者の中でカラオケを全く経験したことがない方はほとんどいらっしゃらないだろう。老若男女を問わない国民的娯楽だといっていい。どんな地方都市に行ってもカラオケボックスがあるし、温泉旅館もカラオケは必ず備えている。
私自身のカラオケ体験は大学に入ってからだった。大学1年のときはまだカラオケボックスはなく、駅前に安料亭を改造したカラオケ屋があり、そこで同級生たちと歌ったものだが、もともと和室で防音設備もなく、隣の部屋とは襖で仕切られているだけだったので、互いに張り合って大声で歌ったり、よその部屋に乱入したり無茶苦茶であった。飛び跳ねていると階下に響くので、仲居さん?がよく注意しに来たが、歌うよりも暴れるのを目的にしていたような同級生たちは怒られると余計面白がって騒いでいた。歌うというよりそういうバカ騒ぎは大学に入った当初は確かに楽しかった記憶がある。ネットで検索するとまだあの店は居酒屋として存在しているようだ。今はどうなっているのだろうか。
大学2年になると現在のようなカラオケボックスがあちこちに建ち始め、だんだんカラオケのレパートリーも増えていった。しかし改造旅館カラオケでバカ騒ぎしていた頃と違って、お互いに人の歌っているときはあまり聞かないで、うつむいて曲目リストで歌える歌を必死に探すという、今のカラオケのスタイルになった。大手出版社に勤める編集者の友人は、小説があまり売れない反面、文学賞への応募者が増えている現象を同業者内では「カラオケ小説家」と呼んでいると話していた。つまり先人の小説は読まないで、自分ばかり書いているそうだ。カラオケはお酒を飲んだ2次会で行く場合が多いと思うが、初対面だったり、あまり共通の話題がなかったりすると、普通の居酒屋に行くよりもカラオケで適当に歌って盛り上げたようにしているほうが無難なようだ。会話を避けているといってもいいかもしれない。
同年代の友人で、流行を共有している同士で気軽にカラオケに行っている分には、ボックスで徹夜しようがどうしようが、大学生くらいなら全く構わないと思うが、ゼミで教員を交えていったり、あるいは会社でも年齢差や上下関係があるグループでカラオケに行くのはどうなのかと思うことが多い。そうした場合、どうしても年長者に気を遣ってしまうだろうし、若い人たち同士だけで知らない歌で盛り上がっていると年長者が機嫌が悪くなるのはまず間違いないだろう。
私自身も年長の先生たちとカラオケに行く機会が多かった時は古い流行歌を覚えて歌ったりしたが、学生の中にも気を使って、我々が大学生だった頃に流行った歌を歌ってくれる場合があって、それがあまりにピッタリだとかえって複雑な思いをしたものだ。若者の真似をして最新ヒットチャートを歌うのもどうかと思うが、かといって古い歌を歌って自己満足しても仕方ないという屈折した気分なのかもしれない。古い歌を歌うと自分が古くなった気がしてならない。懐メロを歌っている人たちはそう思わないのだろうか?
純粋に若い人たちがバカ騒ぎをしているのを眺めているだけで嬉しいという人なら、若いグループに混じってカラオケに行ってもいいだろうが、接待というか盛り上げてもらったり、デュエットしてもらいにカラオケに行くくらいなら、学生や会社の部下と行かずにスナックに行けばいいのではないかと思ってしまう。若い人とカラオケに行きたがる中年男性や中年化しつつある男性は大部分、自分の歌を聞かせたい人だと思って間違いない。実際、共通の話題がない人たちと飲むのはかなり神経も気も使うし、話題も一ひねりしなければならないだろう。だから面白いのであって、それが出来なかったり嫌だったら、飲みに行かないとか、二次会に行かなければいいのではないだろうかと私は思う。
「二次会、カラオケで」というと最近、あまり乗らないことが多いので、学生に「先生はカラオケ嫌いなんですか?」と聞かれるのだが、嫌いなのではなく、変に気を遣ってもらうのは嫌だったり、また飲み会は教室では話せないようなことを学生と話したり聞いたりする貴重な機会だと思っているので、カラオケで話も出来ず歌っているだけじゃもったいないと思うからである(その態度が逆に気を遣わせているかもしれないが・・・)。
アメリカ人と話した時に、アメリカでは老人から子供まで何かの機会にはダンスをするという話を聞いて、「日本人は踊れない人が多いけど、カラオケがそれに当たるでしょうね」といったら妙に納得していた。「Shall We ダンス?」のような映画がアメリカでもヒットしたからなおさら日本人のダンス下手は納得したことだろう。小泉首相が登場するまで、首相が短期間で交代する時期が続いた時は、日本政治は(歌の順番を待っている)「カラオケ政治」だと揶揄されたこともあった。良くも悪くも現代日本文化の一翼を担っているのだろう。
あまり気乗りがしないカラオケに付き合った時はスクリーンをぼうっと眺めていると、世相を上手く捉えた歌詞が面白いと思うことが多い。洋楽はサウンド重視で歌詞は二の次だと言うが、日本人は歌詞に特別の思い入れを抱いているようだ。詩集が売れないというが、その分、Jポップ(これも死語だろうか)の歌詞が昔の詩集の代わりを果たしているのだろう。
烏賀陽弘道氏が『Jポップの心象風景』(文春新書)という本で分析されているが、少し小難しく考えすぎているような気もしたが、歌謡曲やJポップの歌詞は時代の空気から遊離してしまったら売れなくなってしまうのだろう。1970年代を風靡した作詞家・阿久悠氏が沢田研二に提供した歌詞(例えば「カサブランカ・ダンディ」)などは今の目から見るといかに時代錯誤で男尊女卑的か、歌ってみるとよく分かるが、当時はそれがカッコよかったのだろう。「ウーマンリブ」が言われ出した時代だから敢えてあのような歌詞にしたのかもしれないが、世相の変化が反映されていて面白いものだ。
ともあれカラオケという空間は本来、唱和して一緒に盛り上がることが目的とされているのかもしれないが、集まった人たちの性格や価値観、世代のギャップなど、むしろ「個」が露呈する場である。カラオケを非常に楽しんでいた時期もあるし、一概に否定できない、いい面もあると思うが、やはりお互いに気を遣わない同士で行って、気兼ねなく時を忘れて盛り上がるべきものなのではないだろうか?