ろうとしたが、
対岸で待ちかまえていた北条氏によって失敗に終わる。
結局、謙信は救援を果たせないまま退散した。

氏繁は謙信と一戦交える覚悟でいた。
しかし、北条氏にとっても川を渡れないのは同じである。
そうこうしている内に、謙信が沼田へ退陣したと聞いた氏繁は、

 此度不被遂一戦儀、無念之由被存候

と、白川義綱宛てに書き送っている(「並木文書」)
そして、羽生へ向かう途中、花崎城が自落した。
さらに氏繁は関宿城に向い、農作物を残らず刈り取っている。

栗橋城には北条氏照、岩付城には北条氏繁が入り、
利根川沿線の最後の攻防戦が繰り広げられていた。
同年秋に謙信は再び越山し、北条方に属す領地を焼き払っていったが、
もはや焼け石に水だった。
閏11月に羽生城は自落。
関宿城も落城した。

そして、氏繁は次のステージに上がる。
謙信から離反した佐竹義重は、再び反北条の立場を明らかにし、
「反北条連合軍」を形成する。
その佐竹氏に対して氏繁が送り込まれたのが逆井城だった。



逆井城址(茨城県坂東市)



同上



同上



“鐘突山”の呼び名が残る現変電所である(埼玉県羽生市)
羽生城の緊急を知らせた鐘だろうか。
だとすれば、北条氏繁の羽生城攻めのときも、
鐘の音が鳴り響いたに違いない。

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