紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

社説と外交

2006-05-08 23:41:50 | 政治・外交
今年3月に卒業したゼミ生の卒論は、日米安全保障条約と集団的自衛権をめぐる論争を、朝日、毎日、読売の3大紙の社説を材料に分析したものだった。今日、政治をめぐる世論形成に対する影響力は新聞よりもテレビなどの放送メディアの方が大きいかもしれない。しかし日本の場合、NHK以外の主要テレビメディアはいずれも新聞社の系列下にあり、また週刊誌も出版社系以外のものは新聞社から出されるなど、全国新聞のメディア全体に占める存在感が英米諸国と比べても大きなものとなっている。新聞の影響力は決して過小評価できない。政治家や官僚たちも新聞にどう書かれるかを常に気にしているので、新聞記者たちが意識している以上に、政治家たちは新聞が大きな権力・影響力をもっていると考えているようだ。そうした認識のギャップについては、綿貫譲治・三宅一郎編『平等をめぐるエリートと対抗エリート』(創文社、1985)が詳しいが、問題は新聞が世論形成に影響力が強いとしても、はたして社説がどこまで影響力をもつかである。

各新聞社を代表する論説委員によって執筆される社説だが、先日、TVで放映されていた読売新聞のドン・渡邊恒夫氏のインタビューでは、「読売の社説は5-6時間議論を重ねてまとめている」と説明されていた。まさに新聞社の公式見解としてまとめられているのであり、当然、社内には様々な違った見方があることはいうまでもない。外交のように政治的評価が分かれる場合はなおさらだろう。憲法9条と集団的自衛権の矛盾や、PKO活動への自衛隊派遣からイラク復興への自衛隊派遣までの様々な事件に際して、「リベラル」な『朝日新聞』と、「保守的」な『読売新聞』が常にほぼ正反対の立場の社説を載せていたのは予想通りだったが、ゼミ生の卒論での結論で面白かったのは、どちらの新聞も自説に都合の悪い事例は黙殺していて、結局のところ、両者の社説は、相互に意識し参照し合っている割には論争としてかみ合ってなかったのではないか、という点であった。はじめに社説ありきで、それに都合のよい事例だけを挙げているのは問題ではないか、というのが彼の批判点であった。4月から某新聞社で働いている彼が文字通り自分の将来に関わる問題として取り組んだ卒論の結論が「社説よ、自分の見方を、自分たちに都合のよい事実だけで押し付けるな」ということだったのである。

この4月に出版された河辺一郎氏の『日本の外交は国民に何を隠しているのか』(集英社新書、2006)も、近年の日本政府の外交に対する姿勢を批判した本だが、紙面の多くが日本政府よりむしろ日本外交を論じるメディアの問題点の指摘に割かれている。ゼミ生の卒論同様、各紙社説の外交に関するご都合主義的な議論が俎上にあげられていた。

河辺氏の本で興味深いと思った論点をいくつか挙げると

1.日本は米国についで国連分担金負担率が2位であると喧伝され、だから常任理事国になることが当然だという議論がなされているが、米国同様に分担金を戦略的に「滞納」することで、国連での発言力を高めているという事実がほとんど知られていない。
2.反国連主義者のボルトン氏がアメリカの国連大使に指名された際に、米国上院などで問題視され、議論になったことを日本の新聞はさかんに取り上げた一方で、従来の憲法解釈や国連中心主義に対して疑義を唱えている東大教授が日本の国連次席大使に任命されたことについて、日本の新聞は何ら批判を加えていない
3.イラク戦争の際も、開発途上国にブッシュ政権政策の支持を求めるなど、日本政府は積極的に関与したにもかかわらず、日本のメディアは、戦争をしかけるアメリカ批判や型通りのアメリカ「帝国」論、石油利権論に終始し、「やむをえず」ブッシュ政権を支持した小泉内閣の責任が追求されず、小泉政権を支持している日本国民が傷つくこともなかった。
4.冷戦期には日本政府や世論は、他国の人権抑圧問題に冷淡・無関心だったのにも関わらず、北朝鮮の拉致問題発覚以降、急速に態度を硬化し、経済制裁論なども台頭するようになった。

といったところだが、この本のユニークな点は、従来の論壇の保守-リベラル、親米-反米、資本主義-資本主義批判という二元対立的な呪縛を逃れて、比較的自由な立場から日本の外交とそれを論じるメディアを批判している点である。

私自身も大学で学生を教えたり、同僚の議論を聞いていて常に感じるのは、日本の政治外交を論じる場合に、「日本は無力だ」「やむをえない」という諦めムードが蔓延しきっていることだ。結果として主権者でありながら、常に免責・免罪されているのである。

イラク戦争のような「暴挙」にアメリカが出た場合、あるいは同時多発テロが起こった場合、「アメリカやブッシュ政権が悪いから世界から憎まれているのだ」ということを威勢よく論じる人は多いし、「アメリカが世界からどう思われているかに鈍感すぎる」という人も多いのだが、「日本や日本人が世界からどう思われているかに鈍感だ」という人はほとんどいない。昨年のように中国で激しい反日デモが起こっても、その意味するところを直視することをさけ、いわゆる保守派の人々は、「あれは共産党政権に向けられた不満をそらすための愛国主義教育のせいだ」と論評し、左派またはリベラル派の人は「首相が靖国参拝をやめて、日中友好に努めれば、お互いに分かり合えるはずだ」と語る。後者は一見、理にかなっているようだが、日本人や日本企業本位の「日中友好」や経済交流ではまた「反日」運動が起こりかねない。現に経済的な相互依存が深化しているが故の反発もあるのだという点から目を逸らしている点では保守派と同罪だと思う。もっと言えば、日本に有利な状況が続く限り、「反日」感情を完全に払拭することができないという冷徹な現実を直視してないといえる。河辺氏の本もそうした日本人の外交や国際情勢における「当事者意識」の欠如を批判している点で共感できた。

河辺氏の挙げている「国連大使」人事の問題が興味深かったが、「ボルトンのような反国連主義者を国連大使に任命するとはブッシュはけしからん」とか、「ボルトン指名に対する反対運動がアメリカでさかんだ」ということを日本のメディアは比較的詳しく報道しているのだが、どちらも外国の話である。日本のメディアが批判・監視の目を向けなければならないのは、むしろ日本の「国連次席大使」の人事だが、実際に主要新聞と関係も深く、しばしば論文も寄稿する学者なので、新聞社としては批判しにくい事情もあるのかもしれない。もしそうだとすると、アメリカや外国のメディアにだけ、自分たちに対するよりも高いモラル・スタンダードを要求し、「テロ以後は愛国心一辺倒で政権批判が少ない」などと論じていながら、自国の政治や外交についてはぬるい批判しか書けないのが日本のメディアなのだろうか?それは単に日本政府や日本人学者とメディアの間のしがらみや馴れ合いの問題だけでなく、国際政治を担う一員としての意識が日本のメディアや日本人学者には未だに乏しいことが原因ではないかと思う。

アメリカの大学や大学院で、「アメリカ外交」についての授業を受講すると、外交の理論や歴史を学んだ後に、アメリカのアジア外交、ヨーロッパ外交、東南アジア外交・・・といった具合に、各地域とアメリカの関係を学ぶスタイルになっていることが多い。アメリカの国際関係論の入門コースも理論を紹介したり、南北問題や環境、テロ問題といったグローバルな課題ごとに論じる場合も多いが、上記のような「アメリカが世界とどう向き合うか」を前面に出したものが多い。しかし日本の場合、国際関係の入門書のスタイルは、主要理論や冷戦など国際政治史を概観した後で、最後の「おまけ」の章として「日本外交の展望」のようなことを取り上げている場合が多いのではないだろうか?日本外交についての概説書もいくつか出ているが、アメリカのように大胆に、この地域と日本はどう向き合うのかを論じた本は少ないというか、ほとんど出てないと思う。この点にも日本人の国際認識がよく反映されていると思う。「世界と日本」といった二分法が何の違和感なく教育現場で使われたり、「世界史」に日本史が含まれてないのが、当然になっている日本の社会科教育にも問題があるかもしれない(もし「日本史」を含まないなら、「外国史」と呼ぶのが実態にあっているかもしれない)。

つまり国際政治や世界政治は日本の「ソト」で、日本以外の大国が主に行うことと無意識に見なしており、日本はそれを「観察」したり、「支持」したり、時には会議で「発言」したりという傍観者的な立場で、「世界戦略」をどう立案するかという発想が出てこないのである。憲法9条による限界や平和外交という建前がそうした消極主義を助長してきた面も否定できないだろう。

当事者感覚が欠落しているからこそ、外国の政治や外交に時には「ないものねだり」的な批判をする一方で、自国の外交や政治には甘くなってしまうのだろう。しかし有権者として私たちがより厳しい批判の目をむけ、責任を負わなければならないのは、日本の政治であり、外交であるはずだ。こうした日本のメディアの姿勢は、外国での暴動を「対岸の火事」的視線で過大に取り上げる傾向にも感じられる。

北朝鮮拉致までは「人権」に無関心だったのに、いまさら「人権」を振りかざすな、という河辺氏の批判は、拉致問題がそれまで日本のメディアや政界においてもほとんど無視されていた事情を考えると、言いすぎだと思い、共感できなかった。また河辺氏自身が望ましいと考えている日本外交の方向性が必ずしも明らかでないとも思ったが、日本の外交がめぐる議論がどうずれているのかを認識させてくれる良書だと思う。


最新の画像もっと見る