越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の年代記 【永禄12年9月】

2013-08-26 23:31:18 | 上杉輝虎の年代記

永禄12年(1569)9月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


14日、越中陣から、同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子へ書状を発した。北条父子の許には27日に到着することになる(『上越市史 上杉氏文書集一』810号)。


20日、同じく越中陣から、関東代官を任せている北条丹後守高広(上野国群馬郡厩橋城の城代)へ宛てて条書を発し、覚、一、(房・相一和については)上総の儀(帰属)については、一向に(房・相)どちらも言及されていないこと、下総については互いに主張して譲る気はないこと、一、愚老(輝虎)の意見は、下総を(房州里見家)に渡すべきであると、(相州北条)氏政へ意見したこと、千葉方・原・両酒井・高城以下は、そのまま城々に差し置かれ、下総の証人は愚老が預かり置くとして、(房州里見父子へ意見し、)一和を取り持ったところ、(里見義弘は)こうした意見には取り合わず、以前には言っていなかったことである、書札礼における愚老の書様が悪いと、申されてきたこと、これは、「里見太郎殿」と名字を書き越しているのが、口惜しいそうであること、当家(山内上杉家)の書礼については、都鄙の上意(京都と関東の公方)の手本に則り、いずれの方へも所書は記さないこと、もっぱらは事を左右にして、(甲州武田)信玄へ同心するのものと見聞したこと、一、房州と手切れにおいては、(鎌倉公方足利)義氏様の御身上はどうなるのかと思われること、以上、これらの条々を申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』808号「北条丹後守殿」宛上杉「謙信(ママ)」書状写)。


千葉方は、下総国佐倉の千葉介胤富で、佐倉城に拠る。原は、千葉氏の重臣である原 十郎胤栄で、下総国生実城に拠る。両酒井は、ともに上総国衆で、土気城に拠る酒井中務丞胤治と東金城に拠る酒井左衛門尉政辰。高城は、下総国衆で、小金城に拠る高城下野守胤辰。


鎌倉公方足利義氏は、この6月28日に下総国古河城の還座している(『戦国遺文 古河公方編』921号)。



25日、越後国上杉家の年寄衆である柿崎和泉守景家(輝虎一家に準ずる重臣)・山吉孫次郎豊守(輝虎の最側近)・河田豊前守長親(輝虎の寵臣で越中国代官を任されている)をもって、越中国森尻荘内に制札を掲げ、制札、森尻の庄内における諸軍勢の濫妨狼藉を停止すること、もしも違犯する輩がいれば、注進のうえで罪科に処すると、仰せになり、御印判を据えられたものであること、よって、前述の通りであること、これらを申し渡した(『上越市史 上杉氏文書集一』809号 上杉輝虎制札 【朱印】印文「地帝妙」 【奉者】柿崎「和泉守」景家・山吉「平 豊守」・河田「豊前守」長親)。



この間、同盟関係にある相州北条氏康・同氏政父子は、6月に結ばれた越・相一和の盟約に従って、輝虎が8月下旬には上野国沼田城(利根郡沼田荘)に着陣することを報知していたにもかかわらず、8月中旬に越中国へ転進してしまっており、一向に音沙汰がないことを心配し、氏政兄弟衆で越・相の通交における取次の藤田新太郎氏邦(氏康の五男。武蔵国鉢形領を管轄する)と併せて、10日以降にまとめて書状を発している。

9月7日、相州北条氏康(相模守)が書状を認め、氏政が客僧をもって申し届けるそうなので、(氏康も)申し上げること、先月下旬には、沼田に御着馬されるものと承知していたところ、それ以後は是非が伝わってこないため、一切が心許なく思えてならないこと、様子の委細を御知らせ願いたいこと、寄せられた情報によると、甲府(甲州武田信玄)は、信州口の人数(信濃奥郡の先方衆)までも動員したそうであると、伝わってきていること、異変があるにおいては、さらに申し述べること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』803号「山内殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏政(左京大夫)が書状を認め、取り急ぎ飛脚をもって申し届けること、粛然と先月下旬に至れば、御兼約の通り、御出陣されるものと承知していたところ、沼田まで御着陣の是非が未だに伝わってこないこと、はなはだ御心配であること、そのために申し上げたこと、あるいはまた、駿・甲国境はその後に異変はないこと、そうではあっても、今しがた寄せられた注進によれば、(甲州武田信玄は)信州・西上州衆を甲府へ召集して戦陣を催すとの情報が入ってきたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』804号「山内殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条氏政が、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てた書状を認め、沼田まで御着陣の是非が未だに伝わってこないこと、はなはだ心配に思っているので、飛脚をもって申し届けること、委細の御知らせを待ち入ること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』805号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏政」書状)。

同日、取次の遠山左衛門尉康光(氏康の側近。小田原衆)が、山吉孫次郎豊守へ宛てて副状を認め、取り急ぎ脚力をもって申し入れられること、先月20日頃に沼田へ、 (輝虎が)御着陣されるものと仰せ聞かされていたので、(氏康父子は)その旨を承知されており、近日は御吉報を心待ちにされていたところ、依然として伝わってこないので、御心許なく思われていること、其元(越陣)の御様子を詳しく仰せ越されてほしいこと、もとより、このたびの(山吉豊守の)貴府における様々な御取り成しには、ひたすら恐悦していること、その御懇意のほどは、氏康父子に申し聞かせたこと、しかと御越山の折に申し達するので、この紙面は省略すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』806号「山孫 参御宿所」宛「遠左 康光」副状写)。

10日、取次の藤田新太郎氏邦が、山吉孫次郎豊守へ宛てた書状を認め、(北条)氏政から客僧をもって申し入れられること、よって、武田信玄が西上州へ出張し、昨9日に御嶽城(武蔵国児玉郡)へ攻め懸けたところ、(御嶽衆が)敵百余人を討ち取ったこと、首級を小田原へ差し越してきたこと、されば、今10日には当地鉢形城(男衾郡)へ攻め寄せてきたところ、外曲輪において仕合に及び、死傷者は際限ないこと、まずもって御安心に思われてしてほしいこと、今この時であるので、早々の御越山を仰ぐところの旨を、御理解に預かりたいこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』807号「山吉孫次郎殿」宛「藤田新太郎氏邦」書状)。



越中陣から輝虎が14日に発した書状が相府小田原へ届くと、9月27日、相州北条氏康・氏政父子から返状が発せられ、9月14日付の御状が今27日に到来したので、本望そのものであること、内々にこちらから申し述べるつもりであったとはいえ、(武田)信玄が出し抜けに御嶽城へ攻め込まれ、彼の地から分別なく相州に向かって陣を寄せられたこと、目前の対応に追われて取り乱し、(連絡が)叶わなかったこと、すでにこの通り、(武田軍は)国中まで攻め入っているからには、仕方がないので、勝負の結果にとらわれず、無二の一戦に臨むこと、恐らく五日から七日の間に決着がつくはずであること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』810号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署状写)。

晦日、相州北条氏康から追伸となる返状が発せられ、重ねて申し入れること、配慮に欠けるとは思いながらも、椎名(越中国松倉(金山)の椎名右衛門大夫康胤)の進退を早速にも御赦免あり、年内中の御戦陣を、一方向に仰せ付けられるについては、信・甲両国の御退治を後戻りするべきではないこと、それにしても信玄をかならずや追い詰められるべきであろうと思えるので、無遠慮ながら申し入れたこと、これらを恐れ謹んで申し伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』811号「山内殿」宛北条「氏康」書状写)。



この間、敵対関係にある甲州武田信玄(徳栄軒)は、9月9日、武蔵国御嶽城、10日、同鉢形城、その後、同滝山城(多西郡)に一当たりすると、相模国の中央部に進出し、28日、酒匂川の東岸(西郡)に陣取り、相府小田原城に迫っている(『上越市史 上杉氏文書集一』807号 ●『戦国遺文 武田氏編四』2898号)。


甲州武田陣営に属する椎名右衛門大夫康胤の重臣である寺嶋職定(三郎。もとは越中国増山の神保惣右衛門尉長職の重臣。越中国新川郡の池田城に拠る)は、越後国上杉軍の進攻に対応するなか、18日、越中国葦峅村・本宮村(ともに新川郡)の百姓中へ宛ててて書状を発し、越後から乱入について、池田城(新川郡須江荘)に入り、格別に忠節を尽くしたのは殊勝であること、これにより、今後の三年間にわたって年貢の三分の一を免除するので、ますます奮闘するべきこと、そのために一筆を遣わしたこと、これらを謹んで申し伝えている(『富山県史 史料編Ⅱ1705号「葦峅・本宮 百姓中」宛寺嶋「職定」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 古河公方編』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第四巻』(東京堂出版)
◆『富山県史 史料編Ⅱ 中世』(富山県)

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