どの国に生まれた子供でも「嘘はついちゃいけないよ」と親から教えられて育つはずだ。にもかかわらず私たちは日々、嘘に囲まれて生きている。嘘をつくことを覚え、嘘を見抜く術も学び、大人になっていく。しかし嘘をつかれるのはいくつになっても愉快ではない。分かりきった嘘や言い訳を平然とする人に直面すると、「こんな嘘で騙せると思っているのか」と腹が立つと同時に、すぐにばれるような嘘をつく相手を哀れに思ってしまうこともある。「平気で嘘をつく人」とインターネットで検索をかければ、大体、「嫌いなタイプ」「嫌いな人」のところで挙げられている。それでも平気で嘘をつき続ける人たちは一向に減る気配がない。
研究室にいても常に怪しげな投資勧誘の電話がかかり、電子メールではミエミエのスパム・メールが毎日舞い込む。オレオレ詐欺や振り込め詐欺のニュースも絶えることがない。テレビでは何故かホストの生態を年中放送している。いったい嘘を職業にしている人たちはどんな思いなのだろうかと考えてしまう。昔の感覚で言えば、地獄に堕ちて閻魔様に舌を抜かれるのだろうが、宗教的モラルも良心の呵責も感じない人にとっては平気なのだろうか?昔、結婚詐欺で捕まった男が、「騙したのではない、『夢』を売ったのだ」とうそぶいたそうだが、まさにそうやって正当化し、自分をも騙し続けているのかもしれない。
最近、『言い訳』本が売れているという。本屋に行くと様々な言い訳本が並んでいる。大学を卒業して、ゼミ仲間で最初に飲み会をやった時に、銀行に勤めた友人が『言い訳』本を買っていたのを思い出した。学生時代、歓楽街の客引きにも怖がるような生真面目な男だったから、上司に上手く言い訳する術が見つからなかったのだろう。しかし今、ベストセラーになっている本を見てみると、大体、悪い言い訳の例を列挙しているか、または言い換え表現を載せているのだが、言い訳する相手との信頼関係がない限り、結局、できなかったことやできないことについて釈明せざるを得ないのだから、どんなに上手く言い訳しても解決しないどころか、かえって誠意のなさを感じさせるだけだろうと思った。「巧言令色少なし仁」という言葉がまさに思い浮かぶ。
そんな「言い訳」と「嘘」にうんざりしていたある日、本屋で、チャールズ・V・フォード『嘘つき-嘘と自己欺瞞の心理学』(草思社)という本と出会った。アラバマ大学の精神科の教授が書いた本で、いわゆる『言い訳』本とは一味違ったアカデミックな分析が載せられていて、大変面白い本だった。今回、タイトルで掲げたように、この本では他人につく「嘘」を、自分を騙す「自己欺瞞」との相関関係で分析し、その功罪を論じている。
「自己欺瞞」と嘘とは必ずしも同一でないが、嘘のメリットとして、自己欺瞞が出来る人はうつ病にかかる率が低いという結果が示されている。自分を責め続け、反省ばかりしていると鬱になりがちだが、ポジティブ・シンキングと言うべきか、将来を楽観し、自分の能力を信じ、自尊心を高める能力が高い人は精神障害にかかりにくいのだろう。これを「自己欺瞞」と呼ぶのは日本語の語感からすると抵抗があるが、なるほどと思った。しかし「下方的自己欺瞞」という、自分の能力や可能性を低く思い込むこともあるようなので、いい方に自分を騙す場合にのみ、評価できることなのだろう。
また集団思考を集団的な自己欺瞞として捉えている点も興味深かった。官僚主義的な組織がその組織内部でしか通用しない考え方を、「これが正しい」「こういうやり方しかない」「今までやってきたから間違いない」と思い込んで、間違った結果や過失につながっている例は歴史上後を絶たないが、結局、「だます」ことは「真実」でない以上、いろいろ無理が出てくるのは否めないのだろう。そう考えるとポジティブな自己欺瞞でもどこかで破綻してしまうのではないかと思わずにいられなかった。
嘘は一般に非道徳的なものだと考えられがちだが、本書はその点にも反論し、「真実の道徳性が一般大衆の間に広められるのは、それが権力構造の体制維持に役立つからだ」と指摘している。権力の座にあるものの「嘘」は組織や体制の利益のために役立つと正当化されるのに、一般構成員の「嘘」は組織にとって有害とみなされるのだと言う。プライバシーや個人の権利を権力者から守るための「嘘」は必要不可欠という立場から、著者のフォードは、「個人、社会、および人類にとって最も大きな危険は嘘ではなく、相互に強化される自己欺瞞」だと結論づけている。
しかし嘘が広まった社会は人間間の相互不信が高まった社会であり、それによる社会的紐帯の弱体化の可能性は否定できないだろう。近年、政治学でキーワードとなっている言葉に「ソーシャル・キャピタル(人間関係資本)」がある。これはロバート・パットナム・ハーバード大教授が提唱した概念だが、自治や行政が上手く作用する前提条件として、人々の間の信頼のネットワークやその蓄積が重要だというものである。日頃、お互いに嘘ばかりつきあっている人々の間で果たして、いざという時に助け合えるような「信頼」関係が築けるだろうか?実際、このフォードの著書で紹介されている対人心理学の実験では、会話中の人間のいずれか一方が嘘をついている時には、相手方がその嘘を気付いていないのに関わらず、互いの印象が悪化するという結果を示したとのことである。嘘に伴う非言語コミュニケーションが嘘をつく側にも、相手側のいずれにも親密な感情が生じるのを妨げるのだという。嘘をついた人にもつかれた人にもよく思い当たる知見だろう。
「人間は、自分のいうことを自分で『信じている』時により効果的に嘘をつく」と著者は言う。嘘ばかりついているうちに、いつの間にかそれが自分にとって「真実」になり、まさに自己欺瞞に成功し、さらにそれを信じて嘘をつき続けてしまうのは恐ろしいことだと思う。著者が言うように、「嘘」は本能的なもので、それ自体は道徳的でも非道徳的でもない、と自然科学者の立場からは言えるかもしれないが、社会的動物である人間を考える場合に、自己防衛的、緊急避難的な「嘘」はともかく、不必要な嘘、自己利益だけを考えた嘘、信頼関係を損なうような嘘は「非道徳」的として非難されても仕方がないのではないかと本書を読んでも思わずにいられなかった。それは「権力者の側に都合がいい」からではなく、「ソーシャル・キャピタル」論が言っているようにむしろ権力者に過度に頼らず、人々が自治的に協働関係を築くためにこそ、嘘のない信頼関係が重要なのではないかと思う。
江戸時代の五人組制度にせよ、イギリスやフランスがアフリカや東南アジアでの帝国主義的支配で活用した「分割統治 Divide and Rule 」方式にせよ、民衆の間の相互不信と対立を煽った方が、権力者や支配者にとっては好都合である。権力者に対抗するためには、ただの嘘つきになるのではなく、権力者に対しては嘘をついても、仲間内では嘘をつかない姿勢が必要なのだろう。本書は、「嘘」という身近だが、学問的に論じにくいトピックを体系的に論じている興味深い研究であり、心理学のみならず社会学、政治学、経済学など人間行動に関わる他の分野にも様々なヒントを与えてくれるものであろう。
研究室にいても常に怪しげな投資勧誘の電話がかかり、電子メールではミエミエのスパム・メールが毎日舞い込む。オレオレ詐欺や振り込め詐欺のニュースも絶えることがない。テレビでは何故かホストの生態を年中放送している。いったい嘘を職業にしている人たちはどんな思いなのだろうかと考えてしまう。昔の感覚で言えば、地獄に堕ちて閻魔様に舌を抜かれるのだろうが、宗教的モラルも良心の呵責も感じない人にとっては平気なのだろうか?昔、結婚詐欺で捕まった男が、「騙したのではない、『夢』を売ったのだ」とうそぶいたそうだが、まさにそうやって正当化し、自分をも騙し続けているのかもしれない。
最近、『言い訳』本が売れているという。本屋に行くと様々な言い訳本が並んでいる。大学を卒業して、ゼミ仲間で最初に飲み会をやった時に、銀行に勤めた友人が『言い訳』本を買っていたのを思い出した。学生時代、歓楽街の客引きにも怖がるような生真面目な男だったから、上司に上手く言い訳する術が見つからなかったのだろう。しかし今、ベストセラーになっている本を見てみると、大体、悪い言い訳の例を列挙しているか、または言い換え表現を載せているのだが、言い訳する相手との信頼関係がない限り、結局、できなかったことやできないことについて釈明せざるを得ないのだから、どんなに上手く言い訳しても解決しないどころか、かえって誠意のなさを感じさせるだけだろうと思った。「巧言令色少なし仁」という言葉がまさに思い浮かぶ。
そんな「言い訳」と「嘘」にうんざりしていたある日、本屋で、チャールズ・V・フォード『嘘つき-嘘と自己欺瞞の心理学』(草思社)という本と出会った。アラバマ大学の精神科の教授が書いた本で、いわゆる『言い訳』本とは一味違ったアカデミックな分析が載せられていて、大変面白い本だった。今回、タイトルで掲げたように、この本では他人につく「嘘」を、自分を騙す「自己欺瞞」との相関関係で分析し、その功罪を論じている。
「自己欺瞞」と嘘とは必ずしも同一でないが、嘘のメリットとして、自己欺瞞が出来る人はうつ病にかかる率が低いという結果が示されている。自分を責め続け、反省ばかりしていると鬱になりがちだが、ポジティブ・シンキングと言うべきか、将来を楽観し、自分の能力を信じ、自尊心を高める能力が高い人は精神障害にかかりにくいのだろう。これを「自己欺瞞」と呼ぶのは日本語の語感からすると抵抗があるが、なるほどと思った。しかし「下方的自己欺瞞」という、自分の能力や可能性を低く思い込むこともあるようなので、いい方に自分を騙す場合にのみ、評価できることなのだろう。
また集団思考を集団的な自己欺瞞として捉えている点も興味深かった。官僚主義的な組織がその組織内部でしか通用しない考え方を、「これが正しい」「こういうやり方しかない」「今までやってきたから間違いない」と思い込んで、間違った結果や過失につながっている例は歴史上後を絶たないが、結局、「だます」ことは「真実」でない以上、いろいろ無理が出てくるのは否めないのだろう。そう考えるとポジティブな自己欺瞞でもどこかで破綻してしまうのではないかと思わずにいられなかった。
嘘は一般に非道徳的なものだと考えられがちだが、本書はその点にも反論し、「真実の道徳性が一般大衆の間に広められるのは、それが権力構造の体制維持に役立つからだ」と指摘している。権力の座にあるものの「嘘」は組織や体制の利益のために役立つと正当化されるのに、一般構成員の「嘘」は組織にとって有害とみなされるのだと言う。プライバシーや個人の権利を権力者から守るための「嘘」は必要不可欠という立場から、著者のフォードは、「個人、社会、および人類にとって最も大きな危険は嘘ではなく、相互に強化される自己欺瞞」だと結論づけている。
しかし嘘が広まった社会は人間間の相互不信が高まった社会であり、それによる社会的紐帯の弱体化の可能性は否定できないだろう。近年、政治学でキーワードとなっている言葉に「ソーシャル・キャピタル(人間関係資本)」がある。これはロバート・パットナム・ハーバード大教授が提唱した概念だが、自治や行政が上手く作用する前提条件として、人々の間の信頼のネットワークやその蓄積が重要だというものである。日頃、お互いに嘘ばかりつきあっている人々の間で果たして、いざという時に助け合えるような「信頼」関係が築けるだろうか?実際、このフォードの著書で紹介されている対人心理学の実験では、会話中の人間のいずれか一方が嘘をついている時には、相手方がその嘘を気付いていないのに関わらず、互いの印象が悪化するという結果を示したとのことである。嘘に伴う非言語コミュニケーションが嘘をつく側にも、相手側のいずれにも親密な感情が生じるのを妨げるのだという。嘘をついた人にもつかれた人にもよく思い当たる知見だろう。
「人間は、自分のいうことを自分で『信じている』時により効果的に嘘をつく」と著者は言う。嘘ばかりついているうちに、いつの間にかそれが自分にとって「真実」になり、まさに自己欺瞞に成功し、さらにそれを信じて嘘をつき続けてしまうのは恐ろしいことだと思う。著者が言うように、「嘘」は本能的なもので、それ自体は道徳的でも非道徳的でもない、と自然科学者の立場からは言えるかもしれないが、社会的動物である人間を考える場合に、自己防衛的、緊急避難的な「嘘」はともかく、不必要な嘘、自己利益だけを考えた嘘、信頼関係を損なうような嘘は「非道徳」的として非難されても仕方がないのではないかと本書を読んでも思わずにいられなかった。それは「権力者の側に都合がいい」からではなく、「ソーシャル・キャピタル」論が言っているようにむしろ権力者に過度に頼らず、人々が自治的に協働関係を築くためにこそ、嘘のない信頼関係が重要なのではないかと思う。
江戸時代の五人組制度にせよ、イギリスやフランスがアフリカや東南アジアでの帝国主義的支配で活用した「分割統治 Divide and Rule 」方式にせよ、民衆の間の相互不信と対立を煽った方が、権力者や支配者にとっては好都合である。権力者に対抗するためには、ただの嘘つきになるのではなく、権力者に対しては嘘をついても、仲間内では嘘をつかない姿勢が必要なのだろう。本書は、「嘘」という身近だが、学問的に論じにくいトピックを体系的に論じている興味深い研究であり、心理学のみならず社会学、政治学、経済学など人間行動に関わる他の分野にも様々なヒントを与えてくれるものであろう。