ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

尉仇台の子孫から倭王へのルートは? 1

2018-10-27 10:31:28 | 日本文化・文学・歴史
今年のノーベル生理学医学賞に本庶佑博士の受賞が決まり、私達国民もその栄誉を誇らしく思いました。
政府の要望する目先の利益優先の研究ばかりではなく基礎研究の重要性を訴えている古武士のような風貌
が印象的でした。また「教科書が正しいとは限らない。」「何事も疑いの目を持って自分で考えよ。」
「好奇心をもて。」「直感を信じよ。」という若者へのメッセージは、通説を妄信しない我がブログの
信条でもあり、今回のブログは「尉仇台の子孫の倭王へのルートは?」としました。

尉仇台の子孫で倭王となったのは一体誰なのか?
日本ではこの記述のある「大震国本紀」がほとんど知られていないので取り上げられることもないようで
すが、私がこの記述を知ったのが『桓檀古記要義』。著者である鹿島昇氏は「(大震国本紀に語られる)
倭王(イリ・依羅)はミマキイリヒコ、すなわち崇神のモデルである。依羅は扶余王・仇台の子孫だから
『日本書紀』は仇台を神武として、依羅の崇神を神武の子孫とする系図を作り、『百済本紀』は依羅を金
肖古王として仇台の仇首王につなぎ、結局同じような歴史創作を行ったのである。」(p433)と崇神天皇
に比定していますが、あまりにも壮大な世界観なので知識足らずの私には理解できませんでした。しかし
私も記紀で「ハツクニシラススメラミコト」と諡号される崇神天皇を念頭に置いており、これまでのブログ
を下敷きにして今回のテーマを組み立ててみようと思います

1、依羅の上陸地はいつ頃どこであったか?

<秋の七草の暗号>の萩(荒吐族)の地、つまり津軽の十三湊(浦)を目指して渡来したと思われますが、
ハギの命名が高句麗8代王・新大王(在位165~179)の長子・抜奇(發岐)から名付たと考えると2世紀
末頃に津軽(アソベ族、ツボケ族らの先住民がいた)に高句麗系民族が住み始めた可能性があり、その後
扶余王家の末裔(依羅一行)が慕容廆に破れた(286年頃)ため荒吐族を頼って渡来したと思いますが、
祖国の王族として平和的に迎え入れられた事でしょう。


津軽で発掘された遮光器土偶(荒吐神)は扶余あるいは高句麗から渡来した武人の姿を模したもの、この
土偶の模造されたものが多数発掘されており、荒吐神として信仰されていた模様です。
扶余王・尉仇台の尉は、西域のホータン王家の尉遅氏が中原に入って尉氏と名乗った一族であると思われ、
遮光器土偶とそっくりな武人の甲(かっちゅう)姿が莫高窟45窟に現存しており、


また天寿国繡帳の女性たちの着衣が沃阻や高句麗の壁画・ホータンの寺院遺跡の壁画の女性(供養人)の着衣
とほぼ同じスタイルであることも分かっています。
シルクロードは絹の道であり、民族の拡散ルートでもありました。

2、依羅主従数千人の渡来は半端じゃない。

大震国本紀の記述によると、依羅一行は数千人と記されていますが詳細は分かりません。
たとえ千人でも彼らの衣食住を支援することがいかに大変であるかは、豊かな現代社会でさへも東日本大震
災以来多発している自然災害での避難所支援の様子を見れば分かります。
津軽という狭い範囲では彼らへの食料の調達さへ難しいでしょう。

3世紀末頃の東北や関東地方は人間の手の入らない原野が相当あったと思われるので、彼らはより良い土地
を求めて移動しはじめたはずです。彼ら自身は何も記録を残していませんが、それを知る手掛かりとして
参考になるのが記紀や風土記に記されている八束脛(八掬脛)の伝承です。
『越後国風土記』『常陸国風土記』『日本書紀』などや、群馬県月夜野村の八束脛洞窟の伝承、地名に残る
萩(宮城県仙台市萩町、茨城県高萩など)などから彼らが拡散していった様子がうかがえます。

特に注目したのは群馬県で八束脛洞窟の居住伝承や羊太夫伝説の羊太夫の従者の名が<八束小脛>とされ、
また多胡の碑(奈良時代の建郡碑)の存在から胡人の居住地であったことも分かります。


さらに日本で最多の古墳があり、発掘された人物埴輪の復元されたものは、帽子をかぶり、ズボンをはき、
腰丈の上着を身につけた騎馬系民族の姿であり、中国で記録された職貢図の倭人の姿とは似ても似つかない
スタイルなのです。

群馬と同形式の埴輪は埼玉県、栃木県、千葉県、茨城県に多数、神奈川県や山梨県、かつて越国と呼ばれた
日本海側からも多少発掘されていますが、畿内の古墳から関東のような人物埴輪が発掘されたことはありま
せん。

現在の群馬県の前身は上野国(こうずけのくに)、栃木県は下野国(しもつけのくに)ですが、本来は毛野
(けぬ又はけの)の地を二つに分けた後の命名であり、毛野と呼ばれた由来が問題なのです。
毛野とされる群馬県の南に広がる平野部の地域の弥生時代後期と区分される3世紀代までの遺跡の分布は極
端に少なく、肥沃な土地ではあったが未開の地のままであった。ところが4世紀代に入ると未開の沃野に突如
大規模な前方後方墳が出現する。
近畿や吉備では3世紀代に円形の墳丘を持つ古墳が出現しているが、方形の墳丘は出雲や東海西部の尾張や
美濃地域の造営形式であり、円形古墳と方形古墳の形状の違いは大和朝廷の中枢との文化の違いを示している。

3世紀から4世紀の間に未開の沃野をきり開いた毛野の住民は何処から来たのか、しかも古墳に立てた(納めた)
人物埴輪の形状の一致は関東の広い地域に及んでいるので、少人数でやって来た集団とも思われません。

万葉集の歌語の<宮城野の萩>とは仙台の宮城野に住んでいる(大和朝廷の官人とは異なる風俗の)八束脛を
指していると思われるので、毛野とは<毛人>の住んでいる野であろう。

<毛人>の使用例は
 ①倭王武(雄略天皇)が宗の順帝に奉った(475年)上表文中に見えます。
  「昔より祖禰(父祖)みずから甲冑を貫き、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず、東は毛人を征すること
   55国西は衆夷を服すること66国、渡りて海北を平ぐること95国。・・・・」とあります。
 ②人名にも使用例があります。著名な<蘇我蝦夷>が、<蘇我豊浦毛人(そがのとゆらのえみし)>と書か
  れており、蝦夷と毛人は同義に用いられています。
 ③桓武天皇は『日本後記』に「威を日河(北上川)の東に振るい毛狄、屏息(おそれつつしむ)す」と東北
  住民を毛狄と表現しています。
 ④中国で10世紀後半に成立した『旧唐書(くとうじょ)』には「日本国は倭国の別種なり。その国は日の
  辺(あたり)に在るを以て、故に日本を以て名となす。或はいわく、倭国は自らその名の雅(ただ)しから
  ざるを悪(にく)み改めて日本となすと。或は云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併すと。その人の
  入朝は多く、自ら衿大(おごり高ぶる)にして実を以て対せず、故に中国は疑う。また云う、その国の界(
  さかい)は東西南北各数千里、西界、南界はみな大海に至り、東海、北海は大山ありて限りをなし、山の
  外は即ち毛人の国なりと。」

①の<毛人>の表記は『宗書』に記された日本側からの生の資料であるのに日本の正史には全く記されていない
のは不思議に思う。④は唐書に記された「日本」の起こりについての記述だが日本の正史とは全く違っており
倭国を吸収して日本国が成立したとも受け取れる。これが事実なら二人のハツクニシラス天皇のいる訳が理解
出来ます。倭国の初代を神武天皇。日本国の初代を崇神天皇としたと思われます。

毛人が陸奥国からやって来たと思われますが、毛人が奥羽に住んでいたか?その証はあるでしょうか?古代に
岩手県一ノ関の大平地区の舞草鍛冶がつくった舞草刀(もうくさとう)が伝えられており、本来は毛草刀である
が好字に替えたという。この刀には<俘囚>の銘文が刻印されているとの事で毛人の刀鍛冶が誇りを持って制作
したと思われます。また奥州平泉にはかつて<毛越時(もうつじ)>がありました。今は庭園部分のみが残って
います。(2011,10,22「東日流外三郡誌の中の孝謙天皇」13のブログ参照)

古墳の人物埴輪の分布状況から類推すると北からやって来た<毛人>たちは南下して関東一円に定住したと思わ
れます。が、その開拓時代の記録も伝承も全くなく、4世紀代に始まり6世紀後半まで古墳が築かれました。
戦後、考古学の調査によって思いもかけない姿の人物埴輪が発見されますが彼らの出自は謎のままです。

7世紀になると上毛野国から朝臣の姓(かばね)を得た「東国六腹朝臣(あずまのくにむつはらあそん)」が
生まれました。(2016,3,12詠花鳥和歌 残菊と白鳥28参照)彼らの出自は<陸奥腹>つまり<毛人>であっ
たと私は思っています。

次回に続けます。





















































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