二條家邸跡
江戸時代、現在の京都御苑の天皇の居所である内裏(京都御所)を中心に
宮家や公家が集住いる空間(公家町)でした。
今出川通の北側にも屋敷が並び、
当地(同支社女子大学東半分)には二條家が広大な屋敷地を構えていました。
二條家は藤原氏を祖とし「五摂家」の1つとして朝廷内では格式の高い家柄にあたります。
ここに展示した礎石は、女子大学構内の発掘調査(2007年度)で出土したもので、
かつてあった二條家邸の存在を今に伝える貴重な遺産です。
当時の情景に思いを馳せながら、
京都公家社会の息吹を少しでも感じていただけると幸いです。説明板より
幕末期の二條家当主である二條斉敬(1816~1878)は、孝明天皇の関白、明治天皇の摂政となり、
朝廷での重要な舵取りを担った。
彼を訪ねて会津藩主松平容保を始め、将軍・諸大名が数多く屋敷に通っている。
移築した井戸は幕末動乱の中、歴史上重要な二條家屋敷にあった遺構として、
その当時をうかがい知る好資料といえる。
二條家邸(江戸時代中期)検出の地下通路
2014年度の新校舎建設に伴う発掘調査で、江戸時代中期の石組の地下式通路を数基確認し、
その1つを移築した。
近世における屋敷図等には「下々道」と記載されるものであり、
この遺構の上部には渡廊下が設置されていたと推測される。
数基の地下式通路は渡り廊下の位置を示しており、
複数の建物が渡り廊下によって接続される上級の公家屋敷であったことがわかる。
二條家が公家の筆頭五摂家であることを感じさせる考古学的に貴重で重要な建築遺構である。
井戸の検出
2014年度の発掘調査で検出された井戸。幕末期の二條家邸で構築された井戸数基のうち1基を移築した。
井戸の深さは、約2.5mであるが、安全を考慮し60㎝に留めて保存を行った。
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