紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

友人と知人と銃

2006-02-16 23:27:51 | 政治・外交
すっかり更新が滞ってしまったが、久しぶりにアメリカに調査に来てみて、少し空き時間もあるので思うことを書いてみたい。チェイニ―副大統領が狩猟中に友人を「誤射」したという衝撃的なニュースは先日、日本でも報道されていたが、アメリカに来てみるとやはり大騒ぎになっていた。同じ事件でも様々な角度から光を当てているのが興味深かった。たとえばメディア嫌いで知られるチェイニ―副大統領が初めてこの件でインタビューに登場したのが、共和党政権に好意的なFOXテレビだったことを、他のメディアが批判しており、チェイニ―大統領の就任以来のTVメディア登場回数を局ごとに比較し、FOXとそれ以外すべてが同数という数字を挙げて、いかに好みのTV局しかに出ないかを批判していた。

また第三代ジェファソン大統領下で副大統領を務めたアーロン・バー(1756-1836)が、1804年に政敵アレクサンダー・ハミルトンと決闘をして、射殺し、殺人罪に問われたにもかかわらず、一時逃亡して、結局、副大統領職を全うしたエピソードが引き合いに出されていたのも興味深かった。アメリカのニュースを見ていると時々、歴史的事件をまるで昨日のことにように引用比較しているが特徴的だ。別の角度からの報道では、今回の事件の舞台となった狩猟用の牧場が全米各地にあることを、動物愛護団体のリーダーがまるで「缶詰狩猟(canned hunting)」だと批判しているのも印象的だった。絶滅危険種の動物を狩猟用に放している牧場も少なくないらしい。

チェイニ―副大統領は、副大統領就任前に石油エネルギー関連会社のハリバートン社のCEOを務めていたため、石油利権がらみでイラク戦争を起こしたのではないかという疑惑の目を向けられ続け、そうした利権関係を批判した『ハリバートン・アジェンダ』という本もベストセラーになったくらいである。ダーティなイメージが定着している彼が今回のような事件を起こすとそれだけ批判も強いに違いない。かなり厳しい論調なのがMSNBCで、FOXテレビでの副大統領の発言の矛盾をついていたのだが、狩猟前に飲酒をしたのかしてないのか、薬物治療を受けているのに飲酒をしていいのか、といった点と並んで、キャスターが今回の被害者の弁護士ハリー・ウィッティントン氏をチェイニ―氏が「友人friend」と呼んだのか、「知人acquaintance」と呼んだのか、どちらが本当なのかに執拗に拘っていたのが印象的だった。

英語でも友達と知人の違いが大切なのを改めて実感させられたが、実際には「友人」と「知人」の境界線はかなり曖昧なものである。大学生のとき、ゼミ仲間を「彼は知人だけど友人じゃない」とハッキリ言った男が顰蹙を買っていたのを思い出すが、親しいのが「友人」で、知り合いだが特別親しくないのが「知人」ということなのだろうか。小学校では、「誰が友達か」というアンケートを担任の先生から取られて、不愉快な思いをした人も少なくないかもしれない。多感な時期には、自分が友達だと思っていても、相手がそう思ってないのというのは悲しいことであるし、それを第三者である教師に知られるのは愉快ではないだろう。ところが大学の教職課程科目で教育心理学を習ったとき、そうした「友達調査」は「ソシオグラム」の活用だとして奨励されていた。学級運営上、児童の交友関係のネットワークを把握することは、効果的で大切だというのである。しかしそうした「管理」の側からのメリットだけで語っていいのだろうかと思わずにいられなかった。

このソシオグラムには大学院でアメリカ地方政治を勉強し始めたときに再び出会った。1950年代から60年代にかけてのアメリカ政治・社会学上の主要テーマだったのは、ある地域社会の政治経済を全面的に支配しているようなエリート集団が存在するのか否かという議論だった。これは「コミュニティーパワー論争」と呼ばれたのだが、「エリートは存在する」という立場の急先鋒だった社会学者のフロイド・ハンターが使った手法の一つがこのソシオグラムであり、聞き取り調査を通じて、地域社会の政治や経済の実力者の誰と誰がつながっているのか、ネットワークを明らかにしていったのだった。

利害関係でつながったネットワークは「友達」ではなく、「知人」なのかもしれない。いずれにしてもネットワークを重視する姿勢がアメリカ発の教育学や社会学におけるソシオグラムによく現れている。また昨日、ダラス・フォートワース空港からダウンタウンに移動する際に「モーツァルト・フェスティバル」というコンサートの宣伝と並んで、「ガン・ショウ(銃の展示即売会)」開催の看板が立っているのを見つけて、ギョッとした。牧場で動物たちを狩猟のために放し飼いにしたり、街中に何気なく「銃展示ショウ」の広告が立っているようなアメリカの銃文化こそがこうした事件を引き起こす背景になっているのだと久しぶりに来て、いまさらながらしみじみ実感させられた。


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