写真の空き地には、かつてお寺が建っていました。川本町のある集落です。
どういういきさつかはわかりませんが、宗教法人も解散し
伽藍まで解かれてしまいました。
数年前まではまだ木材が積まれていましたが、もうありません。
私は曲がりなりにも僧侶として、一つのお寺をお預かりしていますが
実は「光善寺の住職です」という後ろ盾があって初めて活動できているのでは
ないかと思いました。
所在地にはきちんと光善寺の伽藍があって
ああこのお寺の住職かと
認識してくださいます。
では、お寺がなく、一人の僧侶としてという立場であるなら
今のような教化活動ができるのだろうか。
光善寺の住職から
一人の僧侶として
お念仏のみ教えに出遇えた親鸞聖人の門徒として
いったい何ができるのだろう。
空き地を見ながら考えました。
どういういきさつかはわかりませんが、宗教法人も解散し
伽藍まで解かれてしまいました。
数年前まではまだ木材が積まれていましたが、もうありません。
私は曲がりなりにも僧侶として、一つのお寺をお預かりしていますが
実は「光善寺の住職です」という後ろ盾があって初めて活動できているのでは
ないかと思いました。
所在地にはきちんと光善寺の伽藍があって
ああこのお寺の住職かと
認識してくださいます。
では、お寺がなく、一人の僧侶としてという立場であるなら
今のような教化活動ができるのだろうか。
光善寺の住職から
一人の僧侶として
お念仏のみ教えに出遇えた親鸞聖人の門徒として
いったい何ができるのだろう。
空き地を見ながら考えました。
ご住職もたくさんおられます。
そして地域のお寺を守ろうと頑張っておられるご門徒さんも。
本願寺派の僧侶は年々増えているのに
布教使も年々増えているのに
なぜ消える寺が後を絶たないのか。
なぜ法灯が消えそうになるのか。
今までのシステムを思い切って変えていく必要もあるのかなと思ったりもします。
バタバタと無くなって行っているような報道でしたが。島根の寺のブログを読ませていただいていると、無住の寺になって法灯を守られる門徒さんたちや、それに応える周りの住職さんたちのはたらきを知らされます。
人口が増え、寺も門徒も健在なのに法灯が細くなっていることが情けなく思えるこの地です。
他人事にしている私が一番問題なのですが・・・