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アートプラス京めぐり

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史跡八幡071 石清水八幡宮 萩坊跡  三宅石碑

2020年02月07日 17時54分22秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

太子坂・萩坊跡

二の鳥居の北に至る「裏参道」は、江戸時代まで「太子坂」といい、古くは約700年前、鎌倉時代の上皇が参詣の帰りにこの道を通った記録があります。

坂の途中を造成して造られた坊のひとつ、「萩坊」は、安土桃山時代の高名な画家・狩野山楽が、豊臣秀吉に追われ隠れ住んだことでも知られ、客殿は山楽が描いた金張付極彩色の図で飾られていました。山楽の子・狩野山雪の襖絵は八幡宮の北側にある神応寺に所蔵されています。

坂を下ると、聖徳太子3歳の像を祀った「太子堂」があり、室町時代には他に丈六(一丈六尺)という像高3m程の巨大な阿弥陀仏を安置した行願院もありました。

明治時代の初めの神仏分離令ですべて破却されましたが、難を逃れた太子堂は、現在も滋賀県お大津市の国分聖徳太子会で大切に守られています。

 

 

 萩坊跡  昭和3年建立 京都三宅安兵衛依遺志

 

関連記事 ⇒ 49 八幡  地区 記事検索一覧  その2

       関連0002  三宅安兵衛の道標

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡070 石清水八幡宮  影清塚

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史跡八幡070 石清水八幡宮  影清塚

2020年02月04日 12時37分20秒 | 史跡・旧跡

 

平家の侍大将 悪七兵衛影清が主君のあだを討とうとしてこのところにかくれ、当宮参詣の源頼朝をねらったところと伝わる。

一説にはここは石清水の下流にあたるので、参詣人がこの流れに影をうつし、不浄を洗い清めたとこだともつたわる。

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡069 石清水八幡宮 泉坊跡  三宅石碑

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史跡八幡069 石清水八幡宮 泉坊跡  三宅石碑

2020年02月02日 07時03分45秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

今から約400年前の江戸時代初期、「寛永の三筆」の一人で、当代一の文化人であった僧侶・松花堂昭乗がこの坊で晩年を過ごしました。昭乗は石清水社の隣の「瀧本坊」の住職でしたが、引退したのち泉坊に庵を建て、「松花堂」と名付けました。

明治時代の神仏分離令で、男山からすべての坊が撤去されることになり、今ではここから約2㎞南にある「松花堂庭園」に、草庵 松花堂と書院が移築されました。

 

 

泉坊 松花堂跡

昭和2年建立 京都三宅安兵衛依遺志

関連記事 ⇒ 関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡068 石清水八幡宮 松花堂およびその跡

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史跡八幡068 石清水八幡宮 松花堂およびその跡

2020年02月01日 17時56分21秒 | 史跡・旧跡

 

 

江戸時代前期の文化人松花堂昭乗が晩年庵を結んで隠棲した跡地で、その庵の建物は明治の廃仏毀釈で撤去されましたが、

現在、八幡市松花堂庭園の一画に茅葺宝形造りの茶室松花堂等が移築されています。

松花堂昭乗は、真言宗の学僧で、小堀遠州や近衛信尋、沢庵宗彭などと交遊を結び、書や画を能くし、茶人としても著名です。

寛永三筆の一人に数えられ、松花堂流(瀧本流)の開祖となりました。

史跡 松花堂およびその跡  文部省昭和32年7月

 

 

石清水八幡宮鎮座する男山には、『男山四十八坊』と総称されるほど数多くの宿坊が立ち並んでいた。

この地は、これらの宿坊の1つで泉坊跡で、江戸時代初期、松花堂昭乗(1582~1639)が、

その晩年に一宇の庵(松花堂)を結んだことで有名である。

石清水八幡宮の社僧であった昭乗は高名な茶人・画家であるとともに、寛永の三筆にも数えられ、

小堀遠州などとも親交のあった当代一流の文化人であった。

明治の廃仏毀釈で、石清水八幡宮の宿坊はほとんど退転したが、泉坊書院の一部や松花堂(茶室)は八幡市女郎花へ移築され、

移築先とその跡は、昭和32年国の史跡に指定された。

石清水八幡宮では、雑木林化していたその跡の史跡公園化を計画し、昭和57年度より・・・

発掘調査では、史跡に指定されている三段の平坦面のうち南の二段が泉坊跡であることが判明し、

松花堂(茶室)跡はその痕跡を推定するにすぎなかったが、かなりよく残った露地庭と二棟の建物跡等を検出した。

また指定地より南に隣接する平坦面より、幣跡、建物跡等を検出した。

環境整備は残りのよい露地跡を露出展示し、建物跡等は平面表示した。

 

松花堂(茶室)・中露地主要部

 

 

 

 

史跡 松花堂およびその跡

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡067 石清水八幡宮 瀧本坊 三宅石碑  松花堂昭乗 「空中茶室」

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史跡八幡067 石清水八幡宮 瀧本坊 三宅石碑  松花堂昭乗 「空中茶室」

2020年02月01日 07時48分30秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

東谷 瀧本坊跡

江戸時代初期に「寛永の三筆」の一人と称された松花堂昭乗が住職をつとめた坊です。現代では「松花堂弁当」の由来としても有名ですが、書画だけでなく茶の大成者でもありました。江戸城など幕府の数々の建築を手掛け、将軍の茶道師範でもあった小堀遠州は昭乗の親友で、この瀧本坊には遠州と共に造った茶室「閑雲軒」があり、詳しい絵図面も残されています。

平成22年(2010)の発掘調査では、坊跡の地面の上に、南にあった客殿の礎石と、北には漆喰作りの瓢箪型の池が見つかりました。さらに、絵図をもとに東の崖の斜面を調査したところ、建物の柱を支えた礎石の列が30m以上に渡って見つかり、環雲軒の北に懸け造りの書院があったことがわかりました。茶室「閑雲軒」は7mもの柱で支えられ、床面のほとんどが空中に迫り出した「空中茶室」ともいうべき構造であったことが判明しました。

 

これが 空中茶室

 

瀧本坊跡  昭和2年建立之三宅安兵衛遺志

関連記事 ⇒ 関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡066 石清水八幡宮 護国寺跡 三宅石碑

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史跡八幡066 石清水八幡宮 護国寺跡 三宅石碑

2020年01月30日 06時19分35秒 | 史跡・旧跡

 

石清水八幡宮は、平安時代初め、貞観元年(859)、奈良大安寺の僧・行教和尚が、九州の宇佐八幡宮から、八幡神をこの地に遷ししたのが起源です。本殿が朝廷により建てられた後、行教和尚はこの地に前からあった山寺を改め「護国寺」と名付けたと伝わります。本殿と一体となり全山を取り仕切った重要な施設でした。

平成22年(2010)の発掘調査で、江戸時代後期、文化13年(1816)に建てられた本堂に柱を支えた礎石の跡が見つかり、その内側に地鎮祭の跡がありました。銅でできた輪宝に独鈷杵を突き立てる天台宗に方式で、八角形に配置し、須弥壇を取り囲んでいました。護国寺は再建からわずか50数年後、明治の初めに破却されました。

 

 

 

 

護国寺 薬師堂跡  南 坂下瀧本坊 西 御本社

 

昭和2年10月 京都三宅安兵衛依遺志建立

 

関連記事 ⇒ 関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2

       

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡八幡065 石清水八幡宮 宝塔院跡  琴塔と呼ばれていました

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史跡八幡065 石清水八幡宮 宝塔院跡  琴塔と呼ばれていました

2020年01月27日 07時52分12秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

宝塔院は、本殿の東側に、平安時代以降明治初年まであった天台密教系の仏塔で、平安時代中期の万寿年中(1024~28)にはすでに建てられていました。軒の四隅に風が吹くと鳴るような琴がかけられ、「琴塔」とも呼ばれていました。江戸時代の設計図によると方形の二重の塔は、天台宗の「大塔」の様式で、現存する例は日本に1つしかありません。明治の初めに神仏分離令によって取り除かれ、基壇の中央に参道が通されました。今も参道の両側に、柱を支えた礎石が残されています

本殿の西側には真言宗の大塔もあり、密教の別宗派の2種類の大塔が、同じ境内に本殿と共に共存していたことは、石清水八幡宮の神仏和合の精神をよく表しています。

 

江戸時代後期に描かれた宝塔院

 

慶応2年(1866)に描かれた宝塔院と大塔

 

軒から下る琴が描かれている

 史跡 前回の記事 ⇒ 史跡向日064 物集女城跡

関連記事 ⇒ 49 八幡  地区 記事検索一覧  その1

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史跡向日062 願徳寺宝菩提院 跡

2020年01月11日 05時58分05秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

願徳寺宝菩提院跡

今から1300年前の白鳳時代、この付近に本拠地をおいた豪族が五重塔や金堂などの仏教建築を造営しました。

大同5年(810)、嵯峨天皇の病気回復を祈願した「長岡寺」は当寺院のことだと思われます。

別名を「願徳寺」といい、鎌倉時代には宝菩提院が併設され、以後天台密教の道場として発展しました。織田信長の兵火による焼亡を経て慶長8年(1603)に再興しましたが、昭和39年に廃寺となりました。昭和48年京都市西京区において再建されました。

発掘調査では、平安時代のわが国最古の湯屋跡は入浴施設として注目されます。

本尊であった木造菩提半跏像と同じ時代の遺構でもあります。

史跡 前回の記事 ⇒ 向日061 長岡宮跡 牛車 わだちの跡

関連記事 ⇒ 寺院西0124  宝菩提院願徳寺  国宝 菩薩半跏像

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古墳向日23 寺戸大塚古墳 

2020年01月08日 06時54分59秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

寺戸大塚古墳

全長98m 前方部は、竪穴式石室が検出された。

古墳の斜面には、葺石と呼ばれるこぶし大の敷石が敷き詰められ、平面の部分には、埴輪が大量に並べられていました。

 

石室内からは和製の銅鏡、銅鏃、紡錘車、琴柱型石製品などが出土している。

後円部石室からは中国製の三角獣神獣鏡・合子・勾玉・石釧・管玉・鎌・鉄斧・鉄剣・鉄刀などが出土した。

椿井大塚山古墳出土のものと同氾関係にあり、同じような鏡を埋納する他の古墳とともに、寺戸大塚古墳の被葬者が、椿井大塚山古墳の被葬者の支配下にあったものと考えられている。

 

 

 

 

古墳 前回の記事 ⇒ 古墳城陽22  黒土1号墳 

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史跡井手060 六角井戸

2020年01月06日 06時20分49秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

 

 

六角井戸

天平時代の左大臣・橘諸兄公は、井手左大臣とも呼ばれたように、ここ井出町に別荘を構え住まわれていました。

この六角形に組まれた珍しい井戸は、諸兄公の館、 玉井頓宮の名残として今に伝わるもので、

゛公の井戸゛として語り継がれています。

玉井頓宮には聖武天皇が平城宮から恭仁京へ遷都される旅の終わりに仮宮として

訪ねられた他天平12年(740)数度にわたって行幸されたと伝えられます。

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡井手059  井手左大臣 橘諸兄公旧址

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史跡井手059  井手左大臣 橘諸兄公旧址

2020年01月04日 17時52分54秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

橘諸兄公由緒

公は天武13年(684)生れ 父 美努王 母 県犬養三千代 敏達天皇五世の孫 光明皇后の異父兄である。 本名は葛城応のち母の氏を賜わって橘諸兄 井手に住して井手左大臣と号す。

天平10年(738)より右大臣 同15年(743)左大臣となり天平勝宝8年(756)致仕するまで奈良時代の全盛期を首班として生きた大官である。この間に聖武天皇の相楽別業(諸兄の井手にあった別荘)・玉井頓宮への行幸 恭仁京遷都 大仏建立・開眼供養などがあった。

また、この地には別業のほか 井堤寺を建立 清涼な玉川とわ愛し山吹を植え続けたので 多くの文学に見える「名所井手の里」を生み出した。 聖武上皇崩御天平勝宝9年(757)正月6日亡くなる 齢74

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡井手058   大安寺旧境内附石橋瓦窯跡

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史跡井手058   大安寺旧境内附石橋瓦窯跡

2020年01月02日 07時04分06秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

大安寺旧境内附石橋瓦窯跡

大安寺とは平城京(奈良市)に造営された官寺で、東大寺建立までは官寺筆頭寺院の地位にありました。この大安寺創建期の瓦を焼いた窯が石橋瓦窯です。

平成14年度の、道路整備と町施設建設に伴い新たに2基の窯跡が発見されました。そのため井手町では、橋梁を設け遺跡を保存することにしました。この窯跡は天平19年(747)の『大安寺伽藍縁起井流記資材帳』にみえる大安寺所有の「棚倉瓦屋」であると推定されています。

奈良時代初期の官寺の瓦生産地と供給地が文献資料と発掘調査両面から裏付けられる初めての例となりました。このため平成17年度に「史跡大安寺旧境内」関連施設として、名称変更のうえ追加指定されました。


史跡 前回の記事 ⇒ 史跡井手057 井堤寺跡   道標井手0281  井堤寺故址 三宅石碑

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史跡井手057 井堤寺跡   道標井手0281  井堤寺故址 三宅石碑

2020年01月01日 15時04分36秒 | 史跡・旧跡

 

 

井堤寺故址 是南二丁

昭和3年11月禀京都三宅安兵衛遺志

 

井堤寺の柱跡について

平成13年夏、府道和束井手線の改良工事に伴う発掘調査で、東西に並ぶ7基の原穴を確認しました。1辺が1m前後の四角形の掘り方をもつ柱穴は、3m(10尺)ごとに1列に並んでいました。柱穴内には柱の跡や柱を支えた根石も見つかりました。調査地が狭かったことから詳しいことは不明ですが、これらの柱穴は建物の一部になる可能性があります。

この地には、天平時代の左大臣・橘諸兄が橘氏の繁栄を願って建立した井堤寺があったとされる井堤寺の建物の一面とも考えられます。

伝承にしか残っていなかった井堤寺に関する遺構が見つかったことは重要な成果といえます。

 

 

 

 

井堤寺跡

井堤寺は、円堤寺(井手寺)とも称され、天平時代の左大臣・橘諸兄が、母・三千代の一周忌にちなみ創建した氏寺と伝えられています。

造営の折り諸兄公は、金堂の四面に山吹を植え、黄金色の花・山吹が水に映る風情を楽しめるように工夫されたとのことです。

現在は偲ぶよすがもありませんが、付近一帯には、通称名として薬師堂・ドウノウエ等の地名が残されており、奈良時代の井堤寺は七堂伽藍の壮大な威容を誇っていたと考えられます。

この他井堤寺には、小野小町が出家して当寺で余生を過ごしたことなど、小町ゆかりの伝説も伝わっています。

井堤寺跡からは、礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、軒瓦等が出土しています。出土した蓮華文の丸瓦と唐草文の平瓦を復元し、この四阿(あずまや)の軒瓦として用いています。

古地図は、「山城国井堤郷旧地全図」と呼ばれ、原図は平安時代の康治2年(1143)に描かれたものです。

この絵図に見るように付近一円には、井堤寺の他、玉井頓宮、諸兄山荘等が描かれ、橘氏一族の別業地として栄えた往時が偲ばれます。いにしえの井手の町の姿を知る手掛かりとしてください。

 

 

 

 

 

 史跡 前回の記事 ⇒ 史跡井手056 蛙塚 道標井手0279 玉の井  井手0280 井堤蛙舊蹟 三宅石碑

関連記事 ⇒ 関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2

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史跡井手056 蛙塚 道標井手0279 玉の井  井手0280 井堤蛙舊蹟 三宅石碑

2019年12月31日 07時37分01秒 | 史跡・旧跡

 

 

蛙塚(かわづつか)

玉川の清らかな流れと黄金色の山吹の花の彩りなど、紙上豊かな井手の里は、万葉の昔より平安・鎌倉・江戸と、時代を紡いで数々の和歌に詠まれてきました。なかでも美しい歌声を聞かせる蛙 かわづ は井手の枕詞として用いられるほど、数多く詠まれています。

このあたりは玉の井と呼ばれるように、湧水がこんこんと湧き出ておりました。その昔、大和路を行き交う人々は、湧き出る清水で喉の乾きを潤すとともに、水辺に遊ぶ蛙の声で旅の疲れを癒したことと思われます。

 

 

 

井堤蛙舊蹟

 

音にきく井堤能山吹みつれとも 蛙の聲者かわらさりけ里  貫之

昭和3年秋禀京都三宅安兵衛遺志建立

 

 

 

 

 

 

 

 

玉の井  玉井寺跡

昭和3年10月禀京都三宅安兵衛遺志建立

 

 

 

史跡前回の記事 ⇒ 史跡宇治055  龍目井 (たつもくい)  隠元禅師

関連記事 ⇒ 関連0002  三宅安兵衛の道標

       関連0022  三宅安兵衛 石碑 その2

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