ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

『東日流外三郡誌』の中の孝謙天皇 9

2011-09-24 09:35:57 | 日本文化・文学・歴史
旧月夜野町『古馬牧村史』に掲載された「八束脛明神」の由来譚のひとつは上野国
(群馬県)では良く知られている「羊大夫の伝説」であった。しかし羊大夫の伝説の
舞台は高崎市から下仁田に通じる上信電鉄沿線にある吉井町周辺である。そこには羊
大夫の謂れと思われる「羊」が刻まれている「多胡碑(たごのひ)」が現存している。

多胡碑とは奈良時代の和銅4年(711年)・上野国に多胡郡が新設された記事が『続日
本紀』に記されているが、その建郡を記念して造られた石碑である。

この碑文は漢字表記の和文体であり次のように読み下す。
 「弁官の符に 上野国片岡の郡(こおり)、緑野(みどの)の郡、甘良(から)の
  郡 并びに三郡の内三百戸を郡と成し、羊に給いて、多胡の郡と成す。
  和銅四年三月九日甲寅(きのえとら)の宣なり。左中弁は正五位の下 多治比の
  真人、太政官(だじょうかん)は二品(にほん) 穂積の親王(みこ)、左大臣
  は正二位 石上(いそのかみ)の尊(みこと)、右大臣は正二位 藤原の尊なり」
『続日本紀』にはもう少し詳しい記事があり、その具体的な内容がわかる。
  上野国片岡(高崎市の一部)緑野(藤岡市の一部)甘良(多野郡吉井町を中心と
  した地域)の三郡のうち、片岡郡から山等郷、緑野郡から武美郷・渡来人の大勢
住んでいた甘良郡から織裳(おりも)・韓級(からしな)・矢田・大屋の四郷を
それぞれさいて、合わせて六郷三百戸を一郡とし、その郡司には羊を任じて、渡
来人の多い郡=多胡郡が新設されたのであった。
  当時の朝廷で実務担当者は 多治比真人三宅麻呂。
  朝廷の高官である 知太政官 天武天皇皇子穂積親王。
           左大臣  石上朝臣麻呂。
           右大臣  藤原朝臣不比等。
  等が名を連ねている。

多胡碑の建設された場所は多野郡吉井町大字池字御門(みかど)で、幕末に書かれた
『上野名跡志』(富田永世・国学者で郷土史家)によると
  「下池村小字名三門ト云地ノ稲荷明神ノ社地ニアル也」
と記されており、稲荷とは出雲の神であると謎解きをしている(このブログの「伏見
稲荷」参照)私には、この土地も元もとは出雲系の人々のすんでいたが渡来系の人々
がやってきて開拓を進めた結果追いやられたか滅ぼされたかしたと思われる。埼玉県
行田市の稲荷山古墳(被葬者乎獲居臣の祖が大毘古と記されていて安倍氏らの同族で
あった)の頂上にも稲荷が祀られており、稲荷神を祀る意味が古くは祖先への祭祀と
いうより、祟りを怖れて祀る意味のほうが強かっのではないかと思われる。

 多胡碑の文中にある「給羊(羊に給う)」の羊が人名として上野国の「羊大夫伝説」
の主人公として語り継がれることになる。
つまり羊大夫伝説の舞台は上州の鏑川(かぶらがわ)沿いに設置された多胡郡であり
県北の後閑村ではあり得ないが、関わりがあるとすれば従者の「尾瀬小はぎ」であろ
う。多胡郡の羊大夫伝説も大筋は八束脛明神の由来譚とほぼ同じだが、「尾瀬小はぎ」
は「はや足の小脛」あるいは「八束小脛」と名付けられている。
脛の長さが八束(一握は拳(こぶし)一つ分の長さで上代にはこれによって長さの長
短を測った)もある足の長い人、つまり長脛彦と同義語である。

この「八束(束=握=掬=拳)脛」については『日本書紀』等に大和朝廷にまつろわ
ぬ人として記されている。

 『古事記』 景行天皇段「白智鳥と御葬歌」で倭建命(やまとたけるのみこと)が
       亡くなり、御陵を「白鳥御陵」と号けた。という記事の後に「倭建命
       国を平けに廻り行でましし時に、久米県の祖、名は七拳脛(ななつか
       はぎ)、恒に膳夫(かしわで)として従ひ仕へ奉りき。
       『日本書紀』ではおなじ景行天皇紀に磐鹿六雁が膳臣の姓を賜った記
       事がある。磐鹿六雁は安倍氏と同族で大毘古の子孫。長脛彦とも繋が
       る事は以前述べた。

 『日本書紀』神武紀に土蜘蛛を「身短くして手足長し、侏儒(ひきひと)と相にた
       り」と形容しているが、景行紀では「朝命に従わず、石窟(いしむろ)
       に住む人々を土蜘蛛と表現している。

 『常陸国風土記』「国栖(くず)」を土俗のことばで「土蜘蛛」とか「八握脛」と
         よんでいたと記されている。また、国栖つまり土蜘蛛は「山の佐
         伯」「野の佐伯」であり、「普く土窟を堀りおきて、常に穴に住
         み、人来たれば窟に入りてかくる」とされ、狼の姓、梟の情をも
         つもので、いよいよ風俗を阻てる種族であるといっている。
         この風土記を書いた者はこの地に進出して来た渡来系の人物であ
         った事になろう。
         
 『越後国風土記』逸文では
         祟神天皇の時代に越国(古代・北陸から新潟方面まで広い領域を
         有した国)の蝦夷と思われる人物も「八掬脛」と名付けられ、そ
         の脛の長さは「八掬、力多くはなはだ強し。是土蜘蛛の後なり」
         とある。八束脛洞窟から発見された縄文あるいは弥生時代の人骨
         や土器片の主もこの伝承と共通の人々の可能性大であろう。

 『陸奥国風土記』逸文にも
         福島県の地名起源伝承には「八人の土知朱(つちぐも)」の話が
         ある。

「日本国」は701年に「大宝律令」によって誕生し、712年に『古事記』が720年に『日
本書紀』が713年に『風土記』撰上の詔がだされた。日本を成立させた大和朝廷を開き
ささえてきたのは主に渡来系の人々であったと思われる。日本の歴史書を編纂するに
あたって、やまと(出雲)を奪い大和政権を建てた件は、国譲りという名案で乗りき
るが、日本列島に最初に住みついていた人々をどのように記すかさぞ思い悩んだこと
だろう。しかし彼らは土着の人々を切り捨てることが出来なかった。大和政権はまだ
東北地方の蝦夷と戦っていたのだから。また支配することの出来た地域では、共存し
あるいは混血し新しい日本人を作らねばならなかった。
八束脛洞窟の古人骨は列島の歴史の中で重要な遺跡であった。火災で消滅したとした
ら本当に残念である。

八掬脛に脱線してしまったので「羊」は次回に










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1 コメント

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Unknown (物好き)
2011-10-05 22:19:29
東日流外三郡誌ですか、私も当時はハマリましたね。
古田武彦の本はまだ持っています。
残念ながら偽書であることが証明されてしまい、古田先生は口をつぐんでしまいました。本物と思うなら論争すればよいのに。
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