紅旗征戎

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アール・ウォーレンに見るリベラリズムと反共主義

2005-01-12 15:39:50 | 政治・外交
アメリカの最高裁の歴史や憲法史を学んでいると、アール・ウォーレン(1891~1974)が連邦最高裁首席判事を務めた時期(1953~1969)は、最高裁がもっともリベラルだった黄金時代として「ウォーレン・コート(=法廷)」と呼ばれて高く評価されている。しかしウォーレンは、カリフォルニア州の司法長官(1939~43)時代には、日系アメリカ人の強制収容を主張したこともあり、またケネディ暗殺を調査した1963年のウォーレン委員会の報告書では、狙撃犯とされたオズワルド単独犯行説を主張したため、単独犯説を否定しているオリバー・ストーン監督の映画『JFK』などではどちらかといえば悪役的に描かれている。その意味でもアメリカ政治の光と影を考える上で興味の尽きない人物である。

1953年にアイゼンハワー大統領は、共産主義に批判的で保守的なイメージをもっていたカリフォルニア州知事(1943~53)のウォーレンを最高裁首席判事に任命したが、彼は黒人と白人の人種別学を初めて「違憲」と判断した「ブラウン判決」をはじめ、一連の政教分離判決など、当時の社会常識を覆すリベラルな判決を行なった。このことは意外なことと捉えられがちだが、ウォーレンの伝記的研究によれば、ノルウェー系移民の子だった彼は敬虔なクリスチャンであったが、リベラリズムの原則に立てば、公立学校が宗教に深入りすることは妥当でないと考えていたし、また「ブラウン判決」についても、憲法の精神を忠実に解釈すれば「人種別学」は違憲としか考えられないと考えていたという。彼は、個人の自由を制限し、国家=共産党の権限を最大限拡大する現実の共産主義国家に対して強く反対していたが、同時に、人種隔離政策が厳然と存在した当時のアメリカ社会が自由主義の原則に反していることを認識していたので、言ってみればアメリカを真の意味で「自由主義国家」にするために尽力したのであり、彼自身の中では矛盾がなかったのである。

アメリカ政府自体は冷戦期に「民主主義」擁護の名の下に、独裁国家でも、ソ連や中国と対立していれば支援するような「矛盾」した外交政策をしばしば取っていた。そういう態度とはウォーレンは異なるということである。ブラウン判決から昨年で50年たったが、公立学校での人種統合も人種による住み分けのために十分に進まず、また公立学校における祈りの禁止などの政教分離判決も、判決に反発したキリスト教保守派の団結と組織化をかえって促進することになるなど、皮肉な結果になっているが、アメリカの自由主義の理念を体現した人物としてのウォーレンの評価は揺るぎ無いだろう。
 


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