
平成30年11月15日の記事
平成29年4月12日 撮影
宝菩提院 当寺は山号を 仏華林山 宝菩提院 願徳寺とする天台宗の寺院である。
寺伝によると奈良時代の少し前、白鳳8年(679)に持統天皇の願いにより向日市寺戸に創建された寺院で、当時は1キロメートル四方に伽藍のある、天台密教の秘法を行う大寺院であった。
平安末期ごろ、平教盛の息忠快律師は平家没落後、東山三条小川にある願徳寺の寺領地に住房(小川殿)を建て、宝菩提院と号した。その弟子承澄は後嵯峨天皇の勅によって寺領を再興し、薬師・地蔵像を願徳寺に移したことから、宝菩提院とよばれるに至った。
応仁の乱と信長の兵火よより諸堂ことごとく灰燼となり、江戸時代に家康の加護を受けたものの、平安時代の面影は失われた。
昭和37年(1962)に寺戸よりこの地に移転、再建された。
本尊に祀られる国宝仏である如意輪観世音菩薩は、平安時代(794~1185)初期の御姿で、唐よりの渡来仏であるとする説、あるいは渡来人の作であるとする両説がある。
座り方は、踏み下げの像。左手は施無畏の印、生老病死の四苦から解放してくれるという。仏教の真理を現し、右手は与願の印で、願いをかなえてくれるという、現世利益を現す。寺宝として、薬師如来、青不動(軸)、太子2歳像などを蔵している。 京都市
2016年6月30日の記事
宝菩提院願徳寺
元は現在地の東方、向日市寺戸にあった天台宗寺院だが、昭和48年(1973)に勝持寺の隣に移転した。元は仏華林山願徳寺といい、持統天皇の夢告によって創建されたという。白鳳期だが寺跡の出土瓦によって証明されている。当時は広大な寺域を有していた。
本尊は貞観6年(864)に広隆寺に移された。
平敦盛の子の弟子の澄豪によって願徳寺に移した。
応仁の乱、信長の元亀2年(1571)の兵火によって諸堂が焼亡した。江戸時代、明治、昭和と荒廃がすすんだ。本尊菩薩半跏像と諸仏は昭和37年(1962)に向日市寺戸から勝持寺に移され、昭和48年(1973)に勝持寺の隣の現在地に再建された。本尊と諸仏は平成8年(1996)12月に勝持寺から現在の願徳寺本堂に収められた。
現在の寺になったのは つい最近のことだ
勝持寺は隣にあります
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寺院右0002 広隆寺 (こうりゅうじ) 「太子さん」とも言われている
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