紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

器用貧乏になれないのは

2005-07-17 17:00:49 | 世間・人間模様・心理
宮沢賢治の誰でも知ってる詩に「雨ニモマケズ」がある。人に評価されなくても不器用に誠実に生きることの大切さを説き、「サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」と終わる国語の授業でも定番の詩である。後でこの詩は出版用に書かれたものではなく、賢治の手帳から死後発見されたことだとか、南無妙法蓮華経という言葉がたくさん添えられていて、法華経の信仰をもつ賢治の個人的な祈りに近いものだったということを知ったが、授業で習うとなんとなく説教臭く、賢治が自分の不器用な生き方を肯定しているのか、それとも権力や現世での物質的な成功を心の底では求めているのかどうか、本音を測りかねて、あまり好きな詩ではなかった。しかしそうした感情は一種の自己嫌悪であるのかもしれないと今にして思う。

個人的なことをストレートに書くのは好きではないのだが、私は不器用な人間だとつくづく思うことがある。大学生のときはいろいろな遊びに挑戦したがどれ一つ上手くできなかったし、得意なスポーツの一つもないし、車の運転もダメである。世の中には何でも上手くこなす人がいて、そういう人にかぎって「器用貧乏で、どれも本格的に身につかないんですよ」などと謙遜することが多い。そういう謙遜も含めて、不器用な私はかっこいいなあと思って、いつも羨ましく思ってきた。10代や20代の頃と違って、傍から見てスマートで悩みがないように見える人も、優雅に泳ぐ白鳥が水面下では必死に水かきをしているように、見えない悩みや苦労を抱えたり、努力をしていることはよく分かるのだが、皆ができることを普通の人より上手くこなせる人はやっぱり羨ましいし、私のようにそういう部分でつい無様になってしまうのはなんともやりきれない時がある。

不器用だから研究者の道を選んだ面もあるかもしれないが、研究者のはしくれになっても、器用な人はいろんなテーマやアプローチを駆使することが出来るのに対して、私は得意不得意がはっきりしている方だし、研究のみならず、余暇や趣味の点でもうまくできる研究者は沢山いて、自分の不器用さを思い知らされることがいまだに多い。多分に幻想かもしれないが、私が大学生の頃、自分の大学を愛していたのは、小学校から高校までと違い、大学はそうした自分が思いっきり自己主張をすることを許してくれた唯一の空間であった気がしたからである。また留学先のアメリカ社会を未だに比較的に好意的に評価しているのも、アメリカ社会が不器用だったり、世間的には不利な立場にあると考えられている人も「開き直って」自己主張することをむしろ奨励しているように思えて、共感できたからである。器用なジェネラリストになれない自分の人生を振り返って、いい人生だったと思えるかどうかは今後の私自身の努力にかかっているのだろうが、足りない部分があるとそこにこだわってしまうという人間の「さが」は常に思わぬ足かせになるような気がしてならない。


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