平成29年 春 京都非公開文化財 特別公開
毎年 春と秋に実施されています
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五七五
神様がくれた元気の出るサプリ /高塚
京の味
大根焚き・成道会法要(だいこだき・じょうどうえ法要) 千本釈迦堂 12月7・8日
鎌倉時代、三世慈禅上人が、大根の切り口を鏡に見立てて面に梵字を書き、諸病退散を祈ったのが始まりとされる。大根は加持祈祷の後、輪切りにされ、大鍋で煮込んで参詣者にふるまわれる。中風除け、諸病除けのご利益があるといわれている。
平成29年4月1日
旧郷社で「油の神様」として知られる。社伝によれば、貞観元年(859)僧行教が豊前国(大分県)宇佐宮より八幡神を勧請した際、神霊がしばしこの地にとどまり、翌年男山にうつしたといわれる。これにより社殿を造営し、河陽離宮址に因んで離宮八幡宮と称したのが当社の起こりである。
延喜の式内社ではないが、創祀以来朝野の崇敬もあつく、足利義満は神領地を東は円明寺より西は水無瀬川に至る広大な地とさだめ、江戸時代には禄高930余石を与えられ、守護不入の地とされた。
とくに当社の祠官が油をつくって灯明料としたことから、油司の口宣を賜り、鎌倉時代以降、近世初頭に至るまで全国の油座の長として、油の製造販売権を独占した。それがため往時は社殿も荘厳をきわめたが、元治元年(1864)の兵火にかかって焼失し、明治8年(1875)には国鉄東海道線の布設によって境内を中断され、規模を縮小した。
鎮座地は天王山の南麓、西国街道に沿った大山崎町の中枢地にあって、南面する。表門の傍らに「従是西八幡御神領、守護不入之所」としるした大きな石標があり、守護役人といえどもみだりに境内の出入を許されなかった中世の特権意識をあらわした遺物として、人目をひきつける。
境内には石の台座に乗ったブロンズの「油祖像」や「本邦製油発祥地」の石碑がある。また、周辺に大名や商人から寄進された灯籠が並んでいる。中世の商業組織「座」のなかでも神に仕える神人(じにん)と呼ばれる油生産者や商人らで組織する「油座」は最も有力で大きかった。
山崎の荏胡麻(えごま)油は、平安末期から鎌倉、室町時代にかけて同宮を本所とし、幕府から京都、大坂、奈良などの専売権を与えられたことで、同宮と神領は隆盛を極めた。今の社殿は主に昭和4年(1929)後の再建で、本殿には応神天皇・酒解神・田心姫命・市杵島姫命・たぎ津姫命の五座を祀る。他に拝殿や幣殿・社務所等があり、集古館には350点におよぶ八幡宮文書を有する。
今も、製油会社でつくる全国組織・崇敬会や社家会、河陽会が製油業界の発展を祈る春の例祭「日使頭祭」は同宮を盛り立てている。
例祭は9月25日。4月3日の日ノ使神事は、石清水八幡宮へ遷座の古事をつたえる神事といわれる。
扇形石は境内にある水鉢をいう。高さ1m、長さ2mをこえる巨石で、表面中央に円形の彫り込みがあり、さらにその中央に45㎝の深さをもち扇形をきざんでいる。一に「かしき石」ともいう。もとこの付近にあった古い寺院の堂塔の礎石を加工し、水鉢にしたものと考えられている。
河陽離宮址は離宮八幡宮の地と推定される。ここには駅馬を置いて人馬の継立、宿舎食料の供給などを取り扱う山崎駅があって、嵯峨天皇は水無瀬や交野遊猟に際し、山崎駅を宿舎とされたが、弘仁5年(814)これを改めて離宮とされた。
河陽とは、川の北側にある都邑の義で、中国や渭陽や漢陽をまねたものらしい。一に「山崎離宮」ともいう。離宮ではしばしば詩会がひらかれた。離宮はのちに山城国府に改められた。
府社 離宮八幡宮
昭和11年9月15日
三重県 四日市油商山崎
江戸 講中
従是西 八幡宮御神領守護不入之所
守護役人といえどもみだりに境内の出入を許されなかった
中世の特権意識をあらわした遺物
右側に似たような 石柱
従是北 八幡宮社 神領 大山崎・・
守護不入所
献納 大阪 吉川製油所 吉川又平
塔心礎(扇形石・かしき石) 大山崎町指定文化財 昭和63年11月1日 指定
塔心礎とは、五重塔など木造塔の中央に立つ心柱を支える疎石のことです。本礎石の最大幅は約266㎝、中央の柱座(心柱を立てる部分)は短径106㎝、長径110㎝を測り、かなり大規模な塔であったと思われます。
柱座の中央には直径約20㎝、推定深35㎝の舎利孔が設けられ、その形式から制作年代は奈良時代以前と考えられます。心礎が使われた寺院については、7世紀の山崎廃寺、8世紀前半の行基による山崎院、9世紀中葉に壱演が建立した相応寺などが想定されます。
後年、中央の柱座部分を扇形に彫り込み、手水鉢として使用されました。19世紀初めの「山崎通分間延絵図」では離宮八幡宮南門前の交差点付近にあり、「手水石」と記されています。別の絵図では「かしき(カシキ)石」とも記されています。平成29年3月 大山崎町教育委員会。
燈籠の数々
復元模型は、『製油濫 』をはじめとする資料を参考に、伝統産業にたずさわる技師、職人さんのご協力で完成した。
手前の長木は実験的な搾油を重ねるなかで改良を加え、年々、搾油率が上がっている。奥の立木は直立する2本の縦木と横木の間にクサビを差し込み、両側から槌で打つことで横木を押し下げて圧力を加えていく。こちらは近代まで各地で使われていた。
長木、立木ともに縦の木は本来、全体の3分の1ほどが地上に出ている固定式である。模型は移動が可能なように地中部分を割愛して制作した。
社伝によると平安時代、神勅により当宮の神官が「長木」という油しぼり道具を作ったといわれます。長さ約6メートルの八角形の柱を3本組み合わせ、油をしぼるための部品を挟みこみ、縄で締め上げて荏胡麻(エゴマ:シソ科)の実を押しつぶして油を作りました。
これによって神前に捧げる灯明の原料である荏胡麻油を大量にしぼることができるようになりました。
中世になると当宮の油神人は「荏胡麻油」の製造・販売の独占権を認められます。山崎の油売りたちは日本中に材料のエゴマの買い付けに出向き、京の都に油を売りに行きました。
離宮八幡宮は「本邦製油発祥の地」として日本中の油商から崇敬され、今に至っています。 平成29年3月吉日
油祖像
昭和37年4月 建立
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DNAのせいと短所も受け入れる /宮尾
京野菜 振り売り
「野菜どうどすえ、おいしおすえ」。京野菜は近郊農家の振り売りによって、毎朝、町に届けられてきた。振り売りには京都市洛北の農家の女性が多く、姉さんかぶりに、紺の半てん、手甲、三幅前掛け、紺のたちかけ(もんぺ)、白足袋というスタイルで、大八車に朝採りの野菜を積んで、なじみの家に声をかけて売り歩く。京都の伝統野菜には、振り売りによって品種や栽培方法が守られてきたものも多い。