ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

尉仇台の子孫から倭王へのルートは? 3 ハツクニシラススメラミコト

2018-12-27 09:49:48 | 日本文化・文学・歴史
中国の史書『魏志倭人伝』には日本人が好奇心をそそられる邪馬台国の女王卑弥呼の記述がありますが、日本の
正史である『日本書紀』には記載がありません。また『旧唐書』によると「日本国は倭国の別種なり、その国は
日の辺(あたり)に在るを以て、故に以て名と為す。或はいわく、自らその名の雅(ただ)しからざるを悪(憎み)
改めて日本となすと。或は云う日本は旧(もと)小国、倭国の地を併すと。」と記されている事を知った時に
<日の辺にある小国が倭を併せて日本国が成立した>としても正史が隠さねばならないほどに重大事だったとは
何故だろうと思いました。

そして出会ったのが『大震国本紀』の尉仇台の伝承です。
これまでの経過は2018年4月~11月のブログに記していますが、これらから次のような仮説をたてました。
「神武天皇と同様にハツクニシラススメラミコトと諡号される崇神天皇を擁立したのは後に<東国六腹朝臣>と
称されるようになる毛野を開拓した人々であり、その集団のルーツは『東日流外三郡誌』で荒吐族と記す毛人や
蝦夷と大陸からの渡来民(扶余王尉仇台の子孫たち一党)であろう。」と推量しました。

今回は崇神天皇が「ハツクニシラススメラミコト」とされた理由を考えました。
『東日流外三郡誌』で荒吐族から立君したとされる8代孝元天皇と9代開化天皇。10代崇神天皇の国風諡号について
述べている岩波文庫版『日本書紀(一)』巻四の補注から一部を紹介します。

「a、2代綏靖天皇から9代開化天皇までは記紀の記載を全体として見て系譜的なものであり皇位継承に関すること
   以外はほとんど物語のない部分である。この八代の天皇の名は15代応神天皇以後の尊号に比べて著しく荘重
   であり国風諡号的な性質を濃厚に帯びている。
 b、7代孝霊、8代孝元、9代開化はヤマトネコという共通の名を持つ。
   ネは根 コは子の意で、大地に伸びる樹木を支える意から、国の中心となって国を支えるものの意を込めたも
   のと思われるが、この語は40代持統、41代文武、42代元明、43代元正の国風諡号に共通にみられるので
   孝霊、孝元、開化のヤマトネコの部分は記紀編纂時代に加わったとみるのが自然であろう。
 c、 8代孝元のクニクルは国牽の文字が当てられており、クルは糸を繰る意で、名義抄にはヒクの訓がある。
   したがってクニクルは国引の意である。孝元紀には国引き説話は何もなく不明であるが何か国引き伝説を頭に
   おいてこの名を与えたものではなかろうか。
 d、 10代崇神と11代垂仁とはそれぞれミマキイリビコ、イクメイリビコといい、イリビコという名を共有する点で
   ひとつの群を形成する。イリの意味は確定できないが、イリの名を持つものは、崇神、垂仁、景行の皇族に多く
   現れ応神の時代に消える。崇神、垂仁王朝というべきもの が存在したのであろうと推定する意見もある。」

なるほどと思いつつも、bのヤマトネコ(日本根子)は国名・倭ではなく国名・日本としたものの根源の意味に取りたい。
クニクルを国引きとする説があったことは大賛成。仮説を後押ししてくれそうです。

『東日流外三郡誌』によると10代崇神天皇の前の孝元、開化天皇は荒吐族から立君したと述べていますのでどのような
いきさつがあったかを近江雅和著『隠された古代アラハバキの謎』から引用」させていただきます。

 神武天皇の頃に荒吐族は団結の中心として仰ぐアビヒコ、ナガスネヒコが亡くなった後、二人の遺志を継いで邪馬
台国の故地である大和を奪回しようと準備する。そして

1、「神武帝**年荒吐神一族総挙して故地邪馬台国に発進す。依りて帝滅後空位ならしむ。空位**、荒吐神族の
長、湯彦は手研耳(タギシミミ・神武と阿多の媛の子)を誅し、綏靖帝を即位せしむ。依りて同帝*年*月、国政太夫
の位を湯彦授く。安寧帝の*年湯彦葬じ荒吐神一族東国に居を移す。懿徳帝の*年、荒吐神族再度倭に進駐なし、帝の
空位ならしむ。孝安帝*年、津軽丸一族を大挙して倭に進駐し、帝の空位41年とし、大日本根子彦太瓊尊(孝霊)を
立つる。」(安倍一族歴之歩禄上巻)

2、「倭の人皇8代孝元帝は荒吐一族より立君せし、倭の朝庭に侵略せし王なり。その皇子開化天皇弟・大毘古命の子
高丸、弟・継人をして安倍一族の立君になし・・・・・」(安東一族記)

として孝元、開化を安倍系図にもはっきりと記載している。これらの『東日流外三郡誌』の記述と記紀の記述とどちら
が正しいか今となっては誰にもわからないが、<湯彦>が2代綏靖帝を即位させた功で「食国(みけしくに)の政(まつ
りごと)を申す大臣(まえつきみ・最高執政官)になったというくだりは『先代旧事本紀』にも見え、これによると
綏靖天皇の最高執政官は<彦湯支の命>とあり湯彦と同じ人物と思われます。
<彦湯支の命>は饒速日の尊(火明命)とトミノナガスネ彦の妹・トミノミカシキヤヒメの間に生まれた<宇摩志麻治
の命(物部氏の祖)>の息子なのです。しかも<荒吐神族の長>と記されており、神武天皇に敗れて津軽に逃れたとさ
れるナガスネヒコの縁者が<荒吐神族の長>で大和朝廷の重臣とはあり得ることでしょうか。荒吐国の執政官なら分
かりますが。
これまで物部氏が関わっているとは想定していなかったので、まずは荒吐族から立君したという孝元、天皇と開化天皇
に物部と関係があるか調べることにしました。

(上の系図は『古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』(安本美典著)から借用しました。)

孝元天皇皇后の鬱色謎の命(うつしこめのみこと)は物部氏穂積臣の遠祖・鬱色雄命(うつしこおみことの妹)。
開化天皇の皇后の伊迦賀色許売(いかがしこめ)は物部氏の遠祖・大綜麻杵(おほへそき)の娘。孝元天皇の妃であったが
開化天皇の皇后となり崇神天皇を生んだと記される。

崇神天皇(ミマキイリヒコイニエ)の系譜は記紀共に開化天皇の第2子で、母は伊迦賀色許売(伊香色迷とも・物部系)。
皇后は御間城姫(孝元帝の長子・大毘古の娘。記では御真津比売。11代垂仁天皇(イクメイリヒコイサチ)の母)です。
このように欠史八代の后妃は物部系の女性たちの名が連なっています。

『古事記』の崇神天皇・四「初国知らしし天皇」条には、初国知らししと言われる由来が述べられていますので、要約します。
 「ところで大毘古の命は先の詔に従って」越国の平定に下って行った。ところが東方に遣わされた建沼河別(たけぬながわ
わけ)は、その父・大毘古の命と会津で行き会った。それでそこを会津というのである。こうしてそれぞれ遣わされた国を
平定し服従させる任務を果たしてこれを天皇に復命した。そして天下は太平になり国民は富み栄えることになった。
そこで初めて天皇は男の弓矢で得た獲物や、女の手で織った織物などの調(つき・税)の品を貢納させられた。それでその
御代を讃えて「初国知らしし御真木天皇」と申すのである。

この古事記の記述は初国知らししと壮大な名称の割にインパクトが足りないと思いました。では崇神の時の平定の様子を日本
書記から見てみましょう。

崇神の時、四道将軍が派遣され、北陸、東海、西道(山陽)、丹波(丹後、丹波)の服属がなった。
また崇神は出雲の神宝を見たいと申し入れしたので、神宝を司る兄の振根が筑紫に行っている間に弟の飯入根が皇命に従って
神宝を献上してしまう。筑紫から帰った振根がそれを知り怒りから水浴の口実で弟を誘い出し、自分は木刀を用意して行き、折
を見て弟の真剣を取って殺してしまう。弟の側からの訴えを聞いた崇神は吉備津彦と建沼河別を遣わして、出雲振根を殺させ出
雲を服属させたと記述されているものの征服戦争をしかけて領土を勝ち取り、偉大な大王になったというイメージはありません。

四道将軍が派遣された時、大毘古の命は崇神の父親の兄ですから当時としては高齢な年代に達していたと思われるので、実際の
平定が始まったのは孝元、開化の時代からではないか?
又、越と東国を廻って任務を果たし終えて出会ったのが福島の会津地方であれば、彼らの本拠地は北なら陸奥、南なら毛野地方
の可能性がありそうです。大和では遠すぎます。

崇神の時代に戦争の伝承はあまりないので他の方法で勢力を拡大していったのではないかと思いました。
古事記には開化天皇の時代におびただしい婚姻と皇子たちの拡散情報が詰まっています。試しに日本列島の地図上に印をつけて
みると、甲斐、飛騨、美濃、尾張、近江、山背、大倭、葛城、和泉、伊賀、摂津、播磨、備前、備中、若狭、丹波、丹後、但馬
因幡、伯耆まで東海、北陸、近畿、中国地方の吉備、因幡まで広範囲に婚姻(友好)関係を築いていました。崇神天皇はさらに
能登や出雲を服属させ、安芸の国より東の地域をほぼ手中に治めました。
荒吐族から立君したという孝元、開化天皇ですが津軽から南進し、ついに上毛野国より南の倭国の領域にまで統治の範囲を拡げ
る事が出来、最後に出雲を手中に収めたとすれば、孝元天皇の諡号の<国牽>=<国引>に合っているように思います。

ただ荒吐国はトミノナガスネヒコという出雲王家の富を共有しており、出雲とは親縁関係にあるのではないかと思われる上に、
上祖を大毘古とする埼玉県の稲荷山古墳には稲荷が祀られており、また大宮の氷川神社など出雲系の土地であることから考えると
崇神天皇によって出雲の王家が滅び、崇神のの長子・豊城入彦が上毛野氏、下毛野氏の祖という説にも違和感があります。

崇神記にあるような庶母建波邇安王(まませたけはにやすのみこ)との同族争いのような事が、物部氏がからんであったのかも
知れないと思われます。何故なら「秋の七草」の「はぎ」の次は「尾花」。薄、茅、榧でもあり、榧の実の油を灯明にもちいた
ことから<火明>と解き、穂の国=尾張としています。一件落着と思っていましたが謎は深まるばかりです。

年末に漸くブログの更新ができました。訪問してくださった方のトータル数が秋に20万人を超えました。始めは30人ぐらい
でしたから夢のようです。訪問して下さった皆さま本当にありがとうございます。
どうぞ良い年をお迎えください。  草野 俊子















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