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アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

史跡城陽053 正道官衙址 

2019年12月06日 13時17分11秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

 

 

遺跡の発見

標高40~50mの南向きの台地上にあるこの遺跡は、昭和40年(1965)、台地西端の池畔で瓦片や土器片が見つかり、古代寺院があったと推定されて「正道廃寺跡」と名付けられました。

しかし、昭和48年(1973)2月からの大規模な発掘調査では、寺院跡とみるより、奈良時代の郡衙(郡の役所)中心部分と推定される建物群跡が確認され、昭和49年(1974)には名称も「正道遺跡」と改められました。その後、付近で部分的な発掘調査を続けた結果、遺跡西側にも建物群跡があることがわかっています。

国の史跡に

この遺跡は、5世紀の小規模な古墳と6世紀後半から7世紀にかけての集落遺構、そして7世紀以降の整然と配置された大型の掘立柱建物群からなる官衙(奈良時代の役所)遺構などが重なり合う複合遺跡です。

特に官衙遺構は歴史・地理的背景や出土遺物などから、奈良時代の山城国久世郡の郡衙中心部であると推定され、昭和49年(1974)9月、城陽市では最初の国史跡の指定を受け、翌年3月に史跡地全体の約10,850㎡が公有化されました。

 

史跡の整備

この遺跡は、発掘調査後埋め戻されて長い間広場になっていましたが、遺跡の保存と活用を図りながら、積極的にまちづくりに生かしていこうという機運が高まり、平成元年(1989)2月、文化庁の指導を得て、この遺跡を含む市内5ケ所の史跡整備構想を策定。翌年この官衙遺跡の整備基本計画を作り、平成3年(1991)10月から整備工事に着工、平成4年(1992)11月に工事が完了しました。

 

整備の方法

整備に当たっては、官衙建物群のうち、ほぼ同時期のものと推定される建物群を復元の対象とし、時期を異にする建物遺構は、一定の覆土をして地下に現状保存しています。

建物の復元の仕方は、発掘調査の結果に基づいて柱の位置や太さを忠実に表現し、一方、柱の高さや柱組みは近い時代の建築様式を参考にして、これらの建物の規模が想像できる「イメージ復元

」となっています。

また、遺跡内の樹木は、在来植物の中から選び、特に奈良時代の「万葉集」の歌に詠まれている、いわゆる「万葉植物」には代表的な万葉歌を添えて紹介しています。

 

 

 

古代城陽を詠んだ万葉歌

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡木津川052 木津川の歴史  飛鳥・奈良時代

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陽明文庫  日本歴史の解明につながる

2019年12月03日 21時58分58秒 | 史跡・旧跡

 

2019年11月記事追加

2018年11月28日 撮影

見学することができました  

 

 

 

 

 

2015年10月14日の記事 

 

陽明文庫 と書かれています

 

右の方へ 行きます                     次に 左へ 道なりに 進みます

 

虎山荘  という建物がありました  さらに 進んでいきます

昭和13年(1938)10月、時の首相近衛文麿公が同家に伝わる

多くの古文書、古典籍、古美術工芸品等を一括保存管理するために

設立された特殊図書館です。

近衛家の歴代は官職の最高位にのぼり、

常に朝廷の公事儀式を中心とした政治の場に関与していたから、

これら議事典礼などに関する記録をしたため、

代々伝えのこしてゆくことがもっとも重要なことであった。

 

主なる収蔵品は、御堂関白藤原道長の自筆日記(12年分)をはじめ、

二十数代にわたる近衛家歴代の関白の自筆日記、など20万点。

国宝8件、重要文化財49件に及ぶ。

日本歴史の流れを知る根本資料の1つとなっている。

 

2棟の建物がありました  

 

定礎  紀元2600年です

 

正面入り口

 

 

庇の下には スズメバチの 大きな巣が 2つもあります

 

 

奥の もう 1棟 の建物

 

 


史跡左051 一言神社 旧跡 

2019年11月17日 06時19分15秒 | 史跡・旧跡

 

一言神社

『岩倉村誌』(1905年)によると、祭神は一言主[ひとことぬし]大神。『岩倉村誌』によると「由緒

勧請創立年月不詳」ですが、一言主神社の総本社(奈良県御所市)が賀茂氏の本拠地の高嶋神社近くにあるので、賀茂氏の移動に伴い、一言主神をまつる人たちがこの地にやってきて、まつるようになった可能性が高いと思われます。地元では願いを一言だけきいてくれる神として親しまれています。

一言神社は今では石座(いわくら)神社境内にありますが、元はここから南東約150mの正水山(しょうずやま)にありました。元の社殿は、後水尾天皇の娘で岩倉の万年岡茶屋に住んでいた女三宮が寛文8年(1668)に再営したものです。明治11年(1878)に石座神社境内へ遷座。

その後も正水山にこの石碑が残されていましたが、村松団地の建設に伴い、昭和48年(1973)にここへ移されています。10月23日に近い土曜日に行われる祭りの時、一言主神をのせた子ども神輿が朝5時20分頃にここまで来るのはそのためです。文久2年(1862)~慶応3年(1867)に出仕を禁じられて岩倉上蔵に住んでいた岩倉具視がしばしば参拝したのは、村松にあった頃の一言神社です。岩倉具視は一言神社のために二反(六百坪)弱の田を購入し、収穫米のうち二石(300㎏)を一言神社の維持にあてるようにしました。また石座神社内の現社殿の前には岩倉家から奉納させた燈籠がたてられています。

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡長岡050 勝竜寺城跡 細川ガラシャが住んでいた

関連記事 ⇒ 人物046 岩倉槇子

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史跡長岡050 勝竜寺城跡 細川ガラシャが住んでいた

2019年10月25日 05時15分24秒 | 史跡・旧跡

 

勝竜寺城公園

細川ガラシャ(1563~1600)

天正6年(1578)、明智光秀の娘・玉は、父の主君・織田信長に勧められ、勝竜寺城主・細川藤孝の長子忠興に嫁ぎます。そして、その後2年間、勝竜寺城で幸福な新婚生活を過ごしたと言われています。

しかし、天正10年(1582)、父の光秀が主君・信長を討つという歴史上の大事件(本能寺の変)を起こします。天下人となった光秀は、盟友の細川藤孝・忠興親子に加勢を求めますが、親子はこの誘いをきっぱりと断ります。その後、光秀は羽柴秀吉との戦い(山崎の合戦)に敗れ、居城・近江坂本城に落ち延びる道中で亡くなります。一転「逆臣の娘」となった玉は、以後苦難の生活を強いられることとなりました。

 光秀の死後、忠興は、玉を丹後の山奥・味土野(現・京都府京丹後市)に隔離・幽閉します。幽閉が解かれ、大阪城下玉造の細川家屋敷に移り住んだ後も、忠興の嫉妬心による厳しい監視など、様々な困難に見舞われます。この頃から、玉は平安をキリスト教に求めるようになり、洗礼を受けて細川ガラシャ(日本語で恵みの意味)と呼ばれるようになりました。

しかし、秀吉の死後、再び天下が乱れます。徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)の対立が激化し、美濃国関ケ原で決戦(関ヶ原の戦い)が起こったのです。忠興は家康に従い、西軍の上杉家の討伐に向かいますが、これを好機と見た三成は、細川屋敷に軍勢を送り、ガラシャ夫人に人質になるように強要しました。ところが彼女はこれを敢然と拒否し、屋敷に火をかけて壮絶な最期を遂げます。慶長5年(1600)、38歳の生涯でした。

 

 

 

 

北門跡

本丸の北西隅から北の出入り口が見つかった。この出入り口を囲む土塁は高さ2m以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。

城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。突き当りを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。 平成4年3月 長岡京市

 

 

 

東辺土塁と多聞櫓

本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で、二列の石垣が見つかった。この幅4メートルの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。このような構造の建物は多聞櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり、井戸を設けていた。

多聞櫓への階段

本丸の北東隅から石垣で築かれた高さ4メートルの土塁が見つかった。この土塁に登る斜面には大きな自然の石を使った階段が七段作られていた。土塁の上は一辺が10m四方の広い平坦な面があり、城の外を監視、攻撃するための建物があったことを裏付けた。この建物は東辺の土塁上にのびる多聞櫓という長屋風の建物と思われる。

 

 

沼田丸への通路

西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦面を深さ1.5m堀くぼめ、土塁が南北に分断されていた。こと土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、二カ所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。

このことから、土塁の斜面に石を使って階段をつくり、土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものとみられる。また、西辺土塁の南端で人頭大の大きな石や小石が見つかった。これらは土塁上にあった隅櫓などの建物に使われたとみられる。

本丸跡

城の心臓部にあたる本丸は、東西約105m、南北約70mで、その周囲には水を湛えた幅広い堀が造られ、その内側に高く土を盛り上げた土塁を巡らしている。

堀は深さ約3mで、幅が15mを越え、土塁の裾には石垣が築かれていた。土塁は高さ4~5mで、四方を取り囲んでいた。しかも、最も高く築いた西辺の土塁は、四角い形をした本丸の南側に張り出していた。これは南門から攻め入ろうとする敵をこの高い土塁上から攻撃する目的があった。

土塁南辺の中央に推定される南門の位置では、杭列や大きな石垣が見つかった。北西隅からは石垣で築いた北門が、北東隅では土塁に登る階段が、東辺の土塁上では長屋風の建物

(多聞櫓)の土台である石垣などが発見された。

本丸内では、西半部で南北方向の堀で石で蓋された溝などが、東半部で井戸二基や礎石建物三棟が見つかった。堀は幅約4m、深さ2mで、井戸はいずれも深さ約2m、直径0.9mの石組みのものであった。

 

 

 

 

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡長岡049 勝龍寺城土塁・空堀跡  長岡京市

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史跡宇治田原048  信西塚  平安時代・平清盛方

2019年09月24日 05時54分25秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

信西塚

塚は封土の上に石造宝篋印塔(江戸時代)を安置し、傍らに「信西入道塚」の石碑がある。

『平治物語』によれば、少納言信西入道(藤原通憲)は平清盛とむすんで権力をふるったため、これを恨んだ藤原信頼と源義朝は平治元年(1159)12月、清盛一族が熊野参詣の不在中をねらって兵を挙げた。いち早くこのことを知った信西は、京都を逃れて奈良にむかおうとした。

宇治から田原の奥、大道寺の所領地に至り、さらに東の信楽に行こうとした。しかし卜占の結果、天皇の危難は自分の身替りによって救われると判断し、死して君恩に報いようとして、ふたたび大道寺に引き返し、従者に命じて掘らせた穴に入り、大きな竹の節を上から差し込み、それを口にあてて死を待った。まもなく追撃してきた源光泰の軍勢に発見され、ついに首をはねられたという。

大道寺の領民はこの場所に塚を築いてその菩提を弔ったと言われている。大正5年8月に有志により供養塔が建てられ今に至る。


三宅安兵衛 建立の 道標 信西入道塚 

 

 

 大正5年に建てられた 石碑・供養塔

 

 

関連記事 ⇒  三宅安兵衛の道標

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡向日047  長岡宮 跡

 

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史跡向日047  長岡宮 跡

2019年07月31日 05時53分57秒 | 史跡・旧跡

 

 

国家の制度が整えられた奈良時代(8世紀)以来、大極殿及び朝堂院では元旦に「朝賀の儀式」が盛大にとり行われました。

この時、大極殿の前に7本の宝幢が建てられます。宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、

長さ約9メートルの太柱の上に、青龍・朱雀・白虎・玄武の四神の絵がはためき、

烏・日・月の飾り物が華やかに揺れました。

1997年の発掘調査で、この宝幢を建てた柱の堀形が発見されました。

長さ3m、幅約1.2m、深さ約0.8mの楕円形をした大きな掘方で、

中央に大柱、両側に添え柱の痕跡がありました。

柱堀形は三期あり、大極殿の前約百尺(29.6)の位置に、東西方向へ3mごとに並んでいます。

宝幢は大極殿の中軸線上を中心に左右に計7本建てられるものですから、

発見された柱堀形は東の3本に相当します。同様な遺構は1983年に平城宮の大極殿前でも発見されています。

宝幢は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦にのみ建てられる特別な装飾具です。

しかし長岡宮で天皇の即位はありません。

そこでこの宝幢は朝賀の儀式の際に用いられたものと判断されます。

 

史跡前回の記事 ⇒ 史跡八幡046 西山廃寺(足立寺跡) 三重塔

関連記事 ⇒ 39 乙訓の里  地区 寺社記事検索一覧

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史跡八幡045 小野頼風塚 

2019年06月03日 05時20分54秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

『藻塩草(もじおぐさ)』によれば、平城天皇のとき小野頼風という人が男山に住み、京に女をもって深い契りをむすんでいたが、いつしか二人のあいだには秋風が立つにいたった。京の女は思いあまって八幡の里に男を訪ねてきたが、男には他に女を娶ってその方へ行っていることを知り、悲歎のあまり八幡の川のほとりに山吹がさねの衣をぬぎ捨て、投身して果てた。その衣は朽ちてそこから女郎花が生えた。これを知った頼風は花のもとに立ち寄ったところ、花に恨んだ風情があり、近寄ればなびきしりぞき、立ち退くともとの如くになるのを見て、自責の念にかられ、川に身を投げて死んだ。その川を涙川といい、放生川の上流にあたるという。世人はこれをあわれみ、女と同じところに彼の塚をきづいた。今の頼風塚がそれであり、女郎花塚というのが女の塚であると伝える。

この伝説は謡曲『女郎花』で有名になったが、史実によるものではないが、むかし京都・奈良間を往来する人の詩情をそそる物語として、今に伝えられている。

 

 

 

 関連記事 ⇔ 49 八幡  地区 記事検索一覧

道標 ⇒ 道標八幡0219 小野頼風塚 三宅石碑

前回の史跡記事 ⇒ 史跡八幡044 源 頼朝公の松  三宅石碑

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史跡八幡044 源 頼朝公の松  三宅石碑

2019年05月11日 06時49分51秒 | 史跡・旧跡

 

令和1年12月19日 画像追加 (令和1年7月30日撮影)

 

以下 19年5月11日 の記事 

 

源 頼朝 手植松  右 太子 二丁 ・・・

          左 奈  三丁 ・・・

 

 三宅安兵衛 の 石碑・道標 です

向こうに見える門は 頓宮の門

関連記事 ⇒ 関連0002  三宅安兵衛の道標

       49 八幡  地区 記事検索一覧

       三條南殿の遺址  三条烏丸  源頼朝はここで働いていた

史跡 前回の記事 ⇒  史跡伏043 鳥羽離宮南殿跡

 

 


史跡伏043 鳥羽離宮南殿跡

2019年03月08日 22時05分33秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

鳥羽離宮南殿跡

この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、11世紀の末、応徳3(1086)に造営されたものを、

昭和38年から42年にかけて調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。

南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。

なお、公園内の「秋の山」は当時の庭園の築山にあたる。


元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と別に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場殿等があった。それは淀川につながる大きな池沼の岸辺に配置されていたものである。

北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のためこわされていた。

東殿は、いまの安楽寿院附近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。

田中殿は遺跡がみつかっている。

馬場殿は、城南宮の北と考えられるがあきらかでない。

城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よせて、後鳥羽上皇が13世紀のはじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。

これらの御所に付属する仏殿として、

南殿に証金剛院、

北殿には勝光明院、

東殿には安楽寿院と成善提院・不動堂があり、

田中殿には金剛心院があった。

南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。

寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。

なお、大門・中門・中門廊・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている。

鳥羽離宮について記された文献は多いが

「平家物語」巻3に見る「秋の山の春風に白波瀬に折懸 紫鴛白鴎逍遥す」

この歌は、当時の鳥羽離宮の環境を示して最も印象的である。

 

北の方向を見る  右側に築山が見える

 史跡 前回の記事 ⇒ 史跡中042  鵺池  鵺退治の鏃(やじり)を洗ったところ

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平安宮013 二条公園と平安宮の遺跡

2019年01月27日 15時20分43秒 | 史跡・旧跡

 

二条公園と平安宮の遺跡

この二条公園は、昭和9年に開催された「大礼記念京都大博覧会」会場内の児童遊園地を利用し、整備して開園しましたが、近年、施設の老朽化が進んだことから、ワークショップ並びにアンケート調査を基に検討し、街中にある自然を取り込んだ多世代がふれあえる空間のある公園として生まれ変わりました

またこの二条公園は、平安時代には右の平安宮復元イラストの赤く塗りつぶした宮内大路(きゅうないおおじ・大炊御門大路と壬生大路の交差点北域)にあたり、壬生大路を挟んで平安宮の重要な役所である太政官と宮内省及び園韓(そのから)神社(かみしゃ)(園神と韓神を祭る)がありました。

公園整備前の平成152月に遺跡確認調査を行った結果、宮内省西面の南北築地基底部(地業跡)や溝とみられる遺構のほか、平安時代前期の遺物築地包含層が見つかり、その中から当時使用されていた瓦や土器が出土しました。

1区では、江戸時代に整地された土層が確認されました。

2区では、天皇や皇族の衣食住を担当する役所「宮内省」の西面築地塀の基礎工事跡と宮内省の内溝とみられる遺構が既往の調査結果から推定ラインに一致してみつかり、合わせて平安時代の瓦や土器などの遺物が出土しました。

 

 

平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

 

 


史跡中042  鵺池  鵺退治の鏃(やじり)を洗ったところ 

2019年01月26日 12時40分26秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

(ぬえ)池伝説

二条公園の北側には鵺池という小さな池がありました。傍らには不鮮明ですが鵺池碑て書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神

の祠があります。そこには新しく復元された碑が建っています。

平安時代、二条公園を含む一帯は、天皇の住まいである内裏や、現在の国会議事等に当たる大極殿を正殿ととする朝堂院、そして今の内閣に相当する太政官など、国家政治の中心となる官庁街でした。

『平家物語』巻4によると、院政期とも呼ばれる平安時代後期、深夜、天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺(ぬえ)であったといい、その時に血の付いた鏃(やじり)を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています

 

 

 

昔からあった 鵺池碑

 

 

 

関連記事 ⇒ 祠中043 鵺(ぬえ)大明神   石碑中0186 鵺池碑

関連記事 ⇒ 神社下0033 神明神社 鵺退治の矢じりがあります  綾小路東洞院

       鵺(ぬえ)の正体 トラツグミ 恐ろしい声で鳴く

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡南041 鳥羽殿跡

 

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史跡南041 鳥羽殿跡

2019年01月11日 13時46分06秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、11世紀の末、応徳3(1086)年に造営されたものを、昭和38年から42年にかけ調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる。

元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と別に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場殿があった。それは淀川につながる大きな池沼の近辺に配置されていたものである。北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のためこわされていた。東殿は、いまの安楽寿院附近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。田中殿は遺跡がみつかっている。馬場殿は、城南宮の北と考えられるがあきらかでない。城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よせて、後鳥羽上皇13世紀のはじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。

これらの御所に付属する仏殿として、南殿に証金剛院、北殿には勝光明院、東殿には安楽寿院と成菩提院・不動堂があり、田中殿には金剛心院があった。南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中間廊・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている。

鳥羽離宮について記された文献は数多いが「平家物語」巻3に見る「秋の山の春風に 白波瀬に折懸 紫鴛逍遥す」この歌は、当時の鳥羽離宮の環境を示して最も印象的である。

 

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡南040  鳥羽伏見の戦い 跡

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史跡南040  鳥羽伏見の戦い 跡

2019年01月09日 17時02分45秒 | 史跡・旧跡

 

城南離宮 右 よど  や八た

 

左り 京ミち   

安政六年 上鳥羽村 未五月 奈佐氏

昭和六十三年辰五月 城南宮 復元建立

安政六年 上鳥羽村 未五月 奈佐氏

 

鳥羽伏見の戦い 勃発の地

明治元年(1868)正月3日夕刻、この付近で起きた戦が「鳥羽伏見の戦い」の発端となった。

「王政復古の大号令」の後、徳川将軍家の領地返納を強行採決した薩摩・長州らの藩に、不満を覚えた幕臣・会津・桑名らの藩は、正月1日挙兵、大坂から京へ攻め入ろうとし、薩摩、長州の新政府軍がこれを迎えうった。

城南宮には、薩摩藩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍と幕府大目付・滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとするのを、薩摩藩兵が阻止して談判の後、ついに薩摩側から発砲した。その一弾があたかも合図となって戦端はひらかれ、鳥羽と伏見の両方面で激戦が展開された。幕府軍は約2万、新政府軍は約5千の兵力であったが、新政府軍の大砲・鉄砲などの新式の武器の威力が幕府軍の行く手を阻んだ。また新選組も、近藤勇沖田総司をけがと病気で欠いていたものの、土方歳三永蔵新八以下の隊士たちが伏見奉行所詰めからこの戦いに加わっている。しかし新選組らの奮闘も虚しく、幕府軍は正月6日ついに大坂城に向け退陣した。ひの一戦を皮切りに、約2年にわたる戊辰戦争が始まったのである。

 小枝橋について

その昔京都(平安京)への渡り口である小枝橋はいい伝えによりますと杭を打った上に板を渡した木の橋であり、その後昭和のコンクリートり橋が出来るまでは土を固めた土橋であったと伝えられています。この橋は京都が都と云われた時代には重要であり、当時大阪(浪速)に渡来した大陸からの文化はすべてこの橋を渡って渡来して来たものと思われます。当時庶民にとっては何かにつけて都は憧れであり、西方からの旅人はこの橋迄たどりつく事により安堵したとの事です。そして以前は時により鴨川が氾濫して橋が流された様です。又、明治維新や日本赤十字社の創設の原因を作った戊辰戦争の戦端が開かれた場所でもあります。

昭和に入って交通機関の発達する迄は小枝橋を荷車や歩行の人々が利用していました。現在は地元民や伏見地域の人々は元より東西南北の通過橋としてかけがえのないふれあいとコミニケーションが保たれる橋として役立っています。

 

 道標 前回の記事 ⇒  道標西0203 従是東山城国

史跡 前回の記事 ⇒  史跡南039 西寺跡  石碑南0180 西寺跡

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