く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

〈東大寺〉 大仏殿で「花まつり千僧供養」

2024年04月27日 | 祭り

【全日本仏教青年会主催、宗派を超え若いお坊さんが全国から結集!

 奈良⋅東大寺で4月26日「花まつり千僧供養」が営まれた。主催は全日本仏教青年会(新井順證理事長=四天王寺総務部長)。1988年から毎年この日に開いているもので、宗派を超えて全国各地から集まった若手僧侶たち約300人が、大仏さまに仏法興隆、世界平和、災害被災地の早期復興などを祈願した。

 午後零時45分、僧侶たちの行列が法螺貝が吹かれる中、大仏殿に向けて出発した。色とりどりの袈裟をまとったお坊さんの列が延々と続く。

 参道の両側にはあっという間に人垣ができた。海外からの観光客も興味深そうに見つめ、スマホのシャッターを押していた。行列最後尾には東大寺学園幼稚園の園児たちが続いた。

 大仏殿で法要が始まったのは午後1時すぎ。最初に園児たちが『世界がひとつになるまで』という歌を大仏さまに奉納した。散華の後、般若心経、大般若経転読と続く。

 法要中も参拝客が次々と堂内に。写真撮影はいつも通りOKだが、法要中の真正面からの撮影だけはご法度。法被姿の東大寺職員が海外観光客に「ノー フォトグラフィー」としきりに声を掛けていた。

 法要後、僧侶たちは大仏殿のすぐ東側にある宝塔「アショカピラー」の前へ移動。この塔はインド仏教の聖地サルナートにあるアショカピラーの石像頭部を模したもので、ライオン4頭が背中合わせに並ぶ。全日本仏教青年会が1988年「花まつり千僧法要」を始めたときに記念塔として設置した。

 そのすぐそばには金色に輝く「七重塔相輪」がある。こちらは1970年の日本万博の遺産。古河グループのパビリオン「七重塔」の相輪部分が寄進され、翌年この地に移設された。

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〈天理参考館〉 企画展「器にみるアンデス世界―ペルー南部地域編」

2024年04月21日 | 考古・歴史

【パラカス~ナスカ、インカの多彩な土器⋅木器を一堂に】

 世界の民俗資料と考古美術の博物館「天理大学付属天理参考館」(奈良県天理市)で企画展「器にみるアンデス世界―ペルー南部地域編」が始まった。3年前に開催した「ペルー北部地域編」の続編。ペルー南部からボリビアにかけて栄えた古代アンデス地域の土器や木器を、紀元前のパラカス文化からナスカ、インカ文化まで時代を追って紹介している。6月3日まで。

 パラカス文化は紀元前800年から紀元後100年頃にかけてペルー南海岸北部で栄えた。神や動物などを組み合わせた複雑なモチーフの織物が作られ、土器には幾何学文様や信仰の対象だったネコ科動物が多く描かれた。下の写真はパラカス前期の幾何学文皿。

 巨大な地上絵で知られるナスカ文化が栄えたのは紀元後100年頃から650年頃にかけて。土器のモチーフには陸上動物や魚類、海獣、栽培作物などが選ばれ、最盛期には10~12種もの顔料が使い分けられたという。

 写真㊤はナスカ前期の鳥が描かれた橋形把手付き双注口壷。鳥は猛禽類のオナガハヤブサと推定されている。写真㊦はナスカ後期の深鉢。胴の上部に海の最強の生き物シャチが擬人化されて大きく口を開き、中央と下部に女性の顔が描かれている。

 ボリビア~ペルー南部の高地では紀元後500年頃から1150年頃までティワナク文化が栄えた。一方、ペルー中央海岸北部では1000年頃から1470年頃にかけ、独自のチャンカイ文化が花開いた。チャンカイの土器は白い化粧土の上に黒色顔料で幾何学文様や動物⋅人物などを描いたのが特徴。写真は双耳壷。左側の把手基部にサルとみられる塑像が取り付けられている。

 

 15世紀半ばから16世紀前半にかけ勢力を拡大しアンデス一帯を支配下に治めたのがインカ帝国。広大な領域内はインカ道と呼ばれる道路網で結ばれ、様々な産物が運ばれた。インカの土器を代表するのが把手付きの皿。写真の皿には幾何学文様の両側にフクシアとみられる花の蜜を吸う鳥が描かれている。

 この企画展では真作の土器や木器に加え、「再生産、消費される古代文化」コーナーに贋作も展示。贋作の多くは当初、盗掘などで破損した部分を補修して完成品に見せかけていたが、1950年代以降はナスカ土器を中心に贋作が堂々と作り続けられているという。写真はいずれも贋作または部分的贋作と推定される壷。

 企画展会場では山形大学のナスカ研究所と付属博物館の協力で、ナスカの地上絵に関するパネルも展示中。山形大学が地上絵の分布調査を始めたのは20年前の2004年。12年には現地に研究所を設立し、これまでに新たに多くの地上絵を発見してきた。(MBS 毎日放送の番組案内によると、4月21日午後6時放送の世界遺産「空から迫る『ナスカ地上絵の秘密』」で山形大学新発見の地上絵も登場)

 地上絵があるのはペルーの南海岸から約50㎞内陸の砂漠台地(標高約500m)。砂礫層を掘ったり積んだりして様々な動植物などが描かれ、ユネスコの世界文化遺産になっている。その制作目的は? パネルによると、豊作を祈願するためという説が有力とのこと。長く残っているのは①極乾燥地で植物が生えない②風で礫(小石)が移動しない③流水の影響のない場所に描かれたーーなどによるそうだ。

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〈松伯美術館〉 開館30周年「勤勉努力―素描 下絵そして本画」展

2024年04月17日 | 美術

【上村松園『唐美人』⋅松篁『緋桃』⋅淳之『鳬』┄】

 開館30周年を迎えた松伯美術館(奈良市登美ケ丘2)で「勤勉努力―素描 下絵そして本画」と題した展覧会が開かれている。美人画の上村松園とその子松篁、孫淳之の作品群で知られるこの美術館は、三代の膨大な素描や下絵なども保有する。それらを通して本画が生まれるまでの過程を作者のコメントとともに紹介している。5月6日まて。

 同館では2年前の2022年秋にも「本画と下絵から知る上村松園⋅松篁⋅淳之」展を開催。そのとき松園の作品では『鼓の音』『楊貴妃』『花がたみ』などを下絵と並べて展示していた。今回は『唐美人』『美人納涼』『雪』などを本画と下絵で、そのほか『月蝕の宵』『新蛍』など十数点の下絵も展示している。

 松園は1948年、女性として初めて文化勲章を受章した。生前、作品制作への心構えについてこう語っていたという。「人事をつくして天命を待つ、と昔の人が申したように、何事もやれるところまで努めつくしてみた上で、さてそれ以上は大いなる神や仏のお力に待つよりほかはありません。芸術上のことでもそうであります」

 松篁は母松園の姿勢を見習いながら花鳥画の制作に没頭した。松園から絵について注意などを受けたことはないという。ただ「勤勉、努力していく母の後ろ姿をずっと見続けていた。それが母のいちばん大きな遺産だったと思う」。母に次いで松篁も1984年文化勲章を受章した。今展では『緋桃』『燦雨』『白木蓮』『月明』など松篁の大作が原寸大の下絵とともに展示されている。

 現館長淳之も松篁の後を継いで60種700羽の鳥を飼育する奈良市の「唳禽荘(れいきんそう)」にアトリエを構える。淳之は祖母松園について「大変な量の素描などを整理しながら、努力とはこれなのだと思い知らされた」と述懐している。今展では『鳬(けり)』『水辺』『小千鳥』などを展示中。淳之も2022年に文化勲章を受章し、三代続けての受章となった。

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〈剣聖の里⋅柳生〉 満開の桜をバックに第16回さくら祭

2024年04月07日 | 祭り

【2日間にわたり火縄銃の演武など多彩な催し】

 奈良市柳生で4月6日「第16回柳生さくら祭」が始まった。会場は旧柳生藩陣屋跡の広場で、7日までの2日間。満開の桜を背にした野外ステージでは初日から火縄銃の演武をはじめ忍術や尺八の演奏、舞踊、南京玉すだれ、コスプレショー、柳生新陰流演武など多彩な出し物が繰り広げられた。

 火縄銃の演武は正午すぎにスタート。大阪城鉄砲隊などのメンバー11人が勇ましい甲冑姿で登場した。率いるのは堺鉄砲研究会を主宰し、柳生観光大使も務める澤田平さん。古式銃⋅古式砲術研究の第一人者で、「なんでも鑑定団」(テレビ東京)の鑑定士としても活躍してきた。

 鉄砲隊の面々が手にする火縄銃はいずれも江戸時代に作られた本物という。澤田さんの号令一下、一斉射撃や一人ずつ順に放つ“つるべ撃ち”などか披露された。そのたびに白煙とともに凄まじい轟音が轟いて、観客から驚きの声が上がった。

 この後、真剣の試し斬りに続き澤田さんによる「がまの油売り」の口上もあった。赤い甲冑姿の男性が持つ短い刀は国内で唯一本物と確認されているという忍者刀(忍刀)。一太刀(ひとたち)でスパッとよく斬れていた刀に、がまの油を塗るとなぜか切れ味がさっぱりに。ところが油を拭き取ると再び鋭い切れ味を取り戻した。不思議! 澤田さんは「がまの油は刀傷にもよく効いた」と話していた。

 火縄銃やがまの油売りの前には、橿原市のボーカルとギターのデュオ「歓音~かのん」の演奏や地元の「大河流舞遊会」による舞踊などもあった。さらに午後も南京玉すだれやコスプレショーなどが続いた。

 7日には和太鼓や三味線、草笛の演奏、田原伝統芸能、狂言、相撲甚句、アフリカの太鼓とダンスなど、初日とは異なるグループが出演する。フィナーレは2日間とも法被姿の町民たちによる「柳生音頭」の踊り。この音頭、第1回さくら祭(2006年)に合わせ、地元の小学校教師の作詞とキダ⋅タローさんの作曲で生まれた。(下の写真は初日に登場した南京玉すだれのメンバー)

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〈奈良県立図書情報館〉 「キネティックアートな3人」展

2024年04月03日 | 美術

【井村隆⋅遠藤賢治⋅千光士義和】

 奈良県立図書情報館(奈良市大安寺西)で「キネティックアートな3人」展が開かれている。キネティックアートは静的な彫刻に対し、動きを取り入れたオブジェなどの総称。金属や段ボールを使って独創的な作品を制作してきた井村隆、遠藤賢治、千光士(せんこうじ)義和の作品が並び、子ども連れの家族の人気も集めている。4月21日まで。

 井村隆の作品群は「カラクリン」と呼ばれ、キネティックアートの第一人者として高い評価を得ている。1945年堺市生まれ。デイスプレー制作会社を退職後独立し、全国各地で個展を開き様々なモニュメントの制作にも取り組んできた。

 それらのモニュメントの中には堺市緑化センターの花時計「フラワーフェアリー」や新潟県立自然館の「シンボルタワー生命球」、横浜子ども科学館の「銀河への旅」、東京⋅三鷹の森ジブリ美術館の「スペースフィッシュ」なども。

 一連の作品群「カラクリン」に使われる素材は主に銅や真鍮、アルミなど。「ボンフリー」と名付けられた魚の頭を持つひとがたの生き物が乗り物を操縦する。展示中の作品は『シーラカンス』『ノア』『飛び魚』『ボンフリーファクトリー』『魚の舟』など。最大の『シーラカンス』は横幅が1.3mもあった。

 遠藤賢治は1953年広島市生まれで、奈良にアトリエを構えて「プチプルプレーン」と名付けた空き缶アートを制作。大阪芸術大学キャラクター造形学科の教授を務めていたが、2020年に亡くなった。

 今回は空き缶を活用したミニチュアの飛行機などの遺作のほか、『太陽の詰め合わせ(太陽がいっぱい)』と名付けられた作品なども展示中。表情が微妙に異なる缶の蓋の詰め合わせに遊び心が詰まっていた。

 千光士義和は1958年高知市生まれ。85年に母校の先輩遠藤賢治の居る奈良市に移住し、動く段ボールアート作家として活躍中。大阪芸術大学芸術計画学科客員教授も務める。

 著書に『かんたん手づくり動くダンボールおもちゃ』など。今回は『マリンバード』や『天空のスイッチバック』など新旧の作品群を出品している。千光士氏は4月14日に開かれる「キネティックアーティスト井村隆の仕事」と題したトークショーにも登壇する予定。

  

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〈大和郡山お城まつり〉 5年ぶりに時代行列と白狐渡御

2024年04月01日 | 祭り

【公募の小中学生が武将役として騎乗!】

 奈良県大和郡山市で3月31日、「第63回大和郡山お城まつり」(3月24日~4月7日)のメインイベント「時代行列」と「白狐渡御」が繰り広げられた。新型コロナに加え昨年は雨天中止になっており、行列と渡御の開催は実に5年ぶり。沿道に多くの市民や観光客が詰めかけ、馬上の武将や白狐に扮して踊る子どもたちに歓声を送っていた。

 大和郡山城跡は「日本さくら名所100選」に選ばれている。城跡公園内の桜もお城まつりに合わせるかのように咲き始め、追手東隅櫓のそばにある枝垂れ桜は一足早く見ごろを迎えていた。

 時代行列と白狐渡御は市役所前での出陣式の後、午後2時ふれ太鼓に先導されて出発した。先頭は地元出身の鎌倉時代の名僧⋅叡尊上人。西大寺の復興などに尽力したことで知られる。

 この後、柳沢権大夫(淇園)、薮田市正、武田信玄、大和郡山藩初代藩主柳沢吉里などの武将が続く。勇壮な甲冑姿で騎乗するのは市内の小中学生たち。今回の行列から初めて公募で選ばれた。

 さらに続いて豊臣秀吉の弟の秀長、郡山城を築いた筒井順慶。豊臣秀長は2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で主人公として取り上げられることが決まった。白馬に跨がる順慶の後ろには「筒井順慶顕彰会」のメンバーが大勢続いた。

 白狐渡御は地元で「源九郎さん」と親しまれている源九郎稲荷神社の祭礼。この神社は歌舞伎「義経千本桜」でおなじみの源九郎狐(白狐)を神の使いとして祀る。狐のお面を被った子どもたちの可愛らしいこと。お囃子に合わせ元気いっぱいに白狐踊りを披露してくれた。

 城跡公園内では特産金魚の品評会や品種展、物産展なども開催。柳沢神社の参道と県立郡山高校(城内学舎)の間の道路には多くの露店が並び、あふれんばかりの人出で賑わっていた。そんな中で、ひときわ目を引いたのが手押し車に乗った10匹ほどの子犬たち。ミニチュア⋅ダックスフンド?

 

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〈富雄丸山古墳〉 新たに木棺から3枚の青銅鏡!

2024年03月17日 | 考古・歴史

【被葬者の頭部分にリンを含む真っ赤な水銀朱】

 国内最大の古墳時代の円墳、奈良市の富雄丸山古墳(直径109m)で、埋葬施設の粘土槨内の木棺から副葬品の青銅鏡3枚が見つかり、奈良市教育委員会の埋蔵文化財調査センターが3月16日、発掘現場を一般公開した。

 木棺を粘土で覆ったこの粘土槨は昨年度の調査で北東側の造り出し部分から出土。被覆粘土の中から東アジア最長の「蛇行剣」とこれまで類例のない「鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡」が見つかった。このため未盗掘とみられる木棺内部の調査も大きな注目を集めていた。

 木棺の材質はコウヤマキで、幹を半分に割って内部をくりぬき、下半分を棺の身、上半分を蓋としていた。大きさは長さ5.6m、幅64~70㎝、厚さが約5㎝。内部は2枚の仕切り板で中央の主室と左右2つの副室の3つに区画され、木棺の両端は小口板で区切られていた。 

 銅鏡が見つかったのは被葬者の足側とみられる副室内の小口板のそば。鏡面を上向きに3枚重ねた状態で出土した。一番上の鏡は縁の断面から三角縁神獣鏡の可能性が高いという。今後慎重に取り出して鏡の種類や背面の文様などを調べる。

 被葬者が埋葬されていたとみられる主室(長さ2.4m)では、頭があったと想定される位置を中心に水銀朱を検出した。最も赤色の濃い部分には人骨に由来すると考えられる元素のリンを多く含んでいることも分かった。

 このほか被葬者の足側の仕切り板の近くから漆塗りの竹製の竪櫛(たてぐし)9点も出土した。ただ同時期の古墳時代前期後半(4世紀後半)の古墳と比べると、副葬品が少ないのが特徴。事前に出土した長大な蛇行剣と盾形銅鏡から、木棺内からも甲冑や武具など豪華な副葬品の発見が期待されていた。それだけに、やや期待外れだったことは否めない。

 では被葬者は誰だったのか。副葬品が鏡と櫛だけで、これらが化粧道具でありながら呪術にも利用されていたことから、奈良市埋蔵文化財調査センター所長の鐘方正樹さんはこう推測する。「墳頂部に眠る当時の支配者の兄が、祈祷⋅呪術で支えてくれた巫女の妹の魂を守るため、大切にしていた蛇行剣と盾形銅鏡を供えたのかもしれない」

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〈高取町〉 第18回「町家の雛めぐり」

2024年03月13日 | 祭り

【「かかし祭り」に次いでこちらも最終回!】

 奈良県高取町で春恒例のイベント「町家の雛めぐり」が繰り広げられている。地元の有志でつくる「天の川実行委員会」の主催で、今年で18回目。毎年、大小⋅新旧様々なお雛様が旧城下町の町家や商店、広場などを華やかに飾って、観光客の目を楽しませてくれてきた。だがスタッフの高齢化で、秋の「かかし祭り」に続いてこのイベントも今回が最終回に。3月末までで見納めとなる。

 雛人形の展示場所は旧城下町を貫く土佐街道沿いを中心に約50カ所。メイン会場は「街の駅城跡」内の「雛の里親館」だ。入って左側に17段の雛壇に約500体がうず高く並ぶ。壮観そのもの。その向かい側にも1863年(文久3年)製のもの(下の写真)をはじめ多くの雛人形が並び華やかな光景が広がっていた。

 昨年10月が最終回だった「かかし祭り」ではイベント終了後かかしを希望者に譲って区切りをつけた。では今展示中の雛人形はどうなるのだろうか。スタッフに伺うと「未定。かかしと違って希望者に譲るというわけにはいかないし┄┄」と話されていた。

 最寄りの近鉄壺阪山駅に程近い「じぃじばぁばの館」の変わり雛も見ごたえがあった。和紙を張り重ねた”奈良一閑張り”のジャンボ雛や大名行列、浅草雷門、日本橋など工夫を凝らした人形が所狭しと並ぶ。

 その近く「衣料の店まつむら」の店頭を飾る雛人形も人気を集めていた。中でも目を引き寄せられたのが2体の木目込み人形。高さが10㎝にみたない小さなサイズだが、2体とも可愛い唇がきれいなハート形で表されていた。

 下土佐ふれあい広場や観光案内所「夢創館」のポケットパークなどを飾るのは手作りの巨大な雛人形。夢創館の館内には製作時期が「幕末」と記された雛人形なども飾られていた。

 街の駅城跡事務所内を飾る藤塚真紀さんのオリジナル人形雛(下の写真)や恵美須神社の雛人形なども目を楽しませてくれた。18回も続き観光客を引き付けてきた「町家の雛めぐり」。来年以降もなんとか継続する手立てはないのだろうか。今月16日には別の主催団体による「高取町ひなめぐり音楽祭」(能登半島地震チャリティー音楽祭)の開催も予定されている。

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〈奈良市写真美術館〉 「入江泰吉記念写真賞」受賞作品展

2024年03月11日 | 美術

【ならPHOTO   CONTEST 作品展も】

 奈良市写真美術館(高畑町)で「第5回入江泰吉記念写真賞」(日本経済新聞社協力)の受賞作品展が開かれている。若手写真家の発掘を目的に2014年にスタートし2年ごとに作品を公募してきたが、第5回は新型コロナウイルスの影響で3年ぶりの開催となった。今回は全国から61点の応募があり、その中から東京在住の眞岡綺音(あやね)さんの作品『陸の珊瑚』が大賞に当たる記念写真賞に選ばれた。

 眞岡さんは大阪府出身の23歳。日本写真映像専門学校を卒業し、これまでに読売写真大賞中高生部門大賞、御苗場2018年間最優秀賞なども受賞している。今回の受賞作品(48枚組み)では祖父母が経営する牧場を舞台に、4~5年間にわたって家族や環境の変化を追い続けた。作品の中には病床にあった祖父の最期の姿やお墓の周りで明るくはしゃぐ男女児の写真などもある。

 審査員の写真家百々俊二氏は「家族の日常を丹念に生き生きと記録し、そこに生と死が織り成す。祖父の死を経て家族関係の再生、乳牛を育てる労働を明るく柔軟な眼差しで表現している」と評価。菅谷富夫氏(大阪中之島美術館館長)は「写真から伝わってくるのは、時にはグロテスクなまでの生々しい生命感である」と評している。一連の作品は写真集として出版された。

 「第5回ならPHOTO  CONTEST 」の受賞作品展も同時に開催中。「ならを視る」をテーマに掲げたこのコンテストには全国から548点の応募があった。その中から「なら賞」には二川和歩さん(愛媛県在住)の『佇む』が選ばれた。東大寺南大門で巨大な金剛力士像に対面する二人の女性の姿をモノクロでとらえた。「日本経済新聞社賞」の受賞作は若井芳昭さん(三重県在住)の『ならが視る』。奈良公園名物のシカが大きな切り株の向こう側から耳をそばだてじっとこちら側を凝視する。

   

 入江泰吉の作品展も開かれている。今回は春を告げる花として「梅⋅桃⋅桜」にスポットを当て、大和路や吉野など花のある風景写真30点余を紹介している。会期はいずれも3月17日まで。

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〈本薬師寺〉 南門の南東部から幅3.3mの石敷き!

2024年03月09日 | 考古・歴史

【巨大な礎石の抜き取り跡も発掘】

 奈良県橿原市の特別史跡「本薬師寺(もとやくしじ)跡」で、正門に当たる南門の南東部分から基壇の外周を巡る石敷きや南門の柱を支える礎石の抜き取り跡などが見つかった。発掘調査を担う橿原市文化財保存活用課が3月2日、現地(藤原京右京八条三坊)で見学会を開催、熱心な考古学ファンが説明者に次々と質問を繰り返していた。

 本薬師寺は680年に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って造営を発願し、天皇崩御後は持統天皇が継承し698年に完成した。710年の平城京遷都に伴って造営された奈良⋅西ノ京の薬師寺(平城薬師寺)の前身といわれる。伽藍配置もいわゆる「薬師寺式」と呼ばれ、金堂の南側に東西の両塔が並んでいた。本薬師寺は平安中期の11世紀まで存続したとみられている。

 今回の発掘調査で見つかった石敷きは幅が約3.3mで、20~30㎝大の石が南門南東の基壇の外周を直角に屈折する形で整然と敷き詰められていた。検出した石敷きの長さは約22m。この石敷きが南門の基壇全体をぐるりと囲んでいたとみられる。

 石敷き内には中央に南門の軒先から落ちる雨水を受ける石組みの溝が設けられていた。溝の幅は約60㎝で、深さは5~10㎝。南門南東部からは直径が2m近い礎石を抜き取った跡も見つかった。

 南門の規模は過去の発掘調査から東西約15m、南北約10mと推定されていたが、今回見つかった大きな礎石跡や、南東の隅柱から雨落ち溝までの距離が約4mもあることなどから、国家寺院の正面玄関にふさわしい壮大な建物だったことが改めて裏付けられた。

 その南門と北側の中門との間隔が平城薬師寺より約7m狭いことも新たに分かった。平城薬師寺の創建に関しては学界の一部に藤原京の本薬師寺の建物を移転した「移築説」もあるが、発掘調査による南門の構造や位置の違いは「新築説」の有力な補強材料にもなりそうだ。

 今回の調査では石敷きの外側から南門の屋根を葺いていたとみられる軒丸瓦や大きな平瓦なども出土し、数点が展示されていた。(下の写真は金堂跡と東塔跡の柱を支えた礎石) 

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<小澤征爾さん> 「世界のマエストロ」巨星墜つ!

2024年02月10日 | 音楽

【ライフワークだった松本の“サイトウ・キネン”】

 世界のクラシック界を牽引してきた指揮者小澤征爾さんが2月6日亡くなった。88歳。武者修行のため貨物船でヨーロッパに向かったのは23歳のとき。ブザンソン国際指揮者コンクール(フランス)での優勝がその後の飛躍の第一歩となった。「東洋人として西洋音楽をどれだけやれるか」。そんな思いを胸に全力疾走して、“世界のオザワ”まで上り詰めた小澤さん。中学の音楽の授業で、女性教師がその活躍ぶりをわが事のように熱く語っていたのがつい最近のように思い出される。(写真はいずれも長野県松本市での「第4回サイトウ・キネン・フェスティバル」の記者会見で=1995年8月14日)

 小澤さんはブザンソン優勝後、フランスからアメリカ、ドイツ、またアメリカと欧米を渡り歩いた。26歳の時には指揮者レナード・バーンスタインの招きでニューヨーク・フィルの副指揮者に就任。凱旋帰国したのは約2年半後の1961年4月だった。JALのニューヨーク・フィル特別機に同乗して羽田に降り立ち、家族や多くの友人たちの出迎えを受けた。バーンスタインから「お前は幸せな奴だなあ」と声を掛けられた。その間の活動は自著『ボクの音楽武者修行』に詳しい。

 ブザンソンでの快挙は日本の音楽家にも多くの刺激と勇気を与えた。ピアニスト舘野泉さんは自著『左手のコンチェルト』の中で「彼のやったことに驚き、青年の冒険心と音楽的な野望とに感動した」と記す。舘野さん自身、日本を離れて音楽に向き合ってみたいと考えていた時期に重なったため、そんな思いを強くしたのだろう。舘野さんはその後渡欧し、フィンランドに拠点を構えた。 

 小澤さんは友人で指揮者・作曲家の故山本直純さんから「自分は音楽のすそ野を広げる。おまえは世界を目指せ」と言われていたという。その後、40代にボストン交響楽団の音楽監督になった小澤さんはズービン・メータ、ロリン・マゼール、クラウディオ・アバドとともに“次代の四天王”と称されるように。

 小澤さんに大きな勇気をもらった一人に指揮者の佐渡裕さんがいる。1989年28歳のとき、ブザンソンコンクールに挑戦し見事優勝。ただ審査結果の発表前、本人は失敗の指揮だったと敗北感に覆われていた。そんな時、楽屋で小澤さんから「あんた、面白いっすよ」と声を掛けられる。「小さいときからあこがれていた“世界のオザワ”にそう言われ、感激で胸がいっぱいになった」。後ろ姿を見送りながら「それにしても大きな頭やなぁ。まるでライオン丸や」と驚いた(自著『僕はいかにして指揮者になったのか』)。

 新日本フィルを指揮し日本デビューを飾ったのも「佐渡に指揮をやらせろ」という小澤さんの強い推しがあったからという。佐渡さんはバースタイン最後の愛弟子ともいわれる。1999年には大阪の年末コンサート「サントリー1万人の第九」(83年スタート)の指揮を山本直純さんから引き継いだ。そんなところからもバーンスタイン―小澤―佐渡、小澤ー山本―佐渡という、深い縁と絆につい思いを馳せてしまう。

 バイオリニスト諏訪内晶子さんは小澤さんの暗譜力に驚かされた。「『人並みすぐれた』などという言葉で表現できる水準ではない。厖大なオーケストラ・スコアが隅から隅まで頭に入っていて、しかもリハーサルや以前のコンサートでご一緒させていただいたときの問題点、会心の部分などが寸分の狂いなくメモリ-に記録されている」(自著『ヴァイオリンと翔る』)。

 実弟小澤幹雄さんは著書『やわらかな兄征爾』の中で、兄を「努力型人間」と評す。「フランス政府の留学試験に落ち…スクーター旅行を思いつき…やっと富士重工からラビットスクーターを借りて貨物船に乗り込むあたりは、得意の『当たってくだけろ』精神だが、どうみても天才型の人間の姿ではない」。

 小澤さんにとって後半生のライフワークだったのが桐朋学園時代の恩師、斎藤秀雄さんの没後10年を機に結成した「サイトウ・キネン・オーケストラ」と長野県松本市での「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(後に「セイジ・オザワ・松本フェスティバル」に改称)。バイオリニスト和 波孝禧さんは自著『音楽からの贈り物』にこう記している。「サイトウ・キネンのメンバーは、皆、音楽家として一家をなす人たちであり、ライバルと呼べる人も少なくない。だが、彼らと一緒だと実にリラックスした気持ちになれるから不思議だ」。

 小澤さんは27歳のときピアニスト江戸京子さんと結婚した(その後離婚)。ブザンソンのコンクールに応募し優勝できたのも、当時フランス留学中の彼女からコンクールの情報をもらったのがきっかけだった。その江戸京子さんが1月23日逝去との新聞記事が社会面に小さく載っていた。小澤さんの亡くなるわずか2週間前のことだった。2人は離婚後も良好な友人関係を保っていたという。お2人のご冥福を心からお祈りします。

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<若戸大橋> 国の重要文化財指定から丸2年

2024年02月09日 | メモ

【吉永小百合主演『玄海つれづれ節』などの舞台にも】

 福岡県北九州市の洞海湾を跨いで若松・戸畑間を結ぶ「若戸大橋」。2022年2月9日に国の重要文化財に指定されてからちょうど丸2年を迎えた。開通は62年前の1962年。“東洋一の吊橋”ともてはやされた橋は後の関門橋や本州四国連絡橋など長大橋時代を切り開く魁(さきがけ)となった。若戸大橋はこの間、映画の舞台や背景としても度々取り上げられてきた。

 最も印象に残るのが吉永小百合主演の『玄海つれづれ節』(出目昌伸監督)。1986年の公開作品で、たまたま入手したビデオで繰り返し視聴した。吉永小百合は多額の借金を残し蒸発した夫を探す妻役。それまでの清純派のイメージとは打って変わって、気が荒い男勝りの役柄を好演した。やくざ顔負けの啖呵を切ったり、借金返済のためソープ嬢になったり。当時流行のテクノカットという髪形がよく似合っていた。

 助演に凄腕の借金取り立て屋を演じた演歌歌手の八代亜紀と幼馴染み役の風間杜夫の2人(その八代亜紀が昨年末にまさか急逝していたとは……)。他に樹木希林、三船敏郎、草笛光子ら錚々たる役者も出演していた。ロケ地は若戸大橋を間近に望む若松の旅館と映画館。吉永小百合が若戸大橋の歩道をトランク片手に颯爽と歩くシーンもあった。その歩道も映画公開の翌年には車道4車線化のため廃止に。興行的にはいまひとつだったようだが、従来の吉永小百合の殻を破る貴重な作品だったことは間違いない。

 『でっかいでっかい野郎』(野村芳太郎監督)には渥美清が大酒飲みの暴れん坊役として主演した。1969年公開で、DVDで2回視聴した。三船敏郎主演の『無法松の一生』をオマージュしたようなコメディー映画で、保護司で医院の院長を長門裕之、その夫人を岩下志麻が演じ、2代目無法松を気取る渥美が院長夫人に想いを寄せる。人力車で若戸大橋を疾走する場面もあった。私娼役の香山美子も溌剌とした演技で魅力的だった。メモ帳によると、渥美清主演作では前年68年公開の『白昼堂々』(野村芳太郎監督)にも若戸大橋の場面があったようだけど、記憶が薄れてしまって┄┄。

 『ウィニング・パス』(中田新一監督)は2004年の公開作品。若松の自宅から戸畑に通う高校生小林健太役を映画初主演の松山ケンイチが演じた。4000人を超えるオーディションで選ばれたという。バイクで若戸大橋を渡るシーンも映し出される。健太はバイク事故で半身不随となり車椅子生活を余儀なくされることに。自暴自棄になっていた健太を救ったのは車椅子バスケットとの出合いだった。父親役を矢崎滋、妹を堀北真希、恋人を佐藤めぐみが演じた。

 森繁久彌主演の『社長漫遊記』(杉江敏男監督)は東宝の社長シリーズ16作目。渡米しアメリカかぶれになった社長役の森繁が小林桂樹や加東大介、三木のり平らとドタバタ喜劇を演じる。公開は1963年1月で、若戸大橋はその前年の9月に開通したばかり。その開通式や開通を記念した博覧会「若戸博」の実際の映像も流れた。

 『神様のくれた赤ん坊』(前田陽一監督)は1979年公開で、主演は桃井かおりと渡瀬恒彦。まだ若戸大橋に歩道があった頃の作品で、2人が歩道を歩くシーンも。他にDVDで視聴した『サッド ヴァケイション』(青山真治監督、2007年)や『旅猫リポート』(三木康一郎監督、2018年)にも若戸大橋が出ていた。燃えるような鮮烈な色合いで様々な画面に登場してきた若戸大橋。次はどんな映画に彩りを添えてくれるのだろうか?

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<平城宮いざない館> 「アフター 発掘された日本列島2023」展

2024年02月04日 | 考古・歴史

【幻の都「西京」が地下に眠る大阪府八尾市の遺跡など】

 平城宮跡歴史公園(奈良市)の平城宮いざない館で「アフター 発掘された日本列島2023」展が開かれている。「発掘された日本列島」展は文化庁が最新の遺跡発掘の成果を広く紹介しようと1995年度にスタートし、以来、毎年全国5カ所ほどを巡回してきた。ただ23年度は文化庁の京都移転が重なったため山梨と長崎の2カ所に絞って開催し、そのダイジェスト版を「アフター展」として奈良で開いているもの。会期は2月12日まで。

 展示は大きく「我がまちが誇る遺跡」と「新発見考古速報」の2本立て。「我がまち」では奈良時代後半に称徳天皇と僧の道鏡が新しい都として造営を進めた「西京」が地下に眠る大阪府八尾市の遺跡など3カ所を取り上げている。道鏡はヤマト王権の軍事・祭祀を担った古代氏族物部氏一族の弓削氏出身。ゆかりの弓削の里一帯には古代寺院の由義寺(ゆげでら)跡や久宝寺遺跡、渋川廃寺、高安千塚古墳群など道鏡や物部氏に関わる遺跡が多く残る。

 同展ではこれらの遺跡からの出土品をパネルとともに展示中。高安古墳群のうち横穴式石室の大石古墳からは口縁にミニチュアの壷や鳥を配した豪華な須恵器の装飾器台なども見つかっている。久宝寺遺跡からは大型掘っ立て柱の建物群の跡が出土した。物部氏の居館跡ではないかといわれている。また7世紀前半創建と推定される渋川廃寺も物部氏との関係が指摘される。

 由義寺は長く幻の寺といわれていたが、2017年に一辺約21.6mの大規模な塔の基壇が見つかり、その実在が確認された。塔は全国各地に建てられた国分寺の塔と同様、七重塔だった可能性も。跡地は翌年、国の史跡に指定された。その北東側からは都造りが進められていたことを示す水路や船着場なども確認されている。「西京」の造営は蘇我氏との戦いに敗れた物部氏の復権という願いも込められていたのだろう。だが、その都造りも770年、称徳天皇の崩御に伴って中止され、下野薬師寺(埼玉県)に放逐された道鏡も2年後に没した。

(弓削道鏡といえば、つい頭をよぎるのが極悪人説とともに“巨根伝説”。平安初期の説話集『日本霊異記』などで広がった。髙樹のぶ子の小説『明日香さん霊異記』の中にも「道鏡みたいに、精力絶倫が明日香ちゃんのお好みなんか……トホホ」といったくだりも。巷では「道鏡は座ると膝が三つでき」という川柳も詠まれた。ただ、あくまで創作ともいわれる。海音寺潮五郎は「(中国の歴史書)『史記』の呂不韋列伝にある宦官と始皇帝の母后の話が原型」と唱えた。つい最近、秦の始皇帝とその母と野心家の商人・呂不韋の3人を中心とする壮大な中国宮廷ドラマ「コウラン伝 始皇帝の母」(62話)を全巻視聴したばかり。展示コーナーを見ているうち、そんなことが次々に思い浮かんできた)

 「我が町が誇る遺跡」では全国屈指の貝塚密集地域・宮城県の仙台湾周辺の遺跡と、日本の窯業生産の発祥の地・猿投窯など名古屋市の遺跡も取り上げている。仙台湾の中にある里浜遺跡(東松山市)は日本最大級の貝塚。南境貝塚や沼津貝塚(ともに石巻市)などとともに土器や石器、骨角器などの出土品を展示中(上の写真)。猿投窯では古墳時代中期の5世紀初頭から須恵器づくりが始まり、鎌倉時代まで陶磁器の生産が続いて、その技術は常滑窯、瀬戸窯など各地の“六古窯”に引き継がれた。

 「新発見考古速報」では全国最多の子持勾玉(こもちまがたま)45点が出土した北大竹遺跡(埼玉県行田市)や、最新の調査で墳長が270~280mで佐紀山古墳群の中で最大と分かったウワナベ古墳(奈良市)、これまで存在が知られていなかった3基の円墳が見つかった下里見天神前遺跡(群馬県高崎市)など全国各地の遺跡を紹介している。(写真は下里見天神前遺跡の円墳の周溝から出土した馬形埴輪)

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<奈良祝ぐ寿ぐまつり> 平城宮跡朱雀門ひろばで

2024年01月28日 | 祭り

【“御斎会”再現や各地の行催事、特産品の販売…】

 平城宮跡歴史公園(奈良市)の朱雀門ひろばで1月27日「奈良ちとせ祝(ほ)ぐ寿(ほ)ぐまつり」が始まった。2016年に冬季の新イベント「大立山まつり」としてスタート。2022~23年の会場は奈良県コンベンションセンターで、3年ぶりに屋外の朱雀門ひろばに戻ってきた。会期は28日までの2日間。

 まつりは午前10時、朱雀門基壇ステージでの「當麻太鼓白鳳座」(葛城市)の勇壮な演奏で幕開けした。続いてオープニングとして古代の正月行事「御斉会(ごさいえ)」の再現。御斎会は正月8日から7日間、高僧たちが「金光明最勝王経」を唱えて国家安泰と五穀豊穣を祈願したという。

 まず命婦(みょうぶ)と呼ばれる女官に扮した7人が列を成して朱雀門に向かった。登壇すると場を清めるために散華(さんげ)。それが済むと純白の礼服(らいふく)姿で天皇が登場した。橿原市出身のタレント福本愛菜さん(NMB48の元メンバー)が女帝の称徳天皇役を務めた。

 この後「平城山相撲甚句」(奈良市)に続いて「風流舞 奏楽(そうら)」(田原本町、下の写真)があり、ステージを華やかに飾った。午後にも「曽爾の獅子舞」(曽爾村)、「飛鳥蹴鞠」(明日香村)、「桃俣獅子舞」(御杖村)などの演舞が続いた。28日には「紅しで踊り」(天理市)や「へぐり時代祭り」(平群町)なども予定されている。

 会場には県内各地の特産品を販売したり観光をPRしたりするテントがずらりと並ぶ。その一角には「立山」と呼ばれる住民手づくりの人形などの展示も。これらの造りものには無病息災の祈りも込められているという。有名なのが広陵町で毎年8月に行われる「大垣内立山祭り」で、江戸時代からの長い伝統を誇る。会場にはNHK大河ドラマ「どうする家康」に因んだ人形が展示されている。

 御所市東名柄天満宮の「天神祭の立山」も明治初期から130年以上続く。いま展示中のものはアニメ「鬼滅の刃」に因む造りもの。県内にはほかに橿原市八木の「愛宕祭の立山」などもある。ただ各地とも人口減などで伝統の継承には苦慮しているようだ。広陵町の大垣内では立山の数や展示場所が以前に比べ減ってきたという。橿原市の愛宕祭は昨年ついに中止に追い込まれた。

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<漢国神社> 年末恒例の「大祓・獅子神楽」奉納

2023年12月30日 | 祭り

【多彩な獅子舞や曲芸などで大盛り上がり】

 近鉄奈良駅のそばにある古社、漢国(かんごう)神社の石舞台で12月29日「大祓・獅子神楽」の奉納が行われた。2008年に太神楽曲芸師・豊来家玉之助さん(51)が1年の厄払いと新年の福を願って獅子舞を奉納したのが始まり。今では歳末恒例の風物詩としてすっかり定着、この日も境内は多くの観客で埋め尽くされ、演舞が終わるたびに拍手とともにおひねりが次々に投げ込まれた。

 出演者は豊来家さんを中心に漢国神社韓園講(からそのこう)、桃俣(もものまた)獅子舞保存会(奈良県御杖村)、西宮神社獅子舞保存会(兵庫県西宮市)の面々。神楽奉納は午後1時「道中」で幕開けし、続いて道先案内の「猿田彦舞」、「宮参り」と続いた。

 4番目の演目「韓園」は1人で獅子頭を左右両手に持って舞う。豊来家さんが自ら創作したという。いわば獅子舞の“二刀流”だ。

 豊来家さんは邪気を払う「剣」に続く6番目の「大黒」でも再び登場し、軽妙なトークで会場の笑いを誘っていた。観客席から舞台へおひねりが飛び交う。

 続く「抜身荒神祓」と「抜身中村」はこの日一番の見どころ。半紙を口にくわえたまま、鈴や宝刀を手に激しく舞う。口で息を吸うことも吐くこともできない。半紙が唾で濡れても落ちやすくなってしまう。真剣な表情で舞う演者に、和紙をくわえて息や唾がかからないように刀剣を手入れする武士の姿が重なって見えた。

 2つの演舞の最中、観客席は静まり返って視線は半紙をくわえた口元に注がれた。「大丈夫かなぁ?」。次第に心配になって見つめていると、ついに若い女性の口元から半紙が落ちてしまった。それがこの演目の過酷さを端的に表していた。「練習を積んで来年は落ちないようにします」。そう話す女性の爽やかな表情が印象的だった。

 奉納芸はまだまだ続く。「荒神祓崩し」の後は「へべれけ」。千鳥足のひょっとこが瓢箪のとっくりと大きな金杯を持って登場し、観客に渡した杯に酒を注ぐ(まね)。それを一気に飲み干す観客。隣に座った女性にも杯が回ってきた。舞台後方に控えた豊来家さんから声が飛ぶ。「女性ばかりに(杯を)渡すんじゃない!」。会場はまたまた爆笑の渦に包まれた。(隣席の女性へ。ブログへの写真掲載、快諾していただきありがとうございました)

 続く「参神楽」の演舞では豊来家さんが太鼓に合わせ自ら笛を吹いていた。その演奏の見事なこと! この後の演目「太神楽」でも傘回しや籠鞠(かごまり)などの曲芸を披露した。豊来家さんの芸には失敗しても、みんなを笑わすための演技では、と思わせるところがある。

 まさに八面六臂の活躍。豊来家さんが以前、NHKの連続テレビ小説「わろてんか」で松坂桃李さんに傘回しなどを演技指導したことを自慢していたことを思い出した。

 神楽奉納もいよいよフィナーレ。「荒廻剣」に続いて、参加者全員が「伊勢音頭」を歌いながら舞台に勢揃い、一人ひとりお礼の挨拶をしたり新年の抱負を話したりしていた。最後に豊来家さんの「四方鎮(よもしずめ)」の舞で、2時間近くにわたった熱演の舞台を締めくくった。この後、観客には小豆とカボチャを煮込んだ御杖村の郷土料理「いとこ煮」がふるまわれた。

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