平成29年4月1日 撮影
平成28年の平野神社の桜 ➡ 桜北020 平野神社の桜 H28.4.10
桜 前回の記事 ➡ 桜上033 弘誓寺の桜 4月18日
五七五
鬼がいる心の奥の奥の奥 /佐々木
京ことば ベベタ びり。最下位。最後。「いつもベベタヤワ」
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鬼がいる心の奥の奥の奥 /佐々木
京ことば ベベタ びり。最下位。最後。「いつもベベタヤワ」
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住宅街の1角にわずかに土塁が残っています
地名にも御土居の名残が感じられます
ここは 西土居町
秀吉は京都市内22㎞を半年ぐらいで完成させています
御土居は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街地を守る堤防として、天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川を利用)からなり、その延長は22.5㎞に及び、東は鴨川、北は鷹ケ峯も西は紙屋川、南は九条あたりに沿って築かれました。土塁の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所にはいわゆる七口を設け、洛外との出入口としました。
御土居は、京都の沿革を知るうえに、また広く我国における都市の発達をたどる重要な遺跡として現在9ケ所が国の史跡に指定されています。
史跡 前回の記事 ➡ 史跡北026 御土居 6
関連記事 ➡ 御土居堀
五七五
なんとなく続きが見たい夢がある /木口
京都の俗諺(ぞくげん)
白川夜船(しらかわよふね) 知ったかぶりをするたとえ。また、ぐっすり眠ることもさす。「いらかわよぶね」とも。白川は鴨川へ注ぐ川幅が狭く浅い清流で船など通れない川。京へ行ったことのない人が、白川を船で通ったが、ぐっすり寝ていたためわからなかったと答えたことによる。あるいは、地名の白河(川)を聞かれて、川の名前と勘違いし、夜船で通ったが寝ていてわからないと答えた笑い話によるともいう。
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松永伍作(1853~1908)は明治時代の蚕業教育家。越前国今立郡片上村(現福井県鯖江市)に生まれ,22歳で東京の農事試験場に入り養蚕を学び,その後養蚕の専門家として頭角をあらわした。関東に比べて遅れた関西の養蚕業の振興に取り組み,明治32年に京都の西郊衣笠村に京都蚕業講習所が設置されるとその所長に就任し京都で没した。この碑は松永の功績を顕彰するために松永の知友や指導を受けた蚕業関係者が建立したものである。
継往開来【篆額】
君名伍作越前人松永仁右衛門君長子母某氏以嘉永六年癸丑五月二十八日生于今」
立郡片上村為人忠実寛弘而精力絶人明治七年君入内藤新宿農事試験場専修蚕桑」
術十七年官設蚕病試験所于内山下君被挙在其職十九年更徙諸西原改称蚕業試験」
場君参酌内外良法以定養蚕標準二十九年蚕業講習所之成君又多所参画三十年奉」
命赴清国齎蚕種帰君以謂関西宜蚕而今遠不及於東北者蓋由施設之未備耳故関西」
亦宜別置講習所東西呼応以誘掖之則蚕業興隆可期而待矣三十二年官遂相地于洛」
西衣笠村設置京都蚕業講習所君被擢任所長規画経営弗遺余力君又欲特設女子蚕」
業講習所以応世需事幾垂成而君適罹病終不起実明治四十一年四月一日也享年五」
十有六其在官前後凡三十年叙勲五等賜瑞宝章先卒特旨叙正五位君娶戸野氏生二」
男一女長曰盛現任海軍大尉次曰寿女栄子嫁本間氏君誨人懇到受業者亡慮三千余」
人而其応四方請往而指導啓廸之殆無虚歳云聞近来我蚕糸之輸出海外歳月増加而」
其勢駸々弗已是固雖由時運所致自非施設担任得其人安能至此哉頃者故旧胥謀将」
勒君功于石以伝不朽徴文于余乃係以銘銘曰
惟忠惟寛 無物不宜 終始弗渝 成功攸基 鏡照粒毒 誓絶禍根
術綜内外 庸資富源 翊賛化育 古聞斯語 燮理引用 蚕事維叙
命有脩短 功無存没 分身三千 児孫無竭
正二位大勲位侯爵 松方正義篆額
貴族院議員正四位勲三等文学博士 重野安繹*
内大臣秘書官正六位勲五等 日高秩父書
松永君紀功碑 碑文の大意
松永氏は名は伍作,越前の人松永仁右衛門氏の長男である。嘉永6年5月28日に今立郡片上村に生まれた。性格は忠実で寛大,精力は人を大きく超えた。明治7年に内藤新宿の農事試験場に入り,養蚕を専門に勉強した。明治17年に官立の蚕病試験場が内山下(現東京都千代田区)が新設されると推挙されて(場長に?)就任した。同19年に試験場は西原に移転し,蚕業試験場と改称した。松永氏は日本と外国の技術を斟酌し養蚕の標準技法を定めた。同29年に蚕業講習所の設置にも尽力するところが多かった。明治30年,官命により清国へ出張し蚕種を持ち帰った。
氏は,関西は養蚕に適した地なのだが,現在東日本に遠く及ばないのは適当な講習施設がないからである。講習所を設立し東西が協力すれば,日本の養蚕業は必ず盛んになると考えた。明治32年に官立の京都蚕業講習所が洛西衣笠村に設立されると,この持論によって所長に抜擢され運営に尽力した。松永氏は需要に応じて女子蚕業講習所を別に設立しようと計画し,ほどなく実現した。しかしその時には松永氏は病にかかり没したのである。明治41年4月1日のことで,享年56。官吏になって約30年,勲五等瑞宝章を賜っていたが,死去に先だち特別に正五位に叙せられた。
松永氏の妻は戸野氏で,二男一女を生んだ。長男盛親は現在海軍大尉に任官し,次男を寿という。娘栄子は本間氏に嫁いだ。
氏は懇切丁寧に人を教育し,教えを受けた者は三千人以上になる。いろいろな所から指導を乞われ,毎年そのたびに指導に赴いた。聞くところでは,近年日本からの蚕糸の輸出が増加し続けているそうだ。需要のタイミングが良いということもあるが,松永氏のような適任者がいなければこの成長は望めなかっただろう。
最近,氏を知る人が顕彰碑を建てようと計画し,わたし(筆者重野安繹)に碑文を依頼求したので執筆した次第である。(以下銘略)
故松永伍作氏建碑資金募集事務局編『故松永君紀功碑建設始末書』(1911年同事務局刊)によれば平野神社境内に建立し明治44年4月2日に落成式を挙行/寸法は同書に記される高13尺・幅6尺3寸・厚1尺3寸を換算したもので実測ではない/現在地はもと平野神社社地で昭和12年に新道路建設のため北野天満宮に譲渡されたもので移設されたわけではない
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関連記事 ➡ 石碑6 ジャガード渡来100年記念碑 西陣織会館
五七五
お互いの地雷の場所は知っている /磯田
京ことば ベベ 着物。「かわいいベベ着たハルワ」
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