KONASUKEの部屋

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ちょっと知りたい笠間の歴史~文化財公開・番外編~

2016年11月10日 | 歴史
この前の「かさま文化財公開」で配られた資料に、面白いのがあったので、アップしておこうかと。

「ちょっと知りたい笠間の歴史」。
一つは笠間時朝について。
今回公開された文化財のうち、三つの国指定重要文化財の発願者になっています。
もう一つは、六堂参り(ろくどうまいり)について。
今回公開された文化財も含む、笠間六体仏を巡る行事です。

以下、原文そのまま載せます。
(※印はKONASUKEによる)


ちょっと知りたい笠間の歴史
◎笠間時朝(かさまときとも)
 笠間時朝とは、鎌倉時代前期から中期ごろの人物です。
笠間氏の祖であり、笠間城を築城した(※1)といわれます。
(!)出自
 時朝は、宇都宮頼綱の弟塩谷朝業の次男です。
生没年については、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、文永2年(1266)に62歳で没したという記載から、元久元年(1204)ごろと推定されています。
宇都宮氏は、藤原道兼の曾孫宗円を祖とし、二荒山神社の社家であり、源頼朝に従った有力御家人でもあります。
(2)御家人としての時朝
 『吾妻鏡』に見える時朝の初見は、嘉禎元年(1235)6月29日、将軍の明王院供養からです。
「笠間左衛門尉時朝」の名前が見られ、宇都宮一門の一人として初めて出仕しました。
嘉禎4年の将軍上洛の際には、将軍の共をしております。
この上洛時に、京都の公家との交流がもたれ、後の歌人としての活動や仏像寄進の行動に影響を与えます。
仁治元年(1240)の大嘗会の際には、検非違使として供奉しました。
検非違使の任官については、その喜びを和歌に残すほどでありました。
寛元3年(1245)頃には、従五位上となり、翌年の『吾妻鏡』にみられるように、長門守に任ぜられました。
長門守(かみ)については、正六位下の官位が守に相当しておりましたので、時朝の位からすれば、官が低いことになります。
これは、楞厳寺の千手観音の銘文に「従五位上行長門守…」とあるように、「行」の文字にあらわれています。
(3)歌人としての時朝
 時朝は歌人として活動もよく見られ、和歌に長けておりました。
宗家である宇都宮一族は、宇都宮歌壇という和歌集団を持っていました。
これは、宇都宮頼綱と時朝の父塩谷朝業から始まり、当代歌壇の大御所である藤原定家の御子左家(みこひだりけ)との関係(※2)によって成立しました。
時朝の歌人としての活躍は、こうした背景によって培われたものと考えられます。
時朝自身の和歌は、勅撰和歌集にも多く入選しています。
また、宇都宮歌壇の集大成である『新和歌集』についても、実質的な編者は時朝でした。
また、自身の歌人としての足跡を私撰集として『前長門守時朝入京田舎打聞集』があります。
また、笠間氏の領内にある稲田姫神社(稲田神社)や時朝の館(場所については不明)において、歌会を催しております。
(4)信仰と時朝
 多くの仏像を寄進していることから、信仰心のあつさがうかがえます。
例えば、京都の蓮華王院(三十三間堂)には千手観音立像2体を寄進しています。
市内では楞厳寺の木造千手観音立像、岩谷寺の木造薬師如来立像、弥勒堂(石寺)の木造阿弥陀仏立像を寄進し、桜川市の小山寺に大日如来坐像(現在仏像は寒河江市の慈恩寺所蔵)、阿見町蔵福寺の阿弥陀如来立像(県指定文化財)も時朝の寄進した仏像です。
また、記録上でわかる仏像については、更に7体あるそうです。
ちなみに、蓮華王院で寄進者がわかるのは時朝が寄進したものだけです。
また、常陸一之宮である鹿島神宮には、唐本一切経を奉納しています。
唐本一切経とは、宋版の大蔵経のことを指します。
奥書から建長7年(1255)11月に奉納したことがわかり、鹿島社において供養を遂げたと記載されています。
この時期に自身の妻を失っていることから、亡き妻の菩提のため、父の回忌供養のためであると考えられます。
自筆の奥書については、写経に代わるものと思われ、諸本すべてが同筆ではないようです。
おそらく分担して書かれたものでしょう。

◎六堂参り(ろくどうまいり)
 お釈迦様の誕生日である4月8日の花まつりには、笠間六体仏をめぐる行事のことを、六堂参りといいます。
新仏(しんぼとけ)を持つ近親者たちが、供養のため六堂を参詣するならわしです。
 笠間六体仏とは、『蓮台寺不動縁起』(元禄3年成立、蓮台寺は笠間市福田にある)によれば、(1)楞厳寺の観音大士(2)岩谷寺の薬師如来(3)阿弥陀院の地蔵菩薩(4)石寺の弥勒菩薩(5)花蔵院の毘沙門天(6)蓮台寺の不動明王の六体が該当します。
阿弥陀院は明治時代に廃寺になった「金亀山無量寿寺阿弥陀院」であり、地蔵と什物が七会の徳蔵寺に移されたといわれております。
花蔵院(愛宕町)には毘沙門天があったとされるが、同じ愛宕町にあった多聞院の多聞天であるとも言われています。
明治時代に廃寺となり、像自体は現存しておらず、「呑龍様」と呼ばれるお堂に吞龍上人の木像と毘沙門天像掛軸が納められております。
蓮台寺の不動明王は、大きな楠木から運慶が六体の仏像を彫った一つと言われております。
地元では、明治2年の火災のため、堂ともども焼失したことから、堂の再建にあわせて真壁町にあった不動明王を移して祀りました。
 六堂参りの起源については、不明な所もありますが、江戸時代中期には六体仏として知られており、熊野明神の六地蔵まいりと結びついてこの六体仏を六堂まいりの対象とした風習が始まったと考えられます。
新仏を持った近親者は、供養のために3年間巡礼したという。
わらじがけで早朝出立し、最寄りの寺を最後に1日がかりで巡拝しました。
今では、3人が一度に回れば、3年分を参詣したことになります。
 現在の巡礼は、花蔵院(愛宕町)、岩谷寺(来栖)、楞厳寺(片庭)、石寺弥勒堂、蓮台寺(福田)、徳蔵寺(旧七会村)(※3)です。
寺々では、世話人が甘茶や線香を用意して迎えているところもあります。
笠間市内の重要文化財の各仏像についても、この花まつりの日には特別に御開帳され、拝観することが出来ます。

~KONASUKEによる蛇足~
(※1)笠間時朝は、正福寺と徳蔵(とくら)寺の争いに介入し、徳蔵院の兵を退けるとともに、正福寺をも滅ぼし、笠間城を築きました。
    その際、祟りがすさまじかったという伝承も。
    笠間時朝の信心深さは、(※2)で述べる宗教的な下地があったこともありましょうが、実は、祟りが怖かったからかも(笑)
    →笠間歴史絵画展1

(※2)宇都宮頼綱は、百人一首が成立するきっかけをつくった人物です。
    また、親鸞聖人が稲田で草庵を結んだのも、彼の強い要望によるとの説も。
    五木寛之氏の小説「親鸞 激動篇」にも登場します。
    一流の文化人であり、武人でもあった。
    →宇都宮城址公園②笠間との関わり

(※3)場所はこの辺↓
花蔵院
ほとんど単なるお堂です。
岩谷寺
楞厳寺
弥勒堂
上福田不動尊(蓮台寺)
清水の舞台のミニチュアみたいな建物です。
徳蔵寺

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