さて、今回のテーマは、「時間を写し込む」です。
手始めに、こんな素材からスタートしてみましょうか。
サザンカの花びらを、四角く並べてみたものです。
まぁ、これだけでも、一風吹けば飛び散って跡形も無くなるのだから、儚い秋の瞬間を撮していると言えそうです。
でも、もう一工夫してみましょうか。
先ほどの正方形に枯れた花びらや、サザンカの実なんかも並べてみました。
これなら、花の盛りから種を散らすまでの時間が、目に見える形で表せたような気がしませんか?
A(^_^;
ん?
まだまだ?
じゃぁ、もう一ひねりしてみましょうか?
今度は周りの状況も写し込んでみました。
葉陰の左側には、サザンカのつぼみも見えています。
でも、この大きさに縮小してしまうと、何だか良くわかりませんね。
じゃぁ、こんなのは?
写真を撮っていたら、偶然に向こうの方でお昼寝をはじめたお爺さんがいたので、一緒に撮してみました。
「人間も植物も私には同じだわ」
そんなことを詩の中で書いていた、西脇順三郎のことを思い出してしまいましたよ。
人の一生も花の命も、愛おしくも儚いという点では、そんなに変わるところがありません。
さて、今度はもっと短い時間を写し込んでみましょうか。
通路の途中にあった水たまりにもモミジが散っていたので、それでこんな悪戯を。
空が晴れて雲が流れていれば、もうそれだけでステキな写真になるんだろうけれど、今日はあいにくの曇りときたもんだ。
浅いドロンコの水たまりじゃ、あんまりにもうら寂しい。
で、時間でも写し込んでみるかなんてことを考えたりする。
一瞬カラスの群れが通り過ぎて、水たまりにステキな影を落としていったのに、撮りそびれた。
自分の鈍くささを呪っても、どうにもならない。
また鳥たちが横切らないかと空を見上げる。
♪待ちぼうけ 待ちぼうけ
もとは涼しい黍畑
いまは荒野の箒草
寒い北風
木のねっこ
北原白秋
いや、そこまで根気よく待てないので、水たまりを反対側からのぞき込んでみる。
おぉ、旨い具合にカエデの枝が。
けれど余りにも葉が散りすぎていて、梢の陰と落ち葉のリースの関係がイマイチ。
で、小石を投げ込んでみる。
作為が見え見えなのって、好きじゃないんだけど、それを言い出すとそもそも作品造りって作為の権化だったりするのよね。
あぁ、自己矛盾。
でもまぁ無作為の作為は日本の伝統。
「野にあるように」と作為を削ぎ落とすことをよしとする、投げ入れの「茶花」みたいなものってことにしよう。
無作為を装った作為と言っても、裁判員がホントに無作為で選出されている保証がどこにあるのかとか言う、そう言う焦臭い話題は、この際関係ない。
汗
とかなんとか言いながら、たまたま良い感じの波紋がとれて嬉しかったりする。
ゲンキンなものだ。
「色と空」「虚と実」みたいで面白い。
ね?
写真ってメディアの面白さは、瞬間を永遠のように扱えることでもあるよね。
これについては以前にも「存在の耐えられない軽さ」ってな記事で書いたことあるんだけど。
そうそう、無作為と言えば、この日偶然こんなのを見つけたんだった。
わかります?
流れの中に、モミジの輪が!
こんなの、人の手じゃ作れないよね。
偶然の悪戯って、面白いよねぇ....
ってか、作る人の立場ないじゃあ~りませんかっ!
ってなわけで、ここでちょっと趣向を変えて、今度は無作為のものから作品をでっち上げるってのを紹介してみよう。
この黄色い線、なんだと思います?
ヒマラヤスギの花粉なんですよ。
昨夜の雨で、水際に溜まった花粉が午前中の秋風で水たまりを縮こまらせ、こんな跡が残ったんですね。
だから、タイトルは「ヒマラヤスギ」。
秋の一夜の時間経過を表している作品です。
なんてね、わっかんないよねぇ....えへ
なが~い能書きを読まないと作品の意図するところが見当も付かない深淵きわまりない試みなんてのも、結構ポピュラーになってきた今日この頃ですから、この程度のワケワカでは批判の対象にすら成り得ませんよね。
ひひひ
元々はどんな状態だったのかって見てもらうと、ただの水たまり。
汗
水が干上がりかかっていて、たまたまモミジの葉っぱも落ちてたりする。
いやぁ~、カメラって、ホントに面白い道具だなぁって、こんな時しみじみ思います。
さてと、ここいらでそろそろ、まじめなことも書かないと、ホントに世迷い言だけで終わってしまいそう。
こんな風にただただ葉っぱを並べるだけでも、作品だなんて言うこと自体おこがましいというか胡散臭いって言われそうなのに、あげくの果てに、ただ単に干上がりかかった水たまりを撮しただけで、作品だなんて言い出す始末。
ねぇ?
で、まぁ、ちょっと考えてみると、これって茶花の心なんだよねって思ったりするのだ。
「茶花の心」?
そう、野にある花を1輪えらんで摘み取り、それを茶室の花入れに、作為を感じさせないよう出来る限り自然に飾る。
水たまりの写真だって、大差ない行為だと思う。
野にある水たまりをのぞき込み、気に入った一角を見つけ出し、カメラのフレームの中に納める。
「野にあるように」と作為を削ぎ落とす、ごく普通の抽象化の作業だ。
うぅぅ....返って胡散臭いかも。
しかし、なにものをも象徴しないことこそ最もよく永遠を表す、ってな事を言っていた西脇順三郎を思い出したり。
「永遠の単位」でも、その辺のことをぶつくさ書いたことあったっけ。
秋の光の移ろいや、梢の色合いの移りゆく様は、やはり吹けば飛ぶような儚い表現手段による方が、ふさわしいような気がする。
大げさな構造物では、違和感ばかりが際だってしまう気がする。
やっぱり、ここは御本家のアンディ-さんに登場してもらうとしよう。
Rivers and TidesっていうGoldsworthy の製作風景を紹介する映画に、こんな一コマがあるんだよね。
雪を投げ揚げて、その一瞬の形を作品として見せてるのだ。
作品を作るという行為自体を極限までそぎ落とした作品。
映像の記録によって繰り返し観賞することが出来なければ、誰にも知られることなく過ぎ去っていく行為。
映画や写真という手段はそんな一瞬をフィックスし、何度でも繰り返すことを可能にする。
それにしても、こう言うのが作品として評価されるのって、一種理詰めで行き着くところに行き着いたって感じがするんだよね。
こんなイベントがあると聞いて、ただ雪を投げあげるのを、僕はわざわざ見に行かないと思うなぁ。
でも、これが一つの到達点であり、必然だというのは、理解することは出来る。
それに、逆光に輝く雪煙のフォルムは確かに美しい。
ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもない美しさ。
額に入れてオークションに掛けられることのない美。
TACET=お休み
1楽章から3楽章まであるこのピアノ曲は、全て休符だけで作曲されている。
歴史的な位置づけとしては、外すことが出来ない作品だけれど、それが魅力的かというとビミョ~ってのは、他の分野にもあったりする。
例えば、ジョン・ケージの普通のピアノ曲「4分33秒」なんてのも、同じ性質の作品だと思っている。
全楽章休符という音楽がなぜこれまでに書かれなかったのか?
どんなに演奏技術の無い人でも完璧に演奏できる作品だ。
w
わざわざ金を払って聞きに?行こうとは思わないけれど、ケージのピアノ曲の中では一番よく売れてる楽譜だというのも凄く理解できる。
しかも、僕もそんな作品を作曲してみたいという誘惑に、身を任せたくなるほどだ。
A(^_^;
実際、彼自身も何度かその誘惑に負けている。
あろう事か、協奏曲やオーケストラ作品まで書いて?居たりする。
当時、いかに引っ張りだこだったかわかるよね。
もちろん、全作品通して無音の作品なんだけどさ。
聞き比べてみる?
うひひひ
ともあれ、これだって、作曲と言う行為を極限までそぎ落として成立していると言えないだろうか?
そうそう、4分33秒と言う長さの必然性の無さについて書いたこともあったっけ。
「639年の荒唐無稽」
ケージと一緒に引き合いに出されるデュシャンの最も有名な作品「泉」。
便器を美術館に飾る。
しかも、自分が作ったものではないと来てる。
これもまた、理解しやすい理論武装の上に成り立っている。
だれかの作品であることを否定することで成り立つ作品。
が、さらに笑えることには、後年彼自身の厳密な監修の下に「泉」のレプリカ?がいくつか作られたという話しもあるとか。
その話しは「七五調で愛の言葉を」で書いたんだっけ。
話がそれた。
要は、何かをことさら作ったからと言って、これが私の作品だ!とは言えなかったりするし、何も作っていなくてもこれが作品だ!って胸を張って宣言することも自由な時代なのだ。
その作品が、人に愛されたり感動を共有出来たりするかどうかと言うのとは別次元で、だったりもするのだけれど。
さて、時間を撮してみよう。
いや、時間の経過をかな。
秋の日射しは、意外なほど早く傾く。
幹の陰が離れるほど、この作品の存在が曖昧になっていく。
不意に日が翳った。
一瞬にして、落ち葉の並びは無意味な羅列に変わり果てた。
そして再び、日射しが。
まだ、作品と言えるだろうか?
時間の経過と、意図の風化。
人工と自然の狭間。
そんなことを考えさせられた日だった。
モミジのは人の手ではない偶然。モミジの手が造ったわけですな~~(しょうもない駄洒落)
枯葉と幹の影の並び 時間経過が写し撮られていますね。
時間という深遠なるテーマに果敢に挑戦された意欲に敬意を表します。