薔薇の木に
薔薇の花咲くあな愛し
何の不思議もおもほえねども
北原白秋
とはいえ、薔薇の蕾というのはなんとミステリアスな存在だろう。
この小さな球体の中に隠されている神秘と言ったら........。
自分が持つものを素直に花開かせる、
そのことに困難を感じるのは、薔薇ではなく、
むしろそれを眺める人間の方だったりする。
神代植物公園「秋のバラフェスタ」に行ってきました。
しかしまぁ、薔薇の名前がないというのも、なんだか色気のない話しです。
膨大なバラ新品種のコンテスト出品作が見られるのは良いんですが、名札に書いてあるのは出品番号のみ。まだ名付けられる前の、世に生まれ出る前の、無垢の薔薇たち。
ともあれ僕たちは、この《名のない》nameless; 《匿名の》anonymous; 《世に知られていない》unknownな無名の生物からのかぐわしい香りをかぎ分け、神秘な色合いを堪能したのだった。
バラ園の花の中で眠るアオマツムシの雌
雨上がりのバラ園を散歩しながら花の香りをかぎ分けていくと、ひときわ芳しい花びらの中で眠る者がおりました。2本の触角をきちんとそろえて、濃密な香りの中心に向けてダイビングするかのようなしぐさで、それは深い眠りに落ちていたのです。
細身の1枚の葉のような彼女は、明け方まで続いた夜会に疲れたのでしょうか。
それとも秋の夜長の涙雨を避けての雨宿りでしょうか。
中国からやってきたと言われる彼女は、中国原産の薔薇の原種を片親にもつこの薄紫の花の香りに惹かれ、懐かしんでいたのかも知れません。
ふくよかな薔薇の褥(しとね)は、そんな彼女を優しく包んでおりました。
薔薇の目覚め
夕べは雨宿りでゆっくり羽を休めたんでしょうね。クサカゲロウの旅立ちです。
「かげろう」というと、儚い命の代表のように思われていて、
ゆふぐれに
命かけたるかげろふの
ありやあらずや
とふもはかなし
新古今集 二九五 読人知らず
なんて詠われていたりしますが、実のところ、このクサカゲロウは見かけほどには儚くもない存在のようです。
現在、日本で「かげろう」と呼ばれている昆虫は、ウスバカゲロウ・クサカゲロウなどの脈翅目とヒラタカゲロウ・トビイロカゲロウなどの蜉蝣(カゲロウ)目とに分かれるんだそうで、要するに普段の会話では、ごちゃ混ぜに呼ばれてるわけなんです。
蜉蝣目の昆虫は羽化して亜成虫になり、脱皮して成虫になりますが、成虫になると口器は退化して飲食できず、雄は交尾後すぐに、雌は産卵のために数日してから死んでしまいます。
世間で言うところの儚いカゲロウは、あえて正確に言うならこっちになるんですね。
とはいうものの、この子たちをきちんと見分けられるかというと、ちょっと自信がないんですけどねぇ。
さらに言うと、「とんぼ」と打って変換しても「蜻蛉」ですし、「かげろう」と打って変換しても「蜻蛉」になってしまい、トンボの仲間もカゲロウの仲間も、日常会話の中では頓着なくごちゃ混ぜに使われてきたというのが実態のようです。
たかが虫けらの話しというなかれ、「一寸の虫にも五分の魂」。
それにしても、この「かげろう」、実体のない陽炎の「かげろふ」のイメージも重なってきたりするようです。
『蜻蛉日記』の上巻末に、
かく年月はつもれど思ふやうにもあらぬ身をし嘆けば、声あらたまるもよろこばしからず、なほもの はかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし。
とありますが、道綱母は、ここで「かげろふ」を「あるかなきかの心ちする」ものであり、「ものはかなき」ものであると考えているようです。
「あるかなきかの心ちする」というのは「陽炎」の「かげろふ」になりますが、「ものはかなき」という属性は陽炎と昆虫のカゲロウに共通するもののようです。
道綱母の日記には、陽炎や昆虫の区別を越えた「かげろふ」の世界が広がっていたのではないでしょうか。
それにしても『蜻蛉日記』、お気楽な「トンボ日記」と儚げな「かげろふ日記」じゃぁ、あんまりにも違いすぎるとは思うんですがね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます