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「ピエロ」の独り言

四国の山の中、久万町に住む「ピエロ」。人は皆「道化師」です。独り言を掲載します。

松山空襲の日。

2013年07月26日 15時19分29秒 | 人災

【今日の写真】 
今日の写真は、昨日の撮影です。「キクイモ」の葉の上に「イナゴ」が止まっていました。「坊ちゃん」に出てくる一場面を思い出しました。松中の生徒が「坊ちゃん」先生の宿直の寝床に「イナゴ」を忍ばせていて、もぞもぞと動く「イナゴ」に驚いて、「誰だバッタを入れた奴は」というと生徒が「バッタじゃないぞなイナゴぞなもし」とやるくだりです。


【私的な出来事と体調】
今日は、私の記憶に間違いなければ21日ぶりの雨がふりました。一時は、「雷」も鳴り、空が真っ暗になって、丁度そんな時間10時33分に「地震」まで響くというせわしない時間でした。地震は中予地方で震度は久万高原で2でした。
 本日のコンディションは、体重が75.0キロ(-0.3)、体脂肪率21.0P(-1.2P)で、今日も、順調キープです。



【今日は松山空襲の日】 http://www.hime66.com/
『松山空襲・・・昭和20年7月26日 23:30、松山市は焼夷弾爆撃を受けた。』
この空襲によって被災面積約5K㎡、罹災戸数14,300戸、罹災者 62200名、死者・行方不明者259名に達し、市街地の大半は灰燼に帰した。

私の住んでいた城下町松山市上空にアメリカ軍機が偵察のために初めて現れたのは,1943(昭和18)年の3月であったが、重爆撃機B-29(1機 )が飛来したのは,1945(昭和20)年2月10日昼すぎのことである。


* 私とほぼ同じ年齢の方のホームページに掲載されていたコメントです。
私たち家族も母と姉二人と兄、弟と妹7人で、布団を被って、道後公園の東の自宅から、逃げたものです。東野の小さな橋の下でした。
68年前のことでしたが、まだ鮮明に脳裏に残っています。

コメント
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